【4】
一人になることが少ないベアトリーチェとはいえ、一人になることもある。その時、彼女は一人だった。車椅子を自分で動かしながらゆっくりと進む。
一人でも大丈夫だが、移動速度が落ちるのが難点だ。ついでに、廊下の幅も必要である。それでも、たまにはこうして自分で動かないと、本当に身動きが取れなくなってしまっては困る。
「……あら?」
不意に、ベアトリーチェは違和感を覚えた。いつも通りの廊下に見える。しかし……。
取り込まれたかしら。
どうやら、異空間に入り込んでしまったようだ。『場』を支配する魔術がこの周辺にかかっていたのだろう。ベアトリーチェはまんまと入り込んでしまったわけだ。
警戒しながらも前に進む。立ち止まるのは危険だと判断したのだ。
不意に、背後に気配を感じた。にゅっと目の前に手が出てきて、ベアトリーチェは反射的にその手を払った。その勢いが強く、ベアトリーチェはその場で車椅子からひっくり返ることになった。
「いっ……!」
ぶつけた肩が痛い。しかも、車椅子が足に直撃した。痛かった。
ベアトリーチェは背後に目を向ける。いかにも魔術師の恰好をした人物がそこに立っていた。
「力……その力が欲しい……!」
「!」
恐怖を覚えた。覚えがある……ヴィルフレードが言っていた、『魔法を奪う』と言う言葉。ついに遭遇してしまったようだ。
これまで続いている、学生たち、もしくは教員の魔力が奪われる事件。これまで大した被害もなかったため捨て置かれていたが、今回は明らかにベアトリーチェの『魔眼』に目をつけていた。
ベアトリーチェは魔法式を組み立てると強く床をたたいた。車椅子が浮き上がり、いかにもな人物にぶつかる。その瞬間、彼女は立ち上がった。そのまま勢いよく駆けだす。とにかく距離を取り、この異空間から抜け出す必要があった。
彼女は走りながら術式を組み立て、異空間から脱出した。しかし、その場で膝をついてしまう。息が上がっている。普段、運動をしない弊害だ。
すぐに、あいつが迫ってくる。立ち上がろうとしたが、できなかった。
「……見つけた」
声がして、振り返ったその瞬間である。白刃が一閃した。
「……レナート殿」
「大丈夫ですか、ベアトリーチェ嬢」
背の高い青年がベアトリーチェをかばうように立っていた。どうやら、彼が襲撃者を剣で攻撃したらしい。声が出なかったので、ベアトリーチェはこくりとうなずく。
レナートはよかった、と微笑むと、魔術師に向かって行った。このまま捕らえてしまう気なのだろう。ベアトリーチェは体勢を立て直すと、いつでも魔法で援護できるように構えた。
レナートの剣が魔術師をかすめた。ベアトリーチェはとっさに魔法を放った。目くらまし程度の光魔法であるが、魔術師がひるんだ。レナートが捕まえようと手を伸ばす。
その手は空をつかんだ。目の前にいたはずなのに、マントだけ残して中身が消えた……。
「転移?」
「いえ……初めから、『本体』はなかったのだと考える方が自然です」
床に座り込み、手をついた状態でベアトリーチェは言った。それに気づいたレナートがさっと駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか」
いつかも聞いた言葉だな、と思いながらベアトリーチェは「大丈夫です」と答える。
「すみません、取り逃がしました」
「いえ……私の注意が散漫で、追いかけられていただけですから」
答えるベアトリーチェの肩を支えながら、レナートは苦笑した。
「やはり狙われてしまいましたか……しかし、失礼ですが、どうやってここまで?」
ベアトリーチェは歩けないわけではないが、自力で走るのはほぼ不可能で、高確率で車椅子に乗っている。なのに、その車椅子がどこにもないのだ。不自然だろう。ベアトリーチェはちょっといたずらっぽい表情を浮かべる。
「魔術師には奥の手があるものです。……まあ、レナート殿が助けて下さらなければ、意味のないものでしたが」
レナートが助けてくれなければ、魔眼を奪われていたかもしれない。自身の魔眼にさほど執着を持たないベアトリーチェだが、さすがに目が見えなくなるのは困る。魔眼を摘出しても足が動くようになるわけでもなし、義眼はあるが、定着は難しい。ならば、魔眼と折り合いをつけて生活するしかないのだ。
「……なので、助けていただき、ありがとうございます」
微笑んでそういうと、なぜかレナートは痛ましげな表情になった。
「……無理にでも一緒にいるべきでした……」
「それは私が生意気にも調査に協力しないなどと申し上げたからで」
だから、自業自得なのだ、と苦笑するが、レナートは取り合わず、相変わらず苦悩するような表情を浮かべていた。
「そういう問題ではありません。たとえ協力していただけなかったとしても、狙われる可能性が高いのだから、ちゃんと目を配っておくべきでした。申し訳ありません」
その真摯な言葉に、ベアトリーチェは目を細める。
「いいえ。本来、魔法大学での出来事は不干渉、とされるのですから、助けなど求めては、罰が当たってしまうでしょう」
「そんなことはないと思いますが……」
顔をゆがめたレナートだが、ベアトリーチェが床に座り込んだままなのに気づき、言った。
「失礼して、抱き上げてもよろしいですか? お連れします」
はい、とベアトリーチェはうなずいた。それからふと思う。
「そういえば、なぜ私がここにいると分かったのですか?」
ベアトリーチェの肩と膝裏に手をまわしながら、レナートはいたずらっぽく笑った。
「先ほど見かけたとき、あなたが一人だったので、追いかけました。姿が見えなくなったので、別空間に取り込まれたのだろうな、と。少し探すのに手間取りましたが」
「そうですか」
ベアトリーチェは、ひとまずその言葉を信じることにした。先ほど、彼は『目を配っておくべきだった』といったところなので、一人でいるベアトリーチェを気にした、というのは大いに考えられた。
レナートが彼女を連れて行ったのは、医務室だった。おとなしく医師の診察を受ける。車いすから転げ落ちたのは事実であるし、多少無茶をした自覚はある。大したことはない、と思っても、そもそも自由に歩けないベアトリーチェにとっては、命取りになることだってありうる。
「大事ないようでよかったです」
「ご心配をおかけしました」
苦笑してベアトリーチェは言った。
「そういえば、敵を取り逃がしてしまったのでは? 申し訳ないことをしてしまいました」
「いえ、ベアトリーチェ嬢のせいではありません。どちらにせよ、私ではとらえるのは難しかった……殺すのならともかく」
「……」
ベアトリーチェは上目遣いに彼を見て、少し考えてから結局口を開いた。
「それなら、なおさら私は謝らなければならないでしょう」
「なぜ?」
「私がなりふり構わなければ、とらえることは不可能ではなかったからです」
一呼吸おいて、ベアトリーチェは言った。
「私の魔眼は、強制・拘束において強い力を持ちますから」
その言葉を聞いて、レナートは目を見開いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
現在更新停止中の『昨日の私にさよならを』のお兄様(透一郎)が使っていた無理やり足を動かすために使っていた魔術の開発者が、ベアトリーチェです。