表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/8

日々の楽しみ

黒土亜天真と言う主人公の群像劇。

 第七話 日々の楽しみ

 六十三歳ぐらいからか、多くの仲間との文通で手紙を小まめに書くようになり、返事が届くのを今か今かと待ち構えるようになる。六〇代になると、ヘルマン・ヘッセに見習い、ファン・レターの返事を必ず書くようにもなる。良質なファン・レターとなると、文学に関する新たな刺激になったり、音楽上の新たな発見に繋がったり、画家仲間として向こうの個展に顔を出すなど、個人的な付き合いが始まる事もある。映像詩が発展して低予算映画を撮るようになるのも六〇代の頃からだ。

 菊子は神を表現するピアノ曲をずっと作り続けている。私もギターで神を表現する研究を続けている。ヴォーカルに関しては若い頃の歌い方とはかなり異なる。我々夫婦は五十代で二枚のアルバムをコラヴォレイトした。

 最近、ヴァイオリンやチェロで神を表現するアーティスト達が現われ、私や菊子のアルバムにもちょくちょくゲスト参加している。

 菊子は能や歌舞伎も研究している。菊子は英語やフランス語や日本語で日本文化に関する本を数多く書いている。菊子は家庭菜園にも精を出し、家庭菜園や料理に関する本も出版している。菊子は長い事日本語によるコラムを雑誌に連載し、自分のデザインした服のブティックや自分がデザインした小物の雑貨屋を経営している。


「今夜、温泉に行かない?」と菊子が正月二日の昼食時に甘辛醤油の焼き餅を食べながら訊く。

「ああ、良いね」

「雲仙の旅館にでも泊まって、二、三日、ゆっくりと過ごしましょうよ」と菊子が提案する。

「しばらく仕事が続いたから、たまには気分転換に旅館にでも泊まって、温泉の湯を楽しむのも良いな」


 夜の七時に雲仙の旅館にチェック・インし、早速温泉に入る。男風呂の湯船の中で菊子と外国で暮らす事を考える。菊子は仕事以外では日本を出る気はないだろう。日本にいて日本文化に親しむ事を楽しめるのは菊子だけだ。都会生まれ都会育ちの日本人の私が日本にいて刺激になるような生活は田舎暮らしぐらいのものだ。時々、仕事で上京するから寂しい思いはしていない。菊子もツアーの度に自分が生まれ育ったフランスや学生時代に過ごしたアメリカを訪れている。そろそろ外国に生活環境を移したい。菊子としばらく別居し、外国で独り暮らしでもするか。女風呂から水音が聴こえる。

「菊子!良い湯だな!」と女風呂の方にいる菊子に声をかける。

「気持ちが良いわね!」と菊子が女風呂から返事をする。「お風呂に入ったら、眠くなるかなと思ったけど、案外目が覚めるわね!」

「家の風呂では居眠りもするんだがな!」

 菊子が返事をしない。菊子はよく自分の身勝手を周囲へのルールにする。そう言う身勝手な人物は日本人にもいる。菊子は自分が沈黙する時には自分の沈黙を絶対的な意思として行使する。

 俺は湯船から出て、体を洗う。ボディー・シャンプーが置いてある。香り豊かな良いボディー・シャンプーだ。体を洗い終えると、再び湯船に浸かる。これだけ風呂場にいれば、毛穴が開き、肌がすべすべになるだろう。

 風呂から上がり、部屋に戻ると、夕食が運ばれてくる。刺身や茶碗蒸しやめんたいこやおこわやお吸い物やビーフ・ステイクや天ぷらが出て、日本酒とビールとコーラとミルクティーが飲み物として出て、白玉団子や柚子のゼリーやミルクたっぷりのヴァニラのアイス・クリームがデザートとして出る。

 菊子も私も夕食を楽しみ、夕食を終えると、階下の売店を見に行く。菊子は納豆味噌やらドライ・フルーツや枇杷ゼリーを買う。それからテーブル・ゲイムをやり、菊子の賑やかな笑い声や叫びでゲイムが盛り上がる。

