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純愛  作者: 大河 亮
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「悪い、昼飯奢ってくれ」顔の前で手を合わせて井上が僕に頼む。「なんだよ、もう今月ピンチなのか?」「悪い。いろいろあってな」いろいろって。まだ5月10日だぞ。井上のバイト先の給料日までまだ15日あるのに、どうやって生きていくんだか。まぁうちの大学の学食は安いからいいけど。僕は呆れながらも頷いた。井上は嬉しそうにサバの味噌煮定食を注文する。もう慣れっこだ。


「そういや、課題終わったのか?」サバの味噌煮を掴んだ箸で僕を指す井上。「まだだよ。もう少しだけど」「マジかよ。提出期限明後日だぞ。アドバイスしようか」全く調子のいい奴だ。第一アドバイスを受ける段階は既に終わってる。僕は静かに首を横に振った。「今日の授業が終わったらまた公園で描くよ」「花咲いてんのか?」「わからないけどインスピレーションは湧くでしょう」「ふっ」失礼な奴め。まぁ画力で負けてるので仕方ないけど。でも絵は上手さじゃないから。頑張って描いていれば本当にいい絵が描けるはずだ。なにより好きなことだし。バイトまでの時間制限いっぱい描いていたい。そんな僕は放ったらかしで井上はサバの味噌煮を食べている。美味しそうでなによりです。


 授業が終わると僕はまた大学最寄りの公園にやってきた。今からなら2時間は絵を描ける。高揚感を覚えながら僕はリュックサックからスケッチブックと鉛筆を取り出す。井上が言ったとおり花は完全に散っていた。それどころか綺麗な葉桜になっていた。これはこれで描きたい。でも今は課題を終わらせないと。僕は桜の木を見ながらスケッチを始めた。しかし開始10分で行き詰まってしまう。元々描いていた散りかけの桜の木と、今の綺麗な葉桜ではあまりにも印象が違いすぎた。当たり前だけど。インスピレーションと言った僕を笑った井上の顔を思い出す。自分の計画性のなさと画力のなさを思い知らされる。はぁーっと溜め息が漏れてしまうが、悲観していても仕方がない。僕がもう一度桜の木を見たときだった。「行き詰まってるんですか?」後ろから急に声をかけられた。慌てて後ろを振り向く。そこに立っていたのはなんと綾野さんだ。何故ここに。急に声をかけたのは僕を驚かすためだったんだろうか。もしかしてまだ仕返しは続いてるの?「綾野さん。どうしたの?」綾野さんの様子を窺ってみたが、彼女は特別表情を示さなかった。驚かす気はなかったようだ。なら何故この公園に?まさか。「私、公園が好きで、公園の絵を描こうと思ってきました。そしたら先輩がいたのでびっくりしました」あ、そうだよね。絵を描くのが好きなら公園に来たりするよね。別になにかを期待したわけじゃないよ。というかびっくりしたのは僕なんだけど。そしてやっぱり呼び方は先輩なんだ。「そうなんだ。僕は課題の絵を描いてるんだけど、スケッチしてた桜の木がだいぶ変わっちゃったから悩んでるんだ。やっぱり物事は計画的に進めないと駄目だね」最後のは照れ隠しだった。これで愛想笑いぐらいしてもらえば多少格好つくよね。しかし綾野さんはくすりとも笑わずに僕のスケッチブックを覗き込む。正直、人に絵を見られるのは恥ずかしい。ただこんな話をしておいて隠すわけにもいかない。綾野さんは真剣な表情で僕の絵を眺めていた。そんなに真剣になるほどいいものではないと思うけど。しばらくすると綾野さんの雰囲気がどことなく優しいものになった。彼女は優しい笑みを浮かべると。「すごく優しい絵ですね。難しいこと考える必要ないと思います」また僕を照れさせるようなことを言う。それに優しい絵ってなんだよ。「でも下手でしょう」また照れ隠しをしてしまう。本当は嬉しかったし、気持ちも楽になっていたのに。綾野さんは優しい笑顔のまま。「頑張ってください」そう言ってブランコの方に歩いていった。よくわからない人だな。やっぱり“あやのちえ“なんだ。


