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神と人間

黒土亜天真と言う主人公の群像劇。

 第五話 神と人間

 8PM。

 新宿の某ホテルのバーでアメリカの出版社の編集者が私の脱稿したばかりの英文小説の原稿を読んでいる。私がここに原稿を持ってきてから三時間が経過している。私は酒も煙草も止めている。私はピーナッツと『コーク』を注文する。私は店内に流れる最新のジャズに耳を傾ける。私はのんびりと編集者が読み終わるのを待っている。

「ブラウンさん、そろそろ感想が聞きたいですね」と私は二回目の原稿のチェックを始めるブラウン氏に言う。

「もう一寸待ってください。何でしたら、何か食べ物でも召し上がっていてください。費用は私が払います」とブラウン氏が原稿のチェックを急かされるのに苛立ちを見せて言う。

「ならば、一寸、近くでやってるストリート・ライヴを聴きに行きたいんですが、宜しいでしょうか?」

「ストリート・ライヴ?黒土亜さんにそんな御興味が御有りなんですか?」とブラウン氏が意外そうに訊く。

「ええ。東京に出てくる時に必ず何箇所か見て回るんです」

「まさか、御自分でもバンドを組みたいなんてお望みじゃないでしょうね?」と私の文学の一面しか知らないブラウン氏が馬鹿げた事のように言う。

「僕はプロのミュージシャンでもあるんです。それとは別に自主制作CDやストリート・ライヴで売ってるカセットテイプを買って聴くのが趣味なんです」

「へええ!黒土亜さんってミュージシャンなんですか!でも、ストリート・ライヴなんて素人の音楽でしょう?」

「誰でも始めは素人ですよ」

「まあ、それはそうですね。では、どうぞお構いなく」

「ならば、一寸失礼!」と私は言って、席を立つ。

 私は豪華客船の中のバーのような居心地の良いバーを出る。冷たい近代建築の幾何学的なデザインで設計されたロビーを通り、ユーロープの白城のようなホテルの外に出る。私はJR新宿駅の方に歩いていく。駅ビルの近くで高校生二人によるストリート・ライヴが行われている。見物人は私を入れて四人しかいない。私はギターケイスに千円札を投げ込み、ゆっくりと彼らの音楽を聴く。

 子供の頃、この辺りの路上に手作りの詩集を売る少女詩人が立っていた。確か手作り詩集を一冊三〇〇円で売っていた。あの時、あの子の詩集を買ってあげなかった私は、今になってそういった詩集に興味を持ち始めている。それと同じような関心がこの高校生二人のストリート・ライヴで売られているカセットテイプにある。

 高校生二人は即興的なノイジーなギターに合わせ、文学的な長文詩のような歌詞を激情的で滑舌の良い荒削りな即興歌風のメロディーに乗せて、叫ぶように歌う。高校生二人のライヴは非常な盛り上がりを見せ、無事ライヴを終える。私はヴォーカルの方の男の子に三〇〇円払い、カセットテイプを売ってもらう。私は掛け替えのない宝を手に入れたような喜びで、そのカセットテイプを大切にスーツの内ポケットに仕舞う。

 私は更にガード下に行き、また別のストリート・ライヴを観る。こっちはアコースティック・ギター一本で、二〇代ぐらいの男の子が日本人硬派のジョー・ストラマーを気取り、政治的な歌詞に合わせてニルヴァーナ的な絶叫パンクを歌っている。こっちはなかなか過激な詩人で、敢て誰かに例える必要のない独特な男っぽい声をしている。聴いてると何か尾崎豊を彷彿とさせる。私の世代的な感覚だろうか。当事、私は尾崎豊の歌に臭い印象を受けた。彼の尾崎的な臭さの抜けた、全く作為を感じさせない、ハートに直接響くような言葉と激しいメロディーがとても気持ち良い。音楽的にも非常に高い完成度を持っている。お客は私一人。私はギターケイスに千円札を放り投げ、落ち着いて彼のストリート・ライヴを聴く。一曲一曲本当に味のある良い曲が揃っている。この子は恐らく、尾崎豊の音楽を批判的な耳で聴きながら、誰よりも尾崎を愛し、自分の個性の役割りを見出したのだろう。アーティストとしてオッサン好みの音楽家になるには先の二人組と同様、自分が世に待たれている壷を心得る必要がある。オッサンが若者の魅力を全て知っているからと言って、自分がプロデュース出来るかと言うと、私はそういう稀な感性を持った若者の荒削りな面に手を加えたくない。若者の繊細な感性による調和をオヤジの脂ぎった嫌らしい心で破壊してしまうのが恐いのだ。私は彼がストリート・ライヴを終えると、彼からカセットテイプを一本三〇〇円で売ってもらう。

 ガードを抜けると、ギャル風の女の子達が各々個性的なファッションに身を飾り、YUIのような詩人然たるネオ・アコースティック風の音楽をギター一本で煌びやかな美しい歌詞とメロディーに載せて歌っている。広場では遠く方まで幾つもの小さな人の輪に囲まれ、それぞれが等間隔の陣地を構えて、変声やら、美声やら、可憐な少女のような声やら、荒削りなボーイッシュな声やら、選り取り見取りのスタイルでライヴが行われている。

 美しい陰鬱な顔をした、足の長い細身の体に、黒装束のビートパンクのようなファッションで身を包んだ少女が囁くような女らしい声で歌っている。私はその少女の前に立ち、彼女の選りすぐった宝石のように煌びやかな歌詞に耳を傾け、彼女の美しいメロディーに聞き惚れる。この子を若い人が良いと思うかどうかは判らない。ただこの子の音楽には知らずと大人の期待に応えるような魅力がある。自分達の世代には現われなかったような、新しいヒロインの姿が大人の心をワクワクさせる。彼女がライヴを終えると、「物凄く良いライヴでした。あのう、デモ・テープを売ってくださいませんか?」と直接訊く。少女は鋭い目で私の眼の奥の心を睨み付け、私の心を見つめる。私は恐れを為して心が萎縮する。少女はそんな私を見て、ニコリと素敵な笑顔を見せると、「おじさんみたいな人に感動してもらえて光栄です。ギターケイスに五百入れてください。CD一枚一枚に私のイラストとメッセージが書いてあるので、好きなのを選んでお持ち帰りください」と言う。私は彼女の眼差しの正当性により、危うく涙が出そうな程傷付いた心を癒される。私はこの子の残酷さが許せない。許せないながらも、すっかり恋をしてしまった自分を誤魔化せずにいる。私は屈んで右の目尻を素早く指先で拭い、彼女が一枚一枚に別々のイラストレイションとメッセージを描いたCDの中から好きなものを一枚を選ぶ。CDケイスの右下隅には手書きのスタンプ風のワンポイントマンガ自画像が色取り取りのペイントマーカーの一色で描き分けられている。それ以上彼女と話したい気持ちなどない。私はただ言われなき視線の暴力に傷付いた自分の心を何時までも労わる。魅力的なイラストレイションが一杯ある。全部買い占めたい程好きなイラストばかりだ。私はこれ以上彼女に薄汚れたオジサンのように思われたくなくて、その中の一枚を慎重に選んでバーへと引き返す。


 私はホテルのロビーに入り、赤茶けた薄暗い照明のバーに入っていく。

「ああ!黒土亜さん!ストリート・ライヴはどうでした?」とブラウン氏が機嫌よく私に訊く。原稿が良かったのか。

「三組観てきました。なかなか良かったですよ。カセット・テイプとCDをこの通り一つずつ手に入れてきました」と私は言って、ブラウン氏にカセット・テイプ二本とCD一枚を見せる。

「どうぞ、おかけになってください」とブラウン氏が御機嫌な顔で言う。

「私の新作はどうです?」

「これでまたノーベル文学賞にノミネイトされる事は間違いないですよ!」とブラウン氏が青い眼を輝かせて言う。

「ノーベル文学賞についてはもう二回も落ちてるんで、私はもうあまり考えたくないんですよ。変に賞に関心を持ち始めると、とんだ糠喜びに終わって、その上、妙な気落ちがして心を弄ばれそうです」

「そんな事言わずに何としてもノーベル文学賞を取りましょうよ」とブラウン氏が私の新作を高く評価する。

「まあ、それじゃあ、夕食でも食べにいきますか!」

「申し訳ありませんが、私、これから、妻と会うために京都に直行しないといけないんです」とブラウン氏が申し訳なさそうに私の誘いを断わる。

「なるほど、それは残念だ。それでは今日はこれでお別れ致しましょうか」

「すみませんね。態々夕食に誘って戴いたのに」とブラウン氏が本当に申し訳なさそうに言う。

「いえいえ、私も東京に出てくれば、それなりに寄りたいところもあるんで。それではそろそろ出ましょうか!」

 私とブラウン氏はロビーを出て、ホテルの外で別れる。

 私は知り合いの在日韓国人の作家が経営する或喫茶店に向かう。粉雪が降り始め、凍える手をコートのポケットに突っ込んで歩く。学生の頃よく通った中古レコード屋が密集する辺りを歩きながら、スマートフォンに取り込んだ最新の自作曲をイヤフォンで聴いている。墓地の前に来ると、女性の悲鳴が墓地の中から聞こえてくる。私は半開きの門の中に入り、悲鳴の聞こえる方へと墓地の中にいる女性を捜す。私はイヤフォンをポケットに仕舞い、女性を犯している三人の高校生を見つける。

「そこで何をしてる!」と私が大声で怒鳴り付けると、高校生達は女性から離れ、「何か用かよ、おっさん」と言って、こちらに近付いてくる。私はコートを脱ぎ捨て、高校生達に向かって構える。

「何だよ、その恰好は?」と高校生の一人の野球帽を被った少年が言う。少年は私に近付くと、右の回し蹴りを私に喰らわす。私は脇を締めて右腕で回し蹴りを受け、左足の回し蹴りを少年の左首筋に落とす。少年はその場にうずくまる。今度はもう二人の高校生が並んで私の方に近付いてくる。先程犯されていた女性が我々三人の左脇を通り、墓地の外へと走り出る。私は逃げ去る女性に視線を移し、二人に右の回し蹴りを繰り出しながら、二人が背後によろける瞬間に大きく前に踏み込み、左の男の左頬に肘鉄を食らわせ、右の男の顎を右足で蹴り上げる。二人は地に倒れ、痛みにもがく。私はスマートフォンで警察に通報する。

 パトロール・カー二台が間もなく墓地の前に止まり、警察官二人が高校生三人を後部座席に押し込み、連行していく。私ももう一台のパトロール・カーの後部座席に証人として乗り込む。

 被害に遭った女性は名前も行方も判らず、被害届けも出ていない。そのため高校生三人の犯行を訴える者がない。少年達三人は厳重に注意され、直ぐに釈放される。

 警察の帰りに再び私は友人の経営する或喫茶店に向かう。ハングルの看板の喫茶店に入ると、韓国の演歌が流れる明るい店内に沢山の顔見知りがいる。店に入ってきた私を歓迎する声が四方から上がる中、私はいつものように店の一番奥のテーブル席に座る。在日韓国人のパート・タイムの女の子にコーヒーを注文する。

「黒土亜、久しぶりだな。一月以上現われない事は今までに一回もなかったから、何してるのかと思ってたよ。余程仕事で忙しかったんだろうな」と店主のキムが言う。

「いやあ、最近、東京に出てくるのが億劫でね」

「何で?」とキムが意外そうに訊く。

「田舎に長く住んでると、東京の生活の慌しさから日に日に気持ちが離れて、段々、田舎の緩やかな時間の方に根を下ろすようになるんだよ」

「田舎の生活がそんなに良いかい?」とキムがからかうように訊く。

「最初は何かと不満があったよ。それも田舎の生活を一端受け入れると、結構、どうでも良い事になるんだよ。東京にいると、日々、無闇に散財する生活になってしまうけど、店の少ない田舎に住んでると、買う物も決めずに外出して、衝動買いするような楽しみから自然と心が離れていくんだ。その分、創作には身が入るし、金は貯まる。全く言う事なしさ」

「バーには行くんだろ?」とキムが私の生活を探る。

「いやっ、酒はもう止めたんだ」

「へええ!あの酒好きの黒土亜が遂に酒を止めたか!煙草は?」

「煙草も禁煙して一ヶ月になる」

「ほう!酒は止められそうでも、煙草はさすがに止められないなあ」とキムが困り果てた顔で言う。

「禁煙は確かに手強いよ。でも、結局、禁煙ってのは、それを諦めない思いがある限り、何処までも悪魔の一本との闘いになる。欧米ではほとんどのスモーカーが煙草を吸わなくなってきてるらしいよ。日本には喫煙者がまだまだ多いけどね」

「俺なんかは外で一服してる間に小説のアイデアが浮かぶんだが、黒土亜はどうだ?」とキムが俺の様子を窺う。

「いやあ、小説は自分で書いてるなんて思えないくらいすらすらと毎日一日書く分の場面が出てきて、全く生みの苦しみがないよ」

「プリシアさんはどうだい?元気かい?」とキムが親しげに妻の事を訊く。

「ああ、菊子か。あれは相変わらず、毎日、気儘に暮らしてるよ」

「美人の奥さんもらって、お前も幸せ者だな」とキムが羨ましがるように言う。

「何時までも出会った時のままに美人の女だとは思わなくなるものだよ」

「離婚なんてするなよ」とキムが心配そうに言う。

「別れる事はないよ」

「美人でいて、音楽家としては超一流なんだからな。何回かプリシアさんのピアノ演奏をパリやロンドン辺りのユーロープや東京で聴きに行ったけど、あの人の演奏は抜群に光ってるな」とキムが菊子の音楽を高く評価する。