 部屋に戻ると、菊子と向かい合って、窓際の籐の椅子に腰かける。

「今夜は満足したかい?」

「まあまあよ。後は寝るだけ」と菊子が笑顔で言い、少し寂しげな顔をする。「子供がいないのって寂しいわね」と菊子が目元に手の指の甲を当てて言う。

「いないんだから、寂しいも何もないよ」

 菊子は窓の外の景色の方に向いて黙り込む。

「子供がいたら、どんな母親になってたのかしら・・・・」と菊子が太腿の上にある手の指のマニキュアを見下ろしながら言う。

「存在しない子供のどんな母親になっていたかなんて事を考えるのか」

「あなたは子供が欲しいんでしょ?」と菊子が子供の話題を続ける。

「もう子供が欲しいとは思わないよ。俺達には日に日に死が近付いてるんだ」

「ううん」と菊子が口籠もる。「あたし、後どのくらい生きるんだろう」

「菊子はもう二〇年ぐらい生きるんじゃないか」

「あなたは?」と菊子が苛立ったような声で訊く。

「俺はもうそろそろ他界するよ。あんまり長生きするとは思わない」

「何処か体が悪いの?」と菊子が心配そうに訊く。

「別に何処も悪くないよ。ただ、六十過ぎたら、エナジーがぐんと落ちてきた」

「年取った感じがする?」

「まあね。体に張りがなくなってきたし、目力も弱くなってきた」

「見た目じゃない!」と菊子が笑いながら言う。

「一様これでもヴィジュアル系のロック・ミュージシャンだから、見た目に年取る事が物凄くショックでね」

「あたしはそう言う事全然気にならないわ」と菊子が若さに溢れた挑発的な眼で言う。

 私は菊子の不良少女のような目付きを二〇年ぶりに見る。

「あなた、毎日、小説書いてる?」と菊子が探るような目付きで訊く。

「小説は書いてるよ。若い頃のような勢いではないけどね」

「あなた、幸せ?」と菊子が心配げに訊く。

「いや。そもそもこの世に幸せな人間なんていないだろう」

「あたしは幸せよ」と菊子がストレイトに自分の気持ちを打ち明ける。

「それは珍しい」

「島原半島には幸せな人が沢山いるの」と菊子が私の視野を広げるように自分の知り合いの話をする。

「俺、アメリカに住みたいんだ」

「アメリカに行って、何するの?」と菊子が意外そうに訊く。

「向こうの人間達と毎日を楽しむのさ」

「あたし、そう言うの判んないな。あたし、この年でアメリカに行って、自分に楽しめる事が多いとは思わない」と菊子がアメリカへの想いを打ち明ける。

「俺一人でしばらくアメリカに行かせてもらえないか?」

「良いけど・・・・、あなた、一人で平気?浮気しない?」

 私は言葉に詰まる。私は自分が独身の頃の若い頃のままにアメリカを懐かしがっている事に気付く。

「ああ、俺はもう独身でも若くもないんだな」

「うん」と菊子がにやにやしながら即答する。「あなたは若い頃のアメリカが懐かしかったのね」

「そうみたいだ。何時までも若いと思って、年齢認識が追い着いてなかったんだろう。他に何かしたい事ないか?」

「後はもう寝るだけよ」と菊子が同情的な目で私を見て言う。「あなたも弾けたい時があるのね」

「寝るのが惜しいよ」

「じゃあ、久しぶりにしよっか?」と菊子が瑞々しい笑顔で言う。

「悪くないアイデアだ」


 翌朝は七時に起き、旅館の朝食を食べる。珍しい白魚の刺身と焼き椎茸と具雑煮と炊き込みご飯と温泉卵とお吸い物である。

「たまに来ると旅館の食事も良いわね」と菊子が焼き椎茸を食べながら言う。「帰りは何処かに寄る?」

「もう真っ直ぐ家に帰りたいよ。アメリカ移住の夢が幻と化して消えた事がショックなんだ」

「本当に恋する事とか考えてたの?」と菊子が呆れたような顔で訊く。

「いやあ、浮気をする気はなかったよ。毎日、気の合う仲間とバーで騒いだり、パーティーを梯子したり、ディスコで踊り明かして朝帰りするような事を考えてたんだ」

 菊子が刺身を山葵醤油に付けて食べながら、「若い!」と唖然とした顔で言う。「確かにこの辺にディスコはないもんね」

「うん」と私は返事をし、具雑煮を食べる事に取りかかる。


 家に帰ると、線香の良い匂いがぷうんと鼻先を掠める。 

「あなた、あたしが作ったマンゴー・ケーキ食べる?」と菊子が台所から私に訊く。

「ああ、食べたい」

「ライムと蜂蜜のジュースも作るわね」と菊子が明るい声で言う。

「帰ってきて早々家事をやらせてごめんね」

「あたしは主婦業は全く苦にならないの。御近所の奥様方が毎日楽しそうに料理や家庭菜園の話をするのよ。皆、料理や家庭菜園が大好きでね」と菊子が陽気な口調で話す。菊子はライムをジューサーにかける。

「じゃあ、俺はギターの弾き語りで新曲を御披露しようかね」

「イェーイ!」と菊子が盛り上げる。

 私はギターをアンプに繋ぎ、マイクロフォンの電源を点ける。ギターの反響音を響かせ、イントロで天国と地獄のギャップをギターで表現すると、低音の声で暗黒のスローなラヴ・バラードを歌う。菊子は腕を組み、立ったまま俺の歌を聴いている。

 エンディングで広大な大宇宙をギターで表現し、一曲歌を歌い終えると、菊子が私に拍手を贈る。菊子はマンゴー・ケイクとライムのジュースを食卓に運ぶ。

「あなたの歌声には正確に商品価値があるわね」と菊子がマンゴー・ケイクをフォークで切りながら言う。

「その辺はよく研究を重ねたよ。ジョー・山中とか宇崎竜童とか氷室京介の声が昔から大好きでね、この人の声って言う、はっきりとした個性が欲しかったんだ」

「あたしは音域が狭くて、ヴォーカルは研究した事がないの」と菊子が音域の狭い声を致命的な欠陥であるかのように言う。 

「歌う事が好きなら、音域の狭さなんて関係ないんだけどね。やっぱり歌手って言うと、菊子はオペラ歌手をイメージするの?」

「まあ、そうね。自分が歌手になるなら、オペラ歌手になりたいかな」と菊子が自分の理想の歌手像を打ち明ける。「クラッシックで育つと、どうしても遊び心が乏しくなるのよね。聴くのは何でも聴くんだけど」

