5・九六式軽機関銃の誕生とそのスペック、特徴
・十一年式軽機関銃の後継
さて十一年式軽機関銃が登場して9年経とうとした1931年、日本陸軍はようやく新型軽機関銃の開発に着手した。
この開発計画が着手された背景には、20年代を通じてアメリカ製工作機械が多数導入されたことと、十一年式軽機関銃の量産による銃職人のノウハウ蓄積によって、欧米列強に肩を並べる性能を持つ軽機関銃を作れるようになったと判断されたからと言われる。
もっとも一番の理由は、十一年式軽機関銃の生産ラインの設置費や工員の人件費を回収して利益を上げたし、工作機械や治具も10年経って旧式化し、資産価値を無くしつつあるからだという血も涙もない金勘定の指摘も存在する。
この年は仕様書や開発計画の策定のみだったが、翌1932年から開発企業の募集が始まった。
・九六式軽機関銃の誕生
今回の軽機開発では、初の試みとして複数の民間メーカーの成長を意図した競争・入札式が採用された。また当て馬感が強かったものの、アメリカのブローニング社も入札に参加させた。
結果、陸軍造兵廠小倉工廠、東京瓦斯電気工業、日本特殊鋼、南部銃製造所(1937年に中央工業と改名)、ブローニング社の計5社が参加し、それぞれが各種試作軽機関銃を開発した。
東京瓦斯はDP28に少し似たルイス軽機関銃の改良型、日本特殊鋼はベルト式弾帯を採用した詳細不明の銃、ブローニング社は後のM1919A4に似たM1919の派生型(実際、A4の原案になったという)、小倉工廠と南部はチェコ製のZB26を模した試作銃を1933年に提出した。
その中で小倉工廠案と南部案にのみ試作銃の改良許可が下り、それぞれ陸軍技術本部の支援のもと改良を行った。
南部は小倉製試作銃の長所も取り入れつつ発展させたのに対し、小倉はZB26(もしくは改良型のZB30)の忠実なコピーを目指した。
改良試作軽機は1934年に納品され、翌年まで行われた試験の結果、南部製試作軽機が小倉製試作軽機より1kg以上の軽量化を達成し、命中率も良かったことから南部案が採用された。
そして翌1936年に「試製九六式軽機関銃」の名で仮制式採用され、1937年に「九六式軽機関銃」の名で制式採用された。(仮制式は現在で言う内定に近いものであり、制式採用までの期間中は工場での生産準備や教導隊での運用実験と運用マニュアルの作成を行う)
1937年末に生産ラインの不具合確認のための少数量産が行われた後、翌1938年3月より大量生産が行われた。
なお競争に破れた小倉製試作軽機はZB26由来の高い信頼性を評価され、後に使用弾薬を九二式実包をリムレス化した九七式実包(後に九九式実包に更新)に変更した上で九七式車載軽機関銃の名で採用された。
・九六式軽機関銃のスペック
九六式軽機関銃は全長は1,075mm、全備重量8.7kgと十一年式軽機関銃よりわずかに小型化し、大幅に軽量化したことが分かる。
しかし銃身長は十一年式軽機関銃の443mmから550mmへと延長されたことで、発射ガスを十分逃せるようになり、三八式実包の威力過大による銃身の摩耗促進を防いでいる。
外見はZB26に酷似しているが、ボトルロック機構や薬莢排出口に差異が見られるなど、多くの独自機構が施されている。また動作方式もガス圧動作式とオーソドックスなものだが、内部機構はホチキス系列の機関銃を基とした独自のものとなっている。
実際、南部麒次郎の名で本銃の内部機構の特許が申請・承認されている。
ただし開発に際しZB26を参考にしたのは確かなようで、中央工業は九九式軽機関銃に至るまでチェコスロバキアのブルノ兵器廠(ドイツとの開戦後はチェコスロバキア亡命政府)に一部特許料を支払い続けている。
九六式軽機関銃には各開口部にダストカバーが追加されており、弾倉部は勿論、量産開始初期の生産型には銃口覆まで取り付けられた程だった。(後に生産簡略化のため撤廃)
これはシベリアなどの極寒地での運用を想定したものとされているが、当時から十一年式軽機関銃のトラウマだと陰口を叩かれている。