「まあ、そうだね」

「私生活の方は全く知らないから、何とも言えんが、なかなか魅力的な女性だと俺は思うよ」とキムが菊子を誉める。

「菊子はストューディオに籠もって音楽やってる時は、ここ何年かずっと大正琴を弾いてるよ」

「菊子さんか。奥さんが自分で付けた日本名にしては随分と面白い名だよ」とキムが菊子の感性に感心したように言う。

「ルース・ベネディクトの『菊と刀』から取ったらしいよ。全く青い眼してなあ!」と俺は一人大笑いして言い、シャツの胸ポケットを弄り、煙草を吸おうとする。禁煙中で煙草を持っていない事に気付くと、「ああ!無性に煙草が吸いてえ!」

「煙草が欲しいならやるよ」とキムがシャツの胸ポケットから『セヴン・スターズ』のパッケイジを差し出して言う。

「いや、結構だ。ありがどう」

「ところで俺の新しい詩集が出来たんだが、お前、持っていくか?」とキムが私に訊く。

「ああ、読ませてもらうよ」

「一寸待ってろ」とキムは言うと、席を立ち、黒いカーテンの向こうの暗がりに姿を消す。

 韓国人の女の子が私の席のテーブルにコーヒーを置く。

「ありがとう」と私はその子に礼を言う。女の子はお盆を胸に抱き締め、私のテーブルの脇に立っている。私はその女の子の顔を見上げる。女の子は笑顔で私を見下ろす。

「注文は以上だよ」と私が言うと、「作家の黒土亜天真さんですよね?」と女の子が私に訊く。

「そうだよ」

「私、実は黒土亜さんのダーク・パンク・バンド時代の『異界録』のファンなんです」と女の子が熱い眼差しを向けて言う。

「へええ、若いのに古い事知ってるね。確か『異界録』のアルバム三枚は九〇年代の終わり頃にCDで再発したよ」

「ブックオフで偶然『異界録』のアルバムを中古で手に入れたんです」と女の子が嬉しそうに言う。

「中学時代から六年間、『ポエジア』って言うフォーク・ユニットを友人とやっていたんです。その時の六枚組みのボックスが近々友人の編集で初リリースされるんですよ」

「へええ!絶対買います!友人って、ネオ・サイケの『ザ・ユニーク・ポンド』の脇田進さんですよね?」と女の子が嬉しそうに話す。

「うん。『ポエジア』はあがた森魚とか、遠藤賢司とか、加藤和彦とか、僕達が好きな日本のフォークの魅力を余す事なく盛り込んで研究したユニットなんだ」

「ああ、私、実は余りよくフォークの事は知らないんです」と女の子が暗い顔で言う。

「日本のフォークは幅広く聴くとなかなかそれぞれに味があって良いよ」

「そうなんですか。黒土亜さんの小説は韓国でもとてもよく売れています」と女の子が私を今夜の主役に引き立てる。

「そうですか」

 女の子は両手で私の右手を掴み、「頑張ってください!」と笑顔で励ますと、カウンターの方に去っていく。私はコーヒーを口に含み、口の中全体のニコチン切れを消す。

 黒いカーテンの暗がりからキムが本を持って帰ってくる。キムは私のいるテーブル席の向かいに座ると、「これが新作の詩集だ。お前にプレゼントするよ」と言って、右手に持った本を私に差し出す。

「ありがとう。読ませてもらうよ」と私は言って、キムから詩集を受け取る。

「その詩集が俺の最後の出版物になるかもしれない」とキムが真剣な眼で言う。

「何か病気でもあるのか?」

「家は癌家系でね。それが俺にも表われたんだよ」とキムが何か覚悟のある様子で言う。

「キム、お前の伝記を書くよ」

「いやあ、そんな事はいいんだ。俺は生きている間に自分の事は散々書く機会があった。だから、同じような内容の本をこれ以上増やしたくないんだよ」とキムが自分の人生を恥じ入るように言う。

「そうか」

「しかし、この国も良い国になったな。少なくとも、俺達の父親の世代が経験したような差別は一度も経験しなかったよ」とキムが明るい顔で言う。

「確かに昭和四〇年代生まれの日本人には在日外国人が本当に珍しがられて、芸能人みたいな少年期を過ごせただろう?気持ちは日本人なのに、同じ日本人と見做す程には受け入れられなかったかもしれないがな」

「気持ちは同じ日本人って言うのがそもそも違うんだよ。俺はその点では全く日本人を怨んでいない。日本人は島国なら何処の国の人にもあるような独特な区別をするんだ。息子達三人はそれを理由に全部コリアに帰ってったよ」とキムが在日韓国人と日本人との心の溝を指摘する。

「やっぱり、お前らは帰るって表現するな」

「まあな。魂の立ち位置みたいなものだよ」とキムが魂に原因を見出す。

「キム、お前は確か十五年ぐらい前に『静かなる日本人』って言う傑作小説を書いたよな。あれ、一寸評判になって、お前の代表作になっただろ?」

「ああ、あれか」とキムがどうでもいい事のように言う。

「日本は正にあの通りの国さ。あの小説にも書いてあったように、この国の人間の在日韓国人に対する差別と言うか、区別とも言えるような問題は永遠になくならないように思うな」

「いやあ、俺もあんな本を書いたんだな。今、振り返ると、本当に素直な気持ちだよ。本来、世の中は複雑な差別意識で構成されていて、差別を全くしない人間なんて一人も存在しないんだ。あの小説が売れて、多くの読者から手紙が寄せられ、沢山共感されたんだ。俺はその後、社会派的な執筆活動からは遠ざかり、文学的な試みに専念するようになったんだ。馬鹿でもチョンでもって、若い世代が意味も判らず使っている言葉があるだろう?ああ言う言葉を態々穿り返してこの国の人間の古い差別意識を強く問題視す韓国人がいるだろ?」とキムが韓国人に対する問題提起をする。

「うん」

「ああ言うのは韓国人の民族的な目覚めのようなものなんだ」とキムが恥じ入るように言う。

「ここに来る前に女性が一人、三人の高校生に犯されているのを発見して叩きのめしてやったよ。その後、警察に突き出してやったんだ」

「相変わらず、正義感が強いこって。御巡りさんより怖いね」とキムが俺の正義感に惚れ惚れするように言う。

「TVの時代劇の岡引みてえなもんさ。岡っ引きはヤクザもんの原点だよ」

「複雑な気持ちがするねえ、そう言うのを聴くと」とキムが面倒臭そうに言う。

「この辺の韓国マフィアの事はもう書き終わったのかい?」

「ああ、書き終えてはいるんだ。でも、出版は控えたよ」とキムがまた面倒臭そうに言う。

「そうかい。それは残念だ」

「お前にその原稿を預けても良いか?」とキムが真剣な眼で言う。

「良いよ」

「じゃあ、今、持ってくるよ」とキムは言って、席を立つ。キムは黒いカーテンの向こうの暗がりに姿を消す。

 他のテーブルのお客を見回すと、数人こっちを見て睨んでいる者達がいる。私は闘志丸出しで睨み返す。睨んでたお客達は何やら小声で話し始める。

 私は黒字に白の縦縞のスーツの胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、菊子に電話を掛ける。

『はい、もしもし、黒土亜ですけれど』と菊子が電話に出る。

「ああ、菊子か。俺だ。今、新宿のキムの店にいる。今夜中に飛行機で帰るから、長崎空港に着いたら、空港まで迎えにきてくれないか?」

『判った。今日は御飯作ってないから、帰ってきたら、何か適当にあるもの食べてて』と菊子が申し訳なさそうに言う。

「ああ」と私は溜息交じりに返事をし、「判った。それじゃあ。愛してるよ」と言って、電話を切る。周りの人間に視線を向けると、皆、視線を逸らし、何か小声で話し出す。睨んでた客は全部、コリア本国から来た外国人コリアンだろう。

 キムが黒いカーテンの奥から出て来て、茶封筒を私の席の前に置く。

「今、その中身は見ないでくれ。家に帰ってからゆっくりと目を通して欲しいんだ」とキムが真剣な眼で言う。

「判った」

「ここらは物騒でね、完全に仕切られてる」とキムが周囲に気付かれないように状況を説明する。

「なるほど。入口脇のテーブルの連中は?」

「うん。気を付けろよ。この店にもよく現われるんだ。何をする訳でもないが、油断は出来ない。恐らく、作家だと想って、ここでは距離を置いてるつもりなんだろう」とキムが俯いて話す。「ここらはもう占拠されてる」

 私は胸ポケットからキャラメルの箱を出し、一粒口に入れる。

 私が無言でキャラメルの箱をキムの方に差し出すと、キムは無言で首を横に振る。キムはソファーにずって座り、天井に斜めの視線を向けると、そのまましばらく黙り込む。

「そろそろ、もう一軒寄らないといけない店があるんで」と私は言いながら立ち上がり、「それじゃ、また」と右手を頭の高さに上げて別れを告げる。

「次は何時会えるのかね?」とキムが訊く。

「当分、東京に出てくる予定はない」

「まあ、人間誰しも死ぬ日は来るもんだしな。何だか俺も随分と気が弱くなったものだ。それじゃ、元気でな」とキムは別れの挨拶だけは私の眼を見て言い、疲れたような笑顔を見せる。

 私はキムから預かった茶封筒を鞄の中に仕舞うと、キムの店を出て、JR新宿駅の方まで歩いて戻る。JR山手線に乗車し、そのまま代々木に向かう。


 代々木にある古書店の、半分閉まったシャッターを潜り、「よう!」と本棚に本を並べている古書店主に声をかける。

「おお!黒土亜さん!久しぶりだねえ!」と店主がとても喜んで私を迎える。天辺の禿げ上がった短い白髪の頭に、襟付きの水色の長袖のシャツと黒い毛のヴェストを着て、紺のスラックスを穿き、白い靴下と草履を履いた五〇代半ばぐらいの男である。

「ちょっと、これ、本棚に急いで並べたら、奥で酒でも飲みましょう」と古書店主が笑顔で言う。

「お酒は完全に止めました。元々然程好きでもありませんが、私も健康を気遣う年になりました。髪なんかも黒いようですけど、染めてなきゃ爺さんみたいに真っ白です」

「私はこの通りハゲなんで染める髪もありゃしませんけどね」と古書店主は言って、赤い舌をおどけて出す。

「此間出た小説、楽しんで読ませて戴きました」

「ああ、あれね。十五ぶりに五ヶ月かけて書いた長編小説です。そうだ。黒土亜さん用に取っておいた本が何冊かありますよ」

「ああ、すみません。代金は?」

「ええ、一寸待ってくださいね」と店主は言い、そろばんで計算をする。「ええ、五七〇〇〇円です」

「すいませんねえ、いつも」

「いえいえ、こっちは商売ですから」

「じゃ、これで送料と合わせてお支払いさせて戴きます」

「ああ、はい。毎度ありがとうございます。店に本並べたら、直ぐ行きますんで、家ん中に入って、一寸待っててください。煮込みうどんでも食いながら、楽しくお話でもしましょうや」と古書店主が楽しそうに笑顔で言う。

「ああ、はい。じゃあ、お邪魔します」と私は言い、店から店主の家の中に上がり込む。入って一間目が居間である。私は店主の座る座椅子らしき方を見て、座布団の方の席に腰を下ろす。居間の中にも四方の壁を背にして、沢山の本の山が所狭しと置かれている。四角い食卓の上にも山積みにされた本の山が三つ程ある。本好きの作家の古書店経営というのは最近では然程珍しくなくなってきた。私自身も古書店経営は副業としてよく考える。

 座椅子の前にPCが置かれている。

「鎖川さん、最近の執筆はパソコンですか?」と店にいる主人の、筆名・鎖川精一に訊く。

「いやあ、それは最近、こっちの古書店経営用のネット販売のために買ったんです」

「最近、俺、趣味が『ブックオフオンライン』の商品検索なんです」

「『ブックオフオンライン』でどんな本を買われるんですか?」と鎖川さんが意外そうに訊く。

「CDとか、漫画とか、無名詩人の詩集とかですかね。たまにDVDも買います」

「『ブックオフ』と個人店は、最早、敵対関係にはありませんよ。利用者の方も『ブックオフ』と個人店の役割りをはっきりと分けるようになりましてね。まあ、黒土亜さんも自然にそういう区別をして利用しているんでしょうけどね」と鎖川さんが面白そうに言う。

「『ブックオフ』は恐らく、世界中に支店を出す内に、日本文化の発信地をグローバルに作り上げるでしょう」

「いやあ、あれはちゃんと事前にニーズあって作られた会社ですな。ちょっとやそっとじゃ潰れませんよ。黒土亜さんみたいな売れっ子作家には商売敵でしょうけどね」と鎖川さんは言って、にやりと笑う。

