第四集:春和景明
「こちらに着替えてください!」
朝十時、新しい仕事先である蒐集屋敷『銀耀』へと出勤し、オーナーであるスペンサー・アップルトンからいきなり渡されたのは服だった。
「これは……わぁ、その、可愛い……、ですね」
「初めて出会った日、翠琅さんが着ていた装束が可愛くて可愛くて! それを真似して作らせていただいたフットマンの服です!」
黒い膝丈の旗袍に裾がキュッとなった同じ黒のズボン。
黒い靴下は厚手で丈夫そうだ。それに合わせる焦げ茶色の編み上げブーツも、靴の先が丸みを帯びていてとても可愛らしい。
「この黒い小さなポシェットは何ですか?」
黒い山羊革製で金の釦がついた可愛いころんとしたポシェット。
つい撫でたくなる意匠だ。
「よくぞ聞いてくださいました! それは風呂敷を収納する用のポシェットです。翠琅さんは見た目がとても可愛らしいのに、なぜが風呂敷を身体に巻いているというヘンテコリンな格好をなさっていたので……。というか、今も風呂敷を鞄代わりにしていますよね。おかしいですよ、それ」
「なななな、そ、そんなこと……」
わたしには修業に行っていた仙境に仙術師の友人が数人いるだけで、人間の友人はいない。
たしかに、茶屋で配達の仕事をしていた時は、人間の同僚に「え、風呂敷……」とつぶやかれることは多々あったが、まさかおかしいと思われているとはまったく考えもしなかった。
「それ、ファンタジックな風呂敷なのでしょう? だから使うなとは絶対に言いません、が、我が屋敷のフットマン兼探索者として働くのなら、せめて見栄えのいいものを身に着けていただきたいのです。どうでしょう?」
「使います。わたしも、素敵なものが目に入っていた方が、仕事がはかどりますので」
わたしはもらった服とポシェットを抱きしめ、苦笑した。
「うふふ。喜んでいただけてよかったです。それに……」
スペンサーは少し切なそうな目をして言った。
「私服を燃やさせるわけにはいきませんから。フットマンの制服は常時十着ストックを用意しておりますので、いつでも新しいものを着てくださいね」
「あっ、ありがとうございます」
スペンサーには私服を燃やしたことは言っていないが、なんとなく察したのかもしれない。
スペンサーが何歳で実際何年蒐集家をしているのかは知らないが、今まで雇った探索者が翠琅だけということはないだろう。
知識として、怨念の根幹と戦うと衣服が瘴気で汚染されるということを知っているのかもしれない。
「さっそく着替えてきますね」
「応接室を使ってください。昨日の夜から蒐集品の整理を始めたら埃が舞ってしまって。綺麗な部屋が応接室しかないのです」
「わかりました。着替え終わったら手伝います」
「ふふふ。実は行ってほしいダンジョンが……」
「その話は後程!」
わたしは話を遮り、応接室と書かれた部屋へと入っていった。
魔窟の話は先が長そうだからだ。
「わぁ……、これまた豪華な部屋……」
白い大理石の床に、ロイヤルブルーのベルベット生地で出来た豪華なソファセット。
机は金で縁取られた大理石製。
床に敷かれているジャガード織の絹絨毯は西方にある異国の高級品。
「家具だけでいくらするのかな……。カーテンもなんかキラキラしてるし、レースのカーテンなんか宝石が編み込まれてる……」
わたしはすべて見なかったことにした。
こんなに高価そうなものに囲まれていては、仕事がし辛くなりそうだからだ。
万が一掃除中に傷つけでもしたら、また借金を背負うことになる。それは嫌だ。
「お、寸法ぴったり」
いつ測ったのだろう、ということは気にしないことにして、可愛く作られた制服を着て、くるりと回転してみたりした。
厚手の生地でしっかりとしている。これならば、多少の攻撃は防げそうだ。
「大人っぽいというよりは少し可愛い感じだけど。まぁ、まだ成人してないし。仕方ないか」
本当なら、ジャケットやリボンタイなどが必要なのだろうが、わたしがフットマンとして雇われているのは表向きの理由だ。
制服セットには濃い緑色の肉厚な生地のリボンが入っていた。
「ポニーテールに結んでみてってことかな」
わたしは髪を結んでいる紐の上からキュッとリボンを結び、風呂敷から取り出した全身鏡で確認した。
制服は普段着としても着られそうなほど素敵なデザインだった。
