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人それぞれの道

黒土亜天真と言う主人公の群像劇。

 第六話 人それぞれの道

 大雪の降る冬の夜、私は島鉄神代町駅まで車を走らせる。もう夜の十時を過ぎている。幼馴染みの大島正義が突然私に会いに長崎に来ているのを正義からの電話で知った。私の電話番号をどうやって正義が調べたのかは判らない。とにかく今、島鉄神代町駅にいるから直ぐに迎えに来てくれないかと正義が電話で私を呼び出した。私は毎夜九時には就寝しているから、寝ているところを彼からの電話で起こされた。電話を切ると、私は寝巻きの上から急いで服を着て、車に乗り、彼を迎えに島鉄神代町駅に向かう。

 FMに合わせたレイディオからはイギー・ポップの『パッセンジャー』が流れている。恐らく菊子が日中に乗った時に合わせた放送局であろう。私はクラッシックが流れる放送局にレイディオのチャンネルを切り替える。

 暖房で温めた車内の空気がやけに煙草臭い。灰皿を開けた途端、灰皿一杯に煙草の吸殻が入っていて、菊子の愛煙する『セブンスターズ』の吸殻が2、3本床に落ちる。私は二センチ程窓を開け、車内の換気をする。缶コーヒーが置いたままなので、手に取って振ってみると、中身がまだ入っている。これもまた菊子だ。この車は一応、私の車なのだ。菊子は菊子で自分の車を持っている。故障したり、チェーンを巻かなければならない手間があるような時に菊子はよく私に無断で私の車を使う。菊子が乗るとたちまち車内がゴミで散らかり、汚れてしまう。私は結婚した当初は菊子のそう言った短所に全く気づかなかった。芸術家には後片付けや物の整理が苦手な人が多いとよく聞く。菊子もピアノや大正琴を弾いたり、絵画を描いたり、俳句や詩を書く芸術家であるから、自分の身の回りの事に目が行き届かないようなところがある。

 島鉄神代町駅に着くと、車を降り、駅の構内に入っていく。無人駅の殺風景な駅の構内のベンチに大柄の男が座り、居眠りをしている。髪は白く、顔には皺が深く刻まれている。見た目には随分と古ぼけて老けた男だ。パッと見た感じでは別人に見える。よく見れば、間違いなく幼馴染みの大島正義である。私は大島の肩を揺すりながら、「まーちゃん、俺だよ。迎えに来たよ」と声をかける。まーちゃんは眠そうな眼を薄っすらと開け、「ああ、天ちゃんか!一昨日から一睡もしてなくて」と掌で顔を擦りながら言う。

「年取ったね」

「そりゃあ、年も取るさ。天ちゃんは妙に若いな。髪を染めてるの?」とまーちゃんがベンチに腰かけたまま訊く。

「染めなきゃ俺も髪は真っ白だよ」

「天ちゃん、煙草持ってないか?」とまーちゃんが訊く。

「持ってるよ」と私は言い、『ラーク』の一〇〇Sの箱を差し出す。

 まーちゃんが箱から『ラーク』を一本摘み出して口に銜えると、俺は百円ライターでまーちゃんの煙草の先に火を点ける。

まーちゃんは深く煙草の煙を吸い込み、苦しげに咳込む。

「ああ、久々の煙草は美味いな」とまーちゃんが一向にベンチから立ち上がる様子もなく、煙草を味わって言う。

 俺はまーちゃんがゆっくりと煙草を吸っている間、じっとまーちゃんの前で寒さに震えて立っている。

「寒いから車に入ろう!」

「ああ、そうだね」とまーちゃんは言って、地面で煙草を消すと、三分の二残った吸殻を黒い牛革のコートの右ポケットに仕舞い込む。

 エンジンのかかった車の運転席のドアを開けて車内に入ると、まーちゃんは助手席のドアーを開けて助手席に座る。

「天ちゃん、悪いけど、途中で煙草買わせてくれないかな?」とまーちゃんがコートのポケットに両手を突っ込んだまま頼む。

「『タスポ』持ってるの?『タスポ』ないと販売機では煙草を買えないよ?」

「『タスポ』ぐらい持ってますよ」とまーちゃんが前歯のない口を開けて、楽しそうに言う。

「確かまーちゃんは夜学を出て、大学に進学したんだよね?」

「まあね。三流大学だから、卒業しても大して就職に有利になる訳ではなかったけどね」とまーちゃんが真面目な顔付きで言う。「天ちゃんがノーベル文学賞獲ったテレビのニュースを見た時は本当に驚いたよ。天ちゃん、何やらかしたんだ!ってね」