「いやあね、欲を出せば、確かにそうなんです」

「欲ったって、物書きは文章で食っていかなきゃいけない商売ですからねえ。物書きの収入なんて高が知れてるでしょう」と鎖川さんが落ち着いた様子で言う。

「『ブックオフ』の客の子供や学生の事をよく思いますよ。『ブックオフ』の存在は、子供達、少年達の夢で溢れ返ってます」

「ううん。まあ、確かにそうですなあ。子供達には個人店の利用の仕方も昔ながらに学んで欲しいんですけどね」と鎖川さんが正確に古書店主の立場で若い客の事を論じる。

「個人店の方ももっと神保町の古書店のようにそれぞれの特色を色濃く出してもらいたいですね。幻想小説専門古書店とか、詩集専門古書店とかね」

「なるほどね。よし!それじゃ、煮込みうどんでも食いましょうかね!」と鎖川さんが家の中に上がり、弱い蛍光灯の灯に照らされた居間を通り、暗い台所へと進む。「今回もまた向こうの出版社との契約か何かでいらしたんですか?」と鎖川さんが台所から私に訊く。

「ええ、まあ」

「どうです?ノーベル賞は取れそうですか?」と鎖川さんが自分との距離感を以て、興味本位に訊く。

「いやあ、先もアメリカンの編集に言ったんですけど、実はもう落選する度に心を揺さぶられて、うんざりしてるんですよ。結果を黙って待ってるのにも疲れました」

 鎖川さんがざるに持った野菜を食卓に運び、座椅子に腰を下ろす。

「贅沢な悩みですねえ、全く!羨ましいくらいですよ」と鎖川さんが眉間に皺を作って言う。

「いやあ、私は本音を言うと、賞なんてものは欲しくないんです」

「それが出す本、出す本、賞を与えられてる作家が言う事かねえ」と鎖川さんが呆れたように言う。

「別にこっちから頼んで賞をもらってる訳じゃありませんよ」

「ううん」と鎖川さんが鍋に野菜を入れながら唸る。「黒土亜さんには感謝の心がないね」

「感謝の心!私はただ自分の作品を等しく愛してもらいたいだけですよ」

「まあ、気持ちは判らなくないですが、作品に賞が与えられる事は本来喜ばしい事じゃないですかねえ。長く書いてて新人賞すら貰えない物書きがわんさかいるんですから」と鎖川さんが説教したいような気持ちを抑えるように言う。

「そのくらいは俺だって判ってますよ。しかしね、賞なんてものが本当に必要なんですかね。賞を与えられていない作品は駄作なんですかね?」

「我々はそもそも表現者です。自分が表現した作品がどう人に伝わるのか。それは私のように賞を貰った事のない作家には判りませんよ。ああ、どうぞ、もう食べてください」と鎖川さんが鍋の中を整理しながら言う。

「ああ、それじゃ、戴きまあす」

「賞が与えられたら、自分が表現した事は伝わったんだ。自分の表現力に自信を持って良いんだって、大きな安心感に繋がるじゃありませんか。そんな喜ばしい経験は受賞の他にはありませんよ」と鎖川さんが小皿に煮込みうどんを装いながら言う。

「なるほど」

「黒土亜さんはまだ作家活動を続けていきたいですか?」と鎖川さんがこっちの創作熱の様子を伺う。

「ええ、まあ」

「純粋に小説を書くのがお好きなんですね」と鎖川さんが自分と私を区別するように言う。

「鎖川さんは死ぬまで作家を続けたいですか?」

「もう何時作家人生を終えても良いようなつもりで日々を生きてます」と鎖川さんが力なく言う。

「何かご病気でも患ってらっしゃるんですか?」

「私ももう五十二になりましたから、この世を去る時の事をよく考えるんです。俺の人生、本当にこれで良かったのかなあとかね」と鎖川さんが不満を抱えた心の中を語る。

「鎖川さんは昔からそう言う事をお話になってましたよ」

「いやいや、そんな若い頃のような考えじゃないんです」と鎖川さんが私の解釈を跳ね除けるように言う。

「そうですか」

「今の私の気持ちは年寄りにしか判りませんよ」と鎖川さんが老け込んだ事を言う。

「年寄りって(笑)、まだ五〇代でしょ」

「私はもう自分の事は年寄りの考える事やる事として腰を落ち着けたいんです」と鎖川さんが私との話し合いを拒む。

「ですから、そう言う趣味が初めてお会いした四〇代の頃からありましたよ」

「そうかなあ・・・・。いやあ、それは何か、人を間違えてませんか?」と鎖川さんが自分の記憶に固執する。

「そうですか。確かに鎖川さんだったと思いますよ」と私は言い、うどんを啜る。「美味いな、この煮込みうどん」

「ああ、なら、どんどん食べてください」と鎖川さんが咳き込みながら言う。「喉にうどんが引っかかったな」

 鎖川さんは大きく咳をし、またうどんを食べる。

「第一私は作家なんかじゃなく、単なる古書店主ですよ。古書店主として生活をしながら、時より独り善がりな趣味の小説を書いて、出版してるに過ぎないんです」と鎖川さん独特な文学情緒を語る。

「私も文章で飯を食っていく事自体には大した欲はないんです。死ぬまでに何作書けるのかなあって事はよく考えます」

「勤め人みたいに猛烈に働く作家にしては、本当に黒土亜さんの小説は出す本出す本面白いですよ」と鎖川さんが私の文学をべた褒めする。

「ありがとうございます。物書きとして自分の作品を面白いと言って戴けるのは何よりも嬉しい事です」

「黒土亜さんの心は何時までも初々しいなあ」と鎖川さんが羨ましがるように言う。

「鎖川さんの店には今もファンがよく訪ねてくるんですか?」

「ええ、時々来ますよ。年に五人ぐらいは来ます」と鎖川さんが爽やかな笑顔で言う。

「私も最初はその中の一人でしたからね」

「ああ、そうでしたねえ」と鎖川さんが天井を見上げて懐かしそうに言う。

「我々は新人賞の受賞パーティーかなんかで出会ったんじゃありませんよ?そこのところを忘れないでくださいよ。俺は最初、鎖川さんのファンとして、鎖川さんに会いたいばかりにこの店まで訪ねてきたんです」

「まあ、今では黒土亜さんの方が注目に値する立派な物書きになりましたけどね」と鎖川さんが苦笑しながら言う。

「鎖川さんは今でも俺の師です」

「またまたおだてて」と鎖川さんが恥ずかしそうに笑いながら言う。

「おだててなんていませんよ」

「いやあ、嬉しい御言葉です、そう言って戴けると」と鎖川さんが箸を空の茶碗の上に置いて言う。「ああ!食った食った!」

「何か俺も眠くなってきたんで、そろそろこの辺でお暇させて戴きます。今夜は飛行機に乗って家に帰ります」

「家に泊まっていけば良いのに」と鎖川さんが慌てて引き止める。

「いや、妻が待ってますからね。俺は帰るべき家に帰ります」

「そうですか。それじゃあ、表までお見送りします」と鎖川さんは言うと、座椅子から腰を上げる。

「いやあ、良いですよ、ここで」

「ああ、そうですか。それじゃあまた東京にいらした時には是非立ち寄ってください」と鎖川さんが親しみの籠もった眼で言う。

「はい、どうも、御馳走様でした」

「それじゃあ、お元気で!」と鎖川さんが右手を差し出して言う。私は鎖川さんの手を握り、「それじゃあ、失礼します」と言い、鎖川さんの古書店を出て、JR新宿駅の方へと歩いていく。歩きながら、長崎にいる妻にスマートフォンで電話をかける。妻は一向に電話に出ない。また山小屋に行って、大正琴の演奏でも録音しているのだろう。

 私はJR新宿駅から満員のJR山手線に乗り、CDからスマートフォンに取り込んだ音楽をイアフォンで聴く。流れ始めたアルバムはデイヴィッド・ボウイの『アワーズ』である。『アワーズ』は私が十五年来聴き込んできた一日一回は必ず聴くお気に入りのアルバムである。私はお気に入りのアルバムを毎日聴き込み、アルバムの癒しの音空間を存分に味わう。振り返れば、『レッツ・ダンス』で初めてデイヴィッド・ボウイを知って以来、とことん聴き込んだボウイのアルバムは数知れず、どのアルバムも人生の様々な思い出と深く繋がっている。

 ロック・ミュージシャン達が何歳になっても、出すアルバム出すアルバム老若男女問わず注目され続けるような未来を、一体二〇世紀の誰が見通していたであろうか。ヴィジュアル系のアーティストの悪魔的な初期作品を若い頃ならではの感性と見做し、その時期の悪魔的な作品の完成度を他と比較し、評価を競う時代など、一体どんな文化人が予測していたろうか。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』にも描かれていないような新しい音楽家の一生がこの二十一世紀にははっきりと表面化してきている。

 第一に二〇世紀にはロック・ミュージシャンがどのような過程を経て大人になってゆくのかが全く判っていなかった。大人になってもロックを聴き続けるような人生に漠然とした不安を抱いた青年達は数多くいただろう。もっともっと知的な人間でありたいと想いながらも、ロックの魅力に惹かれていく自分を何とか変えたいと思い、クラッシックやジャズの世界に入っていく者もいた。大人になろうと自分の生活からロックを排除していった青年達が大勢いた。文学だって何時まで経っても恋愛やエロティシズムやデカダンスを描くだけではずっと大人の読者の心を惹き付けておくのは難しい。小説家の老境はロック・ミュージシャンの老境に比べ、比較的模範たる人生が多くある。そもそも人間の書いた小説や詩などに本当の意味での深い内容を持たせた作品など一冊も存在しないのだ。その点ではロックの世界もやたらと深い精神性を求めるような人種には無縁の世界である。

 映画はどうだろう。映画の世界には長い間本当の若い感性が入る機会が与えられなかった。近頃はヴィデオカメラで手軽に映画が撮れる時代になった。何で映画を撮る人間達は文学の人間達に対してコンプレックスを抱くのか。何でもっと自由に脚本を書き、映画ならではの新しい波を起こせないのか。恐らく、映画を撮る人間達の世界には音楽的な感性と詩的な感性を兼ね備える者が少ないのだろう。映画の世界では絵心がないと名画は撮れない。絵画を描かせたなら、二流の画家にしかなれないような者に名画は撮れない。大した研究もせずに、誘われたら何でもやるような人間達の中には一流の表現者は存在しない。映画館はもっと低予算で次々と傑作を生むような若者達に開放すべきだ。漫画や詩文で脚本を書いてくるような若い人にどんどん映画を撮らせるべきだ。サウンドトラックが先に出来上がっているような者にも映画を撮らせたなら、きっと良い作品を生むだろう。演技指導の手間のかからない無名の演劇人を引っ張ってきて、どんどん若い人の思うままに映画を撮らせてみるべきだ。国外の映画界では常に新しい感性が待たれている。そう言う世界状況で変に母国での評価に拘るのはおかしい。母国の人間達がウスノロならば、海外に持ち出して結果を出せば良いのだ。二十一世紀は国家や民族単位の視点よりも、もっとグローバルで自由な、地球人や国際人の視点で自分の居住地や活動拠点を決める時代になるだろう。

 JR浜松町駅で下車すると、私はモノレイルに乗り換え、羽田空港に向かう。デイヴィッド・シルヴィアンの『EVERYTHING AND NOTHING』を聴きながら、私はモノレイルの中の様々な物を写真に撮る。私は村上龍原作のTVドラマ『五十五歳からのハローライフ』の中の写真の動画を観て以来、ずっとモノレイルを題材にした写真を動画にしたかった。人生は長いのだから、時には意識的な人真似を楽しむのも良い。どうやら私の写真動画のアイデアには映画『フレンチ・コネクション』からの影響が強くあるようだ。自分の発想の一つ一つには多くのアーティストからの影響がある。どんなアーティストの作品にも歴史的な関連があるのだ。表現者とは表現者の世界に住む者の事なのだから、その世界で見聞きしたものを模倣するのは極めて自然な事だ。

 スマートフォンに電話がかかってくる。

「はい、もしもし、黒土亜ですけど」

『あたしだけど、何か電話した?』と菊子が言う。

「ああ、菊子か。これから帰るって伝えようと思って」

『ああ、そう。それだけ?』と菊子が苛立ったように訊く。

「うん」

『それじゃ、今忙しいから、じゃあね』と菊子が忙しなく言い、電話がぷつりと切れる。

 私はスーツケイスの中からカフカ小説全集3の『城』を出して読む。『城』を読むのはこの人生で二回目だ。

 この頃、四十五歳という人生の折り返し地点に達し、新しい作品を読む事より、意識的に自分に多大なる影響を及ぼした小説を再読している。カフカの子と称すべき表現者は世界中に大勢いる。カフカの子達の中には、僅かながら、『安部公房』のように、カフカに匹敵する作品を完成させた者もいる。私はまだまだカフカと対等になったとは思っていない。この時期に来て、カフカの『城』を再読しているのは、若い頃に読んだカフカ作品が実際よりも高い完成度で記憶されているからかもしれないからだ。もう何人もの作家をこうした再読によって整理してきた。その結果、若い頃の私が作り物然とした小説ばかりを好む傾向にあった事に気付いた。

