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純愛  作者: 大河 亮
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 ピピピ、ピピピ。スマホのアラームが鳴り始める。今日は大学を休もうかな。風邪を引いたわけじゃないけど、なんだか身体がだるい。バイトで疲れたはずなのに昨日はよく眠れなかった。1日ぐらい休んだところで留年したりはしない。でも一度やると癖になるんだろうな。昨日は人生でも指折りの厄日だった。人生で初めて女の人を泣かせた。幼稚園や小学校で女の子と喧嘩したことはあった。でも最後は僕が泣かされた。その時僕は思ったものだ。もっと強くなって泣かしてやりたいと。でも実際は違った。人を泣かしたって気分はよくない。僕の弱さが人を泣かせたんだ。しかもそれが綾野さんだなんて。目を開けていても、目を閉じていても、綾野さんの泣き顔が浮かんでくる。笑顔にしたいと思ったこともあったのに。本当に最低だな僕は。僕はスマホのアラームを止めて起き上がる。大学に行かないと。


 ボーッとしている。退屈な授業はともかく、美術の授業中まで僕は上の空だった。眠くはない。寧ろ目は冴えてる。でもいくら紙に鉛筆を滑らせても、できあがるのは絵じゃなくてただの線の集合体だ。「お前、集中してねぇだろ」先生に注意を受けてしまう。なんとも気だるげな注意の仕方だ。この先生の場合注意なのかどうかわかりにくい。僕の好きな絵すらも集中して描けない。こんな気持ちいつまで続くんだろう。集中しようと首を回してストレッチしてみる。少しはマシになるだろうか。とにかく絵を仕上げないとな。


 昼休みになるといつも通り井上とお昼ご飯を食べた。「綾野さん、デートに誘ったのかよ」無邪気な顔で井上が訊ねる。心底楽しんでいるようだ。イラッとしないといえば嘘になるけど、僕が色恋沙汰について悩んでるのを喜んでくれているのがわかる。それは申し訳なかった。井上には相談にも乗ってもらったし、本来説明の義務があるかもしれない。でも今はちょっと説明する元気がない。「まだだよ」微笑む僕を井上は更にニヤニヤしながらイジってくる。こういう時間が積み重なれば、そのうちこんな気持ちも忘れるだろう。僕も笑いながら抵抗した。


 昼食後は特にすることがないので、次の授業が行われる教室に向かうことになった。僕と井上はそういう省エネな部分が数少ない共通点といえる。うちの大学は大きくはないが、それでも食堂から次の教室までは中庭を隔てた反対側にある。油断してモタモタしていると本気で走る羽目になる。体を鍛える目的で走り込むのはいいと思うけど、そういうのだけはごめんだ。中庭では十数人の生徒たちが昼食をとっていた。お弁当を持参したり、パンやおにぎりなんかを買ってきた場合は、中庭で食べる人も多い。中にはカップルらしき人たちもいて、幸せそうに食べさせあいっこしている。あれが俗に言う“あーん“ってやつか。羨ましくなんてないぞ。でも僕のイメージする付き合うってあんな感じだ。周りのことを気にせず、もしかしたら気にしてるかもしれないけど、自分たちだけの幸せな空間を作り出す。デートの時は手を繋ぐか腕を組んで歩く。おしゃれなカフェでは絡まった二口のストローで一つの飲み物を飲む。映画を見に行ったらめちゃくちゃでかいポップコーンを買って食べる。映画の最初こそしっかり見てるけど、そのうち手を繋いでキスシーンに合わせて自分たちもキス。遊園地の乗り物を2、3時間待つ間も他愛のない話は尽きない。乗り物が楽しみというより、二人でいるのが楽しいから。もちろん最後に乗るのは観覧車だ。夕焼けか夜景を見ながら二人並んで座る。そしてキス。綺麗な夜景が見えるレストランで食事する。するといきなりヴァイオリンの演奏が始まる。どうやらこれはハッピーバースデーの歌だ。相手の誕生日をロマンチックに祝う。さすがに照れくさいけど、これで喜ばない人はいないはずだ。そうなれば後はホテルか自宅に直行。まずはキスかな。どちらかというと僕のイメージではなく、僕の願望と妄想だな。世界中のカップルがこんなことはない。色んなことがあるし色んな人がいる。僕が恋愛をしたとして、絶対こうなるというわけでもないだろう。そして今は少し理解したつもりだ。僕の願望と妄想は無意味だ。好きな人と何かをすると、それが理想の恋愛になる。妄想が過ぎたな。僕は心の中で笑った。


「おい、見ろよ」井上が僕の腕を殴るようにして呼ぶ。痛いからもぉ。僕は井上が見ている方を見る。そこに居たのは綾野さんだった。僕の背中を冷や汗が流れる。綾野さんは二人の女の子とベンチに座ってお弁当を食べている。僕には気づいていない。笑顔でご飯を食べる綾野さんを見て僕は少しほっとした。クラスの人かな?友達ができたならよかった。昨日のことなんて大したことじゃなかったんだ。でもなんだか胸が締め付けられる。とにかくこのまま静かに通り過ぎれば大丈夫だろう。ところが。「俺が他の二人の注意を引くから、その隙に智哉は綾野さんを」事情を知らない井上は今にも駆け出しそうな勢いだ。「友達とご飯食べてるんだから、邪魔しちゃ駄目だよ」「お前、そんなこと言ってたら一生誘えないぞ」井上はなかなか止まってくれる様子がない。僕は井上の腕をとって強引に歩いた。井上は驚いていたが察したようになにも言わなかった。