オリジナルにない機能としては、レギュレター(規制子)というガス圧調整装置が設けられている。
これは回転不良を防ぐ機構であり、一定数を撃つごとにガス圧を調整して回転動作を確実にさせるものであった。
使用弾薬を引き続き三八式実包を使用。
陸軍内では九二式実包を使用すべきとの声もあったが、主力小銃との弾薬互換性や、そもそも九二式実包は軽機に不適であるという技術本部からの指摘もあって、三八式実包の使用を続けた。
弾倉は交換式の30発入り弾倉を採用。三八式実包はテーパーがややキツい形状であり、装弾不良を防ぐため湾曲弾倉を採用した。
この弾倉は残弾確認用の窓が設けられており、残弾が4発以下になると窓部分から弾が見えなくなるという形で弾切れ警告が射手に出された。
日本初の試みとして、前線での銃身交換を可能にするためキャリングハンドルと銃身が一体化している。
プランジャーと呼ばれる銃身根本のピンを引き抜き90度前方に回転させることで銃身のロックが外れ、熟練射手なら10秒以内、普通の射手でも20秒以内に銃身交換が出来た。
・九六式軽機関銃最大の特徴
九六式軽機関銃の特徴は、2.5倍率スコープの標準装備と銃身のクロームメッキ処理である。
前者は歩兵の分隊単位での戦闘が基本となったことがきっかけだった。
この頃になると機関銃手の育成が進み、ついに歩兵分隊に機関銃手と弾薬手の2人からなる軽機関銃班が常時配属されるようになった。
そうなると今までと比べて歩兵分隊の火力が上がったことで分隊単体での作戦行動が可能となり、それが基本となった。
分隊単位での戦闘となると、塹壕戦とは違って相手の行動を妨げる制圧射撃は人数が少ない分効果が薄いと判断され、逆に相手を確実に無力化することが求められた。
その結果、高い命中率が求められるようになり、前述した軽機関銃へのスコープ装備という結論に至った。
このスコープは当時国内最大の光学メーカーである日本光学工業が製造したものであった。同社は既に陸海軍の軍用機に多数の照準器を卸していたものの、満州にアメリカ製工作機械等を多数導入した大型工場を建設中であり、陸軍の莫大な需要を賄える生産量を予定していた。そのためこの工場の稼働を見越して、軽機関銃のスコープ標準装備が決定された。
後者は十一年式軽機関銃の銃身摩耗問題の経験から導入されたものであった。
十一年式軽機関銃は銃身長の短さを起因として想定以上の銃身摩耗が発生した。
この問題に対し、銃身長を伸ばすこと、銃身の厚みを増すことで根治的解決を行った。
しかし陸軍技術本部は想定外の事態に備え、銃身自体そのものを”想定外の摩耗に耐えうる”ようクロームメッキ加工することを南部銃製造に要請。当初、クロームメッキ加工に必要な工作機械の未導入を理由に断るも、陸軍工廠が南部銃製造にパテント料を支払って銃身の製造を担当することを条件に承諾。
結果、クロームメッキ処理の導入が実現した。これにより銃身寿命が平均1万5千発にまで伸び、銃身交換も合わさって、ちゃんと整備さえすれば1年以上使える銃身が誕生した。
このクロームメッキ処理は世界初の試みであり、成功をおさめた。
その後全ての国産銃のみならず、戦後世界各国の銃火器に普及することとなる。
そして最後に触れなければならないのが、色々と言われる着剣機構についてである。
これは当時のドクトリン変更で、軽機関銃班は後方からの援護ではなく、小銃班と共に行動するよう求められた事が原因である。
これにより小銃班と共に白兵戦に巻き込まれる危険が指摘され、急遽着剣機構を搭載するようになった。
なお着剣時は偶然にも銃口の跳ね上がりが少なくなり、これは九九式軽機関銃では更に顕著に効果が現れるようになったため、戦後になって着剣機構は命中率を上げる工夫という流説が飛び交うようになった。
こうして様々な新機軸を盛り込んだ九六式軽機関銃は現場からは大好評で迎えられ、それに答える形で軍も量産と配備を急ぐこととなった。
だが仮制式採用の翌年、早くも後継軽機関銃の開発が必要となった。




