空蝉
2010年の夏。陽光はまるで薄絹を透かしたように、柔らかく、しかしどこか容赦なく降り注いでいた。地方の小さな村、木造の古い家屋の縁側に、十七歳の少女、葵はひとり座っていた。目の前には、庭の雑草が風にそよぐ。蝉の声が、iPodのイヤホンから漏れるJ-POPのメロディに混じり、夏の暑気とともに世界を満たしていた。葵の膝には、祖母が遺した古い手帳があった。表紙は色褪せ、ページからはほのかに墨の香りが漂う。「空蝉の夏は、刹那を愛でるもの」と、祖母の筆跡が記していた。葵はそれを読み、胸の奥に名状しがたい疼きを感じた。
庭の向こう、雑木林の木漏れ日の中から、少年が現れた。悠だ。村の外れに住む、どこか浮世離れした少年。色褪せたTシャツに、膝の擦り切れたジーンズ。手に持つビニール袋には、コンビニで買ったらしいペットボトルの麦茶と、川で拾った滑らかな石が無造作に入っている。悠は葵を見つけると、まるで夏の風に誘われたように近づいてきた。
「またここでぼーっとしてんの?」悠の声は、蝉の合唱に混じり、軽快だった。
「ぼーっとじゃないよ。考えごと」葵は少し頬を膨らませ、手帳を閉じた。
「ふーん。どんな考え?」
「この夏が、なくなっちゃうこと」
悠は一瞬、目を細めた。葵の言葉が、彼の胸のどこかに刺さったようだった。「なくなっても、夏はまた来るじゃん。来年もさ」
「そうじゃないの」葵は縁側の木目に指を滑らせ、目を伏せた。「この夏。2010年の、この夏。蝉の声も、庭の匂いも、全部、消えちゃう」
悠は黙って葵の隣に腰を下ろした。二人を包むように、夏の風が吹き抜ける。庭の紫陽花はすでに色褪せ、葉の先が乾いて萎れていた。悠のビニール袋から、川石が一つ、ころりと縁側に落ちた。葵はそれを拾い、掌でそのひんやりした感触を確かめた。石はまるで、川の記憶を閉じ込めたまま、静かにそこにあった。
「ねえ、悠。空蝉って、知ってる?」
「蝉の抜け殻でしょ?」
「うん。でも、もっと深い意味があるの。祖母が言ってた。空っぽなのに、ちゃんとそこにあった証みたいなものだって」
悠は小さく笑った。「葵、難しいこと考えるな。でもさ、抜け殻だって、ちゃんと蝉だった時間があったんだろ? それでいいじゃん」
葵は答えず、遠くの山の稜線を見つめた。山の向こうには、きっと海がある。悠が言うには、潮の香りがして、波が寄せては返す場所だ。葵は携帯の待ち受けに映る海の写真を思い出し、胸が締め付けられるような、けれどどこか自由な感覚に囚われた。
その夜、村の夏祭りが開かれた。提灯の灯りが揺れ、スピーカーから流れる地元のFMラジオの音が夜を彩る。葵は浴衣をまとい、携帯をポケットに忍ばせ、悠と夜店を巡った。綿菓子は口の中で儚く溶け、金魚すくいの水面には、提灯の光と星が揺れていた。子どもたちがDSを手に笑い合い、焼きとうもろこしの香りが漂う。すべてが、まるで2010年の夏にしか存在しない夢のようだった。
祭りの後、葵と悠は川辺に座った。提灯の光は遠く、月だけが二人を照らす。葵は手帳を開き、祖母の言葉を読んだ。「夏は空蝉。愛したものは、必ず去る。だが、その去りゆく姿にこそ、美がある」
「悠、夏が終わったら、どこに行くの?」葵の声は、川のせせらぎに紛れた。
悠は少し考えて、笑った。「わかんない。海、かな。葵は?」
「私も、わかんない。でも、どこか遠くに行きたい。海の向こうとか」
二人は黙り、川の音を聞いていた。蝉の声は途絶え、夜の静けさが広がる。葵は、悠の指が自分の手に触れていることに気づいた。温かかった。けれど、その温もりは、まるで携帯の電池が切れるように、いつか消えるものだと感じさせた。
夏が終わった。葵は村を離れ、都会の大学へ進んだ。悠は海の近くの町へ引っ越したと聞いたが、LINEは一度も来なかった。古い家屋は取り壊され、庭の紫陽花も雑木林も、今はもうない。葵が時折手に取るのは、祖母の手帳と、あの川石だけ。石を握ると、2010年の夏の匂い、蝉の声、悠の笑顔が、まるで空蝉のように胸に蘇る。
そして葵は思う。あの夏は確かに去った。だが、その去りゆく姿に、確かに美があったのだと。空蝉は、ただの抜け殻ではない。それは、愛した時間の、静かな証だった。