第1話 空白の地図とフロンティアの町
木造の家々をなぞるように、乾いた風が通り過ぎていく。
ここはフロンティアの町。大陸の西縁、山と森に囲まれた辺境の集落。未開の地に最も近く、文明の地から最も遠い場所――だがカインにとっては、生まれ育った日常の風景だった。
その日、カイン・アトラスは朝から作業部屋にこもっていた。
作業台に広げられているのは、町周辺の更新中の地図。それともう一枚、風合いの異なる古い羊皮紙。どちらの紙面にも、カインの手によって描かれた線が正確に、そして慎重に記されていく。
「……やっぱり、あの丘の勾配が微妙に違うな」
彼はつぶやきながら、薄墨の筆先で線をなぞり直す。
それはまるで、世界の輪郭を自らの手で再構築するような作業だった。
視線の先にあるもう一枚の古びた地図――それが、両親が遺した《空白の地図》だった。
王都周辺や主要な町周辺は細密に描かれているが、それ以外はまっさらなまま。まるで「ここから先は、誰にも知られていない」とでも言いたげな、白の余白が広がっている。
カインはふと、空白部分に指先を重ねた。
(……あの森は、この地図には描かれていない)
ノックの音がした。
「カインくん、いるか? 町長さんが話があるってさ」
扉の外から声をかけてきたのは、郵便係の少年だった。カインは顔を上げ、インク壺に筆を戻すと立ち上がった。
「わかった、すぐ行くよ」
***
町の中心、時計塔の陰に位置する町役場。二階建ての木造建築は古びているが、毎日のように多くの人が出入りする場所だ。
カインはその道中、建物と建物の隙間――薄暗い路地裏から聞こえたかすかな鳴き声に足を止めた。
「……?」
耳を澄ますと、確かに「にゃあお」とか細い声がした。
「またか。今度はどこまで行ったんだ」
路地は入り組み、細い裏通りへと枝分かれしている。普通の人間なら迷ってしまいそうな場所――だがカインの足取りは迷いがなかった。
まるで、道が目の前に図面として広がっているかのように。
短い階段を下り、くの字に折れた道を抜け、崩れた塀の裏へ。
「……いた」
隅の石の上で、茶トラの子猫が震えていた。首には鈴付きの赤い首輪。見覚えのある名前が刺繍されている。
「エミリーの家の子か。懲りないやつだな」
カインは膝をつき、猫を抱き上げる。その瞬間、ふとした違和感が走った。
――空間の奥行きが、急に「透けて」見えた気がした。
石の壁も、曲がりくねった路地も、透明な線画のように脳内で浮かび上がる。まるで地形の構造そのものが、視覚ではなく“感覚”で読み取れるかのような……
(……なんだ、今の)
だが、その感覚は一瞬で消えた。カインは首を振り、猫を抱えて役場前の広場へと戻る。
***
広場では、猫の飼い主であるエミリーが涙ぐんでいた。
「カインくん! ミミちゃんを……ありがとう!」
「ちゃんと見てなきゃだめだよ、すぐに逃げ出して細い路地に入り込む癖があるみたいだから」
「うん……うん、気をつける」
子猫を抱きしめるエミリーに軽く会釈をして、カインは町役場へと足を向けた。
***
町役場の執務室では、初老の町長が待っていた。
「来てくれてありがとう、カインくん」
カインは帽子を軽くとって挨拶し、対面の椅子に腰を下ろす。
「話って、影の森のことですか?」
「察しがいいな。その通りだ」
町長は机の上に何枚かの報告書を広げる。そこには、街道沿いの村からの連絡が途絶えたこと、森に入った護衛団の消息が不明であることが記されていた。
「森の中で何が起きているのか、我々にはわからない。だが、放置すればフロンティアの物流にも大きな影響が出る。そこで、君に依頼したい」
「調査と……地図の作成、ですね」
「正確には、《影の森》の魔物分布、安全な移動ルート、地形の変動の記録。それを地図として提出してほしい。あの森は未踏地で正確な地図がない。報酬は、通常の三倍支払おう」
カインはしばらく黙って、考え込んだ。
《影の森》――それは、両親が最後に訪れた場所でもあった。
つまり、空白の地図に一切描かれていないあの森で、両親が消息を絶ったということだ。
そこに何かがある、そんな気がした。
「……わかりました。受けます」
「ありがとう。きみしか頼れる者はいない」
***
その夜、灯火のもとでカインは空白の地図を広げていた。
深く呼吸を整え、指先で《影の森》に該当する空白部分に触れる。
そのとき――地図の一角が、かすかにきらりと反応した。
物理的な現象ではない。だが確かに、地図が「応えた」のだ。
(やっぱり、あそこには何かがある)
カインはペンを置き、深く目を閉じた。
「――行くか。、あの地を記録するために」