2話 境界を越えて
朝露に濡れた石畳を踏みしめ、カインは町の北門へと向かっていた。まだ陽は昇りきっておらず、空は淡い藍色と橙が入り交じっている。風は冷たく、目を覚ましたばかりの町を静かに撫でていた。
肩に背負った測量用具一式は、革製の筒にまとめられ、腰には折りたたみ式の方位儀、脚には膝丈までの防水装備が施されたトラベルブーツ。今日から始まる“影の森”への調査に備え、できる限りの準備を整えた。
町長から依頼を受けて数日、装備の点検と過去の文献の整理に没頭し、ようやく出発の日を迎えた。カインの胸には、ほんのわずかな緊張と、それを上回る静かな覚悟があった。
フロンティアの北門には、門番の中年兵士がひとり。長年この町に住む彼は、カインの顔を見るなり、眉を上げた。
「おいおい……ひとりで影の森に行くってのか?」
「はい、調査の依頼です」
カインは小さく頷きながら、革袋の中から町長の署名入りの通行証を見せた。兵士はそれを確認すると、わずかに口を歪めて返した。
「まぁ……町長が出したなら止める筋合いはねぇが、あの森は最近、様子が妙だからな。魔物の活動域が変わってきてるって話だ、気を付けるんだぞ。お前さんが無事に帰ってくるのを、願ってるぜ」
「ありがとうございます。必ず戻ってきます」
門を抜け、カインは町を背にした。視界の彼方に、霧のように白く煙る森が広がっている。“影の森”――昼でも薄暗く、方角を狂わせるとされる古代樹の迷宮。
森の輪郭が近づくにつれ、空気の質が変わるのを感じた。草の匂いは薄れ、代わりに湿った土と苔、枯れ木の腐りかけたような臭気が鼻を突く。
森の入口で一度立ち止まり、背負った荷物を確認する。地図用の羊皮紙、インクとペン、距離計測用の縄と杭、乾パンと水。簡易テントもある。確認が済むと、ゆっくりと歩を進めた。
――影の森、初日。
地面はぬかるみ、枯れ葉の下に隠れた根が何度も彼の足を取った。陽光は分厚い枝葉に遮られ、日中にも関わらず視界は薄暗い。方向感覚を失わぬよう、カインは30歩ごとに杭を打ち、木の幹に目印をつけながら慎重に進んだ。
木々の密度は凄まじく、1時間も歩けば、振り返っても来た道がどこか判別がつかない。森は、あらゆる規則性を拒むかのように、道を閉ざしてくる。
途中、地面にひざまずき、簡易測量装置を広げて方角と標高を記録。苔に覆われた岩を見つけては、その位置と形状を記していく。汗が額から顎を伝い、インクを滲ませる。喉が渇き、何度か水筒に口をつけたが、それでも緊張は抜けなかった。
ときおり遠くから、獣のような咆哮が聞こえる。カインは足を止め、しばらく音の出どころに耳を澄ますが、すぐに静寂が森を支配し直す。
数時間が経ち、最初の測量点を記録し終える頃には、夕暮れが始まっていた。陽が差し込まぬ森では、時間の経過すら体感できない。彼は森のやや開けた場所に小さなテントを設営し、焚き火を起こした。
パンを齧りながら、今日記録した地図を広げる。地形は不規則で、斜面の角度と木の密度に法則性は見いだせない。だが、確かに、彼の描いた線のひとつひとつが、地図に形を与えつつあった。
夜、虫の鳴き声と獣の遠吠えを子守唄に、カインは寝袋の中で目を閉じた。明日も、足を止めるわけにはいかない。