【10】
「ビーチェ! 来たわよ!」
その手紙は間もなく届いた。王妃のサロンから二日経った日のことだった。母の大声で、何事かと父とフィオレンツァが顔を上げる。兄は研究にかかりきりで、ここ数日帰ってきていない。
大声で呼ばわっても、ベアトリーチェは動かなかった。というか、ソファから彼女が立ち上がる動作をするよりも先に、郵便を受け取ってきた母がやってきた。
「はい」
手紙を一通手渡される。母のうれしそうな声から察していたが、レナートからである。本当に手紙をくれた、とうれしい気持ちもあるが、わくわくした様子の母にうんざりする気持ちもある。気を利かせた侍女がペーパーナイフを渡してくれたので、その場で開封して目を通した。母が、声に出すわけではないが視線で何と書いてあったのか、と尋ねてくる。
「……遠乗りのお誘い。行ってきてもいいかしら」
「まあ!」
やっぱり母は嬉しそうに声を上げた。フィオレンツァは「誰から? まさかのレナート様!?」とベアトリーチェに駆け寄ってくる。連鎖反応で「誰だそれは!」となる父。しかし、父は貴族議員なので、たぶん近衛騎士は知っているはずなのだが。
「レナート様から……フィオもよければ一緒にって」
「ビーチェが行くならもちろん行く!」
フィオレンツァは即答した。ぜひ行ってきなさい、と騒ぐ母は、フィオレンツァに向かって言った。
「ジェズアルド君も誘ったら?」
「ええ~。別にいいけど」
とフィオレンツァは首をかしげたが了承した。これは絶対理解していない。
そこで、女性陣に置いていかれていた父が口をはさんだ。
「それで、レナートって誰だ!?」
「カレンドラ侯爵家の長男さんよ」
「ていうか、近衛騎士だからお父様も見たことあると思うよ」
楽し気に言ったのは母で、冷静に指摘したのはフィオレンツァである。父は思い出そうとしているのか、眉をひそめた。
「……近衛なら、確かに会ったことがあると思うんだが」
「無理に思い出す必要はないんじゃない?」
ベアトリーチェが苦笑してツッコミを入れるが、父はまじめな顔で言った。
「いや。かわいい娘のことだ。半端にはできん」
「いや、そんなにきりっと言われても」
と、ベアトリーチェはやはり苦笑する。それから、ああ、と思い出した。
「レナート様、お兄様にお世話になったって言っていたわ。お兄様なら知っているわよ」
たぶん。少なくとも、以前少し話をした時には、顔見知りくらいではあるようなそぶりだった。丸っと押し付けてしまったベアトリーチェである。
事実、ベアトリーチェはレナートのことをそれほどよく知るわけではない。優しい気の利く人だとは思うが、人間性はよくわからない、というのが実際だ。何しろ、ベアトリーチェをおとりにするという合理性も見られた。
「なるほど……しかし、よく知らん男と遠乗りなんて許可できるか!」
「……」
世の父親とはこういうものだろうか。正論でもあるので、ベアトリーチェもさすがに反論できなかった。だが、負けじと母も言い返す。
「近衛なのでしょう? 品行方正で実力も確か、身元も確かなはずだわ」
「それに見合いだってよく知らない相手だし、似たようなもんじゃない?」
フィオレンツァにもそう言われ、父半泣き。フィオレンツァは母の味方というよりベアトリーチェの味方であるが、彼女の場合は思ったことをそのまま口にしている可能性が高い。
「せ、せめて……二人きりにはなるな……」
なんだかんだで妻と娘に甘い父である。しかし、ヴィルフリートにも話を聞くのだろう。フィオレンツァが「大丈夫。あたしも一緒に行くもん」とこともなげに答えた。うん。やっぱりジェズアルドを誘おうか。
父は最後まで半泣きだったが、遠乗りに送り出してくれた。と言っても、ベアトリーチェはフィオレンツァに同乗していた。彼女は一人で馬に乗ることができないのだ。足が不自由なので、踏ん張りがきかないのだ。
「お二人さん、ゆっくりお願いします……」
