心の中の亡霊
己の自我が生まれたのは、つい最近のことだ。
まるでスイッチでも入れられたかのように、唐突にヒルコという人格は生まれた。
とはいえ、何も知らない赤ん坊のような状態だったわけではない。
この世界の言葉と知識は頭の中に植え付けられていた。『邪な言葉を操る神』の『化身』という役割を与えられ、己が何をすべきかも決められていたから、戸惑いは一切なかった。
それから、完全ではなくぼんやりしているがこの身体には前の記憶が残っていた。その記憶を参考にすることで、他人とのコミュニケーションも問題なく行えた。
『化身』の役割を果たすため、前の自分の記憶と照らし合わせて、その時々の最適解を探していく。
『そんな人生で楽しいかい?』
ヒルコの中で誰かが問いかける。
(楽しい必要はない。俺はただ使命を果たすだけ)
『君は、君のしたいようにすればいいのに』
誰かが呆れたような口調で言う。誰かの名前はどうしても思い出せない。その誰かは前の自分なのに。
『君は僕ではないけど、僕は確かに君の一部だ。だからまぁ、時には君の手助けもしよう。でも、君が今のまま人形として生きていたら、これから始まる大戦争を生き残れないぜ』
※※※※※※
カスレフティスは『魔鏡』の力でヒルコの心の中へと侵入する。
(『邪な言葉を操る神』の『化身』を洗脳して、俺様の手駒としよう。そうすれば俺様の復讐の幅は広がる)
ほくそ笑みながら、闇の中へと降りていく。
闇の底に街があった。その街こそヒルコの原風景。心の景色を操作することで、『魔鏡』は人を洗脳することができる。
「それにしても、この風景は何だ?」
カスレフティスはヒルコの心象風景に降り立ち眉をひそめた。
見知らぬ街並み。いたるところに背の高い直立した棒が立ち、それにくっつけられた灯りが夜を照らしている。よく見ると棒には黒い糸がつけられているのか、他の棒に繋がっていた。
見たことも無い形の家が整然と並び、地面も土ではなく舗装されている。
「ここはどこだ? こんな場所は見たことも聞いたこともない」
思わずカスレフティスが呟いた。
「ここは僕が生まれ育った国、日本の光景だよ」
背後から声を掛けられ振り返ると、車椅子に座った少年が右の口の端を吊り上げて笑っていた。無理やり顔の筋肉を動かして作った不格好な笑顔だった。
その姿は、先ほど対峙していたヒルコと瓜二つだった。違うのは、髪の長さと衣装くらいだ。
「アンタが『邪な言葉を操る神』なのか?」
「違うよ。君なんかが『蛭子』様に会えるわけないでしょ。僕は夷川海人。ただの亡霊かな」
少年が名乗った。
カスレフティスが眉をひそめた。
「亡霊?」
「ええ。僕こと夷川海斗は『蛭子』様の生贄として死に、この世界で『化身』として転生した。今、君の前に立っている僕は『化身』の心の中に潜む亡霊さ。ひょっとして君は僕に興味があるのかな? だったら僕の話を聞いてくれよ。ここに閉じ込められて僕はずっと一人ぼっちでねぇ。『化身』は僕が話かけても無視するし、寂しかったんだ」
「貴様と話している暇なんて俺様にはない。【鏡剣】」
カスレフティスが唱えると、鏡の剣が虚空に現れて少年へと射出された。
「煩いなぁ。黙って僕の話を聞けよ。【蟲毒】」
少年夷川海斗が静かな口調で言った。
大きな黒い百足が現れる。黒い百足はよく観察すると邪な言葉が集まったものだった。百足が剣を打ち落とす。それから地を這い、カスレフティスを飲み込んだ。
(何だ? 動けないし、喋れない。『魔鏡』の力も発動しないだと?)
「もともと『蛭子』様は日本の神だから、その『化身』も祖国の者を用意する必要があった。『蛭子』様の『化身』に最も相性が良いだろうと、『アワシマ』様に僕は選ばれたんだ。ちなみに『アワシマ』様は『蛭子』様の弟で、僕の師匠でもある。兄想いの神様でねぇ。親に棄てられ、異界に流れた兄が心配なようで、ずっと昔から頻繁に異界を行き来して、こっそりと『蛭子』様に手を貸しているみたいだよ。この世界の神々は知らないだろうけど。まぁ、そういうわけで、『蛭子』様を封じた君たちの神々は覚悟した方がいいんじゃないかな。『アワシマ』様は怒ると恐い神だから。僕はまぁ、もっと穏便に平和的に皆が幸せになる方法はないかな?って思うけど、それはまぁ、今の僕に任せるしかないからね」
人形のように動きを止めたカスレフティスに向かって亡霊の少年が語り続ける。
「あぁ。そんなに怯えなくても良いよ。僕は悪い亡霊じゃない。人々の幸せを願う心優しい亡霊なんだ。だから、君の呪いも解いてあげよう。【蟲毒】よ。呪いを喰らい尽くせ」
ぱりん。音が響いた。それは両目に嵌め込まれた『魔鏡』が割れた音だった。
『この人生は復讐のために費やそう』と心にかけた呪いが溶けていく。
(俺様は、いや俺は、馬鹿なことをしてきたなぁ)
正気に戻った頭でカスレフティスの行いを振り返る。
「いやいや、君の行いは馬鹿げていないよ。ここまで歪な呪いを育てられたのは立派だ。普通だったら呪いに押しつぶさちゃうからね。うん。実に美味な呪いだった。ご馳走様。そういうわけで、君の悪夢はこれで終わりだ」
少年が言い切ると、カスレフティスは夢から覚めるように意識がはっきりしてくるのを感じた。
「そうだ。言い忘れていたけど、夢から覚めたら君の仲間に伝えといてほしいことがあるんだった。我等『八百万』は、あぁ、『八百万』ってのは、日本にて神と人が異形を殲滅するために造られた組織のことだよ。こほん。我等『八百万』は君達の神々に宣戦布告する。僕はその一番槍ってところだね」




