No name 5
「花火、綺麗だね……」
「うん……」
僕らが見上げる暗い夜空を鮮やかな光の花が彩る。
赤や黄色、緑に青。
時に小さく、時に大きく。
腹に響く音を轟かせ、一瞬の感動の為に夜空に散る。
派手なのに儚く。
だからこそ美しく。
一輪、また一輪と、光の花が咲き誇っては消えていく。
「……なんて」
僕はどこの詩人だろうか。
「? どうかしたの、蒼くん?」
その呟きが聞こえたのか、隣に立っている浴衣姿の秋菜が僕を見上げてくる。
「いや、別になんでもないさ」
僕はそう言って、夜空へ視線を戻す。
今僕らがいるのは、喧騒から離れた小高い丘。その丘の一方は開けていて、ここからだと花火は良く見通せた。
(この点は涼太に感謝かな……)
秋菜の地元で行われている、この夏祭り。その終わりを飾る、色とりどりの花火。それらを独り占めできる特等席だ。そう言って涼太が勧めたのがこの場所だった。
ここまで来るのは少し大変だったけど、着けばその苦労なんてちっぽけに思えるくらい、この場所からの眺めは良かった。
いや、眺めだけじゃないか。
辺りに小さな青い花が咲き乱れているこの丘は、けっこうな山道を通らないと辿り着けない。花火の合間には方々で虫が鳴く声が聞こえてきて、それらの音が僕らをより浮き彫りにするような気がした。
「…………」
……今度は小説家か、僕は。
そんな他愛のない事を考えながら、僕は夜空に咲く花火を見ていた。
(こういう時、秋菜って何を考えているんだろう?)
ふとそう思って、僕は横目で秋菜の横顔を見てみる。
秋菜は、ただ花火に見入っているように見えた。
(……分からなくたっていいか……)
花火が光る度に、その光の色に照らされる秋菜の白い肌、落ち着いた青色の着物。
「蒼くん」
「……うん?」
花火の轟音の合間。次の花火を上げる準備でもしているのだろうか。今までで一番長い静寂。その空白を縫って、秋菜が声をかけてきた。
「ちょっと、座ろっか。私、さっきの山道で少し疲れちゃった」
「ああ、うん。それはいいけど……地面に直接座る事になっちゃうよ?」
「蒼くんは地面の上に座るの嫌?」
「いや、僕は全然平気だけど、秋菜は今日着物だから、汚れちゃうんじゃないかと思って」
「それなら大丈夫だよ」秋菜は嬉しそうな笑顔を浮かべる。「蒼くん、ちょっとそこに座って?」
「う、うん」
言われた通りに、その場に座り込む。
「それで、あぐら座りになって」
足を組みなおして、あぐらの形を作る。
「えいっ!」
そしてそのあぐらの中央に、秋菜がちょこんと座った。
「……え? 秋菜?」
「えへへ……これなら着物も汚れないでしょ?」
僕の方へ顔を向け、少し照れたように小さく舌を出して笑う。
「…………」
いや、確かに着物は汚れない。その点は気にならなくなる。
けど。
「……それ以上に気になる事が多くなるんだけど……」
主に足にかかる柔らかい感触だとか秋菜の髪やうなじの辺りから漂う香りだとか、そういう点。
「なにか言った?」
「……ううん、なにも」
しかしその点を挙げられないあたり、僕は気弱というか、なんだかんだで男なんだなぁというか。
「でも秋菜、その、僕の膝の上なんかじゃ座り心地は悪いと思うけど?」
「んー、そんなことないよぉ?」
秋菜はそう言って、甘えるように僕に体重を預けてくる。
「すごくいいよ、この席。温かくて、安心できて、蒼くんが近くに感じられて……。それに、ほら」
秋菜は目の前に広がる黒い夜空を指す。そこへ視線を向けると、また夜空に花火が上がり始めた。
しばらく、その花火に目を奪われる。
「ね、眺めも最高でしょ?」
そして僕に向けられる、無邪気な笑顔。まるでこの世の穢れを知らないような、僕の一番大好きな。
「……まぁいっか」
僕は思わず頬を緩めて、そう呟いた。
僕らはそのまま黙りこんだ。言葉を発さず、ただお互いの体温を感じながら、花火を見つめていた。
一輪、また一輪と、黒の中に咲いては消えていく。
轟音を響かせて、鮮やかな光を空に焼き付けて。