「俺はポップスやロックで育ったから、クラッシック的な音楽の捉え方には全く縛られないけれど、クラッシックの作曲家に名を連ねるような夢は未だにあるな」

「あなたは天性のロック・ミュージシャンよ」と菊子がはっきりと私の音楽性を言い当てる。「クラウス・ノミとかビリー・マッケンジーとかサル・ソロみたいな高音歌手が好きなんでしょ?」

「まあ、確かに、全くのオペラ歌手には関心がないかな」

「あたしもその辺は聴くには聴くのよ。ニュー・ウェイヴの時代の歌手は大概好きだしね」と菊子が公平な視点で音楽を論じる。

「菊子の音楽にロック的な感性を感じる事はないな。同じように神を楽器で表現していながら、菊子と俺の音楽は正確に別のジャンルだと思う」

「あたし達はジャンルの壁を乗り越えてお互いの音楽を愛し合うから良いのよ」と菊子がマンゴー・ケイクを食べながら言う。

「美味しいな。このマンゴー・ケーキ」

「あなた、あたしのマンゴー・ケーキ好きよね」と菊子がティシューで口許を拭きながら言う。

 私はマンゴー・ケイクとライムのジュースを平らげると喫煙所に向かい、石油ストーヴで餅を焼きながら、煙草を吹かす。

 餅を食べ終え、煙草をもう一本吸うと、色紙と墨と筆を持って、近所の風景をスケッチしに出かける。


 近頃は音楽家として充実した活動を行いながら、小説も書いている。六〇代半ばで漸く絵画がN科展に入選し、画家としても芽が出た。

 今晩は近所の漫画家夫婦の家の夕食に呼ばれている。

「こんばんは!」と漫画家夫婦の高石さんの家の中に声をかける。

「はあい!」と高石夫人が家の中から返事をする。高石夫人は玄関に出迎えると、「いらっしゃい!」と私と菊子を歓迎する。「中にどうぞ!」と高石夫人が家の中に招く。

 我々は高石家に上がり、居間に案内される。

 高石家の夕食には一年に何回か招待される。毎回、御馳走三昧の夕食を楽しませて戴いている。

 高石夫妻は我々と同じで子供がいない。我々は両夫婦共に養子をもらわなかった。

 高石夫妻の夕食に招かれる夜は我々が音楽を披露し、夕食会を盛り上げる。

 菊子がスペアリブを食べながら、「ここらのスーパー・マーケットで売っているスペアリブの肉は小さいでしょう?何処でこんなに大きなお肉を手に入れているんですか?」と高石夫人に訊く。

「諫早のお肉屋さんで買っています」と高石夫人がコンソメ・スープを飲みながら言う。

「あたしは島原のお肉屋さんで買っています」と菊子が自分の買い物域を明かす。

「じゃあ、それでは我々の音楽を御披露させて戴きます」と私は言い、持参したエレアコをアンプに繋ぎ、譜面を譜面台に載せる。菊子はキーボードを持参し、キーボードの音を調節すると、譜面を譜面台に置く。

「それでは我々夫婦のコラボレイト・アルバムの中から『ヤーウェのいる空』を御披露致します」

 キーボードで地響きを表現し、私はギターで超音波を表現し、歌詞の祈りの文句を小声で歌う。畏怖の神への忠誠心を歌い、神の宇宙を詩的に表現した歌詞を歌う。間奏で菊子のキーボードが大木が倒れるような音や鳥の群れを表現する。私は震えるような声でヤーウェへの祈りの歌詞を歌う。エンディングは菊子のキーボードが神の意識を表現し、私はエレアコで神の意識の放射を表現して終える。

 高石夫妻が我々に拍手を贈る。我々は更に三曲披露し、ミニ・コンサートを終える。

 高石夫人が杏のゼリーを我々に配る。

「高石さんのアメリカ先住民族の漫画は物凄く良いですよ」

「ああ、あれはかなり力を入れてるんです。妻がモーツァルトの漫画でヒットしているので、私も何か一発良いのを当てたいなと思い、どんな漫画が良いか、半年程策を練ったんです」と高石さんが赤ワインのグラスを手にしながら言う。

「高石さんのモーツァルトの漫画は華やかで良いわよね。旦那さんのアメリカ先住民族の漫画は太陽神や自然神を芸術的に描かれていて、彼らの宗教を魅力的に描かれていますよね」と菊子が杏ゼリーを食べながら、高石夫妻に漫画の感想を言う。

「この時代、漫画かロックのどちらかをやるべきだと若い頃に思ったんです」

「私も漫画家でなければ、ロック・バンドを組んだかもしれません」

「菊子は新しい音楽を生み出したから、この手の意見は判らないかもな」

「あたしも読んだり、聴いたりはするけど、自分でロックや漫画をやろうとは思わなかった」と菊子が遠慮がちに言う。

「菊子さんの音楽はジャンル的には現代音楽なのかしら?」と高石夫人が菊子に訊く。

「一応、CDショップなどではクラッシックや映画音楽のコーナーに私の作品が置かれています」と菊子が冗談っぽく笑顔で言う。「あなたはオールタナティヴと分類されてるけど、実際には前衛音楽やクラッシック的な試みもしてるもんね」

