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ジリリリと授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。今日はこれで終わり。6時のバイトまで用事はない。とりあえず一回帰って寝るとしよう。生きていくためには仕方がないとは言っても気が滅入る。楽して儲けたいとも思わないが、もう少しシフトが減らせたらとも思う。楽して儲けたいと思うのと同じことか。いや、さすがにこのぐらいみんな思ってるんじゃないかな。
キャンパスを出るとどんよりとした空模様だった。どうやらさっきまで雨が降っていたようで水溜まりが出来ている。確か天気予報では夜から雨だったはずなのに。気が滅入る。とにかくまた降り出す前に急いで帰ろう。走るのは嫌なので気持ち早歩きになる僕。早歩きで帰っているとまた知っている人が前を歩いている。“あやのちえ“だ。確かに見かけることはあるかもとは思ってたけどこんなに早いとは。まだ飲み会から4日しか経ってないのに。結局彼女は本当にサークルに入らなかったのだろうか。活動がないのでわからない。活動がないなら入っていても入ってなくても関係ないけど。彼女は水色の長袖Tシャツに薄いグレーのチノパンを履いている。色違いの“あやのちえ“だ。彼女はスキップでもするように軽快に歩いている。何かいいことでもあったのだろうか。そのときふと彼女が空を見上げた。本当に少しだが小雨が降ってきたからだ。嫌な天気だ。僕は眉間に皺を寄せる。でも彼女は違った。空を見上げたまま優しく微笑んだのだ。彼女にとってのいいこととは雨が降ったことだったみたいだ。彼女は持っていたビニール傘を開くと、腕を伸ばして空に掲げた。よほど嬉しいみたい。そして近くにあった水溜まりの水をビニール傘ですくいだした。僕はやらなかったけど小学生のときにやる奴がいたな。テンションMAXといったところなんだろう。その時になってようやく彼女は辺りを見回した。そして僕と思いっきり目が合った。気づけば僕も彼女に見入ってしまっていたようだ。彼女の顔は一瞬で赤く染まり、目を大きく見開き口を半開きにしながらわなわなと震えている。本当にこんなリアクションをする人がいるなんて。僕はつい吹き出してしまう。すると彼女は傘をさしてさっさと歩き出した。僕は小走りで彼女に追いつくと。「ごめん。あやのさんが水遊びしてたから笑ったんじゃないんだ。ただ恥ずかしそうにしてたのがおかしくって」僕が話しかけたことで彼女は立ち止まった。そして内側から雨が降る傘をさしたまま僕を睨みつける。まさか僕が哀川先輩みたいに睨まれるとは思ってなかったな。でも少し違うようにも思える。「大丈夫、他の誰かに言いふらすようなことはしないよ。雨、好きなの?」僕が質問すると彼女は下を向いて。「はい」と答えた。
出会ってしまえば一緒に帰ることになる。と言っても大した距離じゃないけど。とにかくなにか話さないと。「入るサークルは決めたの?」「いえ、色々見て回りましたがどこもしっくり来なかったので」「へぇー」さぁ次の話題。「大学生活はどう?もう慣れた?」「はい。クラスの人たちはみんなまだよそよそしい雰囲気ですが」「あぁ初対面の人同士だとどうしても気まずいよね」「はい」えっと次の話題。「どうしてうちの大学を選んだの?」「絵を描くのが好きなので、絵の勉強がしたくて選びました」「そうだよね。美大だもんね。僕も絵描くの好きなんだ。みんなに下手くそって言われるけど」「そうなんですか。でも絵は上手さじゃないので」「そう言ってもらえると助かるよ。ありがとう」ぎこちなく微笑みあう二人。どうしよう次の話題。駄目だ。思い浮かばない。絵を描くのが好きな者同士なら絵の話を広げるべきか?いや、あの話は完結しただろう。今更むし返すことなんてできない。どうしよう。普段遭遇しないピンチに僕は内心パニックだった。すると“あやのちえ“が。「あの、どうして新人歓迎会の時、いじめられてる人を見てみんなが笑ってたのに、先輩だけ笑ってなかったんですか?」パニックだった僕の頭が一瞬で冷静になる。僕が笑っていなかったことを知ってたんだ。でもこの前はみんな笑ってたって言ってたよね?ていうか先輩って呼ばれるのなんかいいな。最後のはいいとして彼女は真剣に聞いている様子だ。「実は去年の新歓のときは、僕があの子の立場だったんだ」僕も真剣に答えた。“あやのちえ“はなにも感じなかったように表情を変えなかった。でも彼女の雰囲気が悲しいものになったように僕は感じた。「あやのさんからすれば意味不明かもしれないけど、僕は去年何度も一気飲みをさせられてもサークルを辞めなかった。いじられキャラに徹すれば僕みたいなつまらない奴でも気に入られると思ったんだ。でも結果僕はこの前の新歓に呼ばれなかった。たまたまサークル内の友達が誘ってくれたけど。割に合わないことしたよね。何度もトイレで吐いたのに結局意味なかった。あの子がそうならなかったのはあやのさんのお陰なんだよ。だからあやのさんが哀川先輩を止めたのは、やっぱりすごいことだったと思うよ」異性に対してこんなにはっきりと思っていることを伝えたのは初めてだ。恥ずかしい。めちゃくちゃ引かれたかもしれない。でも別にいいんじゃないかな。本当に思ったことだし。友達でもなんでもないんだし。素っ気ない返事が返ってくると思ったが、彼女はなにも言わなかった。よっぽどウンザリしたのかな。僕は早く帰って寝たい気持ちが強くなった。