わたしは鏡と着てきた服をしまい、なにか落としていないか確認した後、ポシェットに風呂敷を入れ、応接室を後にした。
「おおお! 似合いますね!」
応接室を出た先で、スペンサーが水晶のようなものを拭いているのに出くわした。
「ありがとうございます」
少し照れくさかったが、褒められると嬉しい。
わたしは自分からさっきの話を聞いてみることにした。
「わたしに行ってほしい新しい魔窟ってどんなところですか?」
「ふふふふふん! 格付は上弐級で……」
「ちょ、ちょっと待ってください。〈上〉って言いました?」
「言いましたぁ」
「え、えぇぇ……」
聞いた自分が馬鹿だった。せっかくの高揚した気分が砂となって消えていくのを感じた。
「大丈夫ですよ! 翠琅さんならいけますって! だってあの憧温将軍の頭蓋骨を持ってきたんですよ? 暁星の格付で言えば、十分上級に入りますもの!」
「いやいやいやいや、その品物に到達するまでの難しさが中級と上級では違いますよね?」
「もう、本当にしっかりしているんですね」
「くっ……」
正直なところ、おそらく、上弐級でも生きては帰れるだろう。ただ、数日はかかるかもしれない。
「それで……、どういう所なんですか?」
「聖域ですっ」
「……なんて言いました?」
「だから、聖域ですってばぁ。もう、翠琅さん、ちゃんと聞いていてくださいね」
「いや、聞こえた単語が間違いだったと思いたくて聞き返したんです。無駄でしたけれど」
「おちゃめさんですね!」
それはそれは大きなため息が出た。
だが、スペンサーは気にしていないどころか、手に入るだろう暁星を思い浮かべて恍惚とした表情をしている。
「で……、どういった聖域なんですか? 色々、意味合いが違いますから」
「さすが翠琅さん! 博識ですねぇ」
〈聖域〉にはいくつか種類が存在する。
一、妖精族――仙子族だけが住むことを許された土地、〈聖域〉。
一、宗教的に重要な土地。〈神域〉とも呼ばれる。
一、土地自体が力を持っている場合――龍脈の源泉や精霊種多くが住む地など。
一、神格化された英雄の墓地。
一、霊道の通っている場所。
など、神や英雄、信仰や種族の数だけ〈聖域〉というのはあるものだ。
「今回行っていただきたいのは、聖域の中でももっともスリリングな場所……、〈神域〉です」
「無理です。お疲れさまでした」
踵を返して帰ろうとすると、スペンサーが慌てて立ちはだかった。
「ままま、待ってください! そんな、もう少し話を聞いてくださってもよいのでは? ね?」
「……〈神域〉は各宗教にとってとても大切な場所なんですよ? まったく信仰心もない他人が土足で入っていい場所ではないんです」
「そうですよね、そうですとも! だから、今回行っていただきたいのは、〈旧神域〉です」
「〈旧神域〉……? すでに信仰をなくした古代の神々ってことですか?」
「話が早くて助かります」
「でも……。信仰はされていなくても、土地を大事にしているひとたちはいますよね?」
「ふふふふふ。そこがポイントなのです! 今回はその『侵略によって土地と〈神〉、そして〈信仰〉を奪われた人々』からの依頼なのです!」
「なるほど……」
「その土地は侵略によって別の〈神〉の名がついた聖堂が建てられ、祀られていました。が、侵略から九百九十九年経った今年の初め、原初の民の無念や怒りが怨念となり、立派な魔窟となりましたとさ! どうですか! ロマンがあるでしょう!」
「う、ううん……。まぁでも……」
大切にしてきたものを奪われた悲しみの末に、精神を燃やし尽くしてしまうほどの憎しみに囚われてしまった人々の想い。
痛いほどその気持ちはわかる。救ってあげたいと願うのは当然だ。
「遥か昔に奪われた人々の想いを、供養する手伝いをしてあげましょう」
「わかりました。喜んで、引き受けます」
「お目当ての暁星は聖遺物、『ララナの聖杯』です。かつては平癒の女神として絶大な信仰を誇っておりました。聖杯は常に甘い水で満たされ、それを傷に流せばたちまち塞がり、飲めば万病をも治したと言われています。慈悲深く寛容で、大変美しい姿をしていたそうです。なんでも生殖にも有効だったようで、子孫繁栄の神としても有名だったとか」
「へぇ……。素敵な神様だったんですね」
