文学の道
黒土亜天真と言う主人公の群像劇。
第二話 文学の道
甲高い声で神への讃歌を即興の歌詞とメロディーで歌いながら、シャッターの下りた夜の人気のない商店街を歩く。酒屋の前の販売機でお酒を買って飲もうと、販売機の前で財布の中身を覗き込む。一人の年老いたホームレスが空き缶を山程入れたビニール袋を担いで近づいてくる。
「おじさんも飲む?」とそれとなくホームレスの老人を酒に誘う。
「ああ、有り難い。御馳走になります」と垢や汚れで真っ黒な顔をした老人が息の詰まったような声を絞り出して言う。酒が取り出し口の中に転がり出る。俺は『ワン・カップ大関』を「はいよ!」と老人に手渡す。
「ありがとう」と老人は噛み締めるように感謝の気持ちを言葉に表わし、両手で酒を受け取る。老人は販売機の隣に腰を下ろし、「それじゃあ、遠慮なく戴きます」と言って、『大関』を口にする。「ああ、美味い!」と老人が皺だらけの顔をくしゃくしゃにして言う。俺も自分の分を一本買う。取り出し口に転がり出た『大関』を手に取る。俺は『大関』の蓋を開け、少し口に含むと、じっくりと味わう。老人は黙って酒を味わい、何も語らない。酒を飲む老人の顔をそれとなく見下ろし、この人ともきっと縁あって巡り合ったのだろうと思う。無性に老人に持ち金を分け与えたくなる。俺は財布を再び出し、「おじさん、これ」と五千円札を折って差し出す。
「いやいや、いいですよ!そういうのは受け取れません!」
「俺の人生はこれからです。ここらで人助けをしておかないと、先行き安心して生きていく事は出来ません」と五千円札を差し出したまま言う。
「ありがとう。本当にありがとう」と老人が両手で五千円札を受け取って言う。
俺は販売機の向かいの八百屋のシャッターの前に腰を下ろす。酒の空瓶を傍らに置き、静かに目を閉じる。俺はただ老人好きする若者を皮一枚で演じているだけで、含むところ隠すところは何もない。将来は小説で深みのある人間ドラマを描きたい。自分に深みがなければ、主人公も脇役の心も奥行きが浅くなる。まだ過去のある大人を描けるような人生経験はしていない。苦労らしい苦労も経験していない。
「それじゃ、兄ちゃん、ありがとね」と老人が俺に声をかけて立ち去る。
「ああ、さようなら」と俺は言って、老人を笑顔で見送る。
マンションに帰ると、昨日書いた歌詞に即興的なメロディーを付け、MTRにギターの弾き語りの歌を吹き込む。それが済むと、先程のホームレスのおじさんをモデルに短編小説を書いてみる。
翌朝は日曜日で、思いがけぬ収獲物目当てに近所の朝市に出かける。先ずは朝食の食材を調達しない事には満足な朝食にも有り付けない。それが済んだら、古本や古雑誌を買い漁って、創作に役立つ情報を掻き集める。使用済みのカセット・テイプやヴィデオ・テイプが売られていたなら必ず買うだろうけれど、そう言う物は粗大ゴミにしかない。朝市では何に使うのか判らない衣類や生地の切れ端などをよく見かける。昔持っていた使い古されたウルトラマンの怪獣の人形や懐かしい超合金なども安価な値段で売られている。必要とする者がいるから売り出されているのだとしたら、大した関心もない物を悪戯に買うような邪魔はしたくない。骨董品や古着を売る店もある。この日の朝市では朝食用の高菜のおむすびとミニ・クロワッサン一袋とぜんざいを買い、『太陽』のバックナンバー四冊と七福神のミニチュアを七体買う。
マンションに帰り、早速朝食にする。インスタントのポタージュの粉をマグカップに入れ、湯を注ぐ。高菜のおむすびが美味しい。高菜がピリッと決まりよく辛い。アメリカンにこの高菜のおむすびを食わしてやりたかった。最早、アメリカは俺の第三の故郷だ。因みに第二の故郷は祖父母の住む長崎だ。