 ううむ。フィクションの小説が作り物然として読者の目に映るのは当然なのかもしれない。この時期に来て、若い頃読んだ小説が私の心を作中の描写や出来事に惹き付ける力が弱くなってきたのか。単に私の集中力が衰え始めたのか。自分の集中力の衰えや精神状態の乱れに無自覚なまま評論などしようものなら、取り返しの着かない事になる。批判的な精神そのものが病的な症状である事も一般的には余り知られていない。悪口や批判や陰口を道徳的に悪とする判断は宗教がよく説く。

 モノレールが羽田空港に着き、私は車両から下車する。私は空港の売店で子供の頃から食べているサンドウィッチーズを菊子への土産として買う。機内で飲むお茶と『コカ・コーラ・ゼロ』も一本ずつ買う。

 飛行機の機内に乗り込み、左の窓際の席に腰を下ろす。鞄の中からストリート・ミュージシャンから買ったカセット・テイプ二本とCD一枚を出す。一本目のガード下で演奏していた沢村健二のカセット・テイプをポータブル・カセット・プレイヤーに入れる。イアフォンを両耳に嵌め、再生ボタンを押す。曲名を眺めながら、歌詞カードもない音楽を集中して聴く。沢村健二の研ぎ澄まされた詩才に改めて驚く。何の思想もない人間の裸眼で見つめた世界の有り様が何の風刺も批判もなく心地良いメロディーに乗せて歌われる。とても緊張感のある歌い方をする歌手で、歌声の方もとても個性的だ。アクースティック・ギターのテクニックも相当なものだ。これはどうもデビュー間近みたいだな。詩人が作曲し、自作詩を語るように歌う彼の音楽は格別な贅沢感がある。テイプには全八曲入っている。目を閉じて音楽の宇宙を心に満たす。弱さも強さも自分を表現する上で一切表わさない沢村の歌詞には、無批判に都会の生活が歌われる。沢村の五感で世界に触れているような独特な心地良さがある。五感の用い方に清潔感のあるアーティストだ。私も小説を書く上で意識して五感の用い方に清潔感を持たせたい。これは新しいフォークだ。この人が到達した音楽の流れは八〇年代にも、九〇年代にも、ZERO年代にもあった。それが一〇年代半ばになって、漸く完成の域にある表現者が表われた訳だ。

 全8曲の曲名は、

 1、公園の水

 2、ハード・ウォーカーズ

 3、文庫本

 4、帽子

 5、コンヴィ二エンス・ストア

 6、約束

 7、孤独

 8、蒲団

である。日本的な良い曲名が並ぶ。沢村健二の音楽を聴き終えると、今度は駅ビルの前で演奏していた高校生の二人組みによる『フレンドマン』のテイプを聴く。全4曲収録されている。

 全4曲の曲名は、

 1、去年の夏

 2、生きている間に出来る事

 3、世界を変える愛

 4、未来が見えない

である。

 高校生ぐらいの心は四〇を超えた私にはなかなか思い出せない。『フレンドマン』が歌う歌詞の世界は自分にもよく覚えのある一〇代の心だ。人生設計なんか丸っきりしてないような全く向こう見ずな若者の歌だ。自分の夢は必ず実現するという強い自信に満ちている。『もしも』なんて考えは絶対に受け入れない。真っ直ぐに夢の実現を想い、夢に向かって力の限りを尽くす。その姿勢は若者らしく、とても美しい。

 私も小説家としてデビューする前は、彼らと同じように向こう見ずな若者であった。作家としての私は全く苦労もなくプロになったため、文壇の外では何の機能も果たせない。

 創作を自分に与えられた仕事だと割り切り、自分は所詮社会の歯車の一つに過ぎないのだと自覚したら、とても気持ちが楽になった。

 この世界は自分一人の力だけで動いているのではない。全人類が力を合わせてこの世界を動かしているのだ。皆それぞれ自分の人生を誰にも真似の出来ない唯一の主人公として生きている。

 一度文学の領域に足を踏み入れると、小説の傍らやりたい事を行っても、文学自体をここで終わらせる訳にはいかないと、文学の渦に飲み込まれる。文学の魅力に惹き付けられ、死ぬまで自分の文学を追求ていこうと思うのだ。

 小説家という仕事も一度自分の職業にしたなら、それはもう夢とか何とかいうような浮ついた事柄ではなくなる。一作一作真心を込めて完成させていく楽しみだけが生き甲斐となる。それは楽しい事だ。そこには好きな事を仕事にした者の幸せがある。

 人生経験の主なる特徴は皆一通り同じような事を知るに至る事だろう。その次元では職業の違いを超え、何にでも頷き合える人生の言葉が相互に交わされる。一度やり始めた事ならば、人間は少なくとも、そこまでは追究すべきだろう。小説家であったなら、最晩年には絶筆と称される一人の人間の最期が作品としてこの世に残され、確認される。急げば、死の一昨日には完成出来た作品かもしれないし、もう三年かけて完成させるつもりでいた作品かもしれない。それは体を脱ぎ捨て、この世を去った人の魂のみが知る事である。

 絶筆と称される作品から死を研究する学者が現われたなら、私はその学者と作家の死について深く語り合ってみたい。死を目前にした人が果たして死の闇に怯えているものなのか。神仏のお迎えを経験し、神仏の愛で来世を希望の光で満たし、全てを投げ出すような心境で旅立ちと言う死の瞬間を待っているものなのか。

 今回も良い収穫があった。私は鞄の中にカセット・テイプ二本とCD一枚を仕舞う。私は鞄の中のキムから預かった原稿の茶封筒の端を見ると、急いで書類の束の中に隠す。大変なものを預かってきてしまった。韓国マフィアについてキムがどんなものを書き残そうとしているのか。キムの事だから、全く問題にならないような安全な文書を書いたのだとは思えない。

 私はスマートフォンの中に入れた音楽をまた聴き始める。スマートフォンの中にはお気に入りのアルバムが五〇〇枚程入っている。私はシートを後ろに傾け、溝口肇の『エンジェル』を聴きながら、目を瞑る。飛行機はもうそろそろ長崎空港に到着する。

 飛行機が長崎空港に着陸する。私は『エンジェル』を聴きながら、機内から出る。

 雨宿りでもするような軽い気持ちで長崎を訪れたならば、きっと長崎の人々の温かい心に触れるだろう。何を話しているのか判らなくとも、思わず心を近づけたくなるような温かい気持ちがきっと湧き起こるだろう。そんな善良な人々がここ長崎には大勢いる。冷え切った都会人の心も、ここに来れば、きっと温かくなって、晴れ晴れとした気持ちで仕事のある都会へと帰ってゆけるだろう。地元の若者達はそんな長崎から遠い都会の生活に憧れ、福岡や大阪や東京を目指して長崎を出ていく。私はそんな若者達の心を愛している。私にとっては何も変わらぬ田舎の生活でも、出ていった若者達だけが失うような事がこんな田舎にも日常的に起きているのかもしれない。それは私のような余所者には決して判らない。

 私の心は自由だ。欲望のままに生きる自由は誰にでもある。田舎に住もうと、都会に住もうと、欲望は同じように生じる。私には自分の住む土地に本気で根を下ろした経験がない。私は思い付きと気分で住む土地や家を変えるような流れ者みたいな生き方をしてきた。全てがあてずっぽうの偶然の連続であった。

 私はスマートフォンで菊子に電話をかける。

『はい、もしもし、黒土亜ですけれども』

「ああ、菊子か。今、空港に着いたから」

『五分でそっちに着くから、一寸待ってて』と菊子は言い、電話を切る。

 私は自動販売機で五〇〇ミリリットル入りのペットボトルの『コカ・コーラ・ゼロ』を買って飲む。ジュースの自動販売機の隣には煙草の販売機がある。近頃は煙草を見ても、余り吸いたい気持ちにならなくなってきた。禁煙がここまで楽なところに来ると、煙草を吸いたくなっても、二度と煙草は吸わないと固く心に決める事が出来る。

 菊子の乗った銀色のフォルクスワーゲンが私の直ぐ近くに停まる。私は右の助手席のドアーを開け、車内に乗り込むと、ドアーを閉める。

「お帰りなさい」と菊子が車を走らせながら言う。

「ただいま。今、このモーツァルトの『レクイエム』聴いてるの?」

「別のに換えても良いわよ。エンジンかけたら、入ってたCDが流れただけだから」と菊子が運転しながら、こちらに向いて言う。

「溝口肇の『エンジェル』を聴こう!」

「どうぞ、御自由に!」と菊子が楽しそうに言う。

 私はCDを止め、スマートフォンに入った『エンジェル』を車内に流す。

「あなた、御飯は食べたの?」と菊子が確認する。

「ああ、食べてきた。鎖川さんの家で煮込みうどん御馳走になってさ」

「鎖川さんって、古書店経営されてる作家さんよね?」と菊子が鎖川さんの事を確認する。

「うん、今日も注文してた本を何冊か買ってきたんだ」

「キムは元気だった?」と菊子がキムへの親しみを籠めて訊く。

「何か大病患ってて、余命間もない身だって言ってたよ。韓国マフィアに関する最期の原稿をキムの死後に出版して欲しいって頼まれて預かってきたよ」

「あなた、あんまりそういう危険な事に関わらないでよね」と菊子が心配そうに言う。

「判ってる判ってる。今回はキムの最期の頼みだって言うから預かってきたんだよ」

「アメリカの出版社の編集、またノーベル賞の話した?」と菊子が嘲るように言う。

「してた。もうそれにはうんざりだよ。候補にやたらと挙がる作家は結局ノーベル賞は取れないもんだろ?くれるならくれるでさっさと貰うなりして、早くその事から解放されたいよ」

「話題になってる内は本も売れるんだし、良いように受け止めれば良いんじゃない」と菊子が前向きな意見を言う。

「いやあ、候補に上がれば、それなりにこっちも期待するだろ。それが疲れるんだよ」

「あなた、贅沢よ!」と菊子が叱るように言う。

「そういう事をちょいちょい言われるのにもうんざりしてるよ」

「あなた、意外と気が小さいのね」と菊子が情けなそうに言う。

「一寸!一寸!今は黙って『エンジェル』を聴こう!」

「はいはい」と菊子が投げやりな返事をする。

「そうだ!羽田空港で名物のサンドウィッチーズをまたお土産に買ってきたよ。良かったら食べて」

「じゃあ、一つ取って、あたしに食べさせてよ」と菊子が前を向いて運転しながら言う。

「ああ、良いよ」と私は言って、運転しながら口を開ける菊子の口にサンドウィッチーズを一つ近づける。菊子がサンドウィッチーズに齧り付き、ゆっくりと私の指すれすれまで食べると、私は菊子の口の中に残りの部分を入れる。

「美味しい!」と菊子が笑顔で言う。

「最近、菊子、何か読んでる?」

「また川端に嵌り始めたのよ」と菊子が落ち着いた声で言う。

「何かお前が川端読むって聞くと、物凄くエロティカルなんだよな。俺は川端文学に関してはもう一寸純粋な文学だと信じたいんだけどね」

「だから、あたしだって純粋な文学だと思って読んでるわよ」と菊子が苛立つような口調で言う。

「いやっ、お前に純粋なんて言葉を判った風に使って欲しくないね」

「それって、結構傷つくわよ!あたしはあなたの妻よ?」と菊子が俺の心に訴えかけるように言う。

 私は吐き気を催し、急いで窓を開けると、走る車外に嘔吐する。

「何か!あなた!感じ悪いわよ!何でそこで吐く訳?失礼よ!」と菊子が不愉快そうに言う。

「生理的なもんなんだから仕方ないだろ」

「嫌!感じ悪い!あなたのそう言う神経質さ!」と菊子が私を批難する。

「何とでも言ってくれよ。俺は別に自分が特別変わってるとは思ってないよ」

 菊子は運転しながら、重い溜息を吐く。俺は『エンジェル』に耳を澄ます。菊子は暗い山道で車を止め、「絶対に許せない!一寸あなた!早くパンツ脱いで、おちんちん出しなさいよ!」と言い、自分のシート・ベルトを急いで外すと、私のズボンのスライド・ファスナーを手早く下ろす。

「嫌だよ!悪魔なんかにこんな暗い山道で生気を吸われて死ぬのは!止めてくださいよ!」

「何が悪魔よ!してもらいたい癖に!あんたって人はそうやっていっつも一人日本人になって私の性欲を掻き立てるのよ!」と菊子が苛立ったように言う。

「止めてくださいよ、外人さん!」

「もう!怒るわよ!何がやめてください、外人さんよ!自分だってクオーターじゃないのよ!醜い醜いマゾヒストの癖して!早くパンツ下ろしなさい!たまには私に日本人の役を譲りなさいよね!私は国籍だって日本にしたんだし、名前だって日本名を登録してるのよ!」と菊子が怒りを顕わにして言う。

「碧い眼の外人さんが日本人の役やるなんて気持ち悪いですよ!」

「何でいつまでも私の事を外人さんって区別するのよ!」と菊子が私を批難する。

「外人さん!僕、口喧嘩しながら、セックスしたくありません!」

「ほうら、シャイな日本の坊や、小さなおちんちんがこんなに硬くなってきたわよ!」と菊子が私のモノを握って言うと、私の上に跨ってくる。

 菊子は魅惑的な笑みを浮かべて腰を動かす。私はそれを見ていられず、目を瞑る。菊子は喜びの声を上げる。独り善がりで、男のモノを単なるセックスの道具だとしか思っていない。男の存在自体をセックスの相手としてしか見出せない単細胞な白人妻である。相手をしている私の方は最近物凄く性行為に対して罪の意識を感じている。

