第4章 苔むす石碑と「空白の地図」
息を整え、慎重に岩陰から這い出る。
魔物たちの気配はもうなかった。音も消え、森は再び静寂を取り戻している。さきほどの襲撃が幻だったかのような、不自然なほどの沈黙だった。
だが、あの異常な感覚――周囲の構造が脳内に立体で浮かび、逃走経路がまるで地図のように可視化されたあの瞬間――それだけは、確かに現実だった。
「……おれ、あんなこと……」
初めて経験した異能の発現に、思考は混乱したまま。額から流れる汗を袖で拭いながら、カインは気づけば、さらに森の奥へと進んでいた。
それは意図したものではなかった。ただ、足が導かれるように前へ進み、気がつけば、木々の密度が変わっていた。
音が、色が、空気が――どこか違う。
木の枝に絡まる蔓は乾いており、陽光が斜めに射し込むこの一帯だけ、まるで時間が止まったかのように静謐だった。足元の地面は平らで、奇妙なほど均整の取れた石畳が苔に覆われていた。
日が傾き始め、森の奥はさらに陰を濃くしていた。緩やかな斜面を登りきると、周囲の木々がわずかに開けた一角にたどり着く。そこは自然の侵入を拒むように密生した茂みの奥、薄暗く、湿った空気がまとわりつく場所だった。
そこに、それはあった。
苔に覆われ、風化した石碑。高さは人の背丈ほどで、周囲の樹木に守られるように佇んでいる。表面の苔をそっと払いのけると、古びた彫刻が顔を覗かせた。
「……これは」
石碑の中央に彫られていたのは、円を中心に複雑に交差する線といくつかの小さな記号――一見、意味をなさない模様のように見えたが、カインは息をのむ。それは、彼の手元にある“空白の地図”の一角に、微かに描かれていた紋様と酷似していたのだ。
彼は慌てて鞄から布で包んだ空白の地図を取り出し、石碑と照らし合わせる。地図に描かれていた不明瞭な円形と、石碑に刻まれた意匠は確かに一致していた。
「やっぱり……親父と母さんは、ここに来てたんだ……」
目の前にあるのは、過去からの痕跡。両親が残した地図に刻まれた、未知の地点。今、カインはその場所に、自分の足で立っている。
――そのとき、不意に地図がかすかに光を放った。
光といっても、目を焼くような強烈なものではない。地図の一部、石碑の紋様と一致した部分が、淡く蒼白い輝きを放ったのだ。光は一瞬で収まり、あとは何事もなかったように静けさが戻る。
「記録……されたのか?」
カインの心がざわめく。自分の中でまだ言語化できない違和感とともに、地図の一部が“完成”に近づいたような感覚があった。それは、ただの写し取りではない。地図が、意思を持つように場所を認識した――そんな錯覚に近い感覚だった。
風が森の奥から吹き抜け、草葉をざわつかせる。カインは石碑の前にしゃがみ込み、詳細なスケッチを始めた。これがただの遺跡ではないことは直感で分かっていた。今後、この地が何を意味するのか、慎重に調べていく必要がある。