 俺は笑いながら、「何やらかしたって、俺はあの頃にはガキの頃のような悪さはとっくにしてなかったよ」と言う。

「幼馴染みがノーベル文学賞を獲るなんて、戸越組の幼馴染みは皆驚いてたよ」とまーちゃんが楽しそうに笑顔で言う。

 俺は夜の暗がりで皓々と白く光り輝く煙草の販売機の前で車を止め、「じゃあ、ここで車降りて、煙草買いなよ」と言う。

「ああ、はいはい」とまーちゃんは陽気に言って、車から降りる。

 何十年も音沙汰のなかった幼馴染みに何があったのか。結婚はしているのか。お父さんお母さんは御健在なのか。弟は漫画家になれたのか。聴きたい事は山程ある。

 まーちゃんが助手席側のドアーを開けて、車内に入りながら、「ああ、悪い悪い、お待たせしたね」と言う。

 私は早くまーちゃんが訪ねてきた理由を聞きたい。

「何か時代劇のセットみたいな町だね」とまーちゃんが明るい声で言う。

「神代武家屋敷って言う観光地なんだ。そこの鍋島鄭が観光地の中心的な建造物なんだ」

「何で長崎に住んでるの?」とまーちゃんが私がここに住む理由を訊く。

「ここに祖母の生家があってね、その何十年と誰も住んでいない古民家を改築して、家の夫婦が移り住んだんだ。子供の頃から夏休みと冬休みに泊まりにきてた第二の故郷みたいなところなんだ」

「ああ、毎年、夏休みと冬休みに田舎に帰ってたよね。毎回、カステラをお土産にくれたのを思い出したよ。天ちゃんは独身?」とまーちゃんが少しずつ私の子供時代を思い出し、現在の状況を尋ねる。

「子供はいないけど、妻はいるよ」

「ああ!そうそう!確か外国人の奥さんだったよね」とまーちゃんが俺の妻の事を思い出す。

 私は自分の結婚式に幼馴染みや学校時代の友人達や恩師は呼ばなかった。

「天ちゃんって言ったら、芸能人なんだよね」とまーちゃんが改めて俺を著名人として再認識する。

 俺は車を表の本家の車庫に入れ、「さあ、ここの裏が我が家だよ」と言う。因みに表の武家屋敷の本家には誰も住んでいない。

 俺が車を降りると、まーちゃんも助手席のドアーを開けて、車外に出る。

「今年は雪が積もるかもな」

「東京は大雪だよ」とまーちゃんが歩きながら、東京の近況を伝える。「長崎って言ったら、雲仙が噴火した事があったね」

「ああ、そうだね。あの頃は俺も東京に住んでたけど、親戚に被害者は出なかったよ」

「天ちゃんって、最初は音楽家だったんでしょ?」とまーちゃんが明るい声で訊く。

「うん。『異界録』って言うロック・バンドで活躍してたんだよ」

「何で戸越組の幼馴染みが芸能界なんかに入れるんだろうね」とまーちゃんが楽しそうに言う。

「戸越組の直ちゃんと組んでバンドやってたんだよ?」

「へええ!そうなんだ!」とまーちゃんが意外そうに言う。「天ちゃんとは仲良かったけど、直ちゃんって合わなかったな」

「直ちゃんはクラッシックの素養もジャズの素養もロックの素養もあったから、随分とウチのバンドのサウンドのクオリティーを高めてもらったよ。注文すれば、どんな音でも出してくれるんだよ。作詞は俺がやってたけど、作曲は直ちゃんと二人で主にやってたんだ」