「俺の音楽の変化は菊子の影響が大きいよ」

「あら、そう!じゃあ、そろそろお暇致しましょうか?」と菊子が私に言う。

「我々もこれから漫画を描くので、そろそろお開きに致しましょうか」と高石さんが言う。


 冬の日曜日の昼前、レコーディングでこっちに呼び寄せたバンドのメンバーの宮谷丈幸と島原の商店街の一番街を歩いていると、「ここらにはストリート・ミュージシャンがいないな」と宮谷が寂しげに言う。宮谷は身長一六〇センチ代の痩せた男で、パーマのかかった黒く長い髪を肩まで垂らしている。黒いビニールのカウボーイ・ブーツを穿き、ブルー・ジーンズに黒い革のロング・コートを着ている。

「うん。今時の若いもんは大人しいもんだよ。反抗期もないようなのがざらにいるらしいんだ」

「ええ!黒土亜天真さんですか?」と二十代前半ぐらいの主婦らしき女性が擦れ違い様にはしゃいだような声で話しかける。

「ああ、はい」

「あたし、黒土亜さんの大ファンなんです。握手してください」とファンの女性が眼を輝かせて握手を求める。

 私はそのファンと握手をする。

「黒土亜も有名になったな。俺なんて一度も路上でサインや握手を求められた事はないぞ」と宮谷が呆れたような顔をして言う。「隣にいる俺なんかをこっちの人は誰だろうって感じで見てるもんな」

「有名になるとこっちでは知らない顔がさも親しげに話しかけてくるんだ。俺は忙しい時は忙しいと言って、必ずしもサインや握手に応じない事がある」

「それにファンは不満気な顔をしないのか?」と宮谷が天ぷら蒲鉾を見遣りながら訊く。

「俺はそう言う事をいちいち確認もしないんだ」

「それはロックや文学で表現している自分があるから罷り通るんだろう」と宮谷が天ぷら屋の前に立ち止まって言う。「これとこれとこれをください」と宮谷が天ぷら蒲鉾を選んで買う。

「その辺の天ぷら蒲鉾は毎朝とっかえひっかえ食べてるよ」

 宮谷は歩きながら、天ぷら蒲鉾を食べる。

「素朴な味だな」と宮谷が天ぷら蒲鉾の感想を言う。

「俺も最初の裡は特別美味しいものだとは思わなかったよ。新宿のデパートの食品売り場なんかにあるものだろ?」

「そうなのか?」と宮谷が意外そうに訊く。

「東京ではそんな物は目に入らないのさ」

 スマートフォンに電話がかかってくる。

「はい。もしもし、黒土亜ですが?」

『ああ、あたし。菊子。バンドの沢木さんがいらしたわよ』と菊子が沢木の到着を伝える。

「それじゃあ、適当に相手しててくれ。今、島原の一番街にいるんだが、直ぐに帰るよ」

『そう沢木さんに言っておくわ。それじゃあね』と菊子は言って、電話を切る。

「沢木が到着したよ」

「じゃあ、そろそろ帰るか」と宮谷が天ぷら蒲鉾を食べながら、口をもぐもぐさせて言う。

 俺と宮谷は駐車場に停めた私の車に乗る。私は運転席に乗る。車内のCDはイギー・ポップの『ラスト・フォー・ライフ』である。

「何だか眠くなってきたよ」と宮谷が天ぷら蒲鉾を食べながら言う。

「じゃあ、寝てろよ」

「うん。失礼して、一寸眠らせてもらうよ」と宮谷は言って、座席を背後に傾けて目を瞑る。

「暖房付けて温もろう。寒い寒い」と私は言って、ヒーターを点ける。宮谷の返事はない。手の指が紫色に変色し、すっかり凍えている。安全運転出来るように手を温める。買い物袋からサラミを出し、ナイフでサラミの封を切る。サラミを齧り、温かいペットボトルの緑茶の蓋を開け、喉に流し込む。サラミの濃厚な肉汁の味とピリ辛の味付けを味わう。宮谷が窓側に寝返りする。宮谷はヴァイオリニストでトランペッターでもある。実家に到着した沢木はドラマーでキーボーディストだ。私はヴォーカリストでギターリストでベイシストだ。バンド・メンバーはこの三人。ライヴの時にはツアー・メンバーを雇って、担当の複数の楽器を他と分担する。『異界録』の頃のメンバーに比べると、随分と高度なテクニシャンとバンドを組んでいる。サラミを食い終え、手の凍えも癒えたので車を発進させる。私は上の道のグリーン・ロードに向かう。昔はグリーン・ロードを農道と称した。因みに下の道と称するのが国道だ。私は宮谷が安眠出来るようにとイギーのCDを消す。


 家に着くと、駐車場に車を停め、「宮谷!着いたぞ!」と宮谷を起こす。

「ああ、着いた?」と宮谷が寝惚けた声で返事をする。宮谷が再び眠り込んだので、宮谷に毛布をかけてやり、宮谷を車に残して車外に出る。

 玄関のドアーを開け、「ただいまあ!」と家の中に声をかけ、家の中に入る。居間に入ると、「お帰りなさい!」と菊子がダイニング・テーブルの席に座ったまま言う。沢木は菊子の向かいの席でこちらに背中を向けて座っている。沢木は身長一七〇センチ代の痩せた男で、金髪の長目のポンパドールの髪に金縁眼鏡をかけ、茶の皮のUSアーミーのジャンパーと白いチノパンを着ている。

