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猫と少年  作者: みみつきうさぎ
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第五部 翼の猫(中編)

◆ 登 場 人 物 ◆


アキ・ユキザネ

 河井小隊に所属していた少年 脱走兵 「ユーリ・ソーンツェア」という偽名で、第二の人生を歩む

カスガ・ソメユキ

 国際連合軍機動兵器極地戦闘襲撃機『サザキ』パイロット

ウィリアム・ボーナム

 河井小隊に所属していた少年 脱走兵 ユキザネとともに、リューバの家に身を寄せる

グラ・シャロナ

 国際連合軍機動兵器システム統合部特別補佐官付

ゲオルグ・シュミット

 国際連合軍機動兵器システム統合部特別補佐官

リューバ・ソーンツェア

 ウィルとユキザネを保護した少女

ターニャ・ソーンツェア

 リューバの母親

イリーナ・トルスタヤ

 ユキザネの通う学校のクラスメート

アレク

 リューバの家の飼い犬


(一)


「いつまで寝てるんだい、早く起きな」

 ロシアの女性は年を経る毎に、見た目も性格もおおらかになるらしい。

 ターニャは男性のようなたくましい腕で少し毛羽立った毛布をぐっとつかむと、勢いよく手前にはぎとった。蓑虫のように毛布にくるまって寝ていたユキザネは、あっという間もなく木のベッドから大きな音をたてて転げ落ちた。

「ふぁい」

 まだ寝ぼけているユキザネは、だぶだぶの水色のシャツから顔だけを森のキノコのようにつきだしている。

「何だい、その恰好は、まるで、ご婦人の傘じゃないか、あんたの色違いの兄さんはもう起きて、畑に出ているよ」

 ターニャ・ソーンツェアは、腰に両手をあてたままの姿勢で半ばあきれたような顔で言った。

「ご、ごめんなさい、今起きまぁす!」

 ユキザネはあわてて立ち上がったので、シャツの裾を踏み、大きな音をさせ顔から床にぶつけた。

「痛ぁああ」

「すぐに着替えて降りてきな、スープがさめちまうよ、それにしてもあんたの兄さんはよく働くねぇ」

 そう言ってぎしぎしと音を響かせながら階段を下りていった。


 山が迫っている。

 山肌にはかすかに色付いた木々が隙間無く生え、朝露に濡れたその木々の葉は一枚ごとに違う水晶の衣服をまとい、太陽の優しい呼びかけにきらきらとした光で答えていた。

 針葉樹の森となだらかな丘陵地帯の一角に、小さな丸太小屋が一軒建っている。すぐ隣の板張りの小屋の前では牛がのんびりと草を噛み、その足の隙間をひよこを何羽も引き連れた鶏が首を前後させながらすり抜けていく。


「おばさん、いってきまぁす!」

 ぶかぶかのズボンとシャツに帽子をかぶったユキザネは木の扉を開け、小高い緑の丘に立つ家の前から思い切って土の道を駆け下りていった。

 初秋とはいえ、もう空気は冷えている。耳たぶがひんやりとし心地よかった。

ユキザネは走るスピードをさらに上げていった。

 いつの間にかすぐ横で飼い犬のアレクが嬉しそうに吠えながら尻尾をプロペラのようにぐるぐると回転させ付いてきていた。

「リューバ、おはよう!」

 遠くに刈り取ったばかりの小麦をいっぱい手にかかえた少女の姿を見つけると、ユキザネはアレクの鳴き声よりももっともっと大きな声で呼びかけた。


 リューバ・ソーンツェアはユキザネに気付くと、持っていた小麦を牛車の荷台にのせ、ひたいの汗を手の甲でふいた。金色の髪が何本か頬についたままとなっていたが、たいして気にもせず、荷台からこぼれ落ちた穂を拾い集めようとした。

 ユキザネより一足早く愛犬のアレクが彼女にじゃれついた。彼女は、両の手で、犬の頭と頬を交互になで、息を切らせているユキザネを見て表情を和らげた。

「アキ、おはよう、ごはんはちゃんと食べてきたの?」

「うん、とってもおいしかったよ、あぁあ、アレクの足にはかなわないや」

 一通り朝の挨拶を終えたアレクはユキザネのそばに戻ってきた。

「そんなにあわてたら転んでしまうわよ」

「平気、平気、あの、ウィルは?」

「あっち」

 彼女が指さしたところに、頭に包帯を巻いたウィルが、スコップをもって、雨水が畑に入らないようにと細い水路を造っていた。

「お前、遅いぞ、おばさんやリューバに迷惑かけんなよ」

 ウィルは、手を休めながらもユキザネのにこやかな笑顔につられて笑った。


 彼らがこの地にきて幾日たったことだろう。

その日は朝から雨と風が強く、家の裏のもみの梢は折れんばかりの音を立て続けていた。

 ソーンツェア家の小さな窓ガラスは、がたがたと大きく震え、風が通ると全ての物がもっていかれてしまいそうに感じた。

 近くで雷が落ちたような地響きがした。

(雷?雨漏り大丈夫かしら)

