5
まだ、夜も明けきらない時間。
外は、冷たく湿った風が吹き始めていた。
暗闇の中、大きな屋敷の中で唯一、ぼんやりと浮かび上がる窓があった。
その窓のある小さな部屋では灯されるランプの光は、限りなく絞られ小さくなっている。
壁に映る、ランプの映し出す影は朧げで、ゆらゆらと揺れ、まるで震えているようにも見える。
机に向かう少女は、椅子に浅く座り1通の手紙を目の前に拡げていた。
肘をついて組んだ手に顎をのせて、虚ろな瞳でランプの炎を見つめている。
「本当に邪魔なのよ…。」
そう呟いて、しばらく動かない。
どのくらいの時間が経ったのか、外でパタパタと木の葉に雨の落ちる音が聞こえて来た。
「早く、居なくなってくれないと…」
組んでいた手を解き、拡げていた手紙を畳んでいく。
「…死に損ないだけは…許されない。」
そう言って、指の先で摘んだ手紙をランプの炎に近づけて、そのまますぐそばにある硝子の小物入れに置いた。
紙は、水が広がるようにあっという間に灰になっていく。
灰は、ふわりと踊ってその身を静かに横たえる。
そして、ランプのそばに、もう一通の手紙が残されていた。
―――――――
ひどく長い時間、なかなか遠のかなかった意識がやっと沈むかと思った瞬間、部屋の扉が開かれた気配がした。
部屋に漂う嗅ぎ慣れた香りが薄まると同時に静かな足音と共に声が聴こえて来る。
「…ねぇさま…お姉様…。」
開かれたはずの扉の方向から漏れるはずの灯りが無い。完全に閉めているのだとわかる。
闇の中からの声は妙に、はしゃいだ声をしていた。
「ベランカ…どうしたの?…何か…」
朝なら窓から差すはずの光があるはずなのに、こんなに暗いと言う事は夜明けまでにはまだ早い時間の筈だった。という事は何かよほどの事が起きているのだろうか。
そう思い、ゆっくりと上半身を起こした。
「しーっ。」
「…どうしたの?」
まだ目が闇に慣れない。
感覚だけを頼りに声の方向を向く。
「あのね、ナイショのお出かけしたいの。」
こちらからは見えないが小さな妹は、いとも簡単に私の耳元へ囁いてきた。
僅かな苛立ちが胸を突くがそれが声音に乗ることはなく、年相応より諦めたような声になってしまう。
「外は寒いわ。ベランカも寒いのは嫌いでしょ?…それに…ごめんなさい、やっぱり私にお出かけは無理なの。」
「どうして?レイラお姉様は、私のお薬をちゃんと飲んでいるんだから大丈夫よ。ね、とっても素敵な私だけの秘密の場所に行くの!」
小さな手が私の腕を取って何度も引っ張る。
「どうしたの?今日じゃなきゃ駄目なの?そんなに行きたいなら誰か別の人に…」
「嫌だ、今、お姉様と行きたいの!」
いつもと違う妹の態度に、ため息をつきたくなるのをこらえて、腕にかかる小さな手を撫でた。
「…そうね、私もベランカとお出かけ出来たら良かったんだけど、あまり具合が良くなくて歩く事も難しいのよ。…だから…」
「大丈夫!歩かなくても行けるの!馬車で行けば良いの!行きましょ!連れて行ってくれるから!ね!」
ベランカがそう言うと同時に扉が開いた。
そこには、ベランカ付きの侍女のアナスタシアが外套を手にして立っている。
侍女の顔は影になってよく見えないが、私の表情は相手にはしっかり見えていただろう。
喋る度に息苦しさが胸を締め付け、ひとつひとつの呼吸が重くなっていく。
ぐいぐいと引っ張ろうとする柔らかい手に思わず、意図的に爪を立ててしまう。
「ベランカ…。」
幼い少女に対する言葉にしては、かなり厳しい言い方になる。