「……綺麗だな……」
「そうでしょ? この夏祭りの花火って、けっこう有名なんだよ?」
「へぇ……」
確かに、さっきから打ち上げられている花火は、テレビ画面越しにしか見たことないような立派なものばかりだった。
「あんまりメジャーなのじゃないけど、雑誌とかにも載ったりしたんだ。だから、この花火を見るときって、見晴らしのいいところはすごい混んじゃうんだけど……」
「ここは空いてたね」
「うん。すごいね、吉良君って。なんでこんな場所知ってたのかな?」
「さぁ……?」
そればかりは本人に聞かないと分らないけど……すごくどうでもいいような理由のような気がする。ここを教えてくれた時の「ヤバいぞ、ここは。ギャルゲの告白シーンとかに使われてそうな感じがするベストスポットだぜ?」という言葉からして。
「それにしても、地元のお祭りが雑誌に載るなんて、なんだかすごいな……」
「そんな事ないと思うよ? だってこのお祭り以外に大したものなんてないし」
「うーん、それでも僕の地元なんかよりはすごいと思うけど……」
本当になにもないからなぁ、僕の地元は……。
「でも、蒼くんのところには制服が可愛い喫茶店とかあるよ? 私はあっちのほうがすごいと思うけどな」
「……まぁ」あれは違った意味ですごいと思う。アレをあんなところに作ろうと思った人の気持ちがしれない……。「確かに、アレは雑誌とかに載りそうなくらいにアレだけど……」
「制服も可愛かったし、ケーキも美味しかったし、また行きたいなぁ」
そう言って僕を見上げる秋菜。……それは暗に、誘ってくれと言っているのだろうか。
「……機会があれば、また誘うよ」
多分そうだろうから、そう答えておく。できれば千鳥さんのいない時を見計らって、と心の中で但し書きを付けて。
「うん♪」
そんな僕の心情を知らず、嬉しそうに頷く秋菜。まぁ、この笑顔の為だったらいいかな。またあそこに行っても。
「はぁ、あそこの制服、本当に可愛かったなぁ……」
秋菜はうっとりした顔で、あの喫茶店の制服に思いを寄せているようだ。
「私も着てみたいな」
「え!?」
秋菜が……秋菜があのお店の制服を……?
そこで脳裏に浮かぶ、秋菜のウェイトレス姿。あの明るめの色を基調とした、フリルとかいっぱい付いてて、黒いニ―ソックスと相極まったスカート丈も少し危なげな、一種の武器にもなり得るほどの強烈なインパクトを持つあれを秋菜が装用した姿。
多分、一番小さなサイズでも少しぶかぶかで、スカート丈とかもちょっと長く見えて、袖の方もきっと手が半分くらい隠れてしまうんだろう。その衣装に動きを制限されて、動きづらそうにしながらも頑張って店内を動き回る小さな姿。
きっと注文されたものを持っていく時にも、なんだか危なっかしくて、思わず助けてあげたくなるような感じで。ちょっとした失敗をした時はシュンと落ち込んで、しっかりと仕事が出来た時は嬉しそうに笑って。
一生懸命で真っ直ぐな姿に、見てるこちらも思わず微笑んで――
「……なに、蒼くん、その、『え!?』って……?」
「あ、いや……」
秋菜の言葉で我にかえる。そして、今まで自分がしていた想像――いや、もはや妄想の域に達したものを振り返り、急に恥ずかしくなった。
「……そうだよね、私みたいなちんちくりんがあの制服を着たって似合わないよね。ううん、分かってたから」
そんな僕を見て、秋菜はそう言って肩を落とす。
「あー、秋菜、僕はそんな事を思ってなんかないよ?」
「じゃあ、なんて思ったの?」
「えーと、それは……」
……言えない。言っちゃいけないと思う。絶対に引かれる。
「やっぱり、本人には言えないほどマズイ事を思ったんだよね……。いいよ、別に。どうせ私なんか……」
「あ、いや、違わないんだけど違う……」
「ほら、やっぱり、私みたいな女の子があんなに可愛い服を着たいなんて思うだけで場違いになんだよ……」
というか、秋菜のテンションがなんだか妙だ。まるで僕みたいに、自分に自信がないみたいじゃないか。
こういう時は、なんて言えばいいんだろう?