 菊子と二人で住んでいる自宅は人気のない山の中の緑に囲まれ、ぽつりと一軒建っている。菊子が車庫に車を入れる。私は助手席のドアーを開け、玄関に向かう。私は玄関の鍵を自分で開け、地中海風の白い建物の自宅に入る。広々とした応接間と食堂を抜け、階段を上り、二階の書斎に入る。私は書斎のドアーの鍵を閉める。東京に行く前にオーディオに入れて聴いていたCDを再び流し、留守中の書斎の時間を繋ぐ。私はどっかりとソファーに腰を下ろし、ソファーの前のテーブルの上に荷物を放り投げる。オーディオからはクラウス・シュルツェの『デューン』が流れている。

 結婚前に私と菊子は、結婚生活の途中でお互いの気持ちがどう変わろうと絶対に離婚はしないと誓い合った。それは結婚生活を通じて人間の絆をとことん深め、結婚生活の実態を最期まで経験し尽くすためだった。今は丁度、私の心が菊子との時間を拒むような時期にある。菊子は仕事が忙しく、そんな私の心境など全く察していない。今も多分、菊子は車を降りるなり自分のストゥーディオに入り、レコーディングのために再びストゥーディオに籠り始めるだろう。

 この書斎に菊子が来る事はない。今までにも一回も来た例がない。

 我々の夫婦仲は然程悪くない。二人共お互いを本気で罵ったり、相手の心を傷付けるような発言はしない。我々の寝室は一つしかない。我々が別々のところで眠るとしたら、私はこの書斎のソファーに、菊子はストゥーディオのソファーで眠る時ぐらいだろう。

 菊子とはお互いの気分次第で新婚時代のような甘い結婚生活を楽しめる。外国人妻ながら、擦れ違いの生活が続いても直ぐに離婚するような軽々しいところはない。菊子の交際範囲はとても広い。音楽関係者のみならず、とにかく色んな人間と付き合っている。陶芸や生け花や茶道や日本舞踊等、習い事も沢山している。盆栽や日本庭園等にも深く通じている。日本食や日本のスウィーツを食べ歩く仲間達もいる。お互いの仕事が済んで、菊子と旅行に出かける時などは、ほとんどの場合、地方に出かけて日本の古民家や神社を見て回る。

 私はテーブルの上のノートブック・コンピューターを開き、DTMの音楽制作を始める。私はアクースティック・ギターを出し、譜面台に載った歌詞のファイルを捲り、音響の確認をする。今夜は最後のヴォーカルの吹き込みをする。私は自分がやりたい事を来世に先延ばしするような事は決してしない。エイジアには生まれ変わる事を念頭に置き、今生の努力を出し惜しみする者達がいる。エイジアンの悪い習慣だと思う。

 私はインストゥルメンタルとは全くの音による詩だと思っている。八〇年代のヘタウマ音楽を思えば、音楽なんてものは誰にでも作れる。

 私は一曲二時間かけてヴォーカルの吹き込みを終えると、書斎を出て階下に下り、一階の視聴覚室へと向かう。今日はまだ自作の映像詩の編集作業も残っている。

「あなた」と菊子がストゥーディオから階下の廊下に出て来て、私を呼び止める。私は背後を振り返る。

「何だ?」

「今日はもう先に寝てて。今、仕事がノッてるから朝までに録音を済ませたいの」と菊子が俺を気遣うように言う。

「ああ、判った。視聴覚室で俺もこれから映像詩の編集をやるんだ。じゃあ、先に俺が終わったら、待たずに寝てるよ」

「うん、ごめんね」と菊子は言い、黙って私を見つめる。

 外国人妻をもらうと、何かとキッスを求められる。菊子にキッスをし忘れた私は廊下を引き返し、「じゃ、おやすみ」と菊子に言って、菊子の唇にキッスをする。「おやすみ」と菊子も言って、私の唇にキッスを返す。菊子はキッスが済むと、さっさとストゥーディオに入る。中からストゥーディオの扉が閉まると、私は視聴覚室の方へと廊下を進む。

 私は視聴覚室の防音扉を開け、中に入ると、扉を閉める。私はPCの電源を点け、椅子に腰かける。

 私は映像詩を音楽のPVにはしない。映像詩は飽く迄映像詩である。私は目を瞑り、自分の中の無意識領域に映像詩のアイデアを求める。そうか。なるほど。私は映画『ブルー・ベルベット』の印象が心に残り、溢れ出しているだけなのだな。ああ!もっと映像をやりたいなあ。今、やらなければ、きっと将来心残りになる。自分の小説を単に映画にしたい訳でもない。映像をやるなら、台本や絵コンテもしっかりと自分で新しいのを書きたい。感性だけでいきなり映像を撮るのではなく、きちんとした台本が必要なのだ。撮影に入る事に焦り過ぎてはいないか。まだ本当に撮りたい映像のアイデアはないのではないか。良し!止めよう!少なくとも今夜は止めよう。

 私は視聴覚室の防音扉を開け、廊下に出る。菊子はどうやらストゥーディオに籠りきりのようだ。私は階段を上がり、寝室に向かう。三階の寝室の天井には天窓が付いている。寝室の冷房を点け、バスローブを手に奥のシャワー室の脱衣所兼洗面所に入る。服を脱ぎ、頭から熱いシャワーを簡単に浴びると、脱衣所で体を拭き、バスロープを羽織る。ソファーに腰かけ、スマートフォンをチェックする。煙草を吸わない生活は忙しない程の流れ作業で一日が過ぎる。洗面所に言って歯磨きを済ませる。一日働いて疲れた体をダブル・ベッドの上に横たえる。蒲団に入ったら考え事は一切しない。若い頃寝る前に考え事をしてよく寝そびれた。


 翌朝はいつものように四時半に目覚める。喫煙所として造った庭の庵風の板の間に上がり、神への讃歌を即興的に歌ってから座禅を始める。屋外の庭に屋根のある板の間を作った事には非常に満足している。四方壁はなく、夏場でも風通しが良い。嘗てはこの板の間の屋根の下で喫煙しながら、詩作や小説の創作に疲れた頭を休めていた。夜でも灯はない。昼夜自然光だけの明るさで過ごす心落ち着く場所だ。灯を点さなければ、夏でも藪蚊に刺される事はない。


 座禅を終え、洗面所で洗顔と歯磨きと髭剃りを済ませる。

 島原半島は元々祖母の実家に縁がある土地だ。子供の頃の夏休みや冬休みによく未亡人の祖母の家に泊まりにきていた。その頃は古い食器や蒲団が不潔に感じられ、理想的な田舎暮らしではなかった。何もかもを新品で揃えた自分の家を建てると、田舎暮らしもなかなか良いものである。東京の家をすっかり売り払ってしまったくらい島原半島の暮らしが気に入っている。

 台所に入り、セロリと人参のスティック・サラダを作り、東京の合わせ味噌を小皿に盛る。ナメコの味噌汁を作り、炊きたての白米を茶碗に盛る。菊子が作った自家製の海苔の佃煮とキムチを冷蔵庫から出し、朝食をタイニング・テーブルに運ぶ。テーブルの席に着き、食前の祈りを守護霊様に捧げる。スマートフォンに取り込んだヒーリング・ミュージックのアルバムを直出しする。私の禁煙は度々破れる。今朝も座禅中から無性に煙草が吸いたい。

 食事を終え、皿洗いを済ますと、急いで近所の煙草屋に向かう。

 煙草屋の販売機で『ラーク』の一〇〇S一箱と一〇〇円ライターを買う。煙草屋の前の河原の土手に腰かけ、『ラーク』を吹かす。やはり、煙草は美味い!煙草のない生活は本当に味気ない。禁煙は大変な精神的ストレスになる。近頃は煙草が値上がりしている割に若い世代の喫煙者が増えているらしい。煙草屋のおばさんが店先に出てくる。白いエプロンをかけた五十過ぎの女性だ。若い頃はそこそこ美人だったろうと思う。

「黒土亜さんはノーベル賞ば取れっとですか?」

「どうですかね。そんなもん気にしてたら、待つだけで疲れ切ってしまいますよ」

「そがあん!ばってん、ノーベル賞取りよったら良かですね」

「まあ、そうですね。箔が付きます」

「田舎の生活は良かでしょう?」

「そりゃあ、良いですよ。生活圏に特別な風物が一杯あります。やれ、山に行った、海に行った、川に行ったって言うのは都会では非日常的な行動ですからね」

「こっちに生まれよると、そがんとには何も感じんようになるとですよ」

「詩人や歌人は違うと思いますがね」

「あらっ、黒土亜さん、文学的な事なんてなんも知らん田舎モンの言葉ですたい。黙って聞き流しよってくれんですか」

「ああ、それは失礼」と私は笑いながら、頭を搔いて言う。

「黒土亜さんは毎日、外国の奥さんと二人で仲良う暮らしよっとでしょ?外人さんの奥さんはやれ愛してるかとか訊きよって、色々と気配りの難しかでしょう?」

「生活習慣の違いはお互い相手の方を尊重しています」

「へええ!それは仲良うござんすね!たまには日本人女性と付き合うのも良かとじゃなかですか!」と煙草屋の奥さんが妙な焼き餅を焼いて、ぷいと背中を向けて店の中に入っていく。お尻が大き過ぎず、気性は荒そうだが、年の割りに可愛らしいところがある。妻がいなければ、案外良い関係になっていたかもしれない。菊子は話し甲斐のある教養豊かな女だ。体の肉感だけが売りの田舎女には到底勝ち目がない。

 帰宅して庭の喫煙所の板の間に上がり、喫煙を楽しんでいると、スマートフォンに電話がかかる。聖願寺の歳門和尚からだ。

「もしもし、黒土亜ですけど」

『東野です』と歳門和尚が名を名乗る。

「ああ、歳門和尚、おはようございます」

『黒土亜さんにお願いしたい事がありましてね』と歳門和尚が言い難そうに言う。

「はあ、何でしょう?」

『家の娘の美雪が高校を卒業したら、イギリスの大学の芸術学部に入学したいと申しましてね』と歳門和尚が困ったように言う。

「はい」

『黒土亜さんは随分と流暢に英語をお話になるから、家の娘に英語を教えてやって戴けないでしょうか?』と歳門和尚が頼み込むように言う。

「アメリカン・イングリッシュで宜しければ、週五日、午後二時から二時間ぐらいなら何とか出来ます」

『ああ、そうですか!それではお願い致します。授業はどちらでなされますか?』と歳門和尚が明るい声で訊く。

「家にいらしてくださると助かるんですが」

『ああ、それでは娘をそれらに行かせます。ありがとうございました。失礼致します』と歳門和尚が丁寧に礼を言う。

「今日は昼過ぎに御注文の掛け軸をお持ちする予定でいます」

『ああ、それなら、家にいらした時に娘を紹介させて戴きます』

と歳門和尚が明るい声で言う。

「畏まりました。それでは」

 この喫煙所では、春から秋にかけては板の間に寝転がり、昼寝をする事もある。冬場はガス・ストーヴでもあれば快適だな。私は掛け軸に絵と書を書く趣味があり、それが近所で評判が良いため、画家の真似事のような事をして楽しんでいる。

 菊子とてんぷら蕎麦の昼食を食べ終えると、歳門和尚から注文された掛け軸を持って、聖願寺に向かう。

 寺の境内に車を乗り入れ、玄関に回る。

「済みませえん!」と大声でお寺の住人に声をかける。

「はあい!」と若い女性の声が返事をし、十八・九と思わしき女性が玄関に現われる。「いらっしゃいませ。父に御用ですか?」

「お父さんに注文された掛け軸を御持ちし、娘さんには英語の授業の話をさせて戴きに参りました」

「ああ、英語の授業の件は私です!私、東野美雪と申します。宜しくお願いします」と歳門和尚の娘の美雪さんが言う。

「黒土亜天真と申します。宜しくお願いします」

「どうぞ、中にお入りください」と美雪さんが笑顔で家に招く。

「それでは失礼します」

 玄関から右にお堂があり、私は美雪さんの後に着いて、応接間の奥の居間に向かう。

「お父さん、黒土亜さんがいらっしゃいましたよ」

「おう、おう、全く判らんやった」と歳門和尚が炬燵から立ち上がりながら言う。歳門和尚は短い白髪の頭で、背が高く、頑丈そうな大柄な体つきをしている。

「失礼します」と私は言い、居間に入る。

「ああ、黒土亜さん、お迎えにも出ませんで申し訳ありません」と歳門和尚が深々と頭を下げて侘びる。歳門和尚は私に炬燵の一方の席を指し示し、「どうぞ、御かけになってください」と席を勧める。

「失礼します。早速ですが、これが御注文の掛け軸でございます」

「ああ、早速拝見させて戴きます。どうぞ、御かけになってください」と歳門和尚が掛け軸を手に中腰になって、再び席を勧める。

「失礼します」と私は言って、座蒲団が敷かれた炬燵の席に腰を下ろす。美雪さんが小声で和尚に耳打ちする。美雪さんは色白で目鼻立ちのはっきりとした美しい女の子だ。身長は一七〇センチぐらいだろうか。すっきりとした細身の体型で、手足が非常に長い。歳門和尚の耳元に囁くのに添える白い手の指はほっそりとしていて、とても長い。美雪さんは歳門和尚に頷くと、居間の奥の台所に向かう。