「バンドのメンバー、何人いたの?」とまーちゃんが基本から何も知らずに質問する。

「最初は五人いたんだけど、最後ら辺は三人だったよ」

「ロックでしょ?」とまーちゃんが意外な音楽について触れるように言う。

「まあ、そう。さあ、入って入って!」と玄関のドアーを開けて、まーちゃんに言うと、「お邪魔しまあす」とまーちゃんは言って、玄関に入る。

「あら、いらっしゃい!」と菊子が出迎えて、お客を歓迎する。

「マイ・ネイム・イズ・マサヨシ・オオシマ。アイム・テンチャンズ・オールド・フレンド」とまーちゃんが明るく菊子に自己紹介する。

「天真の妻のプリシアと申します。宜しくお願いします。菊子と呼んでください。私の日本名です」と菊子が流暢な日本語で言う。

「日本語上手いですね」とまーちゃんが菊子の日本語を誉める。

「ありがとうござます。嬉しいです」と菊子がまーちゃんに合掌して言う。

「合掌するところを見ると、インドの方ですか?」とまーちゃんが菊子に訊く。

「いいえ、フランス人とアメリカ人のハーフです」と菊子が答える。

「さあ、中に上がって!」

「ああ、そうですね。気が利かなくて済みません」と菊子が慌てて言う。

「ああ、いえいえ」とまーちゃんは言って、後ろ向きに靴を脱ぎ、家に上がる。

「コートをこちらにお渡しください」と菊子がまーちゃんに言う。

「ああ、ありがとうございます」とまーちゃんは言って、コートを菊子に手渡す。

 菊子がまーちゃんのコートをハンガーにかけると、「ああ、煙草とライター!」と慌しく言って、ハンガーにかけたコートのポケットに手を突っ込むと、煙草とライターを取り出す。

「ウチは煙草は外の喫煙所で吸うんだよ。一寸良い喫煙所を特別注文して作ってね」

「へええ、金持ちのやる事は違うな」とまーちゃんが菊子の後から廊下を歩きながら言う。

 菊子が居間へのドアーを開け、「今夜は寒かったでしょう?」とまーちゃんに訊く。

「いやあ、東京はもっと寒いですよ」とまーちゃんが答える。

「まーちゃん、外に煙草吸いに行こう!」

「ああ、うん」とまーちゃんは返事をし、「コートがいるな」と言う。

「いやいや、石油のストーブのある小屋なんだよ」

「へええ!」とまーちゃんが感嘆の声を上げる。恐らく都会っ子のまーちゃんは石油ストーブについて何も知らないだろう。まーちゃんは石油ストーブに関心がないのか、敢て質問もしない。

「冬は石油ストーブの上に餅を置いて、餅を焼いて甘辛醤油に付けて食べる事もあるんだ。俺はそれを子供の頃からお祖母ちゃんによくやってもらってたんだ」

「へええ!」とまーちゃんがまた感嘆の声を上げる。まーちゃんは田舎の生活に余り関心がないようだ。私は自分が芸術家である分、詩的情緒に欠けたまーちゃんに物足りなさを感じる。まーちゃんは恐らく、詩的情緒がどうのと言うような私の事もピンと来ないだろう。まーちゃんは学生の頃はまーちゃんの弟と同じく独特な漫画風のイラストレイションを年賀葉書に描いていた。まーちゃんは両親が芸術家であるような血筋を受け継いでアートワークをするのだろうか。

「そっちの台所の勝手口から外に出るんだ。サンダルはあるのを履いてくれ」

「ああ、うん」とまーちゃんが家の中をキョロキョロと眺めながら、勝手口でサンダルを履く。「ここから外に出るんだね?」

まーちゃんは勝手口のドアーを開けて雪振る屋外に出る。「おお!何か昔のお坊さんの庵とか茶室みたいな小屋だね」

「そこの引き戸を開けて中に入ってくれ」

 まーちゃんが喫煙所の引き戸を開ける。

「うわっ、温かい!」とまーちゃんが喫煙所の温もりに感動する。「空気清浄機が付いてるのか」

「板の間に靴脱いで上がるんだよ」

 まーちゃんはサンダルを脱いで、板の間に上がる。

「お父さんお母さんは元気なの?」

「去年、父親が死んだよ」とまーちゃんが吹っ切れたような口調でお父さんの他界を伝える。

「お母さんは元気?」

「お袋は元気だよ」とまーちゃんが母親の健在を伝える。

「弟の和成は漫画家になったの?」

「いやっ、相変わらず独身のままで、夢にはとっくに生きてない。時々、天ちゃんの事を懐かしいそうに語るよ。和成は天ちゃんが大好きで、子供の頃から尊敬してたからね」とまーちゃんが弟の近況を伝える。