「そうです。それゆえに、侵略者からすれば邪魔だったでしょうね」
「そうですね……」
歴史は時に、人々の残酷な面を克明に映し出す。
中原大陸も、太古には十二もの国にわかれており、それが長い時間をかけて侵攻侵略簒奪を繰り返し、たくさんの命の上に五国に淘汰され、現在に至るのだ。
その『長い時間』の中には、失われる必要のなかった命だってあったはず。
それを想うと、今の平和な状況がいつまで続くのかわからなくなり、恐ろしくなる。
「わたし、頑張ります」
「応援していますよ。さぁ、なんでも持って行ってください! 屋敷にあるもので役に立ちそうなものはじゃんじゃん使っていただいて結構ですよ」
「いや、それは遠慮しておきます。価値を知った時に倒れそうなので」
「またまたぁ」
「いえ、本当に」
「今この屋敷内で一番価値があるのは、翠琅さんですよ」
スペンサーは優しく微笑んだ。
いつものニヤニヤしたものとは違う、あたたかな雰囲気を纏った笑顔で。
「……あ、ありがとうございます」
春の陽射しが差し込み、窓からは時折、花弁がまじったさわやかな風が入ってくる。
わたしは風が吹く方へと顔を向け、小さく息を吐いた。
一瞬、スペンサーの呼吸が変わった。何か迷っているとでもいうように。
「あの……。その、不躾なことをお聞きしますが、翠琅さんはいわゆる〈取り替え子〉なのでしょうか?」
心臓が跳ねた。
わたしはスペンサーの方を向き、その目をまっすぐと見た。
「何故そんなことを聞くのでしょうか」
重苦しい空気が流れる。
「わたくし、一応雇い主ですので、雇用した人材については調べるようにしているんです」
一体、何をどこまで知られたのだろうか。
「翠琅さんのご両親も、ご姉兄弟も、〈人間〉ですよね? でも、翠琅さんは仙子です。そうなると考えられるのは、妖精族の特殊な儀式……。人間の子供と妖精族の子供を取り替えて育てる、〈取り替え子〉しかありませんよね」
わたしは早鐘のように動く心臓をどうにか大人しくさせようと、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
「人間の、育てのご両親。仙子族の、産みのご両親。兄弟姉妹もそうです。人間界にも赫界にも、家族がいらっしゃるんですよね?」
言い逃れできない雰囲気。わたしは観念して話し始めた。
「……そうです。わたしには両親が二組います。それに、妖精女王が統べる聖域に……、取り替え子の片割れである人間の義兄がいます」
「ほう。やはりそうでしたか」
「人間の母の姉、つまりは伯母の子供が取り替え子として聖域に住んでいます。お願いですから、このことは他人には内緒にしていてください。知られるわけにはいかないんです」
わたしの鬼気迫る表情に驚いたスペンサーは、ゆっくりと頷いて見せた。
「誰にも言うつもりはありません。ただ、不思議だったのです。蒐集屋敷は銀耀以外にも七つあり、それらは瓏安でも有名な場所に建っています。わざわざ辺鄙な場所にある銀耀に来たということは、きっと何か理由があるのだろうと思っていました」
スペンサーは外を眺めながら、ふっと微笑んだ。
「理由は聞きません。いつか話してくれると嬉しいですし、何か力になれることがあるのなら教えてほしいとも思います。まぁ、おいおい、もっと仲良しさんになってからですよね」
わたしは自分の手元を見ながら苦笑した。
数年前のある日。両親を問いただしたわたしは、その足で妖精女王の元へ向かい、わたしがなぜ〈取り替え子〉に選ばれたのか、その理由を答え合わせした。
一番衝撃だったのは『お前の……、人間の父親は記憶喪失などではないというのは事実だ』ということだった。
父は全部覚えているのだ。梅寧軍を襲った、あの惨劇を。
そして弥王世子妃は自害などしていない。暗殺されたのだということも。
ギリギリのところで赤子だけでもと父と母が母体の腹を切って救い出したはいいが、守るすべがなかった。
皇弟の子孫は敵にとって禍根となる。生きていることが知られるわけにはいかなかったのだろう。
だから十七年前のあの日、薬草の取引で親交のあった妖精王族に助けを求め、〈取り替え子〉の儀式を行ったのだ。
聖域にいるわたしの義兄は、梅寧軍主師である弥王の、生き残ったたった一人の孫なのだ。