「いや、全然場違いじゃないよ」僕は少し考えた末、引かれない程度に自分の気持ちを吐露することにした。「むしろ似合うよ。似合いすぎて、多分僕がおかしくなる」
「……でも、私は……ほら、体も小さいし……」
「むしろそれがい――」
「え?」
「――なんでもない」
危なく引かれるような事を喋るところだった。
いや、でも少し弁解させてほしい。
最初から言ってるけど、別に僕は小さい女の子好きな訳じゃない。ロリコンじゃない。でも、それでもね、ちょっとした自己主張をさせてもらうと、ああいう可愛いフリッフリな洋服は、少し小さめな子が着た方が似合うと思うんだ。もちろん、大きな人が着ちゃいけないって訳じゃないのだけれど。それでもやっぱり、フリルとかリボンとかの付いた洋服は、秋菜みたいな女の子が着てこそ真価が見いだせると思ってるだけで、そこから僕が小さな女の子にしか目がないような男とイコールとかBe動詞でくっつけられるいわれはないと思う。だから、つまりは、ああいう洋服を秋菜が着てくれたらいいなぁと思っている訳だ。見境がない訳じゃなくて、ただああいう服は秋菜の為にあるようなものだと言いたかったんだ。
弁解終了。
「……蒼くんは優しいから、きっと私が傷つかないように言ってくれてるんだよね」
「いや、そんなことはないよ」
「ううん、いいの。ありがとね、蒼くん」
「…………」
そう言って俯く秋菜に、僕は半ばヤケになった。もう、自分を隠すのをやめてみようかと思った。だってそうだろう。自分の彼女が、こんなに落ち込んでるんだ。しかも勘違いで。僕が自分勝手な都合で隠した本心のせいで。なら、こうするより他にはない。
「秋菜、さっきも言った通り、本当に似合うと思うよ。それこそ、本当に僕が僕でなくなるくらいに」
「蒼くんが蒼くんじゃなくなるって……?」
「具体的に言うと、まず嫉妬する」
「嫉妬?」
「うん、嫉妬。多分――いや絶対、その制服を着た秋菜を他の人に見せたくなくなる。だって、他の人に可愛い秋菜の姿を見せたくないから。独り占めしたくなるから」
言ってて思ったのだけど、これは嫉妬というのだろうか?
「それから、多分、僕の自制が効かなくなる」
「自制って……?」
「そこら辺は……その……多分、秋菜が僕の事を煙たがるようなことをすると思う。例えば、今の体勢。この体勢のまま、一日中いたりするかもしれない」
……話しながら思ったけど、僕って何を考えてんだろう。というか、この感情は――
「誰もいない部屋で、二人きりで、ずっとこんな体勢でいると思うよ、僕は」
「…………」
「今喋ってて気付いたけど、どうやら僕は、すごい独占欲が強いみたいなんだ。だから、その、秋菜がそういう服を着ないっていうのはある意味正解かもしれない。多分、僕がものすごくうざったらしくなると思うから」
……最後のセリフは、言わなくても良かったと思った。むしろ言わない方が良かったような気もするけど、覆水盆に返らず。もう口から出てしまった言葉は取り消せない。
「…………」
秋菜は無言のまま、しばらく固まっている。
僕も無言のままだが、内心はもう慌てまくりだ。あんなに変態チックな事を言っちゃったんだから、これは引かれてもおかしくない――というか、引かれない方がおかしい。
「……今度着てみようかな、そういう服」
「え?」
そして、その沈黙を破った秋菜の声は、僕としてはかなり意外なものだった。
「だって、そういう服を着れば、一日中蒼くんにこうしててもらえるんでしょ?」
「う、うんまぁ、離さないと思うけど……」
「それだったら着るよ。むしろ喜んで着ちゃうよ」
「…………」
秋菜はそう言って穏やかに笑った。
「私、最初蒼くんが『えっ!?』って言った時、ちょっと傷ついちゃったんだよ? やっぱり私なんかにはそんな服似合わないのか、とか、蒼くんはそういう服嫌いなのかな、とかって」
「そんな、両方とも逆だよ。秋菜にああいう洋服はすごく似合うと思うし、僕は、その、そういう洋服は……嫌いじゃ、ないし……」
いや、そんな事よりも。
「ごめん、傷つけちゃって……」
まずはその事を謝るべきだろう。
「ううん、いいよ。だって、私の勘違いだったんだし」
「うん……」
それでも、そうは言われても、気にしてしまう僕は神経質なんだろうか。
「それに、蒼くんの意外な一面も見れたし」
「……意外な一面って?」
「うーん、蒼くんの好みとか、独占欲が強い事とかかな」
「…………」
言われてから気付いた。僕、何気に恥ずかしい事を言いまくってなかったか?