 俺も板の間に上がり、煙草を口に銜えると、煙草の先に火を点ける。

「このストーブでどうやって餅を焼くの?」とまーちゃんが興味津々に訊く。

「そこの缶カラに丸餅が入ってるんだよ。それをストーブの上に置いてみ」

「一つ?」とまーちゃんが餅を掴んで訊く。

「四つぐらい。二つぐらい食えるでしょ?ストーブの上に餅を四つ置いてくれ」

「俺、昼飯も夕食も食ってないんだ。だから、腹ペコでさあ、丁度良かったよ」とまーちゃんが打ち明ける。

 俺はスマートフォンで菊子に電話をかけると、スピーカーフォンで、『はい、もしもし』と菊子が応対する。

「ああ、菊子?俺だけど、まーちゃん、まだ飯食ってないんだって」と菊子に伝える。

『何が好きな方?カレーならあるけど』と菊子が明るい声で言う。

「まーちゃん、カレー・ライスで良い?」

「ああ、カレー・ライスは大好物だよ」とまーちゃんがありがたそうに答える。

「カレーで良いって」

『そう。じゃあ、カレー温めておくね』

「悪いね。それじゃ!」と言って、電話を切る。「ウチのカレーは本格的なインド・カレーなんだ」

「奥さん、料理上手いんだね」とまーちゃんが感心して言う。

「まーちゃんは独身?」

「ああ。いやあ、結婚して、子供もいる。もうそろそろ孫が結婚するよ」とまーちゃんが暗い眼差しで言う。「実は俺、妻を殺してしまってね。警察に出頭する前に友人や知人や恩人にお別れを言いに回ってるんだ」

「何でまた殺人なんて!」

「妻が浮気してたんだ。ずっと生活が苦しい時にも浮気相手にお金を貢ぐ事をしてきたらしいんだ。それで俺、カーッとなって、妻の頬を平手打ちしたんだ。そしたら、妻がよろめいて、食器入れの家具の角に頭をぶつけて、死んじゃったんだよ」とまーちゃんはストーブの上の餅を見つめて言う。

「俺が良い弁護士を雇うお金を貸すよ。返す事はそんなに急がなくても良い。俺にもお金だけは十分にあるんだ」

「有り難いけど、俺、ちゃんと罪を償いたいんだ。死刑なら死刑を受けたいんだ」とまーちゃんが胡坐を掻いた足下で両手を組み、しょんぼりと自分の手を見下ろして言う。

「多分、死刑にはならないと思うよ」

 まーちゃんは左手の甲で目元を拭う。俺はストーブの四つの餅を一つずつひっくり返す。

「まーちゃんが悪いんじゃないよ。事故だと思う」

 まーちゃんは黙り込んでいる。どうやら、ちゃんと奥さんに対する愛もあるようだ。

「俺達も五十代だね」

「うん。人生なんてあっと言う間だね。大忙しで駆け抜けるような感じなんだね」とまーちゃんが笑顔で言う。「ああ、何か、餅が膨らんできたね」とまーちゃんが楽しそうに言う。

 俺は背の低い食器箪笥から皿を二枚出し、二つの皿に砂糖と醤油を入れ、割り箸を一つまーちゃんに手渡す。

「まーちゃんも人格者になったね」

「一生懸命社会で働いている裡に何時の間にかそう言う成長はしてたよ」とまーちゃんが明るい目で言う。

「そろそろ餅が焼けたね。焼き海苔はこの缶カラにあるよ」

「うん」とまーちゃんは言って、割り箸で餅を一つ掴み、砂糖醤油に餅を浸すと、焼き海苔を巻いて齧る。俺も同じ要領で焼き餅を食べる。

「美味いでしょ?」

「うん。何か楽しいよ。良い喫煙所を作ったね」とまーちゃんが万遍の笑顔を浮かべて言う。

「ここでゴロンと横になって、昼寝する事もあるんだ」

「へええ。良いね」とまーちゃんが板の間に仰向けに横になって、天井を見上げながら、餅を食べる。

「まーちゃんは漫画家になる夢とかはなかったの?」

「そう言う事は思わないな。ストーリーも書けないし。真っ当に働いて生きてきたよ。俺、働いてお金を稼ぐ事そのものが好きなんだ」とまーちゃんは言い、焼き海苔をパリパリ音をさせながら、餅を食べる。「ああ、今まで食べた物の中でこの餅が一番美味いよ」

「へええ!そう?良かった」

「もう一個食べて良いの?」とまーちゃんが確認する。

「ああ、良いよ。俺のも食べるならあげるよ。俺はいつも食べてるから」

「ああ、じゃあ、もらうもらう!」とまーちゃんは言って、割り箸で餅を掴んで、砂糖醤油に浸し、焼き海苔をパリパリ言わせながら、二つ目の餅を食べる。「天ちゃんは恵まれてるよ」

「そうなんだろうね。ノーベル文学賞までもらうと、もう欲しい物がないよ」

「へええ!そんな人生があるんだね!俺は家のローンをそろそろ払い終える」とまーちゃんが餅の砂糖醤油が手に垂れたのを嘗めながら言う。「ずっと幸せだったんだけどね、最後に来て、こうだよ」