アメリカに語学留学した目的はボブ・ディランの英語の歌がハートに直接歌詞が響くような英語力が欲しかったからだ。アメリカに行っている間は音楽のヒアリングに力を入れた。今ではボブ・ディランの歌もデイヴィッド・シルヴィアンの歌もハートに直接歌詞が響いてくる。留学中に英語の短編小説も二作書いた。二作共、詩的なゴシック・ホラーを書いた。語学学校の先生に英語の小説を読んでもらったら、僕はネイティヴ・アメリカンだけど、僕には英語でこんな素晴らしい小説はとても書けないと誉められた。
一年間の留学中の英語の勉強は相当にした。学校のテキスト以上のスキルを身に付けたと思う。また海外留学をするなら、今度は英国の大学に行きたい。学歴に箔を付けるには海外留学が手っ取り早い。語学留学一年でも、割と個性的な経験をしたかなと思っている。中にはフランスやイタリアやドイツに留学する学生もいる。韓国やベトナムやフィリピンなどのエイジアに日本人学生が留学する時代も来るだろう。それには先見の明がいる。ビジネスで海外に赴任する日本人は大勢いる。アフリカの大学の芸術学部に留学するのも良いだろう。実際に動いてみた人間にしか判らない世界情勢がある。その点では俺の語学留学には大きな意味があった。アメリカでネイティヴ・アメリカンの友人が作れない留学生は各国に大勢いた。意外と留学生は民族単位で屯して暮らす。チャイナ・タウンの様子などを見ると、それもまた良いのかなと思う。台湾人も香港人もチャイナ・タウンに集まり、彼らは中国人同士、外国においても中国の文化に親しんで生活する。ああ言う人種には外国における領土意識があるのだろうか。そう考えると、日本人も各国に沢山リトル・トーキョーを作るべきたろう。日本人の遣り方によっては、もっと世界的に文化的な価値のある海外進出が望まれる。日本人がテクノロジーや文学や芸術の分野で海外に知られるのはとても好ましい事だ。外国に行っても、現地の人達は日本の文化を話題にしたがる。祖国の文化に通じていない留学生の個性は現地の人達の眼には余り魅力的に映らない。
東京には今や世界の文化が集まっている。これからはエイジアの時代になるだろう。エイジアの文学や芸術が盛んになれば、エイジアン同士の交流も、もっと盛んになるだろう。
俺は元々ロック・バンド『異界録』のメンバーとして三枚のアルバムをリリースしたプロのミュージシャンだ。担当はギターとヴォーカルで、メンバーは四人である。音楽ではやりたい事を全てやった。『異界録』はダーク・パンク・バンドで、八十八年にデビューし、九〇年に解散した。
小説家としてのデビューは新人賞を通らず、『異界録』のヴォーカリストの小説として出版してもらえる。小説は『異界録』で活動している頃から書き溜めている。初期の作品の頃から純文学で、親しい人達にだけ原稿を見せていた。小説家としてデビューするには最初が肝心と、色々と手慣らしに書いてみた。今度、アメリカで書き上げたアメリカ留学モノの小説『ニューヨークの学生寮でやり放題』が小説家デビュー作として出版される。音楽家としてはソロ・アルバムをリリースしないかと話が来ている。音楽は『異界録』のような音楽しか思い付かない。自分の中で『異界録』的なサウンドが古く感じられ、ソロ・アルバムの件は少し待ってもらっている。『異界録』が闇の音楽だとしたら、ソロ・アルバムの音楽は癒しある光の音楽にしたい。
一度病んだ音楽に魅入られると、なかなかダークな世界から抜け出せない。文学もそうだろう。音楽は綺麗に心の闇から抜け出したら、新しい作品作りを始めたい。文学の方は何とか心の闇から脱した。
今日は出版社の担当編集者と小説の出版の話し合いのために会う。アメリカで書いた英文のゴシック・ホラーの短編小説をアメリカで出版する相談もする。
玄関のインターフォンが鳴る。インターフォンの受信機の受話器を手に取り、「どなたですか?」と訊く。カメラの映像を見ると、階下の五階に住む漫画家の竹白さんが、「竹白です」と笑顔で返事をする。「今、開けます」と言って、玄関のドアーを開けに行く。
