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美術以外の授業は退屈だ。でも単位を取れなければ留年だ。それだけは困る。教育ローンで大学に通っている僕に留年はあってはならない。そうじゃなくても良くないけど。とにかく集中しよう。頑張るんだ。勉強を、絵を描くことを、バイトを。一番になんてなれなくても、それだけ頑張ればきっとマシな人間になれる。なにより僕は絵を描くのが好きだからこの大学に来たんだ。だったら頑張るのは当たり前なんだ。これから挫けそうになることもあるだろうけど、友達や先輩や上司がいるから乗り越えられる。頑張るんだ。とにかく、とにかく頑張るんだ。結局こんなことを考えてるうちは集中なんかできないんだろうな。なんかムシャクシャするな。そうだ。今日はこの授業で終わりだし、バイトの時間まで公園に行って葉桜をスケッチしよう。前に描きたいと思ったのをすっかり忘れてた。なんで忘れてたんだろう。答えはわかってる。まぁいいや。楽しみができたんだ。この授業はしっかり集中しよう。
公園にはいつも通り誰もいなかった。なんかいいな。やっぱり一人で描くとなると高揚感がまた違う。葉桜は綺麗だし前みたいに苦労することはないだろう。強いて言うなら、5月も終わりだというのになんだか肌寒い。まぁそんな日もあるかな。早速僕はスケッチブックと鉛筆を用意してスケッチを始めた。楽しい。紙に鉛筆が滑る感触。好きな感触。五感を研ぎ澄ますように絵を描いていく。幹、枝、葉っぱ。どれもすごい勢いで描かれていく。僕は絵を描くことの新しい扉を開いたんだ。それは決して上手い絵じゃないんだけど、これまでの僕になかったイキイキとした絵だった。気持ちで描くんだ。難しいことを考えるな。技術はその上に乗っければいい。さすがに偉そうだな。それはさすがに少しでも技術を乗っけてからだ。一人で微笑みながら僕は絵を描き続けた。そうしているとほんの1時間でスケッチが終わった。楽しい時間は一瞬で過ぎてしまう。それが楽しい時間の唯一の悲しいところだ。でもこの絵にはまだ色がない。この前は失敗したけど今回は忘れてない。第一これは課題じゃないんだからゆっくりやればいいんだ。そう、この絵は誰に貶されることもない。誰に褒められることもない。帰ろう。帰ってバイトの時間まで寝よう。
帰り支度のため鉛筆を筆箱にしまっているときだった。「こんにちは。先輩」後ろから声をかけられた。振り向くまでもない。というよりも。でも不自然なことはできない。僕は振り向く。「あぁ綾野さん。こんにちは」綾野さんに笑顔を向ける僕。多分ぎこちない。綾野さんも僕に笑顔を向けていた。「今日も絵を描きにきたの?」僕は片付けを続けながら綾野さんに質問した。「はい。先輩はもう終わったんですか?」綾野さんは屈託のない顔で質問してくる。思わず片付けをする手が止まってしまう。「そうなんだ。だから今日はもう帰るよ」僕がスケッチブックをリュックサックにしまおうとしたときだ。「そうなんですか。じゃあその絵を見せてくださいよ」綾野さんは好奇心旺盛な顔でそう言った。やめてくれ。「ごめん、まだ完成してないから完成したら見せるよ」僕は素早くスケッチブックをリュックサックにしまおうとする。しかし綾野さんがすっとスケッチブックに手を伸ばす。「いいじゃないですか。途中でも恥ずかしがることないですよ」「やめろよ!」気づけば僕は怒鳴ってしまっていた。僕自身驚く声だった。恐る恐る綾野さんの顔を見てみる。綾野さんは驚きと悲しみが混ざった顔をしていた。綾野さんはその顔のまま地面に手を伸ばす。何事かと思ったら僕はスケッチブックを地面に落としていた。それを綾野さんは拾い上げる。運悪く葉桜の絵が描かれたページが開いていた。「悲しい」絵を見た綾野さんがそう呟いた。悲しい?前は優しい絵だって言ってたじゃないか。僕は今回も綾野さんに言われたように描いたんだぞ。なのに全然違う印象の絵になるわけないじゃないか。「ごめん、返してくれないか」もうここに居たくない。僕は綾野さんに手を差し出す。綾野さんの目が僕の目を見つめた。そのときだ。綾野さんの目から一筋の涙が溢れた。なんで?泣くことないじゃないか。まるで僕が泣かせたみたいじゃないか。僕は見せたくないって言ったのに、綾野さんが強引に僕から奪おうとしたから。僕は綾野さんから目を逸らした。「ごめんなさい」そう言って綾野さんは僕にスケッチブックを渡すと、早歩きで公園から出ていってしまった。
悲しい絵ってなんだよ。僕は帰り道でスケッチブックの葉桜を眺めていた。自分の絵なのに眺めていてもわからない。案外綾野さんだってわかってないんじゃないか?ムカツク。綾野さんに限ってそんなわけないのに。なんで?なんでそんなわけないの?僕が綾野さんのなにを知ってるの?でも前の桜の木の絵と同じ気持ちで描いたんだ。描いたんだよ。思い返すまでもない。描いてないよ。同じ気持ちでなんて描いてない。そうだよあったのは悲しい気持ちだよ。なんでなのかな?綾野さんを好きだと思ってたのは勘違いだったんだろ?なのになんでこんなに悲しいんだよ。でも綾野さんのこと全然知らないんだから好きになんてなれないよ。しかも僕は勝手に悲しくなったからって、綾野さんを遠ざけようとした。その結果があれだ。最低かな?いや、最低だ。知らないから好きになれないんなら、綾野さんのことをもっと知ろうとすればよかったじゃないか。でももう遅いよ。僕は綾野さんを傷つけた。傷つけたのか?不思議だった。僕が女性を傷つける日が来るなんて。なに考えてるんだろう。綾野さんの泣き顔が頭に浮かぶ。これは当分頭から離れないだろう。とにかく僕はもう綾野さんに近づかない。綾野さんだってもう僕に関わりたくないだろう。恐れていたことだ。人と関わろうとしたばかりに、人が僕から離れていった。気づけば家の前。バイトまで2時間もある。でも寝れないんだろうな。僕は一人で微笑んでいた。