「最後って、まだ人生は続くよ。死刑になんか絶対にならないから、安心しなよ。善人の犯した事故だよ」

「うん。うん」とまーちゃんは頷いて言いながら、遂に泣き出してしまう。「この餅、美味いな・・・・」とまーちゃんは言って、鼻を啜る。

「腹が空いてる時は何でも美味いんだなって思った事が人生で何回かある」

「うん。俺もある」とまーちゃんは涙に濡れた顔に笑顔を浮かべて言い、餅の欠片を口に放り込むと、三つ目の餅を割り箸で掴み、砂糖醤油に浸して、焼き海苔を巻く。「今日はほんと腹が減ってて」

「それ食べたら、ウチの特性インド・カレーがあるから楽しみにしててよ」

「うん」とまーちゃんは言い、子供時代と同じまーちゃんを思い起こさせる。

 長い年月の隔たりが嘘のように消えてしまう。俺は甘辛醤油の焼き餅を一つ食べると、まーちゃんと一緒に勝手口から家の中に入る。

「菊子?」

「何?」と菊子が台所から返事をする。

「まーちゃんがカレー食べるからお願いね」

「うん。今、ポテト・サラダを作ってるの」と菊子が陽気に言う。菊子にはまだまーちゃんの出来事は話さない。話すのはまーちゃんが帰ってからで良い。

「まーちゃん、そこの椅子に座ってて」

「ああ、うん」とまーちゃんは言って、ダイニング・テーブルの椅子に腰かける。

「はあい!ウチの特性インド・カリーですよ。美味しいですよ」と菊子が陽気にカレー・ライスを運んできて言う。「ポテト・サラダも作ったんですけど、お好きですか?」

「ええ、大好物です」とまーちゃんが笑顔で言う。まーちゃんの瞼が涙で少し腫れている。

「それでは召し上がれ!」と菊子がまーちゃんに言う。

「いただきまあす!」とまーちゃんは言って、カレー・ライスを食べ始める。

「それではお食事時の音楽として、あたしがピアノの演奏をさせて戴きます」と菊子が陽気に言い、ダイニング・ルームのピアノの椅子に腰を下ろし、ピアノのオリジナル曲をまーちゃんのためだけに披露する。

「一様、ウチの妻は世界的に有名なピアニストだからね」

「うん。嬉しいよ」とまーちゃんがカレー・ライスを食べながら、笑顔で言う。

 私もエレアコで菊子のピアノ曲に即興のギター演奏を重ねる。

菊子がそれに気付いて振り返り、笑顔を見せる。実はウチの夫婦は合奏を余りした事がない。俺のロック・ミュージシャンとしてのコンプレックスが原因している。今夜は俺も菊子も精一杯まーちゃんに御持て成しをしたくて、勢い合奏を始める。私のギターも案外イケるんだなと少し自信を持つ。