玄関のドアーを開け、竹白さんが玄関に入ると、「京都に行きましてね、生八ツ橋をお土産に買ってきたんです」と言い、私に箱入りの生八ツ橋を手渡す。
「ああ、ありがとうございます。漫画の取材で京都に行ったんですか?」
「そうです」と竹白さんがはっきりとした眼差しで簡潔に答える。
「どうぞ、中に入ってください」
「ああ、済みません」と竹白さんが遠慮がちに言う。
竹白さんは太めの体に赤と白と青のチェックのシャツを着て、ベージのチノパンを穿いている。髪は不精で少し伸び切ったような短髪を金髪に染めている。眼が大きく、高くも低くもない鼻は鼻孔が広がり、肉厚な大きな口をしている。年齢は三十代半ばだ。
「今日は小説の出版で午後に編集者と会うんです」
「おお!遂に小説の出版ですか!」と竹白さんが楽しげに言う。
「ええ、お蔭様で」
居間に行き、ソファーの前のテーブルに竹白さんのお土産の生八ツ橋の箱をテーブルの上に置き、「どうぞ、ソファーに御かけになっててください」と言い、抹茶を入れに台所に入る。
抹茶を入れた湯呑をお盆に載せて居間に戻り、竹白さんに抹茶をお出しする。私は生八ツ橋の箱を開封し、「それでは早速生八ツ橋を食べましょう」と言う。「漫画はどうですか?」
「全三巻分連載したんですけど、今回で打ち切りになります。長く描こうと思って、結構気に入ってたんですけどね」と竹白さんが寂しげな顔で言う。
「確か、最高十二巻ですよね」
「ええ。全十二巻が二作です」と竹白さんが自信満々な態度で言う。
「今回の作品は古典的ななかなか味のあるホラーでしたよ」
「古典的な表現を少し意識的にやったんですけど、今一読者の反応がなくてね」と竹白さんが不満気に言う。
「作者が描きたい分描けないのって、漫画界の悪いところですよね。それでは戴きまあす!竹白さんも一緒に召し上がってください」と言い、生八ツ橋を一つ手に取り、一口齧る。「ああ、美味しいわ」
竹白さんも一つ手に掴み、「それ以上描くつもりがないような作品を長く描かされる事もあります」と言って、生八ツ橋を一口齧る。「その点、文学は良いですね」
「でも、時代的に一番面白い文化はロックと漫画ですよ」
「音楽はもうなさらないんですか?」と竹白さんが訊き、抹茶を啜る。
「音楽は一端やり尽くしました。当分、新しい音は生まれません」
「音楽には暫く休むって言うのが意外と良いんですよね」と竹白さんが音楽家を羨ましがるように言う。
「漫画は休んだら、ダメですか?」
「なんと言うべきか、休むのが怖いんです。新しい漫画家が次々と出てくる中、段々と自分が古い世代の漫画家になっていくでしょ?」と竹白さんが冴えた頭で現実の漫画事情を語る。
「ああ・・・・、なるほど」
「音楽は中堅、大御所になっていく過程で、アーティストの評価が下がったり、ファン離れがないじゃないですか」と竹白さんが音楽業界を不思議な視点で語る。
「そうなんですかね。でも、やっぱり、安心は出来ません」
「まあ、アーティストが頑張ってるからファンも離れないんでしょうね」と竹白さんが自分の素人視点に気付いたように言う。
「応援してくれる人あっての仕事ですけど、ヒットがずっと出るようなアーティストは稀です。俺なんか大ヒットした曲ってありませんからね」と俺は言い、抹茶を啜る。
「黒土亜さんのマイナーなイメージが良いんですよ」と竹白さんがアーティストを商品化した視点で言う。
「イメージがマイナーでは食っていくのが大変です。竹白さんと俺の知名度とでは全然違いますよ。そんなに漫画好きじゃなくとも、竹白さんの漫画をTVのアニメイションで観た事ある人は大勢いますからね」
「ああ、TVのアニメイション化は確かに有り難いんです。最近、どんな漫画読まれてるんですか?」と竹白さんが話題を変える。