「奥様の体のお加減は如何ですか?」と立ち上がったまま掛け軸を広げる歳門和尚に訊く。

「ああ、飯もよう食べよるし、顔を近づければ、話もようしよるとですよ」と歳門和尚が言う。「ああ、これは雪景色の中の惚れ惚れするような美しい鶴ですなあ。私が思い描いていた絵より格段素晴らしい仕上がりですばい」

「喜んで戴けて光栄です。私も鶴の絵の注文は今回が初めてなんです」

 歳門和尚は繁々と無言で掛け軸に見入っている。

「ありがとうございました。面倒な注文をして申し訳ない」と歳門和尚が掛け軸からこちらに顔を向けて詫びる。

「いやあ、私も非常に楽しかったです」

「私もそう言って戴けると助かります。黒土亜さんの油彩の冨士の絵ば初めて観よった時に、ああ、こん人に是非とも鶴の絵の掛け軸ば描いて戴きたいなあと思いよったとですよ」と歳門和尚が真剣な眼で言う。

「ああ、確かあの油彩の冨士の絵も注文の品でしたよ」

「そがん言うとりましたね。あの冨士の絵は大きか絵でした」と歳門和尚が何処か不満気に言う。

「ええ、そうですね」

「本当に貫禄のある冨士の絵やったとですよ。普通はああはならんですよ」と歳門和尚が人手に渡った絵の事を再三誉める。

 美雪さんがお盆に載せた茶と茶菓子を卓袱台の席の前に配る。ほっそりとした白く長い首筋がとても美しい。美雪さんは茶と茶菓子をそれぞれの席の前に配り終えると、私とは目を合わせず、静かに歳門和尚の脇に納まるように腰を下ろす。

「美雪さんは英国留学するのに、アメリカン・イングリッシュを勉強されたいんですか?」

「何かの折にアメリカン・イングリッシュも話せるのは都合が良いんで」と美雪さんが私の胸元を見つめて言う。

 何とも色っぽい娘だ。彼女の顔付きや仕種を見ているとムラムラッとしてくる。こんな若い女性への性欲を抑えるのは本来難しい事ではない。この子は一寸違う。姿を見ていると頭がクラクラしてくる。断わった方が良いのか。これはどうも霊障だな。

「歳門和尚、一寸変な気分がして、心がおかしいんです。娘さんの家庭教師を止めさせてもらえませんか?」

「ああ、そうですか。年頃の娘には悪い霊が憑き易いんでね。それでは除霊をして差し上げましょうか?」と歳門和尚が私の眼の奥の心を凝視して言う。

「お願いします」と私は朦朧とした頭で何とか返事をする。

「それではお堂の方に参りましょう」と歳門和尚が立ち上がって言う。

 私はよろけながら立ち上がり、廊下に出る。歳門和尚が袈裟を付けて、先に廊下を進む。私は朦朧とした頭で歳門和尚の後に続く。

 お堂に入ると、歳門和尚が、「床にお座りになってください」と言う。「寺の中にはお香焚く関係で沢山怪しい霊が集まってくるんです。黒土亜さんのように霊に敏感な方には悪しき空間です」

「いやいや、申し訳ない」と私は正座をし、背筋を伸ばして詫びる。

 歳門和尚が背後に立ち、経を読む。歳門和尚が経を唱える声が私の周囲をぐるぐる回る。どうやら悪霊は一体ではない。閉じた瞼の裏に全裸の美雪さんが手招きする幻覚が見える。勃起したモノがやけに疼く。歳門和尚が脳天に掌を翳しているのか、私は閉じた瞼の奥で眩しい光に満たされる。歳門和尚は経を唱え終わると、私の肩を一回強く揺する。

「どうじゃな?」と歳門和尚が背後から私に訊く。

「眩しい光に満たされて、何かがすうっと体から出ていき、清々しい気持ちになりました」

「そうですか。これで除霊を終わります」と歳門和尚が明るい声で言う。

 私は立ち上がり、「ありがとうございました」と礼を言って、頭を下げる。「それでは私はこれで失礼します」

「詰まらぬ用件をお願いして、大変御迷惑をおかけしました」と歳門和尚が詫びる。

「それでは失礼」と私は言って、寺を去る。坂を下って、部落に入ると、我が家に帰宅する。

「ただいま!」

「お帰りなさい!」と菊子が台所から言う。「そろそろ昼食よ。コロッケ・サンドとトマトと胡瓜のサンドウィッチを作ったの」

「そうか。それでは戴こう」と私は言って、ダイニング・テーブルの席に座る。

 菊子はサンドウィッチの皿を私の席の前と自分の席の前に置くと、アイス・ココアの入ったグラスをそれぞれの席の前に置き、向かいの席に腰を下ろす。

「大正琴の重奏とピアノの主旋律とキー・ボードのアトモスフィアのアルバムを録音し終えたわよ」と菊子がコロッケ・サンドを食べながら言う。

「後で聴かせてくれ」

「じゃあ、食事を終えたら、あたしのストゥーディオに来て」と菊子が笑顔で言う。

「揚げ立てのコロッケをサンドしたんだな。美味しいよ。辛子がツンとして美味い」

「随分とさっぱりとした顔してるわね」と菊子がまじまじと私の顔を見て言う。

「歳門和尚に除霊してもらったんだ」

「道理で。悪しき霊を祓って戴いて良かったわね」と菊子が明るく眼を輝かせて言う。「あたしは一昨年除霊して戴いたのよね。除霊してもらうと音感に変化が表われるのよ。除霊すると除霊前の音源を必ず録り直すのよね」

「ああ、それがあるんだった。インストゥルメンタルのアルバムを一枚作るつもりだったが、ヴォーカルを入れる事にするか」

「除霊の後って、発想が明るくなるのよね」

「俺のヴォーカルなしのアルバムなんて売れる訳ない。何でインストゥルメンタル・アルバムで行けるなんて思ったんだろう」

「除霊して気付いたなら良いじゃない」と菊子があっさりとした口調で言って、グラスに入ったアイス・ココアをストローで飲む。

 食事を終え、菊子のニュー・アルバムを聴きに菊子のストゥーディオに行く。菊子のストゥーディオは入口に紺の暖簾がかけてあり、中には籐の椅子が二つ置かれ、金閣寺のポスターが入った額が飾られ、音楽機材が置かれている。私は手前の籐の椅子に腰を下ろす。菊子は新作のCDを大音量で流し、もう一つの籐の椅子に腰を下ろす。出出しは大正琴の重奏に始まり、高音質なアクースティック・ピアノの主旋律が美しく流れ、キーボードで空間演出している。『美の女神』と言うタイトル曲から始まり、ギリシャ神話の神々をタイトルにした曲が七曲流れる。

「なかなか良いよ。名盤だな。歌を入れないのか?」

「ゲスト・ヴォーカルを入れるとインストゥルメンタルの影が薄くなるの」と菊子が寂しそうに言う。

「うん。確かにお前はピアニストとして知られるミュージシャンだから、歌モノに主役を奪われるのは嫌なんだろう。コラボレイションなら、歌手とのアルバムを作る?」

「それも主役を持っていかれるわ。でっ、あなたはあたしのピアノのアルバムに不満があるの?」と菊子が俺の思いを確認する。

「菊子のアルバムと思えば、良く出来てるし、不満はないよ」

「あたしのアルバムでなければ、ヴォーカルを入れたいの?」と菊子が追究する。

「まあね」

「なら、あたしは自分のアルバムにゲスト・ヴォーカルを入れるわ」と菊子が俺の意見に歩み寄る。

「難しい判断だよ。お前はインストゥルメンタルでも相当な売り上げがある」

「音楽の完成域をお金の額で判断しようとは思わないわ」と菊子が厳しい目付きで言う。「あたしは最高の音楽を作りたいだけなの」

「良かったって言ったろ?」

「ああ、うん。そうね。でも、・・・・そうね。良いのよね」と菊子の心が揺ぎ、何とかバランスを取り戻す。

 私は菊子のストゥーディオを出て、自分の書斎に入る。書斎の椅子に腰を下ろし、PCを起動させ、『キングソフト・ライター』を開くと、ファイルを開かず、ぼんやりと川端の『雪国』を思い浮かべる。何も良い作品を思い付かない。川端の『雪国』が素晴らしいと言う事以外に何のインスピレイションも沸かない。『雪国』の静寂が良いのだ。文章自体は一文も憶えていない。タルコフスキーの『ストーカー』の魅力も静寂にある。モノローグで語り続ければ、一人称的なお喋りと変わりない。静寂の表現とは会話文を入れない事でもない。美しい自然描写や風景描写が作者のお喋りを感じさせないのか。

 アリゾナの赤い荒野の真っ只中で車のガスが切れる。何て運が悪いんだ!辺りは遠くの方まで人影一つ動かない。私は車の外に出て、車の陰に腰を下ろすと、白い襟付きシャツの胸ポケットから煙草を一本摘み出し、口に銜える。煙草に火を点け、喫煙しながら、さあ、どうした事かと思案する。昼間なのに車一台通らない。車内の冷房は効かず、煙草は残り十三本しかない。車が来たら、ヒッチハイクするより他に手立てはない。おお!早速バイクが遠くに見えてきた!俺は立ち上がり、ハイウェイの真ん中に仁王立ちする。バイクは間もなく俺の前で停車する。運転手はヘルメットを被った女だ。女はヘルメットを脱ぎ、「何かあったの?」と訊く。

「車がガス欠なんだ。悪いがガス・ステーションまでバイクの後ろに乗せてくれないか?」

「ガス・ステイションなら今来た道の近くにあったわ。じゃあ、引き返すから後ろに乗って!」と女が言う。俺は女の後ろに乗り、バイクは道を引き返す。本当に五分もしないところにガス・ステーションがあった。俺はバイクを降りて、店員にハイウェイに置いてきた車の給油を頼む。店員は給油機を積んだピックアップ・トラックの助手席に俺を乗せ、置いてきた車の方に向かう。バイクは猛スピードで追い抜いていく。女には礼も碌に言えなかった。ピックアップ・トラックが俺の自動車のところに来ると、先のバイクの女がバイクから降りて、佇んでいる。

「君に礼を言えないのかと思ったよ」

「あたしも最後まで見届けないと心配なのよ」と女が心配そうな眼で言う。

「今日は本当にどうもありがとう」

「どう致しまして」と女は言って、にこりと笑顔を見せる。「あたし、ミランダ。あなたは?」

「俺は正行」

「あなた、日本人?」とミランダが訊く。

「そうだよ」

「あたしがもし日本に行ったら、観光案内してくれない?」とミランダが明るい目で訊く。

「ああ、良いよ」

「必ず日本に行くから、日本の住所と電話番号を教えて」とミランダがスマートフォンを出して言う。

「良いよ」と俺は言い、自分のフル・ネイムと日本の郵便番号と住所と電話番号を教える。「君のも教えてよ」と俺が言うと、ミランダは躊躇いなく名前と住所と電話番号を教える。

「じゃあ、また何時か会いましょ」とミランダは言って、手を差し出す。俺はミランダと握手をして、出発するミランダのバイクを見送る。

 と、ここまで書いて、書斎を出る。冷蔵庫の中から五〇〇CCのペットボトルのコーラを出して飲む。私は毎日一本コーラを飲む。コーラの買い置きは菊子に任せている。

「あなた、焼き牡蠣食べに行きましょうよ」と菊子が台所に来て言う。

「ああ、良いね」

 家を出て、菊子が運転席に座り、私は助手席に座る。

「あなた、自分の車いらないの?」と菊子が訊く。

「ああ、いらないよ。菊子がいるし」

「あたし、車運転するから、酒場に飲みに行っても、ジュースしか飲めないのよ。あなたが車を買えば、お酒飲んでも迎えにきてもらえるんだけどね」と菊子が言い辛そうに言う。

「もう何年も車を乗ってないからな」

「運転免許証の更新はしてるの?」と菊子が怪しむような目で訊く。

「してるよ」

「自分の車を買ってくれない?」と菊子が苛立ったような目で言う。

「買っても良いよ。どんな車が良いかな」

「日本車が良いと思うわよ」と菊子が日本車の購入を薦める。

「日本人が日本車に乗っても、詰まらないよ。黒いフェラーリなんかが良いな」

「ああ、良い感じね」と菊子がにんまりと笑って言う。「焼き牡蠣屋さんは御飯の持ち込みが許されているのよ」

「御飯持ってきたの?」

「持ってきたわ」と菊子が前を向いたまま後部座席を指差して言う。俺は後部座席を振り返り、「やっぱり、日本食のおかずには米だよな」と言う。

「そうね」と菊子がゆっくりと車を走らせて言う。

 焼き牡蠣屋に着くと、菊子が後部座席からお米の入った入れ物と茶碗を持って、店に入る。

「あら、菊子さん、今日は旦那さんといらしたの?」と焼き牡蠣屋の女将さんが話しかける。

「誘ってみたら来たのよ」と菊子が陽気な口調で女将に言う。

 焼き牡蠣屋のテーブルは四つある。その中の左奥のテーブル席の壁際に菊子が腰を下ろす。女将が囲炉裏の中に墨を入れて、墨に火を点け、その上に網を置く。女将は厨房から生牡蠣を五つ程盛った皿を持ってくる。

