いつかきっと
誰かを切り捨てて生きてきて、それで私はバランスを保っていた。
心が限界にきているのに、関係を続けていく意味もわからない。
でも切り捨てた直後は、寂しさと不安に襲われたりして、こんなことを繰り返していたら、いつか誰かに酷く恨まれるんじゃないかと、酷く恐怖心に苛まれた時もあった。
いつも別れは突然に告げたり、告げなかったり。アドレスを消したり、SNSを突然ブロックしたり、友達も恋人も、もう会いたくないからと突然告げ、それっきりになったり。
だから相手がどう思ったかなんて知る由もない。
幸い今まで私に怒りをぶつけてくる人間はいなかった。
それほどの関係性もなかったんだろうと思って、今まで気にもとめなかった。
恋人も友達もいなくなったって、生きてはいける。1人になったからといって不幸を感じたこともない。何も気にする必要がないから、幸せですらある。
私が消えても悲しむ人もいない。だから咎めることなく、好きに生きられる。
孤独は1人だから生まれるものではなく、満たされない心が生み出すもの。
誰かといた時だって、寂しさが消えず不安で孤独に苛ついていた。
今は1人でも、私は幸せを感じている。
いつも行くカフェのテラス席でモーニングを食べ終えて、コーヒーを飲みながら、冬の澄んだ空気と朝の眩い光を感じていた。
斜め前のテーブルで小さな犬を連れて座っていた老人の女性が、店員を呼んでその場で会計を済ませて、去っていった。
人通りの少ない通りに視線を向けると、女子中学生が1人、俯きかげんに歩いていた。
腕時計に目をやると、8時半を過ぎていた。他に登校する中学生の姿は見えないから、登校時間は過ぎていると思う。
慌てる様子もないその姿に、同じ頃の自分の姿が重なった。
気怠くて理由もなく、ただサボりたくてベッドの中でグズグズ過ごして、このまま休んでしまおうかと思って寝ていたら母親に叩き起こされて、追い出されるように登校させられた。
いつも見かける出勤する大人達の姿はなく、いつもと少し違う風景に少し戸惑ったりして、でも慌てるのは何だかダサく思えて気丈に歩いた。
でも学校に近づくほどに不安は増して、教室のドアを開けた時に一斉に向けられるクラスメイトの視線を想像すると、胸がきゅっと締めつけられたのを覚えている。
学校の前で学年が違う男子が同じように遅刻して来ているのを見て、幾分かホッとした。
でも彼には正当な理由があったらしく、門の前にいた教師は咎めることなく彼を学校に入れた。
私を見る目は冷ややかだった。
人に罪悪感を抱かせる視線。
私が嫌いな。
会社で社長に楯突いた翌日に上司から向けられた視線。社会に出ても変わらない。
あんたが言わないから言ったのに。
つまらないことを思い出したなと思いながら、コーヒーを飲み干した。
「紗良?」
店内から出てきた女性が私を見て、名前を呼んだ。
クリーム色のロングコートに黒のタートルネックセーターを着て、黒のボーイハットを被っている。パーマをあてた黒髪が、肩まで伸びていた。
かわいい顔立ちには、見覚えがあった。
確か高校の同級生で、仲の良かった友達の親戚の子だ。親戚で同じ高校に通うことなんかあるのかと思ったのを覚えている。しかも同じクラス。
「覚えてる?」
笑顔をみせるわけでもなく、真顔で彼女は言った。
親しげにしないのは、彼女の親戚を私が切り捨てたからだろう。
「あー、うん。覚えてる。由奈だよね」
「そう。ねぇ、ちょっと時間ある?」
様子を伺う目で私を見ながら、怜は言った。
「あるけど、何?」
何かの営業だろうか。確か切り捨てた友達から、怜は化粧品の会社で働いていると聞いた覚えがある。
由奈はリボンの着いた黒いショルダーバッグからスマホを取り出すと、一瞥してから、私を見た。
「歩きながら話せる?」
「いいけど、どこ行くの?」
「とりあえず駅まで」
「いいよ。会計済ますから待ってて」
家とは逆方向だったけれど、私は了承して、テーブルから立ち上がった。
面倒な話だったら、適当にあしらうつもりだった。
でも彼女の口から出たのは、私が想像もしていなかった話だった。
「風香のこと、何か聞いてる?」
他愛ない高校時代の話をしてから、不意に由奈は言った。
それが本題かと思った。
「何も。ずっと前に会ってから、会わなくなったから」
由奈が何を知っているのかわからなかったので、私が切り捨てたことは黙っておいた。
「そう。本当はすぐ連絡したかったんだけど、風香も紗良の連絡先消してたし、友達に聞いてもみんな知らなかったから。家にもいったんだけど、引っ越したんだよね?」
「うん。高校卒業してから私は一人暮らしして、両親はローンがしんどくなって、家は売り払ったから」
「えー、凄いね。卒業してからずっと1人なの?」
「いやまぁ、彼氏と暮らしたりもしたけど、今は1人」
「そうなんだ。高校の時から落ち着いてしっかりしてたもんね」