「……うぅ」
「あはは、照れてる蒼くん、可愛い」
それらを思い出し、顔が熱くなるのを感じた僕を、秋菜が嬉しそうに見上げる。
「そっかぁ、蒼くんはそういうのが好きなんだぁ」
「い、いや、好きというか、嫌いじゃないっていうだけで……」
「そうなの?」
「…………」そんな無垢な瞳で見つめないでほしい。「いや、それはね、好きか嫌いかの二択で言ったら好きだけど、別に熱烈的に歓迎するほど好きな訳じゃないって意味でね――」
というか、僕は自分の彼女相手に何を言っているんだろう。
「くすくす……分かってるよ、蒼くん」
そんな僕を見て、本当に可笑しそうに笑う秋菜。
「こんな風に言い訳する蒼くんも珍しいね」
「……変でしょ、僕」
「ううん。可愛い」
「…………」
そういう秋菜の方が可愛いと思う僕は、やっぱり変なんじゃないか。そう思った。
それからしばらくの間、花火を見上げつつ、僕らは下らない話をしつつげた。
学校の事とか、地元の事とか、友達の事とか。
本当に下らなくて、掃いて捨てるほどにありふれた話で、それでも僕らは笑ってて。
秋菜の好きなもの順位の一位が僕で、二位がイカだったりする話とか、喫茶店つながりで千鳥さんの話をして、何故か僕をジト目で見つめる秋菜の顔とか。
どれもがなんでもないかのように輝いていて。
……そして。
最後に、一際大きな花火が夜空に咲いた頃だった。
――秋菜の様子がおかしくなったのは。
そう、それはどの話の辺りだったろうか。僕は少しひっかかるもの感じていた。それは、後から言ったってどうしようもない予感で、その時に気付いてあげられなくてはどうしようもないものだ。
それでも、僕は少し思っていたのだ。秋菜の様子が、少しおかしい事に。
「……秋菜?」
しかし、今まででも少し様子のおかしい事はあったけど、それらは全部、杞憂というか、比較的に軽いもので終わっていた。だから、僕の気も緩んでいて、この穏やかな時間が当たり前のものだと思っていた。
そして、気付けなかった。
「っ、っ……!」
ついさっきまではなんでもないように話していた彼女の様子が、明らかにおかしい事に。
「秋菜!?」
「だ、いじょう……ぶ……」
それに気付いた僕が、慌てて秋菜の顔を覗き込むと、彼女はそう言った。
脂汗のびっしり浮かんだ顔で。
血の気の引いた真っ青な顔で。
浴衣の胸の所を握る手を真っ白にさせて。
「だ――」それを見て、僕は驚愕した。そして、なによりも腹が立った。他でもない、自分に。「大丈夫な訳ないだろ!?」
僕のその言葉に、秋菜は緩く首を振る。
「ううん……大丈夫、だよ……」
真っ青な顔、かき消えそうな声、弱々しい笑み。
それらのどこに大丈夫な要素があるんだ?