「九〇年代の画風になってからの森園みるくとか、伊藤潤二辺りですかね。竹白さんはどう言う漫画を読まれるんですか?」
「僕も伊藤潤二や御茶漬海苔辺りは読みます」と竹白さんがホラー漫画の読書を常識のように言う。
「漫画は面白いですよね。音楽はどんなのを聴かれるんですか?」
「僕はシャーデーとか、クリス・レアとか、エンヤとか、サラ・ブライトマン辺りをよく聴きます。黒土亜さんは?」と竹白さんが趣味の良いアーティストの名をさらりと並べて、趣味の良さを示す。
「俺は相変わらずデイヴィッド・シルヴィアンとか、ロジャー・ウォーターズ・ピンク・フロイドとか、ダモ・鈴木時代のカン辺りを聴いてます」
竹白さんが笑いながら、「しかし、マイナーな話題ですよね」と言う。「じゃあ、そろそろ仕事に戻らせて戴きます」と竹白さんは言って、ソファーから立ち上がる。
「また何時でもいらしてください」
「たまには家にも来てくださいよ」と竹白さんが言い、居間を出て、玄関に向かう。「それじゃあ、また!」
「御馳走様でした」
「こちらこそ御馳走様でした」と竹白さんは言って、玄関の外に出て、ドアーを閉める。
俺の方はそろそろ編集者が来る。それまでに新作の執筆のアイデアを練る。書き出しやあらすじの書かれた創作ノートを見返し、面白そうなのを選ぶ。小説『ニューロマンサーー』のイスタンブールに現われる辺りの感じが気になっている。アメリカでは『ニューロマンサー』のコミックを買った。機会あれば、またニュー・ヨークに行きたい。今度の小説ではギリシャを舞台に幻想的な恋愛小説を書いてみたい。近未来のアフリカを舞台にアフリカ大陸を完全な黒人の大陸に戻すための架空の革命小説も並行して書いている。
文学で何処まで為せるかを考えるのは音楽制作と同じくらいワクワクする。昔からやりたいのは漫画だが、漫画は難しい。漫画はネームと言う精密な下書きを描いて、構成をしっかり練って描くらしい。間に必要な場面を挿入するにも、コマ割りの流れを壊してはいけない。ストーリー作りなのか、絵の羅列なのかもはっきりとしない。短編一作複雑な過程を経て漸く完成するらしいのだ。はっきり言って、魅力のあるアートワークながら、面倒臭い。その点、ワードプロセッサーで小説を書く行為は手軽で幾らでも凝った作品が作れる。漫画には学生の頃から本格的に取り組んだ事がない。絵画なら俺にも何とか出来るかなと思っている。絵を描く事は比較的得意な方なのだ。手広く何でもやるような事には余り興味がない。出来る事なら一つの事を徹底して極めたい。絵画は音楽や小説をやり尽くした後の晩年の楽しみとして取っておきたい。一度文学の方を始めると、どうも音楽作りと並行して行えない。マルチなアートワークは一時の気紛れのような行為がきっかけになるのだろう。印象的にはスーパーマンのように器用な人なのだろうと思う。俳句をやると五七五で言葉を練る頭脳の習慣がノイローゼ的に苦しくなる。それで俺は直ぐに俳句は嫌だと思った。その代わりに選択したアートワークが作詞だった。作詞作曲編曲を全部一人でやった事はまだない。音楽は今やバンドを組んで、各パートを分担するのが常識になりつつある。人と組んで行うアートワークの可能性の方が個人の限界に挑むより魅力があるのだ。個人で全てを為すアートワークには以外な出来事が少ない。他人が不協和音を無造作に持ち込むような編曲の偶然の結実は個人のアートワークでは限界があるのだ。そのアンバランスさを嫌うようなアーティストはクラッシックの作曲家のようなタイプだろう。俺にもそう言う独断的な傾向がないとは言えない。それが多少バンド経験で軽減されたような感じがある。次に音楽をやる時はゲスト・ミュージシャンも加えないようなマルチな音作りになるだろう。
玄関のブザーが鳴る。恐らく編集の人だろう。
面白い純文学を試みました。