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こんなことになるなんて。僕は大谷先輩と二人きりで個室の居酒屋に来ていた。今のところ大谷先輩からなにも言ってこない。周りの部屋はどこも騒いでいるのに、うちの部屋だけ世界から切り離されたように無音だった。あの大谷先輩が僕に用なんて一体なんだろう。胃が痛くなりそうな程緊張していたところに、二人が注文したウーロン茶が届いた。それがスタートの合図となった。「さっきは無理に席替わってもらってごめんね。ああでも言わないと哀川くん、智哉くんを放さなかったと思うから」なるほど。あの時は酷いとか思ってすいませんでした。確かに大谷先輩に話したいと言われて従わない人間などいない。哀川先輩に対して効果テキメンだったわけだ。今ここにいる僕が言えた義理じゃないけど。「いえいえ。ありがとうございました」お礼は忘れない。でも僕を呼んだ理由はそんなことじゃないんだろう。だとするともうあのことしかない。「うん。でもね、智哉くんに来てもらったのは違う理由なの。綾野さんのことなんだけど」やっぱり。今日大谷先輩と話した内容から言ってこれしかない。雰囲気から察するに、いいことを言われるというのはなさそうだ。でもなんで?さっきはアドバイスしてくれていたのに。「綾野さんの話を聞いて思ったんだけど、ちょっと空気が読めない人だよね」僕への批判かと思っていたが、まさかの綾野さんへの批判だった。思わず大谷先輩に強い視線を送ってしまう。だが大谷先輩は怯むことなく。「ここで言う空気が読めないっていうのは、哀川くんに逆らったことじゃないよ。いじめられてる子を助けるのは立派だけど、みんなの前で大声で言っちゃうのはどうなのかな?いじめられてた子がかわいそうだと思うんだけど」そんな。それじゃあ綾野さんが可哀想だ。元はと言えば哀川先輩が悪いのに。「ではその場は見逃して、後でこっそり哀川先輩を問い詰めるべきだったということですか?」できるだけ語気が強くならないようにはした。大谷先輩は静かに首を横に振る。「それじゃあその子を助けられないよね。だけど井上くんは角が立たないようにその場を収めたんだよね」確かにそうだ。もっと言うならあの後井上は自ら哀川先輩の元に赴き、もう僕の隣に戻ってくることはなかった。哀川先輩のアフターフォローまでしっかりとしていた。それは認める。「確かに他にもやり方はあったんだろうと思います。でもみんなが井上みたいに上手くやれるわけではないと思います」「うん、井上くんは頑張ったよね。でも私が言いたいのは、綾野さんはそこまで考えたのかなってこと」食い気味で言ってくる大谷先輩。彼女の大きな目には力がこもっている。気づけば大谷先輩の方が熱くなっていた。僕は反論の言葉が浮かばない。
「それと、その綾野さんを智哉くんが好きっていうのが気になった」それは関係ないじゃないか。どんな人を好きになるのかなんて誰にもわからない。僕はまた強い視線を送ってしまう。「智哉くんはこれまで自分が見たことないタイプの人を見て好きになってる。でもそれはほんとに好きなの?綾野さんのことを智哉くんはわかってるの?自分でもそういうこと考えたことない?」大谷先輩は身を乗り出しそうな勢いだった。こんなに真剣に言われるのは綾野さん以来だ。「好きですよ。僕は綾野さんが」僕の声は弱々しかった。恋愛初心者の僕では自信も説得力もないと思ったからだ。「それは智哉くんが綾野さんになんとなく共通点を感じて、言い方は悪いけど不思議ちゃんなところが気になってるからだよ」大谷先輩の言い方は辛辣だった。本当に好きなのか。それはこの前答えを出したはずだった。でも確かに僕は綾野さんのことを少ししか知らない。彼女と会ったのは四回。その四回で綾野さんのことを好きになったつもりだった。でも本当に好きっていうのは、もっとその人のことを深く知らないといけないんじゃないか。言い返したい気持ちはある。でもそれは僕が意固地になってるだけじゃないのか。「はい」僕は小さく返事した。反論の言葉を探したけど見つからなかった。もしかしたら本当に綾野さんのことが好きだったかもしれない。でもこのぐらいで折れる気持ちならその程度だったんだ。浅はかだった。そんな気持ちでは人を好きになる資格はないんだ。「ごめんね。でも智哉くんが心配だったから」大谷先輩は申し訳なさそうに目を伏せる。あまり大きくない大谷先輩が更に小さく見えた。「いえ、ありがとうございます」正直少し悲しい気持ちだった。でもお礼は忘れない。こうして二人だけの短い二次会が終了した。
