12・九九式軽機関銃の後継者、一七式軽機関銃
・NATO弾の制定
1954年、アメリカ主導のもと7.62mm×51mm弾がNATOの主力弾薬として制定された。
これに独自の中間弾薬とそれを使用するアサルトライフルを独自開発していたイギリス、ド・ゴールの下、独自の国防方針を貫くフランスは猛反発した。
一方、アメリカの同盟国であり、本来なら体格的にNATO弾は扱いづらいハズの日本軍がNATO弾制定を両手を振って歓迎した。
これは日本軍は常時欧州に軍を派遣している都合上、日本独自規格の弾薬の輸送費を節約して、現地にて弾薬を購入・備蓄したいという狙いがあったためだ。
このNATO弾制定を受け、日本陸軍では同年より既存の小火器のNATO弾改修計画が始まる。当然それは当時の主力軽機関銃、九九式軽機関銃にも適応された。
・一七式軽機関銃の誕生
九九式軽機関銃は後期型(戦時生産型、戦後生産型含む)を対象にブレンガンのようなNATO弾改修を受ける事になる。
この改修は1957年に行われた。改修を受けた個体は「一七式軽機関銃」と制式採用に伴い、名称が変更され、従来の九九式と区別された。
この改修によってNATO弾を使えるようになった代わりに、九九式の弾倉は使えなくなったので、新規設計のほぼ真四角の30発入り弾倉を使用する。
また一七式自動小銃、さらには日本初のアサルトライフルである二四式小銃の弾倉を使用することが出来る。
他にもスコープをNATO弾の弾道特性に合わせたものに換装する、フラッシュハイダーの形状変更(これにより銃口覆との併用が可能となった)などの小改良が施された。
ただし現場からの反対により、相変わらず着剣機能は廃止されていない。
各種部品をプレス加工品に変えることで、改造個体なら350g、新造個体なら800gの軽量化を達成した。
改造品は切り出し部品がプレス加工品に変えたところ、耐久性が落ちることが判明したため、重要部品のプレス加工化は一部に留まった。
・日本陸軍が軽機関銃を使い続けた理由
日本陸軍は他の西側諸国と違い、歩兵分隊に汎用機関銃を配備せず、軽機関銃を配備し続けた。
これには当時の(そして今も基本が受け継がれている)歩兵の考え方によるものだった。
日本陸軍は、「歩かない歩兵は歩無し将棋と同じ」という言葉があるように、とにかく歩兵自身の作戦能力を重視していた。
これは機械化が十分ではなかった戦前ならまだしも、トラックやヘリコプターなどの機動力が十二分に揃った戦後(現代)でもそうであり、結果機械を使わない歩兵単独の長期作戦能力を重視し、なるべく軽量な装備を求めていた。
そのため重量がかさみがちな汎用機関銃を歩兵分隊に配備せず、軽量な軽機関銃を重宝した。(これは偶然にも仮想敵であるソ連陸軍と同じ方針だった)
この軽量な軽機関銃に一七式軽機関銃(特に新規製造個体)は見事に合致していた。
こうして一七式軽機関銃は主力軽機関銃として大量生産され、持ち前の信頼性の高さの他、弾倉互換性という現実的な機能が実戦経験を持つ将兵から歓迎された。
・インドネシア戦争での洗礼
インドネシア戦争では主力火器の1つとして使用された。だがこの前例のない新たな戦争形式の前で、一七式は予期せぬ欠点を晒した。
まずインドネシアのジャングルでは遠距離支援はまず発生せず、近距離での撃ち合いが主流となった。
そうなると軽機関銃には弾をばら撒いて相手の動きを妨げる制圧射撃が求められたが、最大30発のマガジンしか無い一七式では難しい話だった。
さらに一七式自動小銃ならともかく、軽機関銃としての性格が強い二四式小銃二型とコンビを組むと、軽機関銃としての役目を奪われがちになり、それどころか足手まといになることすらあった。
おまけに高温多湿なインドネシアでは、事前対策虚しく木製部品の腐食問題が発生した。
制圧射撃能力は45発装填弾倉を量産・配備することで場当たり的に対応したが、根本的解決には至らなかった。また木製部品を非腐食性部品に交換した試作銃が作られたものの、重量バランスが変わって命中率が落ちる問題も発生したことから量産化はされず、現場では木製部品が腐ったら銃ごと交換という対応を取らざるを得なかった。
いくら傑作兵器、九九式軽機関銃の子孫とは言え、性能が時代に追いつかなくなりつつある瞬間だった。