「おお!沢木!遂に我が家に来たな!大歓迎だぞ!」

「今、菊子さんと音楽の話をしていたところだよ」と沢木がこちらを振り向いて言う。

「何か菊子から刺激的な音楽論を聴けたかい?」

「やっぱり、一流のミュージシャンの音楽の話は刺激的だな」と沢木が笑顔で言う。

「そうだろう?」

「今、菊子さんの手作りのマンゴー・ケーキを食べてるところだ。本当、このケーキ美味しいですよ」と沢木が菊子のマンゴー・ケイクを誉める。

「あたしの得意のケーキなの。やっぱり、あたしのマンゴー・ケーキの美味しさは判る人には判るのね」と菊子が席から立ち上がって、大喜びして言う。「あれ?宮谷さんは?」

「車の中で寝てるよ。昨晩は朝まで大阪の居酒屋で酒を飲んでたらしくて、寝てないみたいなんだ」

「ああ、それは簡単には起きない」と沢木が笑いながら言う。

「夜に打ち合わせをして、レコーディングは明日の午前中になるな」

「そろそろお昼御飯にしましょうかね。沢木さんはラーメン・餃子・炒飯は行けますか?」と菊子が沢木に訊く。

「いやあ、私は小食なもので、ラーメンだけで結構です」と沢木が弱ったような顔で言う。

「あなたは?」と菊子が私に訊く。

「ラーメン・餃子・炒飯に挑戦してみたい」

「じゃあ、私もラーメン・餃子・炒飯に挑戦します」と沢木が楽しげに言う。

「食べられなければ、完食しないで、三品に手を付けて、残せば良いんですよ。ジャッキー・チェンの映画を観ると、中華料理は食べ散らかして満腹満腹って言ってるわ」と菊子が目だけ笑った怪しい顔付きで言う。

「そうですか。それなら私も戴けます」と沢木が安心したような笑顔で言う。

「沢木、一寸俺のギターとヴォーカルに合わせて、ピアノを弾いてくれないか?」

「ここでかい?」と沢木がおろおろとして言う。

「そうだ」

「良いよ」と沢木が気を良くして受け入れる。

「ちゃんとセッションの録音はするよ」

「そうか!やろうやろう!」と沢木が遣る気を見せる。

 私がギターをアンプに繋ぎ、調弦をしていると、沢木がピアノの前に椅子に腰かけ、ピアノの音を探る。調弦が終わると、マイクロフォンを通したオーディオの録音ボタンを押す。試しにコードのカッティングで伴奏を弾きながら、沢木のピアノが絡んでくるのを待つ。譜面台の上に用意された歌詞カードを見ながら、私が即興歌を歌い始める。アレンジに徹した沢木のピアノの演奏に雷神の雷鳴のイメージを膨らませた音でアクセントを加えていく。沢木が大胆なピアノ演奏でアレンジの音に立体感を作り上げていく。

 我々が演奏を終えると、菊子が我々に拍手を贈る。

「まあまあだったな」

「うん」と沢木が満足気に言う。

「御飯出来るまでTVでも観てて」と菊子が陽気な声で言い、キッチンに入っていく。

「沢木、二階の視聴覚室に行こう。見せたい映像があるんだ。今回の音楽のPVにしようと思ってるんだ」

「ほう!PVまで自分で作るのか」と沢木が落ち着いた声で言う。「今回のアルバムにアクースティックな楽曲はあるの?」

「ああ、前面に出す音は全てアクースティックなサウンドだよ」

「菊子さんはなかなか良い奥さんだな」と沢木が菊子を誉める。「全くの日本人妻と変わりないね」

「容姿は外人だけど、中身は全くの日本人と言っても良いだろう」

 階段で二階に上がり、視聴覚室に入ると、「そこの椅子に座ってくれ」と沢木にモニターの前の席を勧める。

「俺のPVは映像詩なんだ。じゃあ、それでは、早速お披露目致します」

 冒頭は青く澱んだ水の中の様子が表われ、光の粒子が奥の方からこちらに向かって通り過ぎていく。水の中を奥に進むカメラワークの後、黒い錆びた鉄のドアーが表われ、ゆっくりと開いていく。ドアーの向こうは真っ暗闇。そこに歌詞のサブタイトルスが画面の下の方に表われ、窓越しに夜の雨が窓に降りかかる。雨が振る場面が暫く続き、暖炉が表われると、暫く暖炉の火が揺らぐ様が続く。再び窓外が映り、稲光が見える。

 菊子がお盆の上にラーメン・餃子・炒飯を二人分と冷水とグラスを二つ載せて、我々の昼食を視聴覚室に運んでくる。沢木は菊子に軽く会釈する。菊子は再び視聴覚室を出て、暫くすると、自分の昼食とグラスを持って視聴覚室に戻ってくる。

