【やさしい仕返し】ポストに届かない手紙
手紙は、不思議です。
言葉にして、誰かに向けて放たれたその想いは、
届く前から、すでに“誰かを変えてしまう”ことがあるのです。
今回は、そんなひとつの“届かない手紙”を巡るお話を、綴ってみました。
どうか、読むあなたの中にも、小さな変化が宿りますように。
……風のように、そっと。
***
吉澤という男が、そのマンションに住んでいました。
几帳面なようでいて、些細なことには無頓着な人でした。
昼下がり、ポストを開けた吉澤は、舌打ち混じりにぼやきました。
「また、間違って入ってるよ……ったく、ちゃんと確認しろっての」
隣室・304号室宛の封筒でした。
差出人は見知らぬ名前。手書きの住所。
彼はその封筒を自分のカバンに入れ、エレベーターへ向かいました。
渡しに行く気は、ありませんでした。
捨てるわけでも、盗むわけでもなく、ただ「後回し」で済ますつもりでした。
──面倒だった。それだけのこと。
***
それから数日。
彼のポストには、何も届かなくなりました。
DMも、公共料金の案内も、チラシすら。
代わりに、時折“誰か宛ての手紙”が、彼の部屋の机の上に現れるようになりました。
──誰も部屋には入っていないのに。
──鍵も、窓も、きちんと閉まっているのに。
その手紙は、誰かの悩み相談だったり、
遠く離れた友人への返事だったり、
……あるいは、もう亡くなった誰かへの、最後の手紙だったり。
どの手紙にも共通していたのは、
“ほんの少しだけ、彼のことを知っている”という気配でした。
***
ある朝、彼は出社前の書類を封筒に入れ、会社宛に投函する準備をしていました。
「今日はちゃんと出そう……っと」
──けれど、その封筒は見つかりませんでした。
確かに用意していたのに。
探しても、どこにもない。
ソファの下も、鞄の中も、洗面台の横も。
諦めかけていたそのとき。
ポストを開けると、そこに一通の便箋がありました。
手紙は、薄青いインクで、こう綴られていました。
「届けたくなかったわけじゃない。
あなたが、ちゃんと届くと信じなかっただけです」
***
それ以来、吉澤はポストを開けるたび、
封筒を両手で持ち直し、少しだけ頭を下げるようになりました。
「……ありがとう」
その言葉が、どこに届いているのかは、
彼自身も知らないままです。
ただ、それだけのこと。
“あの日の無関心”が、少しだけ回り道をして、
“今日の感謝”にたどりつく。
そんな物語が、あってもいいのかもしれません。
誰かの声に気づけなかった自分を、許すために。
そしてまた、誰かの言葉を受け取るために。
……この物語も、あなたのポストに届いていれば嬉しいです。