 私も菊子も楽器演奏で神を表現する。今回は菊子が初めから女神をピアノで表現するので、私は男神を表現する。

「インド・カレーって、濃厚な旨味がありますね。ヴェリー・デリシャス」とまーちゃんが片言英語で菊子に言う。

「そうですか。嬉しいわ。インド・カリーはあたしの得意料理なんです」と菊子が上機嫌で言う。

「御二方の音楽も物凄く迫力があって良かった」とまーちゃんが我々の音楽の感想を言う。「やっぱり、プロの演奏は違うね」

「俺達も夫婦での合奏って、普段余りやらないんだ。ジョイント・コンサートもやった事がない」

「今度二人でアルバムを発表しようか?」と菊子がかなり乗り気で言う。「あなたの歌を引き立てるアルバムを作ってみたいわ」

「俺とのジョイントなら、菊子のピアノも活きるだろうな」

「あなたのギターはなかなか良いわよ。ピアノの音を潰さないのよね」と菊子が俺のギターを誉める。

「俺のアルバムに菊子が参加してくれたら、俺の音楽が引き立つだろうな」

「あたし達って、音楽的にも相性が良いのね」と菊子が嬉しそうに言う。「あたしはあなたのアルバムへのゲスト参加より夫婦のアルバムを作りたいわ」

「じゃあ、次は夫婦のアルバムを作るか」

「大島さんは今日はウチに泊まっていかれるんでしょ?」と菊子がまーちゃんに訊く。

「ああ、それでは、お言葉に甘えて、一泊面倒を見て戴けますか?」とまーちゃんが上機嫌で言う。

「じゃあ、先ずはお風呂にお入りください」と菊子がまーちゃんに入浴を勧める。

「ああ、済みません。それではお風呂お借りします」とまーちゃんが遠慮がちに言う。

「下着と寝巻きは夫の使ってない下着とバスローブを御使いください」と菊子が気を利かす。

「ああ、済みません。何にも持っていなくて」

「それでは脱衣所にバスタオルを出しておきます」と菊子は言って、食卓の席を立つと、バスルームに向かう。

 まーちゃんが風呂に入ると、「まーちゃんは何で突然ここにいらしたの?」と菊子が訊く。

「一寸、厄介な事が起きてね。その事は後で話すよ」

「ええ!何々?ちゃんと話してよ!」と菊子が直感的に俺が隠している事を問い詰める。

「それじゃあ、煙草吸ってくるわ」

「うん」と菊子が不服そうに言う。


 まーちゃんは入浴を済ませ、私のバスローブを羽織って、「良いお風呂でした」と菊子に感謝する。

「まーちゃんはお酒イケるの?」

「ああ、風呂上りに冷たいビールを飲む習慣があるよ」とまーちゃんが答える。

「ああ、それじゃあ、今夜は皆でビールを楽しみましょ。摘みはお刺身で良いかしら?」と菊子がまーちゃんに訊く。

「ああ、はい。刺身は大好物です」とまーちゃんが喜んで言う。

「こっちの刺身は東京と違って新鮮だから、少しコリコリッとしてるんだよ」

「へええ、食べてみたいな」とまーちゃんが積極的にこっちの食べ物に関心を示す。

 我々は刺身を食べながら、ビールを楽しむ。

「まーちゃんは相変わらず漫画をよく読むの?」

「ああ、漫画はよく読むよ。最近は昔読んだ漫画を再読してる」とまーちゃんが真っ赤な顔で言う。

「俺も漫画はよく読むんだよ。しかし、漫画家になろうとは思わなかったな。漫画描いてロックやると、オタク系のバンドと取られるでしょ?」

「ああ、そうかな。俺はあんまりロックには通じてない。天ちゃんは何時からロック聴くようになったの?」とまーちゃんが専門外の事を訊く。

「中学ぐらいから洋楽を聴くようになったんだ。小学校六年の時に『銀蝿』や『YMO』を聴いて、それで洋楽の方のロックに流れていったかな」

「ああ、その辺で関心事が擦れ違うんだな」とまーちゃんが不満気に顔を歪めて言う。「この刺身、美味しいですよ」とまーちゃんが菊子に刺身の感想を言う。

「あら、そう。それは良かった」と菊子が何か不満気な顔をしている。漫画に『銀蝿』と来て、話に入ってこれなかったんだろう。

「『銀蝿』って、有名なバンドなの?」と菊子が私に訊く。

「『横浜銀蝿』って言って、八〇年代初頭に日本で売れに売れたカリスマ的な日本のロック・バンドなんだよ」

「へええ、知らない」と菊子がハマチを山葵醤油に付けながら、しょんぼりとした顔で言う。

「菊子が『銀蝿』聴いて、良さが判るかな」

「どんな音楽なの?」と菊子が興味津々に訊く。

「陽気な不良少年の明るいロッンロールなんだよ。ファッションがまた注目されてね」

「CD持ってるの?」と菊子が話に喰らい付くように訊く。

「レコードならあるけど」

「じゃあ、一寸聴かせてよ」と菊子が物凄く関心を示す。

「歌の日本語の歌詞は菊子でも判ると思うよ。やっぱり、外国語って、音楽と共にマスターするものだよね」

「うん。あたしも松田聖子とか中森明菜とかキョンキョンは相当聴いたもん。未だに『YOU TUBE』でも動画観るし」と菊子が言うと、「日本の事、そんなに詳しいんですか!」とまーちゃんが感心する。