「ここは持ち込み自由だから、鶏の唐揚げや茄子の煮浸しも持ってきたの」と菊子が楽しそうに言う。

「それで牡蠣は幾ら?」

「千円よ」と菊子が慣れた手付きで生牡蠣を網の上に載せて言う。菊子は俺と自分の茶碗に御飯を盛り、鶏の唐揚げと茄子の煮浸しを出し、「はい、どうぞ、召し上がれ」と流暢な日本語で言う。

「戴きまあす!見た目には外人さんだが、中身はもう日本人そのものだな」

「戴きまあす。そりゃあ一生懸命日本語や日本文化を勉強したもの」と菊子がお店の割り箸を割りながら言う。「家は近所の兼業農家から西郷米を買ってるの」

「へええ、地元のお米なのか」

「御近所の方が西郷米が美味しいって言ってらしたの」と菊子がおろしの載った茄子の煮浸しを食べながら言う。

「黒土亜家のお米の芯の残る炊き方がお前の口に合うかどうか最初は判らなかったが、何とか順応したようだな」

「他所の家の少し柔らか目の御飯も食べた事あるけど、それはそれでモチモチしてて美味しかった」と菊子が鶏の唐揚げを食べながら言う。

 俺はよく焼けた牡蠣を特性ダレに付けて食べる。

「やっぱ、こうやって食べる焼き牡蠣は特に美味いな」

「情緒があって良いわよね」と菊子が焼き牡蠣をタレに付けながら言う。

 スマートフォンに電話が鳴る。

「はい、もしもし、黒土亜ですが?」

『ああ、神門館出版の湯川です。黒土亜さんがノーベル文学賞を受賞しました!』

「ああ、そうですか。今日、発表があるのを忘れていました」

『今夜、沢山の取材陣が御自宅に向かうと思いますので、身なりを整えて待機していてください』

「判りました。態々ありがとうございます」

 スマートフォンの電話を切る。

「俺、ノーベル文学賞を受賞したよ!」と俺がまだ信じられないような気持ちで菊子に報告する。

「良かったわね!」と菊子が胸の前で手を組んで、万遍の笑顔で祝福する。「今日はお祝いにあたしがあなたの好きなスペアリブやミートパイや南瓜のコールド・ポタージュを作るわ」

「ああ、良いね!」

 三度目の正直で漸くノーベル文学賞を受賞した。


 ノーベル賞の授賞式に出るために菊子と共に旅客船に乗る。飛行機で行けば、あっと言う間に現地に着く。我々夫婦は仕事に追われ、暫く旅行から遠ざかっていた。良い機会だからと、旅客船で船旅を楽しむ事にしたのだ。

 旅客船のデックから海を眺め、私は解放的な気分を楽しむ。心がとてもウキウキと爽快な気分だ。空は晴れ渡り、陽に煌くスウィミング・プールの白いプールサイドに水着姿の美女達が点々と白い肌を陽に当て、サングラッシーズをかけてデックチェアーに仰向けに横たわっている。私は白のスーツを着て、欄干に凭れて立ち、手帳に歌詞を書いている。

 赤いボールが私の足下に転がってくる。私はボールを拾い、ボールを追ってきた小さな女の子に手渡す。

「おじさん、ありがとう」と言って、女の子は両親の方へと走り去っていく。

 おじさんか。私ももうそろそろ年齢を弁えないとな。人間何時までも若くはない。私はプールサイドを横切り、菊子のいる客室へと向かう。

 客室に入ると、スウェット・スーツを着て寛いだ菊子がベッドに俯せに横たわり、傍らにキーボードを置いて、マスカットを食べながら、譜面に音符を描き、作曲をしている。

「そろそろ昼食だな」

「旨煮を食べたいんだけど、この旅客船のバイキングには煮物なんてものはないものね」と菊子が不満を口にする。

「こんな豪華客船で旨煮を食いたいとは随分と日本人に近付いたな」

「気分はとっくに日本人よ」と菊子が不服そうな顔で体を起こして言う。菊子はベッドから降り、「またドレス・アップしないといけないわね。あたしはお化粧が嫌いだから、食事の度にまたお化粧かってうんざりなのよ」と愚痴を言う。

 俺は菊子が着替えている間にアンプに繋いだエレクトリック・ギターを掻き鳴らす。

「今回の船旅ではB4ケント紙百枚分の絵を描こうと思ってるんだ」

「あたしもスケッチブックと水彩絵の具を持ってきたわ」と白い下着姿の菊子が白い膝上ぐらいのストッキングにガーター・ベルトを嵌めきながら言う。我が妻ながら、プロポーションは抜群に良い。私は元々西洋人女性の顔を美的に鑑賞するのが好きで、長年連れ添った菊子の顔もよく眺める。菊子は白いロングのワンピース・ドレスを着ると、「お待たせ!」と明るい笑顔で言って、くるりと一回りし、「どう?」と感想を求める。

「綺麗だよ」

「そう!それなら良かった!」と菊子が満足そうな顔で言う。

 我々は早速食堂に行く。食堂のステイジではボサノヴァのバンドが演奏している。褐色の肌のブラジル人女性ヴォーカルがとても美しく、色っぽい。声はハスキーなハイ・トーン・ヴォイスだ。俺は三枚ある彼らのアルバムのCDを食堂の端に机を置いて販売する販売員から買う。

「結構、有名なバンドね」と菊子がCDを眺めながら言う。

「この旅客船の演奏者のCDは全部買うつもりだよ」

「あなたの趣味ね」と菊子が面倒臭そうな顔をして言う。「素人やセミプロのCDなんて買い集めて、買った後に何度も聴くの?」

「結構、何回もレギュラーとして聴くよ。スマートフォンに全部取り込んでるんだ」

「素人やセミプロの音楽ばかり聴いてると、音楽的な感性が下がるわよ?」と菊子が私に注意する。

「聴いてると演奏風景を思い出したりして楽しいんだよ」

「詩的情緒で聴いてるのね。それなら良いわ」と菊子が納得する。

 我々はバイキングの料理をトレイの上に置いた皿に盛っていく。俺は鶏の手羽先の唐揚げを八個盛り、赤い辛そうなソースをかける。それに焼肉のタレのサラダを盛り、小ぶりのクロワッサンを三つ盛り、コーラをグラスに入れる。

「わあ!カロリー高そう!」と菊子が俺のトレイの皿に盛った食べ物を見て言う。「あたしはアボガドとコーンのバター炒めとコーン・ポタージュと黒糖パン一つと『カルピス』かな」

「大してカロリー変わらないよ。いたな、アメリカにも。ダイエット・コーク飲んでるのに、夕方、ヨーグルトのアイス・クリームを食べてるような女子大生が」

「全然タイプが違いますう!」と菊子が日本の女子大生のような口調で言う。「でも、日本の女の子はスタイルの良い子が多いわよね。日本ではゴージャスな体型が流行らないのよね」

「うん。スキニーな子が多い。昔の日本美人はぽっちゃりしてたらしいけどな」

「眺めの良い二階席で食べましょ」と菊子が楽しげに言う。

 我々は二階席へと螺旋階段を上り、階下のフロアーや船外の海が見えるテーブル席に座る。

「昼食済ませたら、絵を描くよ」

「あたしも描く!」と菊子が競争心を顕わにして言う。

「菊子の絵は居間に飾った桜の絵一枚だけ?」

「国にいた頃の絵が沢山あるんだけど、全部人にプレゼントしたのよ」と菊子がアボガドを食べながら言う。

「ああ、前にそう言ってたな。あの居間の桜の絵は傑作だよ。何か一つ人より秀でた才がある人は何をやらせてもそこそこの成果を出すものだけれど、菊子の絵はプロ並みだよ」

「あなたの絵って、考え過ぎよね」と菊子がコーンのバター炒めを食べながら言う。

「考え過ぎって、どう言う意味だよ?ああ、この手羽先のソースは美味い!」

「何かその、達人業を披露しようとしているような、何て言うかな。一寸、あたしにも手羽先一つ頂戴」

「それって、達人業に見えるって事だろ?それなら良いんだよ。ああ、手羽先?食べてみなよ」

 菊子が手掴みで手羽先を掴んで食べる。

「本当だ!おいひい!」と菊子が万遍の笑顔を顔に浮かべて言う。

「日本人そっくりな口調で日本語を話したいの?」

「そうよ」と菊子がブラインドーのような薄い瞼の間から魅惑的な黒い目で言う。菊子は唇の肉の薄さを意識し、抜群のラインの大きな口を見せ付ける。

「片言の日本語を話す外国人女性にも魅力的な役回りがあるんだけどな」

「何時までも外人さんでいるのは嫌よ」と菊子が手羽先の肉を歯で削り取るように食べながら言う。菊子の歯は驚く程歯並びが良く、白い。

「最近、プロモーション・ヴィデオが音楽の世界に浸透してきたから、映像による詩を追求してるんだ」

「面白そうな作業ね」と菊子が黒糖パンを手で千切りながら言う。

「実際、俺には相当に関心のあるアートワークなんだ」

「あなたの音楽的な傾向は元々ダーク・サイドにあるわよね」と菊子が俺の原点の音楽に立ち返らせる。

「太陽より月、光より闇に神秘的なものを見出すのが嘗ての俺の音楽的な特徴だった。今もまだそう言う傾向にあるよ」

「根源的な好みはなかなか変わらないわよね。あたしにもダーク・サイドを好んで表現する傾向が少しあるのよ」と菊子が言って、コーン・ポタージュを飲む。「光とか、愛とか、喜びとか、静寂とか、至福とか、英知とか、悟りとか、神様とか、仏様とかを表現するだけでは何か不十分な病んだ心の性質があって、死だとか、悪魔だとか、心の闇だとか、狂気だとか、恐怖だとか、不安だとか、苦しみだとか、自分の中にある全てを表現しない事には満足出来ない心の傾向があるのよね」と菊子が自分の心を表に曝して、自分のアートを論じる。

「文学芸術の神様自身がそれを求めてるんじゃないのかな?」

「ううむ。どうかな」と菊子は口籠もり、アボカドを食べる。

 俺は焼肉のタレのサラダを平らげ、小ぶりのクロワッサンの最後の一つを平らげる。

「新興宗教が作るような真理尽くしの歌詞に、口ずさみくなるような節を付けて、透明感のあるサウンドにアレンジするような音楽を良いとする事には疑問が残るんだ。世俗で活躍する音楽家の方が感性も技術もずっと上だし、歌詞だって文学性は高いと思うんだよ。特にお洒落な音楽に関しては新興宗教で音楽を作る音楽家には手の届かない感性だと思うんだ」

「あなたが言っている事も判らなくはないのよ。でも、新興宗教の音楽に一流の音楽家が関われば、音楽的な差別化もなくなるんじゃないかしら」と菊子は言い、『カルピス』を飲む。

「確かに自分の音楽を世俗の音楽と弁えて、宗教音楽と区別するのは耐え難い事だよ」

「そうでしょ?」と菊子が口許をナプキンで拭きながら言う。「でも、新興宗教で音楽活動をする事には抵抗を感じてるんだろ?」

「まあね。自分の音楽が特定の宗教の色に染まる事はずっと避けてきた」

「だって、あたし達は自由だものね」と菊子が晴れやかな顔で言う。

「本当の事言うと、俺は然るべく宗教指導者の下に弟子入りして信仰に生きたいんだ」

「それはあたしも同じよ」と菊子が同意する。「でも、何処でも良い訳じゃないわ。カルト宗教に入信する過ちも犯したくない」

「盛り上がるのはカルト宗教なんだろうが、そう言うところでは広告塔の役も任されない」

「それはそうよ。教祖の存在や活躍こそが全てなんだから。だからこそあたしは新興宗教には信仰の道を求めたくないの」と菊子がはっきりとした意思表示をする。「あなたも何か教えを受けたいんでしょ?」