暗い道は怖いからと言われたので、僕は大谷先輩を寮まで送る。なんとも気まずい時間だ。しかし大谷先輩が沈黙を破った。「ごめんね。きついことばっかり言って」大谷先輩が呟くように言った。「いえいえ、大丈夫ですよ。こちらこそ遅くまですいません」僕は明るいトーンで言った。大谷先輩に悲しそうな顔をしてほしくなかった。美人に涙は似合わないぜ。とか言えたら笑いがとれるのかな?「ほんとにごめんなさい。実は私が今日飲み会に遅れてきたのは、彼氏と別れてきたからなんだ」え?くだらない事を考えていた僕はド肝を抜かれる。彼氏と別れたって。そんな風には全然見えなかった。そんな日に飲み会に来たの?だって恋人と別れたらめちゃくちゃへこむんじゃないの?というかなんでそれを僕に言ったの?『ほんとにごめんなさい』ってどういうこと?パニックでどうにかなってしまいそうだけど、とにかくなにか言わないと。「そうなんですか。そんな時に相談に乗ってもらってありがとうございます」とにかく感謝の言葉を述べよう。悲しいときはプラスの言葉を聞くのがいいはずだ。やっぱりありがとうって言われると気分いいもんね。僕の気持ちが届いたのか大谷先輩が少し微笑む。「どうして別れたか聞かないんだ。智哉くんは優しいね。私、彼氏と別れたときに思ったんだ。私は彼のどこが好きだったんだろうって。それで私は自分勝手だからさ、勝手に智哉くんにはそんな思いしてほしくないって思っちゃったの。だから偉そうに説教したけど、それは智哉くんのためじゃなくて私のためだったんだよ」なんか自分が恥ずかしいな。大谷先輩は僕以上に僕のことを考えてくれてるじゃないか。それに大谷先輩は強い。経験値の差かもしれないけど、僕なら恋人と別れた後に人に説教はできない。そんな人にこれ以上悪いと思わせてはいけない。「大谷先輩は自分勝手じゃありません。僕は大谷先輩に説教してもらえてよかったです。だからもう気にしないでください」本当は慰める言葉でもかけられればいいんだけど、そんなことが器用にこなせないのはわかっている。だからせめて僕は本当に感謝しているという気持ちを伝えたかった。大谷先輩がまた微笑む。「ありがとう」よかった。気持ちが伝わって。それにやっぱりありがとうって言われるのは気分がいい。
寮の前に着くと大谷先輩はくるりとこちらに振り向いて。「ありがとう。智哉くんに元気づけられちゃったね。また一緒に飲みに行こうね」そう言って大谷先輩ははにかんだ。この後一人で泣いたりするんだろうか。そう思うと可哀想だ。でも人に見られずに泣く時間も必要だと思う。「お疲れ様でした」僕は短く挨拶を済ませて帰路についた。大谷先輩は早く自分の部屋に帰る方がいいだろう。これが僕にできる精一杯だ。
帰り道では綾野さんのことを考えていた。彼女は多分悪い人じゃない。でもそれは結局のところ多分でしかない。大谷先輩が言っていたように、人と違う綾野さんに少し魅力を感じて好きだと勘違いしてただけなんだろう。これで僕の恋も終わりか。少し寂しい気持ちもあるが、誰も傷ついていないじゃないか。彼氏と別れてもみんなの前で笑っていた大谷先輩に比べれば屁でもない。明日からまた勉強して、絵を描いて、バイトしていつも通りの毎日に戻る。それでいいんだ。もしまた同じような気持ちになったら、今度はもう少しマシに人を好きになることができるだろう。僕は大谷先輩に改めて感謝しながら帰り道を歩くのだった。