第十七集:虎尾春氷
「痛い……」
時間短縮のため、魔窟を飛行で往復した結果、溶岩洞では蛙たちに狙い撃ちされたあげく灼熱の火吹蜥蜴に火をつけられ、熱帯森林では虫たちに集団で追いかけられ刺され鱗粉を撒かれる始末。
第一階層の虫たちはもうわたしを融通はしてくれないようだ。
草原へと戻って来た時には、体力は限界を迎えていた。
「……お風呂入って寝る」
相変わらず、草原は様々な種類の血液臭でむせ返っている。でもいまは自分の方が臭い。
わたしは梅の木の扉をそのへんの大木につけると、中へと入っていった。
服を脱ぎ散らかし、そのまま湯船に頭から突っ込んだ。
気付くと三時間経っており、よく溺れなかったなと自分に感心してしまう。
「ちゃんと……、寝なきゃ……」
水分を拭きとったはずが、タオルは血塗れ。
手当てするのを忘れてしまっていたらしい。振り向くと湯船も真っ赤だ。
「あ、これ……、貧血かも……」
わたしは人間のふりをするために常に液化薬というものを飲んでいる。
本来、仙子族は怪我をしても血を流すことはなく、傷口から白い煙が出るだけ。
いわゆる、血煙というものだ。
ただ、それだとすぐに人間に違う種族だと疑われてしまうため、血煙を赤い血液に見せかけるために、液化薬をのんでいるのである。
この薬は副作用として、血液が凝固しにくくなるため、流血すると、普通の人間よりも多く血が外へと出て行ってしまうのだ。
ということで、今大変まずい状況である。
「あ……」
わたしは倒れた。
「……ん?」
何時間全裸だったのだろうか。いや、タオルを巻いているから下半身は厳密に言うと裸ではない。
「時計……」
五時間経っていた。
タオルは血塗れだが、傷はもう塞がっている。
仙子の身体は頑丈だ。
「……はっくしょい!」
傷は治りかけているものの、身体が冷えてしまったようだ。
「……お風呂入れ直してもう一回入るか。はっくしょい!」
わたしは寒さにぶるっと震える身体を抱きしめながら、真っ赤なお湯を抜き、新しい綺麗なお湯を入れ、あたたまった。
食事をし、着替え、扉から出る。
「ううん、血のにおいと獣臭がすごいなぁ」
この平原はどこまで続いているのだろうか。
煌糸を網状に張り巡らせると、前回とは少し違う場所を歩きはじめた。
どこを歩いても、瑪瑙獅子はいるし、その他の鬼霊獣も縄張り争いをしている。
本当に、危険な場所だ。
わたしはなるべく派手に戦わないよう気を付けながら次の螺旋階段を目指した。
「……あ、直接?」
見つけた螺旋階段は、洞窟のようににはなっておらず、真下の階が丸見えだった。
いや、丸見えではない。吹きすさぶ吹雪で完全には見えない。
いったい、何メートル降りることになるのだろうか。
「行くか」
わたしは階段を降り始めた。
すぐに身体の周囲の温度が下がり、指先が赤くなってきた。
「寒い……」
ポシェットから取り出した温度計がさしているのはマイナス二十度。
わたしはすぐにあつでの外套を羽織った。
「フード被って前も全部閉めちゃおう」
まるで見た目はてるてる坊主。
強烈な吹雪に足を取られそうになりながらも、ゆっくりと階段を降りていった。
「……え、まだ?」
もうすでに一時間は下っている。
「あとどのくらい……って、ああ、着いた」
固い階段が終わり、足が雪に沈んだ。
心なしか、吹雪も弱まってきたようだ。
「……見渡す限り、白」
遠近感が可笑しくなりそうなほど、他の色が見当たらない。
なんとなく見えてきた空の色は紫がかった紺。
「視界が悪い上に、固定されている時間帯もとても悪いな」
はやく薬草を見つけなければ。極寒地域にいる鬼霊獣は総じて気性が荒く、獰猛で、強い。
わたしでも一人で乗り切れるか危うい。
帰りに迷わないよう、螺旋階段にひときわ明るい煌糸を巻き付けた。
「氷血桂影草……。仙境の極寒地の谷底でたまに見る薬草。こんなにも貴重で珍しいものが必要な病なんて一つしかない。刑部尚書の娘が罹患している病は、奪血屍症だ」
奪血屍症は、吸血系鬼霊獣の血液や体液が粘膜や傷口から体内に入り込んだ際にかかる病気。
この病気になると、人間の血を飲まなければ理性を忘れた獣のように暴れてしまうようになるのだ。