「あたし、中身はもう日本人そのものよ?」と菊子がまーちゃんに言う。

「俺もそんなに日本語を話せる奥さんなら、外国人と結婚しても良いな」とまーちゃんが刺身を食べながら言う。

「なあ?菊子は日本の男には良い女なんだよ」

「それはそれだけあたしが努力してるからよ」と菊子が笑顔で言うと、まーちゃんが笑う。菊子はそれを見て、満足気に笑みを顔に浮かべる。

「大島さんは外国の女優は誰が好みですか?」と菊子が何か珍しく外人役を買って出るような質問をする。

「ああ、それはソフィー・マルソーですよ。日本人でソフィー・マルソーが嫌いな男はいません」

「ああ、ね。やっぱり、彼女は良いのね。勝てないのよね、ソフィー・マルソーには」と菊子が果たして著名人の一人として言っているのか判らない発言をする。

「菊子さんは誰にも似てない美人ですね」とまーちゃんが菊子を誉める。

「一様これでも美人ピアニストって言われてるんだよ」

「一様って、何よ!失礼しちゃうわね!」と菊子が外人顔で怒ったふりをする。自分の妻ながら、菊子の芸は細かい。プロの芸能人らしい感性で自己演出をしているのだ。

「日本のテレビのバラエティー番組とかにトーク・ゲストで出ないんですか?」とまーちゃんが菊子に訊く。

「ううん。あんまりそう言う自分の売り方はしたくないかな。夫がノーベル賞獲って、何回かTVのインタビューを受けて、TVへの出演依頼を受けたんですけど、全部断わったんです。普通に田舎の人達と付き合って、普通の人として生活を楽しんでるんです」と菊子が真面目な顔で答える。

「田舎の付き合いのある人達も菊子さんがTVに出たら喜びませんか?」とまーちゃんが菊子に訊く。

「ああ、それは喜びます。でもねえ、普通に習い事や家庭菜園の友達でいたいかな」と菊子が笑顔で答える。「何て言うかな、もっと色んな顔を以て生きたいじゃないですか?」

「ああ、そう言う欲求は判りませんね」とまーちゃんが刺身を食べながら言う。

「色んな顔を持ちたいと思いませんか?」と菊子かまーちゃんに確認する。

「俺はもっとすっきりとした自分一個の存在でありたいです」とまーちゃんは素直に自分の本心を打ち明ける。

「ああ、ね。それもありよね。どっちを選ぶかよね」と菊子が考え込むように言う。

「ああ、もう深夜の二時過ぎだね。もうそろそろお開きにして寝ようか」

「ああ、ほんとだ。普段、俺、九時には寝るんだよ」とまーちゃんが真っ赤な顔をして言う。

「あらあ、お刺身残っちゃったわね」と菊子が言い、「明日の朝食で茶漬けにして食べましょうかね」と言う。

「ああ、良いですね」とまーちゃんが菊子の案に賛成する。

「大島さんの歯ブラシとタオルを出しておきますね」と菊子は言って、席を立つと、洗面所に向かう。

 俺はまーちゃんと並んで歯磨きをする。まーちゃんがこれから裁判だと思うと、気の毒で仕方ない。菊子には言わずにおこうか。何でも妻に話す事はない。菊子が知っておきたいかな。寝室で寝る前に話すか。

 歯磨きをして寝室に入ると、しばらくして菊子が寝室に入ってくる。

「菊子!」

「何?」と菊子が鏡台の前に座り、乳液を体に塗りながら返事をする。

「まーちゃんさ」

「うん」と菊子が鏡で自分の顔を見ながら返事をする。

「浮気した奥さんを叱るつもりで頬を叩いたら、奥さんがよろけて、食器棚の角に頭を打ち付けて、殺しちゃったらしいんだ。まーちゃん、死刑を覚悟して、そのお別れに会いに来たんだ」

「ええ!何でそんな事今頃言うのよ!酷いわよ、黙ってるなんて!」が菊子が涙を流して私を批難する。

「言わない方が菊子に自然に振舞ってもらえるかなと思ってさ。まーちゃん、実は俺の大切な幼馴染みなんだ。結婚式にすら呼ばなかったけど、本当に大切な幼馴染みで、菊子に言おうか言うまいか、かなり悩んだんだ。まーちゃんも菊子には知らせないで欲しいだろうなって思ってさ」

「ああ、なるほど」と菊子が涙をティシューで拭きながら言う。「教えてくれて、ありがとう。でも・・・・」と菊子は涙声で口籠もると、屈んで頭を抱える。

「まーちゃんは死刑にはならない、事故だよって言っておいた」

「うん」と菊子が上半身を起こし、涙に濡れた顔で俺の顔を見て納得する。

 我々はダブル・ベッドに並んで横たわり、消灯にする。菊子は今夜、眠れるだろうか。


 翌朝は七時まで眠っていた。目覚まし時計のアラームは六時にセットしてあった。全くアラームでは目を覚まさなかった。菊子はまだ寝ている。私は洗面所で洗面と歯磨きと髭剃りを済ませ、喫煙所に向かう。煙草を一服し、居間に行くと、TVを点けて、ソファーに腰を下ろす。まーちゃんはまだ起きてこない。とりあえずは菊子を起こしにいくか。