 リューバはさらに激しくなった雨が屋根をうつ音を聞かなければならなかった。父親を亡くしてから頼りとしていた兄は徴兵にとられ、今は母親と二人暮らし。どうにかなると思っていても、小さなランプの光だけではどうしても心もとなかった。

 突然足下で寝ていた愛犬のアレクが耳をピンと立て、立ち上がると玄関の方に向かって狂わんばかりに吠えだした。

「お母さん、お客さんかな?」

「馬鹿なことを言うんじゃないよ、この雨の中、こんな山に来る人なんて誰もいやしないさ」

 風とは違う扉を叩く音が聞こえてきた。リューバは緊張して耳をすまし、用心深く扉に近付いて行った。

「あの……助けて下さい、ウィルがケガをして……死んじゃうかもしれないんだ」

(子供の声?)

 あわてて、解錠し扉を開くと、暗闇の中、雨に濡れ子犬のように震えている十歳ばかりの少年が目の前に立っていた。

「どうしたの?」

 リューバが震える少年を部屋の中に入れようとしたが、彼は彼女の手を握ると玄関から表へと引っ張った。

「きゃっ!」

 強風と豪雨の中、目の前の玉蜀黍畑にとてつもなく大きな黒い固まりが微動だにせず立っている巨人が見えた。

「いったい、何があったんだい!」

 声につられて家の奥から母親も飛び出してきたが、見たことのない物体を間近にし、腰からへなへなとくずれていった。

「な、何だい、これは」

 少年は黙ったまま、その大きな物体の踵の位置にあるレバーを引っ張ると、背中にあたる一部が開き、何本ものコードが絡んだ鋼色の球体がゆっくりとワイヤーで地上に降ろされた。

 球体の一部が窓のようにするすると開くと、リューバはその中でシートに身体をうずめ頭から血を流し失神している自分と同じくらいの歳の黒人少年を見た。

「あなたたち誰なの?」

「お願い!呼んでも返事をしてくれないんだ!お願いだよ!助けてよ!」

 金色の髪をもつ少年は泣きながらリューバに取りすがった。

 ようやく、腰を上げることのできた母親がリューバの方へゆっくりと近付いていった。

「早く、家の中へ入れておやり、とんだやっかいもんを背負い込んじゃったみたいだねぇ」


 秋の風が吹いた。

 リューバも母も、あえてウィルやユキザネの素性を聞きだそうとはしていない。はじめは聞いたことによって、何かの罪にならないようにとの母の配慮でもあった。しかし、彼らの瞳を見ているとそういう悪い者たちではないということをすぐに信じることができた。

 あれから鋼の巨人の行方もようとはつかめない。あの日の嵐の夜のうちにユキザネが、どこかに移動させたことまではわかっている。あれだけの大きさの物を短時間で隠すには、大方、近くの湖沼にでも沈めているのではないかと思った。

 リューバは坂の上にある自分の家を見上げた。雲の間から差し込む朝日は真っ直ぐにその家を照らし、あたためられたトタンの屋根からは朝露のつくる細い水蒸気の糸が幾筋も空にのびていた。

 雲の影が、あの日に巨人の立っていた畑の上を静かに横に流れていく。

 背丈以上に伸びていた蒼い玉蜀黍畑が小さな荒れ地へと変わり、二つの大きな穴の中に腐れかかったその玉蜀黍の茎が山のように捨てられているのを見ると、リューバは少しだけ心が痛んだ。

 ユキザネとウィルの笑い声は、少し黄色みがかった葉の木々の中、小鳥の声のようにこだましている。

 彼らが来て、家の中が明るくなったことに間違いはない。その証拠に、兄の手紙が途絶えてからふせぎがちだった母親の口数が、元のように多くなってきたからである。

 それが今のリューバにとって何よりも、そして心の底から嬉しいことだった。


 ユキザネは畑の横の落葉松林の中に足を踏み入れた。

落ちている枝がぽきぽきと微かに折れる音がし、落ち葉でできた柔らかな土はふんわりと靴の底を生クリームのように包んだ。いつもと違う物音に灰色の毛をしたリスがもっていたドングリから手を離し、一目散に近くの木の梢に駆けていった。

(少し離れたところを注意して見るの、違う色のキノコは絶対に採ってはだめよ)

 そうリューバに教わったとおり真っ直ぐにのびる木の根元から少し離れた位置を目をこらして見た。はじめは落ち葉の色と区別がつきにくかったのだが、目が慣れてくると少し湿った土の上にぬめりのある茶色いキノコが円を描くように生えていることに気が付いた。

 ユキザネはすぐにしゃがむと、一本ずつそっと指で柄をつまみ、持っていた手かごに入れた。

「こっちにもあるぞ」

 しゃがんだ位置から周りを見回すと、一段と木や草が高く見え、自分が林に住む一匹の動物になったかのように感じた。

点々とヘンゼルが落としたパンのかけらのように、キノコの列が連なっているのが見えた。

「リューバ、こっちにいっぱいあるよ!」

 嬉しくて、つい大きな声を上げたが遠くで農作業をしているウィルやリューバには聞こえない。それでも鼻歌を歌いながら、次から次へとめあてのキノコをかごに放り込んでいった。