「冷めない裡に食べて」と菊子が言い、我々はソファーに腰かけ、昼食を取る。

 我々はラーメンを伸びない裡に食べてから、その後に炒飯と餃子を食べる。

「ウチの醤油豚骨ラーメンはどうだった?」

「美味しかったよ。焼き豚のタレの炒飯も葫の効いた餃子も美味しい」と沢木が笑顔で感想を言う。「醤油豚骨ラーメンって、若山ラーメンの事なんだろ?」と沢木が俺に訊く。

「うん」

「なかなか良いPVじゃない」と菊子が餃子を食べながら言う。

「結構、時間かけて作ったんだ」

「あたしの音楽用のPVもあなたにお願いしようかしら」と菊子がラーメンのスープを飲みながら言う。

「音源持ってきてくれたら作るよ」

「今度のアルバムの楽曲を全部録音したら持ってくるわ」と菊子がラーメンを啜りながら言う。菊子の炒飯と餃子は俺達のより少量だ。学生の頃に通ってたラーメン屋に『半炒飯』と言うメニューがあったのを思い出す。

「菊子の分の炒飯は半炒飯って言うんだよ」

「こう言う少量の炒飯をお店で注文出来るの?」と菊子がチャーシューを食べながら訊く。

「俺が学生時代に通っていたラーメン屋にはそう言うメニューがあったよ」

「へええ。今度、連れてって。あなたが学生時代を過ごした町を一度見てみたいわ」と菊子がメンマを食べながら言う。

「何て事のない小さな町だよ」

「良いの。それでも」と菊子がもやしを食べながら言う。

「なかなか良いPVだよ」と沢木がPVの途中で感想を言う。

「まあ、ちゃんと観終えたら、感想をくれ」と俺はチャーハンと餃子を食べながら言う。

「黒土亜!」と階下から宮谷の大声が聴こえる。

 俺は視聴覚室を出て、階段の上に立ち、「上に上がってきなよ!今、皆で俺のプロモーション・ヴィデオ観てるんだよ!」と言う。

 宮谷が階段下に現われて、上を見上げ、「上にいたのか」と言う。「いやあ、グーグー寝てたよ」

「そうだと思って、起こさなかったんだ。よく眠らせて、明日、良い仕事をしてもらおうと思ってた」

「仕事は今日やるよ」と宮谷が階段を上りながら言う。

「そうか。先、沢木と軽いセッションをやったんだ。抜群のピアノだったから期待したよ」

「レコーディング・ルームも上にあるの?」と階段を上り切った宮谷が少し視線を上に向けて俺の顔を見て言う。人間には精神身長と言うものがある。自信のある人間は自分より身長の高い者と同じ眼線で話せるのだ。その点、宮谷には大した自信はなさそうだ。いいや、俺がデカいのかな。