ジェズアルドが半泣きで言った。レナートとフィオレンツァに比べ、馬術に自信がないのだろう。そもそも乗れもしないベアトリーチェは何も言えないけど。
ベアトリーチェはレナートに返事を出し、フィオレンツァとジェズアルドを連れて行ってもいいか、と尋ねた。それに、かまわない、という返事がきて、それ以降もなんとなく文通が続いている。そして、今日はお出かけの日だ。
「たまに乗ると気持ちがいいわね。自分で乗れないのが難点だけど」
フィオレンツァの前に横座りに乗馬しているベアトリーチェは、少し身をかがめている。どうしてもフィオレンツァと背丈が同じくらいなので、少しかがまないと前を視にくいのである。
「練習する? 歩かせるだけならできるかもしれないよ」
フィオレンツァが前向きに言うので、ベアトリーチェも笑って「そうね」とうなずいた。最後に練習したのは、もう五年も前だ。背も伸びているので、フィオレンツァの言う通り、もしかしたらできるかもしれない。
目的地の湖に到着し、フィオレンツァが先に馬を降りた。車いすを持ってきていないので、ベアトリーチェも歩く必要がある。
「抱えましょうか」
先に馬を木の枝に結び付けたレナートがやってきて言った。ベアトリーチェは微笑んで首を左右に振る。
「いいえ。せっかくですし、少し歩きたいですね」
多分、途中で疲れてしまうとは思うが、初めから運んでもらうのは申し訳ないし、もったいない。せっかくきれいな景色なのだ。自分の足で楽しみたい。レナートが支えようとしたが、フィオレンツァがやや強引にベアトリーチェを連れて歩く。ベアトリーチェの足がもつれた。
「フィオ、ゆっくり歩いてほしいわ」
「うー。ごめんなさい」
「大丈夫よ。少しびっくりしただけだから」
内心では迷惑をかけてごめん、と思っているが、ベアトリーチェは言わないようにしていた。みんな、「謝られるよりお礼を言ってもらえる方がいい」というのだ。本当に、周りには恵まれていると思う。
ゆっくりと湖の周りを一周してみた。体力がないことには自信のあるベアトリーチェだが、さすがにこれくらいなら大丈夫だ。手をつないで歩く双子の後ろを、レナートとジェズアルドが少し遅れてついてくる。
「レナートさん、行動力めっちゃありますね……」
「そうでしょうか」
こちらもこちらで仲良くしているようで何よりである。
あまり無理をするものではないと、木の陰に座らされる。ひざ掛けもかけられて、用意周到である。そこでみんなでおしゃべりをした。お昼もそこで食べて、遠出することはめったにないベアトリーチェは楽しい。きっと、レナートが誘ってくれなければ、遠乗りに行こうなんて思わなかっただろう。
「ありがとうございました」
「何がでしょう?」
両手を引いて立たせてもらいながら、ベアトリーチェは言った。手を引いてくれたのはレナートだった。フィオレンツァはジェズアルドに抑えられて遠巻きに見ている。恨みがましそうなフィオレンツァのことは、ひとまず無視することにした。
「誘っていただかなければ、ここに遊びに来ることなんてなかったでしょうから」
とても楽しかったです、と微笑むと、レナートも微笑み返した。
「楽しんでいただけたなら幸いでした。またお誘いしてもよろしいですか」
「もちろんです」
微笑みあった二人だが、ベアトリーチェは帰りもフィオレンツァに同乗した。フィオレンツァはなんとなく不機嫌そうである。
「どうしたの?」
ベアトリーチェはむすっとした双子の片割れの顔を覗き込む。フィオレンツァはむすっとしたまま言った。
「ビーチェは、レナート殿が好きなの」
「あら」
ベアトリーチェはすねたようなフィオレンツァにほほ笑んだ。
「そう見えるの?」
「見える」
うなずくフィオレンツァに、ベアトリーチェは答えた。
「なら、そうなのかもしれないわね」
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