「いつから、いつからこんな!? いや、今はそうじゃない、こういう時は……」
秋菜にそんな事を尋ねても無駄だ。今、一番大事な事はそんな意味のない事じゃない。
今、大事なのは、秋菜を少しでも楽にさせてやる事だ
「でも……!!」
でもどうすればいい? 何をすればいいんだ、まず? 秋菜が苦しんでる。僕が気付かないうちに苦しんでいた。秋菜が、秋菜が……
「ほんと……に……平気だよ……? うん、へい、き……すぐに、良くなるよ……?」
「っ!」
落ち着け、落ち着くんだ。こんな時にテンパってどうする。いつも、無駄に冷静な仮面でもなんでもを被ってるんだろう、僕は
だから落ち着け。落ち着け。落ち着け。落ち着け
「病院……」
そうだ、まず病院だ、病院に連れて行かなくちゃいけないだろう
「っ、っ――ぅ、はっ……!!」
「秋菜!?」
僕の上に座っていた秋菜から、力が抜ける。今まで震えながら開いていたまぶたも閉じられまるで悪夢にうなされているような寝顔に
「あ、ああ……!!」
大変だ大変だ大変だこういうときはどうすればいいんだそうだよまず病院につれていくんだろうだから早くここを降りなきゃいけない
秋菜を背負う、背負った僕はなるべく揺らさないようにはしる
どこを通れば降りれるんだっけ
いや今はそんな事どうだっていい
早く、早くしないと……
風をきる感覚、僕の肌をきる草木の感触
熱い、背中が熱い
秋菜、こんなにあつくて
なんで、僕は、僕はこんなにも使えない人間なんだ
こんなときにまで自分を責めることを考えて考えて
結局自分のことしかかんがえてなくて
ああ、僕は、僕は
「っ!!」
駆け降りる斜面。道なき道。その先に、ようやくアスファルトの地面が、人の手の施された大地が見え始めたころ、僕は木の根に足を躓かせた。
転びそうになるのを、必死に耐える。
こんなところで転べるか。転んで、秋菜を苦しませられるか。
しかし、そんな心持ちだけで体制を保てるほど、僕は緩く走ってなかったのだろうか。どう頑張っても、体制は整いそうにない。
なら、せめてもの悪あがき。
僕は体を捻って、どうにか倒れる方向を修正。秋菜を背負ったまま、右横に茂っている草むらに転ぶ。受け身もなにもないままにうつ伏せで。
「ぐ、ぅ……」
覆い茂っていた草のおかげか、多少の衝撃は緩和出来た。それでも、背中の秋菜にも少しの衝撃はいっただろう。
そして、その痛みで少し冷静になれた。
「ぼ、くは、僕は……」
何をやってるんだ、僕は。大事な、大好きな彼女が苦しんでいるのに、こんなドジな事をやって、しかも今まで自分を失って……。
酷くみじめな気持になった。そうやって、また自分の事を考えている自分にさらに腹が立った。
「蒼くん……」
思わず漏れそうになった嗚咽をかみ殺し、立ち上がろうとする僕の背中で、秋菜が目を覚ます。
「秋菜、ごめん、起しちゃったかな」
「蒼くん……大丈夫……?」
「なに、が……?」
僕は立ち上がって、秋菜を背負いなおす。
「いま、すごく派手に、転んだ、でしょ……? 怪我とか……しな、かった……?」
また出そうになった嗚咽を、飲み込む。
自分が苦しいのに。自分が一番苦しいはずなのに。なんで僕を気にするんだよ。僕は大丈夫。僕は全然、大丈夫。それよりも、秋菜の方が心配だよ。
「大丈夫。ごめん、秋菜」
立ち上がった僕は、深呼吸をした。こんな、自分が大変な時に相手を気遣える彼女。小さくて曖昧で不甲斐ない僕なんかとは、比べ物にならない、とてもいい女の子。
心配なんかさせるか。
自分が苦しい時に、他人の心配なんてさせてたまるか。
大人しく、安心して自分の事を心配できるようにしろ。
そうだろ。
例え、彼女とは到底釣り合わない程にバカな僕にだって。
それくらいの事は出来る筈だ。
「ごめん、秋菜。もう少し我慢してて」
さっきの「ごめん」とは、違う「ごめん」。相手を気遣う謝罪の言葉。
「う、ん……」
背中に軽い衝撃。多分、秋菜が僕の背中に頭を預けたんだろう。
僕は道なき道を再び走り、アスファルトで固められた道路に出た。この辺りは街の外れにあるので、車通りも人通りもなかった。
「そうだ、電話」
秋菜を片手で背負い、もう片方の手でポケットから携帯電話を取り出す。
なんで今まで思い至らなかったんだろう。こういう場合、まず最初にするのが119番への電話なのに。
ああ、やっぱり僕は、なんてダメな人間なんだろうか。
(……今はそんな事を考えてる場合じゃないだろう)
僕は頭を振り、119番をコールする。
呼び出し音が鳴る中、冷静になれという気持ちと焦る気持ちがごちゃごちゃになる。
そんな僕の気持ちをとは無関係に、響く呼び出し音。普段と同じもののハズなのに、いやにゆっくりに聞こえた。
そして、その呼び出し音を途切れさせる、受話器を取る音。それから、オペレーターの落ち着いた声。
その声に、僕は今更ながらに思った。
(まず何を言えばいいんだ?)