「俺のレコーディング・ルームは二階なんだ。菊子の方は階下にあるんだがな。夜は地下のカラオケルームで酒を飲もう」

「ああ、良いね」と宮谷が俺の後ろから着いてきて言う。

 視聴覚室に入り、「宮谷が起きてきたぞ」と沢木と菊子に言う。

「ああ、じゃあ、宮谷さんの分の昼食を作ってくるわね」と菊子は言い、部屋を出る。

「ああ、済みません、奥さん」と宮谷が申し訳なさそうに言う。

 俺は早速、餃子と炒飯を食べる。

「ラーメン・餃子、炒飯か!」と宮谷が嬉しそうに言う。「懐かしい!学生時代に一回食べてみたよ。奥さんは日本通だね」

「うん。見た目は外人だけど、中身はすっかり日本人だよ」

「理想的な奥さんだね」と宮谷が笑顔で言う。

「宮谷も白人が好きなのか?」

「好きだよ。ファラ・フォーセットとか良かったなあ」と宮谷がでれっとした顔で懐かしそうに言う。

「ああ、あの感じか。俺はイザベル・アジャーニが好きだった」

「イザベル・アジャーニとは一寸違うな。もっと奥さんは大人の女性だよ」と宮谷が楽しげに話す。

「今はな。菊子も今や六〇代だよ。菊子は若い時からアイドル的な女性ではなかった」

「天才ピアニストだからね。お顔付きも芸術家然とされてる」と沢木がラーメンを食べながら言う。

「少女時代の顔はソフィー・マルソーみたいな感じなんだよ」

「へええ!そうなの!」と宮谷が嬉しそうに言う。「日本人好みの白人さんなんだね」

「うん」と俺は言い、炒飯と餃子を平らげる。

「黒土亜、ラーメン・餃子、炒飯を完食だね」と宮谷が嬉しそうに言う。

「六十過ぎても食欲は旺盛だよ」

「今時の六〇代は若いよね」と沢木がモニターからこちらに視線を移して言う。

 沢木は漸くラーメンを平らげ、餃子と炒飯に挑み、「ああ、餃子上手いわ」と言う。

「ああ、餃子ね。菊子の餃子には生姜の刻みや胡麻が入ってるんだよ」

「炒飯も上手い」と沢木がにっこりとした顔で言う。

「炒飯には山芋の刻みと唐辛子が入ってるんだ」

「私は辛い物好きでね」と沢木が炒飯を食べながら言う。

「ああ、それなら良かった」

「お待たせ!ラーメン・餃子・炒飯よ!」と菊子が陽気に視聴覚室に入ってきて言う。

「ああ、済みません」と宮谷が申し訳なさそうに言う。

「どうぞ、お召し上がりください」と菊子が畏まって言い、先程のラーメン・餃子・半炒飯を食べる。

「戴きまあす!」と宮谷が胸の前で合掌して言う。

「沢木が餃子と炒飯も美味しいってよ」

「ああ、それは良かった。お口に合わなかったら、どうしようかと思ってました」と菊子が沢木に言う。

「ああ、醤油ラーメンかと思ったら、醤油豚骨ラーメンなんですか!俺、醤油豚骨ラーメン、大好物なんですよ」と宮谷が嬉しそうに言う。

「ああ、それは良かった」と菊子が餃子を箸で半分に切りながら言う。「良いアルバムが出来れば良いわね」

「今度のアルバムのテーマは宇宙とブラフマンなんだよ」

「へええ。面白そうね」と菊子がラーメンを食べながら言う。

「私は一時、サイババに傾倒して、かなり教えの実践をしてたんだよ。サイババの素歌が死後、どんどんアレンジされてね。サイババの声はヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの声にそっくりなんだよ。物質化現象が手品だって言われた頃にサイババの信仰から離れたんだけど、結局、一回もアシュラムやサイ・センターには行かなかった」と沢木が懐かしげに話す。

「ウチの夫婦は何処の宗教の教えも実践してなくてね。決して無神論者である訳ではないんだけど、どうも宗教を選び切れないんだ」

「真理に明るければ良いんじゃないの?霊的な書をよく読むんだろ?」と沢木が餃子を食べながら言う。

「やっぱりね、宗教団体に属した教えの生活に憧れるんだよ」

「菜食主義とか、奉仕活動の事?」と沢木が意外そうな顔で訊く。

「うん。まあ、そう。それに教祖の講話や説法を聴きに行ったり、勉強会に参加したり、そう言うの色々あるでしょ?奉仕活動や勉強会の後に信者同士で楽しく会食したり?」

「詳しいね。俺はそこまでは知らない」と沢木が驚いて言う。

「俺はよく宗教信者のブログを読むんだよ。何処の宗教も皆、神様への感謝が足りないって反省してるんだ。野球場の外野席みたいなところで宗教体験に似たものを楽しんでるんだけどね。何処でも良いから新興宗教に入りたいんだよ」

「何処でも良いって思ってる信仰者はいないと思うよ」と沢木が笑いながら言う。

「何処も根本的な教えは一緒だよ。変な宗教に入る人間の気が知れない」

「生長の家とか、大本教とか、天理教とか、立正佼成会とか、何処でも良いのよね」と菊子がラーメンを食べながら言う。

「うん」

「良し!ラーメン平らげました!次は炒飯と餃子です!」と宮谷がラーメン・餃子・炒飯を完食する事に没頭している。

「沢木は今、どの宗教に入信してるの?」

「ああ、俺は今、神道系の新興宗教のワールドメイトだよ」と沢木がこちらの反応を窺いながら言う。

「ああ、深見東州さんのところか」

「ええ!ワールドメイト知ってて入らない芸術家がいるの!」と沢木が驚いたように言う。

「何かそのね、霊障とかにあんまり神経質になりたくなくてね」

「ああ、なるほど」と沢木があっさりと同意する。

「ウチの夫婦は幸い病気も何もないし、仕事も波に乗ってるし、世界的な評価も受けているから、なかなか宗教に入信するきっかけが掴めなくてね」

「幸せなんだろうね。芸術家に幸せな結婚生活は良くないって先生が言うけれど、黒土亜夫婦は例外だね」と沢木が勧誘を断念する。

「その代わり、ウチは子供がいないんだよ」

「ああ・・・・。外国では子供のいない夫婦は養子をもらうんだけどね」と沢木が申し訳なさそうに言う。

「若い頃に養子に関しては夫婦でよく話し合ったんだよ。結局、養子をもらう事はなかったけどね」

 俺はラーメン・餃子・炒飯を完食する。

「ああ、食った!食った!美味しかったよ、菊子」

「ああ、それは良かったわ」と菊子が醤油豚骨ラーメンの丼への視線を俺の顔に移して言う。

「結構、これ、ボリュームありますね」と沢木が菊子に餃子を食べながら言う。

「たまには大食いも良いでしょ?」と菊子が餃子を食べながら、

笑顔で沢木に言う。

「ああ、はい」と沢木が楽しそうに言う。

「たまには東京のおろし葫の醤油ラーメンを食いに行きたいな」

「おろし葫の醤油ラーメン?」と菊子が興味津々に訊く。

「食ってる方はおろし葫の匂いを余り感じないんだけど、翌朝寝室で目覚めると、部屋中葫の匂いがプンプンとしてさ、それが良いんだよ」

「あたしも食べてみたい」と菊子がラーメンを食べながら言う。

「菊子は東京に用がないだろ?」

 菊子が炒飯の米の塊をゴクリとグラスの冷水で喉に流し込んで、「音楽の事はここで全て済むからね」と片目を辛そうに瞑って言う。

「俺は時々、ここに居っ放しの生活に窮屈さを感じるよ」

「あたしはそれはない。そのために家の設備にお金かけてきたんだしね」と菊子が箸で餃子を口に持っていきながら言う。

「ああ!御馳走様でした!完食しました!美味しかったです!」と沢木が菊子に嬉しそうに言う。菊子はラーメンを平らげ、半炒飯を食べ始めながら、「それは良うございました」と落ち着いた声で言う。