「別に、普通だったよ。雰囲気だけだから、私は」
苦笑しながら、私は言った。
大人びた顔で、口数が少なかったから人にはそう見えていただけだと思う。
「それで、風香に何かあったの?」
話が逸れそうだったので、私から話を戻した。
「ああ、うん。実はね、去年なんだけど」
なんとなく察しはついたが、私の心が揺れ動くことはなかった。人はみな、いつかはそうなる。
「本当にそういうこと、するとは思ってなくて、なんで?って気持ちしかないんだけど」
ああ、そっちか、と私は思い直した。人の心なんて、誰にもわからない。
「紗良はさぁ、どうして風香の前から消えたの?」
「え?どうしてって、、、」
なんで私の話になるの?と訝しながら、私は記憶を辿った。確かつまらない理由だった気がする。私は働いていて時間がなく苛ついていて、風香は学生でバイト先で知り合った年上の男性と同棲をはじめたとかのろけ話をされて、苛立って連絡先も消してSNSもすべてブロックしたのだった。
「噛み合わなくなったからかな。私は働いてて、風香は学生だったし、価値観も違ってきたから」
「ああ、そうなんだ。なんだ。風香、紗良のこと好きだったから、もしかしたら紗良も同じ気持ちで、それで怒ったんじゃないかって、凄く落ち込んでたから」
「ええ?」
驚きで一瞬頭が真っ白になった。好きって、どの意味で?いや、そういう意味しかないのか。
「風香、恋人いたよね?」
「いたけど、複雑でさ。私は知ってたけど、周りには言えなかったから風香は。普通に振る舞って、わからないようにしてた」
「私にも嬉しそうに恋人の話してたよ。私のこと好きだったら、そんなこと出来る?」
「そこは私もわからないけど、紗良のことを本気で好きなのはわかった」
「ごめん、私全然気づかなかった」
気付いていても、何も変わらなかったと思うけれど。
「いいのいいの、それは。私もいつもどうしてそんなことするの?って聞いてたし。自分の気持ちに正直じゃないと駄目だよ、って何回も言ったんだけど。伝えなきゃ、わからないしね、どうなるかなんて」
「まぁ、伝えられてても、私にはそんな気持ちなかったから、結局傷つけただけだったと思うけど」
「ああ、だよね。まぁそうだとしても、わざわざ自分を苦しめることする必要なんてなかったのに」
「それで、何で私にその話したの?風香が隠してたなら、私には黙っとくべきだったんじゃないの?」
私の問いに、由奈は気まずそうに視線を逸らして黙った。
ああ、そうか。由奈の雰囲気から、きっと私の責任にしていたのだろう、と私は感じた。私が意図的に風香を傷つけて、そのせいで風香が死んだと。それを確認したかったのか。
きっと親戚達みんなで私を責め立てるような話もしていたんだろう。
「いっそ私が最低な女なら、由奈の気持ちも軽くなったのかな?私のせいにしていた方が、幸せだったかもね」
私が皮肉を言うと、由奈は立ち止まって、私をじっと見つめた。
由奈の瞳は、罪悪感と怒りが混ざっていた。
「なんでそんなこと言えるの?私だって、そんな風に思いたくなかった。でも、何かせいにしなきゃ、やりきれない時ってあるよね」
「だったら、そのままにしときなよ。なんでわざわざ確認したの?私のせいにしたままの方が、楽だったよね?」
「有耶無耶に出来なかった!もし紗良のせいなら、罵りたかった!自分がどんな酷いことしたのかわからせたかった!」
声を荒げて、由奈は言った。
「別に好きとかそんな気持ちがなくても、急に連絡絶ったりして相手が傷つくとか心配するとか不安になるとか、そういうこと、考えないの!?」
「そんなに怒ること?私は誰にだってそうするし、誰だって一度や二度経験あることだよね。由奈さ、本気で私が原因で風香が死んだと思ってるんじゃないの?」
由奈は涙目になっていた。憤りを必死に押し殺そうとしているのが伝わってくる。
「なんでそんな風になっちゃったの?」
ポツリと、震えた声で由奈は言った。
「私はずっとこんな感じだけど」
変わったつもりなど、一切なかった。
「違う!紗良はもっと優しかった。いつも笑顔だったし、学校でみんな紗良に会うのが楽しみだったのに」
何それ。私はそんな風に感じたことは、一度もなかった。
「それ、本当に私?全然わかんないんだけど」
「そんな紗良だったから、風香は好きになっても言えなかったんだよ!嫌われたくなくて。私も風香の気持ちわかったから。好きになるのもしょうがないなって思った」
本当に誰のことを言っているのかわからない。私がそんなに人に好かれていたなんて、感じたこともないし、高校時代からこの性格だったと思う。
風香に優しくしたことだってーーー。
ふと、私の頭に記憶が蘇った。
なんて他愛ない。
風香が教師に頼まれたのか、資料か本か忘れたけど、腕いっぱいに抱えて歩いていて、気になって見ていたらやっぱり床にばら撒いて、私が1番に駆け寄ったっけ。