「うん。教祖の教えに従って生活してみたいんだ」

「あたしも色んな新興宗教から勧誘を受けたわ」と菊子がうんざりしたような顔をして言う。

「俺もだよ。この年まで何処の新興宗教にも入信してないのが不思議なくらいだよ」

「さあ、水着に着替えて、スウィミング・プールで日向ぼっこでもしましょうかね。絵を描くのは後で良いわ」と菊子が身なりを正しながら言う。

「俺は絵を描くよ」

「水彩画かしら?」と菊子が関心を示す。

「そうだよ。オートメイションで一気に大量の水彩画を描きたいんだ。鉛筆の下書きのない絵でね」

「あなたの試みって、機械的よね」と菊子が椅子から立ち上がって言う。

「やりたい事がそう言う試みばかりなんだよ」と俺も椅子から立ち上がって返事をする。

「もっとじっくりと一作一作描いたら?」と菊子が意見する。「いきなり大家のような作品群が欲しいんでしょ?」

「ううむ。判るか?」

「判るわよ。あなたの発想は大体判ってるわ。音楽も一気に大量のイントゥルメンタルを作ったでしょ?」と菊子が指摘する。

「そう言う風に作品作って、思い入れはあるの?」

「いやあ、ない。思い入れは全くないよ」

「そうでしょ?そう言う発想は何も評価されないわよ」と菊子が鋭く俺の盲点を搗く。

「なら、一作一作精魂を籠めて描くよ」

「そうした方が良いわ」と菊子が階段を下りていきながら言う。

 部屋に入ると、菊子が脱衣所で水着に着替える。

 俺は画板にB4ケント紙を置き、水彩絵の具とパレットと水を入れたバケツを用意して、早速、鉛筆の下書きのない水彩画を描き始める。

 菊子が白いハイレグのワンピースの水着に着替えて、バス・タオルを腰に巻いて脱衣所から出てくる。

「鉛筆の下書きはしないのね」と菊子が俺の絵を見下ろして言う。

「うん。鉛筆の下書きのない絵を描きたかったんだ」

「それなら、どっち道オートメイションのような制作になるわね」と菊子が無表情な顔で言う。

「そうだろ?」

「やろうとしてる事は判るわ。具象画でも抽象画でも歪みのある芸術的な絵を描きたいんでしょ?」と菊子が俺の絵を観て言う。

「まあ、そうだよ」

「良い絵が出来たら見せてね」と菊子は笑顔で言って、部屋を出ていく。


 一日中絵を描いていても飽きない勢いで三枚絵を描く。自分でデザインした花の絵と、生き物の塊のような森の絵と、火の神の絵を描いた。

 小休憩を取りに食堂にコーヒーとケイクと御菓子を食べに行く。

「あのう、済みません」と二十代ぐらいの赤い袖無しのロング・ドレスを着た髪の長い日本人女性が俺のテーブルの前に立って声をかけてくる。

「はい?」

「作家でミュージシャンの黒土亜天真さんですよね?」とその女性が訊く。

「はい。そうです」

「やっぱり、そうだ!あたし、黒土亜さんのファンなんです!」とその女性がはしゃぐ。「握手してください!それと部屋からCDと本持ってくるのでサインしてください!」

「ああ、はい」と私は言って、握手をすると、その女性が、「一寸ここで待っていてください!」と言って、食堂を駆け出ていく。

 私はショコラを食べながら、甘いコーヒーを飲む。

 女性は二分で食堂に戻ってきて、「このCD全部とこの本にサインしてください!」と大はしゃぎして言う。

「判りました」と私は言って、私のCD八枚と本一冊にサインをする。

「ありがとうございました!大切にします!」と女性は言って、自分のテーブルに戻っていく。

 結構、綺麗な人だな。

 俺はスポンジにウィスキーの効いたチョコレイト・ケイクを食べ、甘いコーヒーを飲む。御菓子は醤油煎餅や手作りのポテト・チップスや生キャラメルなどもある。

 休憩時間中に考える事も絵画の事ばかりだ。画家になって、絵を売って食っていく生活も良い。一から画家を始めるには二科展に入選したり、何か賞を得ないと高額な値段は付けられない。一枚数千円で売るような絵を何日もかけて描いていてはとても食ってはいけない。音楽や小説で食っていける生活は恵まれているな。デビューすら出来ないアーティストが大勢いる。今回は愈々ノーベル賞の受賞だ。これで世界文学に殿堂入りする訳だ。

 チョコレイト・ケイクで口の中が甘くなると、今度は醤油煎餅を食べ、ポテト・チップスを食べ、また甘い生キャラメルを食べて口の中を甘くする。

 休憩を終え、食堂を出ると、スウィミング・プールに向かう。菊子の白いハイレグのワンピースの水着姿が直ぐに眼に入る。自分の妻ながら、菊子の水着姿は目立つ。

「菊子は目立つぞ」とプールサイドの椅子に寝そべる菊子の耳元で囁く。

「あたしの事知っている人なんていないわよ」と菊子がサングラスを指先で下げて、黒い目を覗かせて言う。「あなたとは違うの」

「俺はこれからどんどん不自由になる訳か」

「それが嫌なら、普通の人のように生活しなさい」と菊子が嘲るように言う。

「普通の人のように生活するって言うのは得意な方だったんだけどな」

「またそうなれば良いだけよ」と菊子が簡単に言う。

「著名人がサインや握手を求められる事に面倒臭がっちゃいけないよな」

「あたしなんてサイン一つ求められないわよ」と菊子が呆気らかんと言う。

「世界的なピアニストだが、一般的な音楽じゃないからな」

「あなたは元々ロック・ミュージシャンなんだから、もっとワイルドに町中で生きられるのよ」と菊子がサングラスをした顔を真っ直ぐに前に向けて言う。

 俺は人の顔から目を逸らして話す習慣がない。菊子はよく相手の顔から視線を逸らして話す。

「絵は描いたの?」と菊子が俺の画業の進展具合を訊く。

「三枚描いたよ。先、食堂に行って、コーヒー・ブレイクを取ったんだ。甘い物辛い物と色々食べたよ。何と!醤油煎餅があったんだ!」

「へええ」と菊子が大して興味も示さずに言う。

「ウィスキーのよく効いたチョコレイト・ケイクも食べたよ」

「カロリーの摂り過ぎよ」と菊子がこちらを向いて注意する。

「俺は運動もかなりやるからカロリーはちゃんと消費出来てるんだ」

「そう言えば、あなたは武道家だったわね」と菊子が口許に笑みを浮かべて言う。「あたしにはあなたがノーベル賞作家さんってイメージが既にあるのよ」

「俺も多少意識してる。正直なところ、文学でここまで評価されるとは思わなかった」

「あなたの小説って、純文学かしら?」と菊子が眉を顰めて訊く。

「俺はそう思ってる」

「あなたの文学って、面白い純文学なのよね」と菊子が口許に笑みを浮かべて言う。

「そう?嬉しいな」

「これから何をするの?」と菊子が私の予定を訊く。

「部屋に戻るよ。ギターを弾きたいんだ」

「あたしもそろそろ部屋に戻ろうかしら」と菊子が寝椅子から身を起こして言う。「日向ぼっこしてたら、音楽が頭の中に浮かんで、それを色々とアレンジしてたのよ。それがかなりダークなの」

「へええ、それは興味あるな」

「神様の影のような面で、悪魔ではないの」と菊子が寝椅子から立ち上がりながら言う。「お月様の影よ」

「ピンク・フロイドのアルバム・タイトルに月の影って言うのがあるよ」

「へええ、そう」と菊子が部屋へと歩きながら、意外そうに言う。

「俺のスマートフォンにそのCDが入ってるよ」

「なら、聴かせてよ」と菊子が階段を下りながら言う。

「良いよ。部屋に帰ったら聞かせるよ」

 我々は部屋に帰る。俺は早速スマートフォンでピンク・フロイドの『ザ・ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン』を菊子に聴かせる。

「ブルートゥースを貸して」と菊子がベッドに横たわりながら言う。

「良いよ。はい!」と俺は菊子にブルートゥースを手渡す。

「ありがとう」と菊子は言い、「あたしのスマートフォンを代わりに貸しておくわね」

「菊子のスマートフォンは興味深いな」

「夫婦に遠慮はいらないのよ?興味があるなら言ってくれれば良いのに。あら、一九七三年は早いわね」と菊子がピンク・フロイドに感心する。「表題曲はないのね」

「ああ、そうだったかな」

 菊子のスマートフォンの中のアーティストは俺の知らないアーティストばかりだ。

「あなたのスマートフォンって、意外と日本のアーティストが多いのね」と菊子がスマートフォンの中のアーティストのリストをチェックして言う。

「ああ、俺は結局、日本語の歌が好きなんだよ。菊子は英語圏やフランス語圏の音楽も多いな。へええ!アンジュが入ってる!」

「ああ、それはあなたの影響よ」と菊子が打ち明ける。

 俺はヤスミン・ハムダンのアルバムを選んでブルートゥースで聴く。菊子のスマートフォンにもロックの名盤は大概入っている。

 俺はヤスミン・ハムダンのアルバムがとても気に入り、彼女の曲をスマートフォンから直出しして、ギターにシールドを差し込み、アンプに繋げると、アルバムの音に合わせてギターを弾く。俺の頭はノイズに弱いから出鱈目にギターを掻き鳴らす事は先ずしない。よく音をイメージして、一音一音正確に音を選んで弾くのだ。私はアーティストとしての菊子の影響でギターで神を表現する音楽を追求し始めた。ヤスミン・ハムダンの音楽を聴きながら弾くギターも神をイメージして表現する。リグ・ヴェーダや古事記などは神を表現するための貴重な資料になる。


 夕食の時間になり、また夫婦揃って食堂に向かう。食堂に入ると、ヴォーカル・ジャズのバンドが演奏している。俺は早速彼らのCDを五枚共全部買う。

 俺はおかゆと、サツマイモのフライにピリ辛のソースをかけた料理と、南瓜のコールド・スープと、蜂蜜入りレモネイドを選び、トレイに載せる。菊子は甘塩とレモン汁のかかったアボガドと、ニンニクの効いたフランスパンのトースト三つと、ビーフ・シチューと、コールド・ミルク・ティーを選び、トレイに載せる。我々はフロアーの中心のテーブルに腰かけ、食事を楽しむ。バンドの演奏はかなりの演奏力で、囁くような高い声で歌う女性ヴォーカルが耳に心地好い。

「明日は遂にスウェーデンに到着ね」と菊子がアボガドを食べながら言う。

「帰りは飛行機にしよう」

「そうね。飛行機は味気ない旅だけど、目的の遂行には一番早くて適してるわ」と菊子がニンニクの効いたフランスパンのトーストを食べながら言う。

「今夜もバーに行って、カクテルを楽しもうか?」

「カラオケルームに行かない?」と菊子が明るい声で言う。

「ああ、良いね」


 翌日の昼間にスウェーデンの港に着くと、我々に群がる新聞記者やTVのリポーターの質問に答え、リムジンの迎えの車に乗って、ノーベル賞の授賞式会場近くのホテルに向かう。

 我々はホテルの食堂で昼食を取る。私は茹でたジャガイモを練ったマッシュ・ポテトを主食に、野菜スープと、鶏肉料理を食べ、菊子はフルーツのサンドウィッチと、ココナッツ・スープと、魚料理を食べる。


 翌日は愈々授賞式で、船の中で考えたスピーチを語り、盛大な拍手を送られる。その後は世界中の記者による合同記者会見に参席し、それが終わるとストックホルム・アーランダ国際空港にリムジンで直行する。

 飛行機の中では食っちゃあ寝食っちゃあ寝を繰り返し、無事成田空港に降り立つ。空港には日本の記者が待ち構えていて、妻と並んで写真撮影をしたり、質問に答える。その後はバスで新宿に向かい、新宿からJR山手線で原宿駅に向かい、原宿で洋服や靴などの買い物をし、カフェで昼食を取る。私はタコスとピラフとジンジャー・エールを注文し、菊子はチーズと分厚いステーキ・ハムの入ったホット・サンドとコンソメ・スープとオレンジ・ジュースを注文する。

 買い物と昼食を済ませると羽田空港に向かい、飛行機に乗る。

 長崎空港に降り立つと、電車とタクシーを乗り継いで、夕暮れ時の我が家に帰宅する。

 菊子は帰宅早々夕食の用意に取りかかる。俺は喫煙所で煙草を吸い、居間のTVを点ける。TVでは私のノーベル賞受賞式のニュース報道を観る。

「菊子!簡単な夕食で良いんだぞ!」

「今夜はサーロイン・ステイクとポトフよ!」と菊子が台所から大声で答える。

 俺も愈々ノーベル賞作家と見做される作家人生に入る訳か。菊子は早くから世界的な音楽賞を受賞してきた。夫婦揃って世界的なアーティストになり、私もこれから世界的な活動をするようになる。

「じゃあ、先に風呂に入るよ」

「どうぞ、ごゆっくり!」と菊子が料理をしながら、明るい声で言う。

 久々の我が家の風呂は気持ちが落ち着く。よく体の油分や垢を落として、じっくりと熱い湯に浸かる。菊子は一日一日の癒しをたっぷりと入浴で補う。彼女は菖蒲湯だとか柚子湯など、日本の風呂の習慣も存分に楽しんでいる。彼女は高校生程度の日本語の読み書きが出来る。彼女は毎日、日本の新聞を読んで一日の始まりを迎える。本当に勉強熱心な外国人妻だ。

 我々の離婚の危機は今後もないだろう。下手な日本人妻をもらうよりは余程日本的な女性を妻にもらった。菊子は家庭菜園や料理教室の仲間とは島原弁で話す。菊子は心から日本人になろうとしている。菊子は偶然、コンサートのツアーで来た日本で日本人の私と出会い、結婚して、日本に骨を埋める覚悟をした。菊子の前世は日本人だったのか。彼女の日本文化への関心はそこらの日本人の日本文化への親しみなどより遥かに深い。我々夫婦に不満があるとすれば、子供が出来なかった事ぐらいだ。嘗ては我々も養子をもらおうかと話し合った事がある。結局、純粋な夫婦愛を追求する我々夫婦の家庭に養子が加わる事は両者共に望み得ず、遂に我々が養子をもらう事はなかった。若い頃から夫となり、父親となる事に憧れてきた私が子供のいない結婚生活の寂しさを経験するとは思ってもみなかった。

面白い純文学を試みました。

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