結局そこからは“あやのちえ“のマンションの前までなにも話せなかった。前と同じだ。外はまだ明るかったけど彼女を無事家まで送ったんだ。これでよしとしようじゃないか。僕の中で彼女のことは決着をつけたつもりだった。しかし彼女は僕に振り返ると。「この前は先輩も笑ってたみたいに言ってしまってすみませんでした」そう言って深々と頭を下げたのだ。「え!?いや、ごめん。別にいいんだよそんなの。僕だって止めなかったんだから同罪だよ」正直嬉しかったけど、恥ずかしかったので否定してしまう。すると彼女はすかさず。「違います!」なかなか大きな声だったので驚いた。彼女には驚かされてばっかりだ。彼女は頬を赤く染めてまっすぐ僕を見ている。なんでそんなに真剣になってくれるんだろう。そしてやっぱりまつ毛長いな。「あの、そんなに謝られると気になっちゃうんだけど、どうしてこの前は笑ってたって言ったの?」僕の質問に彼女は恥ずかしそうにモジモジし始める。「この前はもう会うこともないだろうと思ったので、変に後腐れのないようにと思ったんです」そう言うと彼女はしゅんと俯いてしまった。さっきまでの冷たい態度は飽くまで僕と距離を置きたかっただけか。本当の“あやのちえ“は実はこんな風に感情豊かで素直な女性なんだ。にしてももう限界だ。「ふふふふふふっ」僕が笑い出すと“あやのちえ“はキョトンとしてしまった。「ごめん、あやのさんがすごい色んな顔するから」僕がそう言うと、みるみるうちに彼女の顔が真っ赤になっていった。そして笑い続ける僕を睨みつけている。申し訳ない気持ちはあるけど、どうしても堪えられない。「失礼します」そして彼女は怒った声で僕に背を向けマンションに入っていこうとする。そんな彼女を僕は呼び止める。「ごめん、あやのさん。あやのちえってどんな漢字なの?」なんだか気になってしまった。もちろんこんなことは初めてだ。“あやのちえ“はやはり怒った顔で持っていた鞄の中から何かを取り出した。そして僕の眼前にそれを差し出す。どうやら学生証だ。綾野智愛。それが彼女の名前だ。これでちゃんと名前を知れたんだ。というかちょっと待って。ふと生年月日を見て僕は驚いた。同い年じゃないか。記載ミスじゃないよね。「綾野さんと僕って同い年なの?」すると彼女は改めて怒った様子で。「そうですよ。それより先輩の名前は教えてもらえないんですか」やっぱり間違いなく同い年なんだ。どうりで初めて見たときに女の子じゃなくて女性だと思ったのか。多分だけど。まぁそれは一旦置いといて。そろそろ僕の名前を教えないと本当に失礼だ。僕はリュックサックから学生証を取り出して綾野さんに見せた。彼女はまた真剣に学生証を見ている。「智哉さん。同じ字が入ってるんですね」そういえばそうだな。だからなにと言ってしまえばそこまでだけど、なんとなく共通点があるのは嬉しい。ただちょっと照れくさい。僕が一人恥ずかしがっていると。「ではお互い名前もわかったところで私は帰りますね。失礼します。先輩」いや、結局先輩って呼ぶのかい。綾野さんはイタズラな笑顔を浮かべている。やっと仕返しができたとか思ってるんだろう。まぁ散々笑っちゃったし突っ込まないでおこう。「じゃあ」軽く右手を上げて僕も挨拶した。
綾野さんと別れてからの帰り道。あと何時間かに迫ったバイトのことを考えても、もう気が滅入ることはなかった。帰ったらすぐに寝たいとも思わない。多分寝るだろうけど。綾野さんの癒しの力だろうか。それにしても傘で水をすくってたのはすごかった。僕に見られて顔を真っ赤にして。思い出すとまた笑いそうになる。家に着くまで綾野さんのことを思い出すのはやめた方がよさそうだ。でも思い出さないようにと思うと余計に頭に浮かんでくる。しょうがない。人もいないし今のうちに笑いを消化しよう。そして僕は思いっきり笑った。人目を気にすることはない。そう、僕は一人なのだ。と思っていた途端、曲がり角から自転車に乗った女子高生が出てきた。そして僕と思いっきり目が合った。女子高生は即座に僕から目を逸らすと、なんの表情も浮かべずに颯爽と走り去っていった。なんでよりにもよって女子高生、JKなのか。今一番見られたくない人種じゃないか。確実にやばい人だと思われた。綾野さんもこんな気持ちだったのか。あぁ気が滅入る。早く帰って寝よう。