早急に必要なのは救急車。そして、今いる場所を言わなきゃいけない。でもここはどこだ? 僕の地元ならまだしもここは秋菜の地元だ。目印もなにもない。それに秋菜の症状なんかも言わなきゃいけない。でもこれはなんていうんだ? 意識がない? でも僕の言葉に反応してくれたりしてたろう? どうすればいい? どうすれば秋菜が助かるんだ?
「あ、ああ、その――」
オペレーターの落ち着いた、僕をなだめる声が耳に障る。うるさい、そんな簡単に冷静になれれば苦労はしない。そもそもこんな事にも――
ふと、耳からその声が遠ざかった。手からも、固い携帯電話の感触がなくなった。
「ええ、救急です。友達が急に倒れて……容体?」
僕はハッとして振り返る。そこには、僕の携帯電話を耳にあてて、落ち着いた受け答えをする、浴衣姿の吉良涼太。
涼太は僕が背負った秋菜の様子をざっと見る。その様子に気付いたのか、秋菜がかすかに顔を上げる。
「呼吸はしてます。意識は微弱ながらにもあるみたいです。場所は南日田町の西の外れの――ええ、八鹿山の麓の道路です。目印は特にありませんが、ここからは屋辺病院が一番近いですね」
それを見た涼太は、それからも二、三言何かを喋った後、通話を切った。
「ほい、携帯」
そして、何事もなかったかのようにして僕に携帯電話を差し出してくる。
僕は唖然としながらそれを受け取る。
「はぁ……まったく、普段冷静な割にこういうピンチには弱いんだな、お前って」
「…………」
いつも通りの、本当に何でもないかのように言う涼太に、僕は言葉が出ない。
「つか、こういう時に一番ダメなのはテンパることだぞ? その姿を見るに、お前慌てすぎて転んだろ?」
「……なん、で」
「俺がここにいる理由か? いや、夏祭りに来たのはいいんだけど、地元のやつとはぐれちまってな。仕方なしに新規ギャルゲスポットを探して歩き回ってたら、なにやらいい感じにテンパったクラスメートを発見しちゃったわけだ」
そこに颯爽と助けに入る俺。惚れるなよ? なんて軽口を付け加えて、涼太は肩をすくめる。
「ふぅ、まさかリアルに「やれやれだぜ」なんて思う日がやってくるなんて考えもしなかったぜ」
その涼太の、いつもと変わらない様子に、痛感する。
ああ、僕は何をやってたんだろうって。
秋菜の一番近くにいて、秋菜の恋人なのに、慌てて何もできずにいた。
何一つ、出来ずに。
「……ごめん、涼太」
僕は、一体何をやってるんだろう。
「ああ? 別にいいって。友達の危機に進んで手を差し伸べるのは当然の事だろう?」
うなだれた僕に降りかかる言葉。その言葉にも、僕は打ちのめされる。
こんなに、億面もなく人を救える涼太に比べて、自分はどうだ?
自分の事しか考えてないただの道化じゃないか。
「あー、あんまり落ち込むなよ?」
「……無理だよ」
「そう言うなって。さっきはああ言ったけど、実際に自分の大事な人が傍で倒れたら、普通はテンパるもんだ。それに、俺がこうした対処を取れたのは、ひとえに日頃から積み重ねたギャルゲという名の人生経験のおかげなんだぞ?」
という訳で、どうだ、お前もやってみないか?
そう続けられた言葉に、僕は笑い返す事もできなかった。
「……まぁとりあえず、後は任せたぞ」
「え?」
「俺はこれからもギャルゲスポットを探さなきゃいけないから、来栖の事はお前が頑張ってどうにかするんだぞ?」
「…………」
僕に、僕になにが出来るだろうか。
冷静にもなれなかった、僕なんかに。
そもそも、もう僕に出来る事なんて何一つないような気がする。
恋人のくせに、僕は秋菜に何一つしてやれない。
こんなに大変な時に、彼女に何一つしてやれなかった。
そんな、僕が……。
「まだ出来る事もあると思うけどなぁ……」
「…………」
「まぁそのうち気付くだろう。とにかく、来栖はお前に任せたぞ?」
僕の返事を待たずに、涼太は背を向けてどこかに足を踏み出した。
僕は何もできずに、ただその背を見送った。