妙に大人びた表情をしたベランカは、瞬きせもず私の手に自らの手を重ねた。
きつく食い込んだはずの、私の爪にはもう力は残っていなかったのだろうか。
蝶の翅のように
軽く
脆く
そして、私の意には構うことなくベランカは、侍女に向かって続ける。
「アナスタシア!早く!手伝って!」
呼ばれた侍女は、素早く私に近づき、無理やり外套を着せ始める。
「アナスタシア…やめて…私には外出なんて無理だから…」
私の身体に手を回し、横抱きにしようとする彼女に必死に訴えるが、主人の声ではない声には耳を貸さないのか、一向にその手を止める事は無く、あっという間に私を抱え上げ、歩き出す。
反論や抵抗を伝えるには、私はあまりに非力過ぎた。
侍女に抱えられて部屋から廊下に出た私は、窓から見える景色に驚いた。
外は静かに雨が降っていた。
降り始めたばかりではなく、かなり前から雨は降っていたようだった。
「雨だわ。ベランカ…外出はやめた方が…」
私を抱えたアナスタシアの前を一生懸命歩くベランカは、前を向いたまま答えた。
「雨なんて平気だわ。それより早く行かなくちゃ。」
その小さな手足をめいいっぱい振り上げ、蹴り上げながら急ぐ妹に違和感を感じる。
楽しみというより、焦っているように見えた。
「外出?」
「はい。レイラ様は今朝方、お出かけになられました。」
雨の中、いつもより早い時間に婚約者の館を訪れたエイダンは玄関先で応対した侍女の言葉に驚きを隠せなかった。
「どうして、誰とだ。どこへ、いつ、戻るんだ。」
立て続けに問われた侍女は、雨の中わざわざ訪ねてきた王太子に向かって冷静に淡々と答える。
「ベランカ様とです。…恐れながら、行き先はお聞きしておりませんし、お帰りのお時間も存じ上げません。」
「今日は、私との約束の日のはずだ。手紙も届けて…」
「殿下。」
徐々に激しくなる雨音に対抗するように声を張ったエイダンの背後に低く腹に響く声が掛けられた。
「リーバイ」
外套を濡らして立っていた王太子が振り向くと、そこには庭師のリーバイが、外套も纏わず、ずぶ濡れになりながら立っていた。
エイダンは、侍女に構わず庭師に駆け寄る。
「リーバイ!レイラが外出していると聞いたが何故だ。」
リーバイは、微動だにせずその巨体をエイダンの前に晒している。
「あんな状態で、私との約束も…どうなっている!誰かちゃんと話が出来る者はいないのか!」
空は黒い雲を幾重にも重ね、
雨と風はどんどん強くなっていく。
そのあまりの激しさに、控えていた護衛騎士が、エイダンに声を掛けようと、息を吸った一瞬、同時に耳を疑う言葉が聞こえた。
「多分、間に合いません。」
何を言われたのか、エイダンがリーバイの言葉を理解する前に、更に言葉が連なる。
「残念ですが、もう、レイラ様にはお会い出来ないでしょう。」
「…どういうことだ…何を言っている…」
リーバイを真っ直ぐ見上げたままのエイダンは、唸るように問う。
雨はまるで、男達の声を必死に掻き消すかのように強くなっていく。
「答えろ。」
エイダンの声は小さく、リーバイには聞こえていなかっただろう。
リーバイは、エイダンの口元を見て眉を顰めた。
「これは、呪いです。」
「…な、にを…。」
リーバイの言葉はエイダンの理解を待たない。
「私には止める事が出来ませんでした…。」
エイダンは、静かに立っている。
雨足は、更に激しくなって、視界も霞みつつある。
視界が霞んだ中で、微動だにしなかったリーバイの口元が再び動いたが、エイダンにはそれが何なのか、理解することを本能が拒否したのか、暫くその場から動けなかった。