 授業まであと20分。僕は机に頬杖を着いて座っていた。井上は荷物だけ置いてまたすぐに出ていったので、教室には僕ともう一人の眼鏡をかけた女の人しかいない。僕たちはいつも窓際の一番後ろの席に座るのに対して、彼女はいつも入口側の一番前に座っている。もちろん話しかけたことはない。彼女はいつもムスッとしたような顔をして一人でいる。髪を後ろで結んだ髪型は似合っているが、どこか垢抜けない様子だ。僕が言うのもなんだけど。その雰囲気と風貌から、みんなには裏で委員長と呼ばれているらしい。実質一人と変わらない状況だ。ふーっとため息を吐きながら窓の外を眺める。空が青い。天気予報も今日は晴れだと言ってた。そろそろ雨の季節だろうけど、最近は晴れが続いてる。そういえば最近は雨が降らないかなと願ったりしていた。少し前まで雨は嫌いだったのに。視線を下げてみると中庭が見えた。どうしても綾野さんを探してしまう。この角度だとまだいたとしても見えないのに。そんな風にボーッとしていたら、首に突然冷たいものが押し当てられた。全身の毛が逆立つようだ。こんなことするのは井上だけだ。「ほら、好きだろこれ」振り向いた僕に井上が差し出したのはペットボトルに入ったミルクティーだった。大学の敷地内に設置された自販機で100円で売っているものだ。外で買うと110円するので、大学にいるときはよく買っている。「ありがとう」「おぉ。で、どうした?」僕は井上に事の次第を話した。井上は真剣に聞いてくれた。なんだかそれだけで気持ちが楽になるようだった。「ふーん。お前まゆみん先輩と二人っきりで飲みに行くとかどんだけだよ。めっちゃ羨ましいじゃん」井上はおどけてみせたが、敢えて明るく振舞っているのはすぐにわかった。しかしすぐに真面目な顔になって。「まぁ状況としては辛いよな。でももういいのか?綾野さんのこと、ほんとに好きじゃないのか?」もういいのか。もういいなんてことはない。でももう仕方がない。それに僕は綾野さんを好きなつもりだっただけだ。これ以上この気持ちをどうにかしたいとは思わない。だって好きじゃなかったんだから。もう楽になりたい。「いいんだよ。もう終わり」自分勝手だとは思う。自意識過剰だとも思う。でも井上に話してすっきりして、そしていつかこの気持ちを忘れていく。今は辛いけど、一生引き摺ることではない。僕は一口ミルクティーを飲んだ。「そうか。まぁお前がいいんならそれでいいんじゃね」そう言って井上は微笑んでいた。また察してもらっちゃったな。またサバの味噌煮奢るよ。


 話を終えた僕はまたミルクティーに口をつける。そこで井上はすかさず僕の脇腹を指で突いた。まだ口に含んでいなかったからよかったけど、もし少しでも含んでいたら大惨事になっていたことだろう。僕はゆっくりとペットボトルの蓋を閉めた。そして素早く井上の脇腹を指で突く。やられたらやり返す。それが如何に無益な争いかは理解している。だが僕はこの戦いに勝つ。どうやら井上もそのつもりのようだ。戦いは激しさを増していく。最初は片手の人差し指一本だったものが、今では両手の人差し指二本。戦力は単純計算で二倍。だが対等ではない。僕の身長は175cm。それに対し井上は168cm。僕の方がリーチがある。しかし井上は高校時代バスケ部に所属していた。ポジションはPG。控えだったらしいが、帰宅部だった僕よりも敏捷性は高いだろう。そう、対等ではない。僕が不利だ。だが対等な戦いなどこの世にいかほどあるというのか?そんなものは望むべくもない。次第に追い詰められていく僕。だが本当の敗北とはなにか。それは心が敗北を認めたときだ。ならば僕はまだ負けていない。井上が僕にひれ伏すまで、僕は戦いをやめない。勝機は必ずあるはずだ。手数では負けても急所を的確に打つことができれば。圧倒的に不利な状況の中、僕は笑った。そして井上も。戦いは続いた。誰もが不毛だと思うだろう。戦っている僕たちでさえそう思っていた。この戦いの先にあるものとは一体。永遠に続くとさえ思われた戦い。その時、一発の銃声が鳴り響いた。かと思うぐらいバーンという大きな音がした。僕たちは驚いて音のした方を見る。すると委員長が教科書を持ってこちらを睨んでいた。どうやら教科書で机を叩いたらしい。にしてもあんな大きな音を出すなんて。僕たち、そんなに騒いでたんだろうか。とにかく僕たちは委員長の目が恐ろしくて俯いた。そこから会話はなかったが、井上のおかげで少しは気が晴れたと思う。委員長には悪いけど、僕は井上に感謝した。

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