 寝室のドアーを開け、「菊子!もう七時半だぞ」とベッドに寝ている菊子を起こす。菊子は薄っすらと眼を開け、「ああ、よく寝た」と眠たげに呟く。

「まーちゃんも起こしにいくか」

 菊子は半身を起こし、「ああ、大島さんとお茶漬け食べるんだったわね」と額を擦りながら言う。

 俺は客間に向かう。客間のドアーをノックし、「まーちゃん!七時半だよ!」とドアー越しにまーちゃんを起こす。客間のドアーが内側から開けられ、「天ちゃん、おはよう!」とまーちゃんが寝ぼけ眼で挨拶する。

「菊子も今起こしたんだ」

「五時間半寝たのか。足りない分は帰りの飛行機の中で仮眠を取るか」とまーちゃんは言い、「一寸、顔と歯を洗ってくるよ」と言う。

「剃刀は電気剃刀もT字も両方あるよ」

「ああ、じゃあ、T字を貸してくれないか」とまーちゃんが洗面所に入りながら言う。

 俺は鏡の裏の棚からT字の剃刀とシェイヴィング・クリームを出して、「はい、これ!剃刀とシェーヴィング・クリーム」と言って、まーちゃんに手渡す。

 俺は居間に戻り、オーディオにシャーデーの『プロミス』のCDを入れて、音楽をかける。TVを消し、スマートフォンをチェックする。ブログやら『X』やら『フェイスブック』やら『インスタグラム』やら『LINE』をチェックする。

 菊子が居間に来て、台所に入る。

「今朝はあなたの好きなシジミのお味噌汁よ」と菊子が陽気な声で言う。

「ああ、良いねえ」

「あなた、シャーデー、本当に好きね」と菊子が台所から言う。

「うん。大好きだよ。シャーデーは俺の心の愛人だよ」

「あたしにとってのデイヴィッド・シルヴィアンかな」と菊子が私の敬愛する人生の師であるデイヴィッド・シルヴィアンを心の愛人と称する。何か女のデイヴィッド・シルヴィアンに対する愛は軽い。デイヴィッド・シルヴィアンは私が生まれ変わっても再会したいミュージシャンだ。

 私は『X』に毎日三篇詩をポストしている。それがそろそろ詩集として出版される。私の理想の詩は美的な自然描写をした後に自分の心の言葉を一行記す詩だ。それが自分の家の詩作の庭から続けるには自然の美の発見に限界がある。それで私が新しい試みとして始めたのが西行や良寛などの金言の詩だ。『X』に投稿した詩は多くのミュージシャン達に音楽の歌詞にされてきた。

「おはようごさいまあす」とまーちゃんが居間に入ってきて挨拶をする。

「おはよう」

「おはようございます」と菊子もまーちゃんに挨拶を返す。「それじゃあ、今朝は御約束通り、刺身のお茶漬けにしましょうかね」

「ああ、楽しみにしてます」とまーちゃんが陽気な顔で言う。

「あのう」と菊子がまーちゃんの顔を真剣に見つめて言う。

「はい。何ですか?」とまーちゃんが顔を引き攣らせて言う。

「奥さんの事ですけど、あたしは事故だと思います。絶対に死刑になったりするような事ではないと信じてます」と菊子が涙を流して言う。

「ああ、ありがとうございます。でも、俺、自分の罪をちゃんと償いたいんです」とまーちゃんが真摯な態度で言う。

「判ります。それだけ奥さんを愛されていたんでしょう」と菊子がまーちゃんの両腕を震えながら掴んで言う。

「菊子さんのお気持ちはちゃんと伝わってますよ」とまーちゃんが菊子に圧倒されたような作り笑顔で言う。

「絶対に死刑になったりしないからね」と菊子が泣きながら言い、まーちゃんを抱き締める。

「はい。そうですね」とまーちゃんがハートを開いて、菊子を宥めるように言う。

 菊子はまーちゃんの唇にキッスをする。そのキッスの長い事。夫の私が当惑する程の愛でキッスをしている。これは女ならではの愛の表現だろうか。友情の印だろうか。菊子はまーちゃんの唇から唇を放し、にっこりと微笑み、黙って何度も頷く。まーちゃんは感極まって泣き出してしまう。菊子はそんなまーちゃんを強く抱き締める。

 我々は気持ちを取り直して、朝食の刺身のお茶漬けを食べる。

「それではいただきまあす」と菊子が合掌して言うと、我々も合掌して、「いただきまあす」と声を揃えて言う。


 その後、まーちゃんから手紙が届き、まーちゃんの裁判の結果が無罪になった事を知る。

面白い純文学を試みました。

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