「上手い餃子だな」と宮谷が万遍の笑顔で言う。

「菊子の餃子には甘辛く煮た生姜の刻みが入ってるんだよ」

「へええ。珍しいな」と宮谷が宙を見て、餃子の味を味わいながら言う。

「餃子だけで飯二杯行けるだろ?」

「うん」と宮谷がラーメンを箸で掬いながら、笑顔で言う。

「宮谷さんって、独身?」と菊子が醤油豚骨ラーメンを平らげて、餃子を箸で挟みながら訊く。

「離婚して、今、独りです」と宮谷が子供に返ったような素の心で答える。

「何で離婚されたんですか?」と菊子が宮谷に訊く。

「家族サーヴィスとか、夫婦生活とか、子育てに無関心でいたら、何時の間にか夫婦間に愛がなくなってたんです」と宮谷が寂しげに言い、ラーメンのスープを丼に口を付けて飲み干す。

 菊子は宮谷の食べている顔を冷やかな目で見つめ、何も意見しない。

「ああ、ラーメン完食しました!」と宮谷が楽しげに言う。宮谷は餃子も完食している。宮谷は更に炒飯を食べ始める。

 菊子は餃子を完食し、半炒飯の残りを平らげる。

「ああ、御馳走様でした!」と菊子が眼を閉じて、胸の前で合掌して言う。

「この焼き豚炒飯のタレも甘辛いですね。この甘辛いタレだけで飯一杯食えますよ」と宮谷が笑顔で菊子に言う。

 菊子は視線だけ宮谷に向け、ニコリともせず、何も言わない。どうやら宮谷は菊子に嫌われたようだ。宮谷のような夫婦生活の送り方は西洋人的には最悪の結婚生活なのだろう。俺は外国人女性と結婚する上で妻の様子を細かく窺いながら過ごしてきた。宮谷のような結婚生活をしていたら、俺も菊子にあんな風な態度を取られるのだろう。我々は宮谷が炒飯を食べ終えるまで静かに見守っている。

「ああ、完食しました!御馳走様でした!美味しかったです!」と宮谷が菊子に向かって、合掌して言う。それを聞いて、菊子の顔の表情に温かみが増す。恐らく宮谷が可愛く見えたのだろう。女には母性本能があるのだ。

「先、沢木と菊子と俺の三人で、今回のアルバム用のPVを観てたんだよ」と宮谷に言う。「途中で昼食にしたから初めから観ないか?」

「ああ、観たい。PVを観たら、音のイメージがし易いと思うんだよ」と宮谷が言う。

「それじゃあ、再生するよ」

「うん」と宮谷がモニターの真ん前の席に座って言う。

 冒頭は先程の通り、青く澱んだ水の中の様子が表われ、光の粒子が奥の方からこちらに向かって通り過ぎていく。水の中を奥に進むカメラワークの後、黒く錆びた鉄のドアーが表われ、ゆっくりと開いていく。ドアーの向こうは真っ暗闇。そこに歌詞のサブタイトルスが画面の下の方に表われ、窓越しに夜の雨が窓に降りかかる。どしゃぶりの雨が振る場面が暫く続き、暖炉が表われると、暫く暖炉の火が揺らぐ様が続く。再び夜の窓外が映り、稲光が見える。夜の雨に濡れた樹木の幹に雨が流れ落ちる。暗がりで辛うじて雨に濡れる幹だと判る鮮明度で幹を拡大し、雨に濡れる木肌を映し続け、癒しの域まで木肌を映し続ける。この辺の映像の感性はタルコフスキー監督からの影響を受けている。雨の中を駆けてくる眼鏡をかけた白人女性が木陰で雨宿りをする。女性の吐く息が白い事で冬を表現する。女性は寒さでかじかんだ手を擦り合わせ、息を吹きかける。女性は木の根元にしゃがみ込み、膝の前に長い両腕を伸ばす。再び雷鳴が見え、先程の暖炉のある家の中を雨が叩き付ける様を窓の外から映す。暖炉の前のロッキング・チェアに体格の良い長い白髪頭の老人が座り、居眠りをしている。暖炉の火を映し、燃える薪が崩れる。再び冒頭の青く澱んだ水の中の様子が表われ、光の粒子が奥の方からこちらに向かって通り過ぎていく。水の中を奥に進むカメラワークの後、黒く錆びた開いた鉄のドアーが表われ、ゆっくりと閉まっていく。鉄のドアーが閉まると真っ黒な画面になる。

「ああ、良いね」と宮谷が明るい声で感想を言う。「どんな音が乗るんだろう」

「ああ、PV良かったよ。音が入ったら、どんな感じなんだろう」と沢木も明るい声でPVの出来を誉める。

「宮谷にはヴァイオリンとトランペットで参加してもらい、沢木にはキーボードで参加してもらうつもりだ。俺はヴォーカルとアクースティック・ギターとギター・ベイスをやる」

「ドラムはいらないの?」と沢木が質問する。

「ドラムは入れない」

「イメージ的にはどんなジャンルのアルバムになるの?」と沢木が質問する。

「ジャズっぽいテクノのようなサウンドをイメージしてる」

「ああ、良い感じだね」と沢木が私の表現から思い描いたサウンドのイメージに期待する。

「早速、レコードディングに入るか」

「やろう!」と宮谷が明るい声で積極的に音楽作りに意欲を見せる。

「良いアルバムを作ろうな」と沢木も音楽作りに意欲を見せる。

「それじゃあ、レコーディング・ストゥーディオに行こう!」

面白い純文学を試みました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