 僕は桜の木を描き続けた。難しいことを考えず紙に鉛筆を滑らせる。不思議だった。小さい頃絵を描いていたときの気持ちが戻ってくる。今も絵を描くのは好きだけど、あの頃が一番楽しくて好きだった。頭や手を使って絵を描くんじゃない。心で絵を描いているんだ。1時間で桜の木のスケッチは終わった。写生という意味ではいい出来だとは言えないだろう。でも大学生になってから描いた絵で一番好きだ。本当にいい絵が描けるとこんなに満足感があるなんて知らなかった。全部綾野さんのお陰だ。お礼を言わないと。寧ろ言葉だけでいいんだろうか。とりあえず辺りを見回して綾野さんを探す。するとブランコの前の柵に腰かけて絵を描いているのを見つけた。僕は駆け出したい気持ちを抑えて綾野さんのもとへ向かう。そういえば後ろから急に声をかけたら驚かすことができるかも。とにかくテンションの上がっていた僕はそっと忍び寄る。そしていよいよ綾野さんの背後に立ったときだ。「えっ」驚いて声を上げたのは僕の方だった。綾野さんの背後から見たスケッチブックに描かれていた絵がとんでもないものだったからだ。上手い。そんな言葉で片付けていいものじゃない。だが他に形容する言葉が見つからなかった。綾野さんが描いているブランコを見た瞬間、僕はブランコに乗っていると錯覚していた。小さい頃に乗って後ろから母さんに押してもらったときの楽しさ。もっと高くもっと高くと言っていた記憶。それはほんの一瞬だったと思う。でも僕の心は確かにあの頃にタイムスリップしていた。さっきの答え合わせだけど、この絵は上手いとかじゃない。僕はもうこの絵を愛してしまっている。それが一番正しい言葉だと本気で思う。「先輩!」気づいたら心配そうな顔をした綾野さんが目の前にいた。恐らく何度も僕を呼んでいたんだろう。「ごめん。綾野さんの絵を見て気絶してたよ」渾身のボケだ。まぁいいんじゃないかな。あながち嘘とも言いきれない。だが綾野さんはくすりとも笑わなかった。当然といえば当然なんだけど、ここまでくると泣いちゃいそうだよ。この空気をどうしようか考えていた僕。すると綾野さんの手が僕の頬に触れた。突然のことに全身が硬直する。なのに心臓はめちゃくちゃ速く動いてる。なにされるの僕。まさか。「涙」え?僕も慌てて頬を触ってみる。すると指先が濡れた。あの絵を見て泣いていたんだ。綾野さんはずっと心配そうな顔で僕を見つめている。「ごめん、ごめん。綾野さんの絵を見たら懐かしい気持ちになって。まさか泣いちゃうなんて。カッコ悪いな」僕は努めて明るく話した。本当に恥ずかしかったけど、これ以上悲しそうな綾野さんを見ていられなかった。だって僕のせいじゃないか。僕のせいでこんなに悲しい顔させるなんて。とにかく僕は馬鹿みたいに明るく振る舞うことにした。「なんだか久しぶりにブランコ乗りたくなってきたなぁ。ちょっと乗っちゃおうかなぁ」僕はブランコに座った。10年ぶりぐらいだろうか。上手くできるかな。僕はブランコを漕ぎ始める。ブランコの位置ってこんなに低かったっけ?前にいくときはいいけど、後ろにいくときは足をかなり折り曲げないといけないからキツい。それでも楽しそうにブランコを漕ぎ続けた。だんだん体が高いところに上がっていく。正直ちょっと怖い。よく見るとブランコの鎖は錆びている。子供用に作られたブランコは、一体何キロの負荷まで耐えられるのかな。それでもひたすら楽しそうに。浮遊感がすごい。視界全て空になる。でも本当にちょっと楽しいかも。まさかこんな気持ちになるなんて。本当に不思議だな。さぁそろそろ止まろうか。ブランコから降りた僕は綾野さんのもとに歩いていった。つもりだったが、よろよろと左に逸れていく。とっさにブランコの前の柵に手を着く。ぎもぢわるい。「大丈夫ですか?」綾野さんの心配そうな声が聞こえる。また心配かけちゃったな。僕は笑顔を作ってから顔を上げると。「大丈夫、大丈夫」と言ってみせた。すると綾野さんが。「もぉ。いい歳して本気でブランコに乗るからですよ」と言って笑った。もうすっかり悲しい雰囲気はなくなっている。よかった。本当によかった。「いい歳してって、同い年じゃないか」僕も本当の笑顔を見せられた。気持ち悪いままだけど。


「でも、びっくりしたよ。綾野さんってあんなに絵が上手いんだね。あんな絵見たことないよ」帰り道で僕は綾野さんの絵について感想を伝えていた。僕の語彙力でどこまで伝えられるかという思いはあるけど、とにかく思ったことを伝える。「綾野さんはコンクールとかにどんどん出すべきだと思うよ。きっと他の人たちも綾野さんの絵を見たら感動するよ」僕は興奮していた。もっと絵の上手い人なら、綾野さんの絵を見て嫉妬したりするのかもしれない。でも僕の画力では全くそんな気は起きない。でもそのお陰で綾野さんの絵を手放しで褒めることが出来るんだから、絵が下手だったのも悪くないように思える。だが彼女の反応は素っ気なかった。「ごめんなさい。私は好きな絵を描けるだけでいいんです。褒めてくれてありがとうございます」正直残念だった。綾野さんなら絶対に金賞を取れるのに。でも絵の楽しみ方は人それぞれだ。綾野さんがそうしたいと言うなら、それが一番いいはずだ。「そっか。そうだ。綾野さんにアドバイスもらったらいい絵が描けたよ。って自分で言うのもなんだけど。それにすごく楽しかった。ありがとう」忘れてたけど、僕はお礼が言いたかったんだ。「よかったです。是非見せてください」そう言って綾野さんは僕に両手を差し出す。僕はリュックサックからスケッチブックを取り出して、桜の木の絵のページを開いて渡した。絵を見た綾野さんはまた優しい笑顔を浮かべる。「優しい絵ですね」嬉しかった。こんな風に僕の絵を見て、優しい笑顔を浮かべてくれる人がいるんだ。もっとこの人の笑顔が見たい。僕がこの人を笑顔にしたい。「それによかったです。先輩の課題が終わって。このスケッチを提出するんですよね」あっ。色、塗ってない。バイトまであと30分。終わった。また明日がんばろう。

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