絶対落とすと思ったー。
私が笑いながら、床に散らばった資料やらを集めているのを、風香は意外そうに見ていたっけ。
そう。その反応が正しくて、私はそんなことはするタイプの人間じゃない。それが本当の私だった。
そんな些細なことで、私は優しいと思われたのだろうか。
「風香、クラスにだって馴染めてなかったけど、紗良がみんなと仲良くなるようにしてたよね?忘れたの?」
「、、、覚えてない。ごめん」
「いつも1人だった風香に声かけて、みんなの輪に入れてたよ?」
多分、私は何にも考えてなかった。ただ、1人で机に座っている風香が気になっただけで、それ以上にみんなと仲良くさせようとか、そんなつもりはなかった。実際輪に入れた後は放ったらかしだったと思う。
「別に私は、そんなに深く考えてしたわけじゃないから」
戸惑いながら私が言うと、由奈は今にも泣き出しそうな顔になった。
「なんで?そんな軽い気持ちだったの?風香、凄く嬉しそうだったのに。風香が可哀想」
やりきれない様子で、怜は言った。
そんなことを言われても。
知らない所で誰かを傷つけることはあるかもしれないけど、意図しないところでそんなに人を喜ばせてるなんて、思いもしない。
「ごめん。私そういうの疎くてさ。喜ばせるつもりとか、助けたいとか、そんな気持ちなかった」
「信じらんないっ!」
由奈は声を荒げて、足早に歩き出した。
「あっ、待って」
私は反射的に手を伸ばして、由奈の腕を掴んだ。
でも、どうしてそうしたのかわからなかった。こういう所なのか。無責任に、人の心に波風をたてる。
「なに?」
肩越しに振り返った由奈は苛立って言った。
私は咄嗟に、頭に浮かんだ事を言った。最低だったと思う。
「風香の最後、教えて」
由奈の目が丸くなって、表情から感情が消えた。冷たい視線が、私を突き刺した。
「飛び降りだよ」
ひとこと、由奈は言うと、私の手を振り払った。
「覚えてないと思うけど、風香と紗良が2人で高校の時に忍び込んだ、マンション」
ああ、覚えている。
怖がる風香を無理やり連れて、住人の後にしれっと付いて行って、オートロックのマンションに入ったっけ。
最上階の外廊下から街を見下ろした。
不意に、私の胸が熱くなった。
春の風が、強く吹いていた。
風香は乱れる髪を抑えていた。
風にかき消されて、声は聞こえなかった。
でも、その口の動きを私の目はちゃんと捉えていて、でも私は勘違いだろうと、気にもとめなかった。
「紗良のこと、」
そこまでは聞こえていた。
その後は、唇の動きだけ。だから確証はない。でも、、、
「好き」
そう動いた気はした。でも気のせいにして、私は風香から視線を外して、街を見下ろした。
風香が私の肩に頭を寄せたのを覚えている。
そんなことを、私はどうして、気にもせず、忘れて、過ごせていたのだろう。
私にとって風香は、ただの友達に過ぎなかった。
だから、何の気兼ねもなく接していて、それが風香にとっては、優しさに映ったのだろう。
1人の人間の気持ちを、私は向き合いもせず、ないがしろにしていた。
軽率な自分を、今更呪った。
「あの時、もしかして風香、、、」
由奈は私に背を向けていた。その背中に、私は言った。
「そうだよ。だからそこから飛び降りたんだよ。風で聞こえてなかったと思うって言ってたけど、風香にとってどれだけ勇気がいって、どれだけ傷ついたかなんて、疎い紗良にはわからないよね」
「ごめん。本当に。でも、思わないし、私なんかさ、そんな人の気持ちにも気づけない鈍感な女だし、そんな私のこと、死んじゃうくらい好きになる人がいるなんて、わかるわけないじゃん」
由奈は、振り返ると、怒りを宿した眼で私を睨んだ。
「逃げてきたからでしょ!!風香の気持ちにだって、気づいてたクセに!!人を簡単に切り捨てるのだって、わかってるからじゃない、人のことが誰よりも!なんで向き合おうとしなかったの!?」
「やめてよ、そんな吊し上げるようなこと言うの。1番逃げたのは、風香でしょ?気持ちが伝わらなかったくらいで、なんで死ぬの?意味わかんない」
逃げるように私が言うと、由奈は私に近づいて、私の左頬を右手で叩いた。
乾いた音が響いて、じんじんと左頬が痛んだ。
「あなたに風香を責める資格なんて、一雫もないから」
由奈は私を睨んで言うと、踵を返して、去っていった。
私はヒリヒリと痛む左頬に手をあてながら、その背中を見つめていた。
冬の風が、強く吹きはじめた。
あの時聞こえなかった声を、もう一度聞きたくて、私は瞳を閉じ耳を澄ました。
いつかきっと、風香が許してくれたなら、もう一度、言ってくれるだろうか。
私に聞こえるように。
その気持ちに応えることは出来なくても、風香のことを、本当の優しさで、受け止めてあげたかった。
いつかきっと、夢の中でも逢えたら。
吹きつける風。頭に浮かぶ、あの日の唇の動き。
好きだよ、と無音で私に伝えている。