近年、こうした鬼霊獣由来の病気にかかるひとが後を絶たない。
犠牲になっているのは貧しい地域の子供が多く、大変な問題となっている。
何度わたしの両親と兄姉が現地に無料医療を行いに行っても、患者は減るどころか増えるばかり。
鬼霊獣が出現した真相を知っている両親は、帰ってくるといつも涙を流している。
許せない。わたしは、皇兄英王を、絶対に許さない。
奴は皇弟弥王と、弥王世子、そしてその家族と梅寧軍八万の命を奪ったのだ。鬼霊獣の力を使って。
わたしは怒りによる高ぶりを鎮めるために深呼吸をし、また吹雪の中を進んでいった。
肺に満たされた冷たい空気のせいで咳が出る。
その音を、獣たちが聞き逃すはずはなかった。
「あ、やってしまった」
全身が空気を含む毛に覆われた鬼霊獣、凍月熊。
筋肉も多いが脂肪も蓄えているため、動きは少々ゆったりだが、一撃がとても重い。
人間が戦おうと挑もうものなら、簡単に八つ裂きにされ、全身の骨を粉砕されてしまうだろう。
幸いなのは、凍月熊はあまり群れでは行動しないということ。
父母子供といった家族単位で移動をすることはあれど、狩りをするのは基本的には父親だけ。
今襲い掛かってきている二体は体長二メートルほど。大きさからみておそらく子供。わたしは狩りの練習台に選ばれたのだ。
「どんな怪物でも、子供を殺すのは気がひける。でも、この子たちは負ければ父親に殺される……。どちらにせよ死んでしまうなら、わたしがその毛皮や油、眼球や骨とか全部、根こそぎ持って帰ってあげるからね」
空から大仙針を出し外套の前を開けた。
「……寒い」
長い爪に固い肉球。振り下ろされた腕が地面に届き、積もっていた雪が波しぶきのように飛び散った。
舞う雪の中に赤いものが混じっている。すでに何かを殺した後なのだろう。前足に血が残っている。
ゆっくりとした動作だが、自重もあってか前足を振り降ろす速度は異様に早く、重い。
爪が外套に引っ掛かった。
「ああ! 破けちゃった……」
わたしは二体の間をすべるように抜けると、凍月熊たちの足に煌糸を巻き付け、一気に引っ張った。
ゴツン、という鈍い音。凍月熊は互いに頭をぶつけ、ふらついている。
わたしは大仙針に煌糸を巻き付け、弓に変えた。
なるべく素材となる部分を傷つけずに持って帰りたい。
それには一撃で仕留めることが大事になってくる。
(弓でこめかみから脳を撃ち抜く)
わたしはふらふらとする二体の凍月熊の横に回り込み、こめかみに向けて一矢はなった。
ひゅん、という風切り音。
凍月熊たちはその目から生気をなくし、後ろに倒れた。
「……近くに親はいないみたい。そりゃそうか。獲物を持って帰ってくるのを待ってるんだもんね」
わたしは二体の凍月熊を周囲の雪と一緒に煌糸で手早く包むと、圧縮した。
藁人形くらいの大きさになったそれをポシェットに入れ、また歩き出した。
わたしは油断していた。
「あっ」
足元のクレバスに気づかず、落ちてしまったのだ。
幸い、大仙針を手に掴んでいたのですぐに浮かせ、ゆっくりと下へ降りることが出来た。
「……わぁ、綺麗な氷」
煌糸の明るさに照らされ、青く透き通った氷の壁が露わになった。
「あああ! あった!」
氷の床と壁がちょうど接しているところに、氷血桂影草が今まで見たこともないほど群生している。
「すごい! 実家の診療所のためにもいっぱい採っていこう」
一つ、二つ、三つ……。わたしは合計で三十九株も氷血桂影草を得ることが出来た。
「仙境でも一度に十五株がやっとなのに……。すごいなぁ、ここ」
わたしはそれらをポシェットにしまうと、すぐに大仙針に乗り、螺旋階段を目指して飛び立った。
ここは天井がとても高いのに寒すぎるために飛行系の鬼霊獣がいない。
寒さに耐えられれば飛び放題だ。
ただ、他の階層は違う。来た時のようにならないよう、平原以降はゆっくりと進んだ。
そのせいで、帰るだけで丸三日もかかってしまった。
「へとへとだよ……」
地上へ出たわたしは、ひとまず長海で一泊し、翌日の朝に実家へ帰ることにした。
どんなに貴重な薬草を持っていても、それを製薬できなければ意味がない。
忙しい両親に代わって実家の診療所、蜜柑堂を切り盛りしている兄に製薬してもらうのだ。