 林の奥へ奥へと進むうち、今までにないくらいの大きさのキノコを見付けた。ユキザネは四つん這いの姿勢のまま、近付き、すぐに手にとると、柄のところに小さな穴がいくつも開いていることに気付いた。じっと見つめていると、その穴から寝床を壊された小さな虫が何匹も這い出てきた。ミミズのようなその虫は身体をくねらせ、弱々しくぽたぽたと地面に落ちていった。

「虫が入っているんだ……」

 脳裏に暗いレイクレイ基地の地下で蠢く虫たちと重なった。

「知らない……僕はもう知らないよ……」

 指の力が急に抜け、キノコは地面の上に音もなく落ちていった。


「すごい、いっぱい採ってきたじゃないか、今日の夜はキノコのスープだねぇ」

 ユキザネのとってきたかごの中身を見てターニャは終始ご機嫌であった。その顔を見てユキザネも嬉しくなった。

 長いすの前で寝そべっていた犬のアレクも起きだし、興味津々な様子で鼻をひくひくとさせながら二人のそばへ近付いてきた。

「コケモモのジャムっておいしいの?」

「あんたコケモモ知ってるのかい?」

「リューバに聞いたんだ、とってもおいしいって、採りに行きたいなぁ。どこにあるんだろうなぁ」

「あの子は今日街に行かなくちゃならないから、そうだね、午後からだったら私が教えてあげるよ」

「えっ、本当におばさんが教えてくれるの?一緒に行ってくれるの?ほんと?ほんと?」

「もちろんさ。お昼を食べたら行こうかい」

「わぁ、やった、やったぁ」

 ユキザネは両手を挙げその場でぴょんぴょんと子兎のように跳ね回った。犬のアレクも嬉しそうに大きく吠え、はぁはぁと大きく息をさせたまま彼の後を付いてまわった。


(二)


 モスグリーン色をしたぼろぼろの軽トラックの荷台が、ジャガイモやカボチャなどの野菜が詰まった木箱で一杯になった。

「リューバ、これでいいかい」

 ウィルは首にかけていたタオルで汗をぬぐいながら言った。

「ありがとう、あなたもちょっと休んだら?朝からずっと動きっぱなしじゃないの」

「大丈夫、このくらい何でもないさ、本当は俺が運転してあげたいんだけど、この肌の色だろ、市場で目立ちすぎちまう、悪いな」

「いいのよ、夕方までに戻るわ、ウィルも無理してはだめよ」

「サンキュー」

 エンジンキーを回すとマフラーからは、黒煙がもうもうと上がり、がたがたと車体を大きく揺らした。

「戻ってきたら、エンジン見てやるよ」

 リューバは、にっこり笑ってアクセルを踏んだ。ウィルは轍の深くなった道を下っていくリューバの軽トラックを見送ると、またスコップを拾い上げ、朝、やり残していた水路作りへと戻っていった。 


 リューバの運転するトラックは一時間ほどでウィスタリスクの街に着いた。

 旧時代のコンクリート作りのアパートが道沿いに取り囲むように立ち並んでいて、街の華やかさは現在になってもどこにも見ることができない。細い街路樹の弱々しい葉だけが、この町をほんのわずかだけ彩らせているにすぎない。住んでいる人々のように、今ある環境に慣れてしまえばいいのだが、リューバ自身変われるはずもなく、少し陰鬱な気分のままこうやって車でゆっくりと道を走っている。


 昼下がり、白い絹雲が青空にひっかき傷をいくつもつくっていた。

 大好きだった兄がこの街からバスで出兵した日もこんな天気だった。古びたバス停の標識を見ながら、そのようなことをまた思い出していた。


 共同市場の建物の横にトラックを止めると、何人かいる従業員のうち一番年を取った男が書類を手に近付いてきた。

「今日は、ずいぶん収穫できたんだな」

「モスクワに住んでいた親戚の子が疎開してきているの」

「そうかい、この街でも知らない顔ばかり増えてきてるよ、ところで、母さんは元気かい」

「何とかやっているわ」


「リューバ!」

二人の話を遮るように店舗から青年が飛び出してきた。

「この頃、顔を見ていないで心配してたぜ、どうして、連絡をくれないんだよ」

「何であなたなんかに連絡しなくちゃいけないの」

「夜、寂しいだろ、昔のように俺がなぐさめてやるのに」

「冗談でもそういう言い方はよして」

リューバは青年の言葉を無視するように、野菜の木箱を近くのパレットに下ろした。

青年はリューバの白く細い右腕を横からぐっと掴み、その反応を見てにやにやといやらしい笑みを浮かべた。

「やめてよ、警察呼ぶわよ」

彼女は慌てて振り払い、今、掴まれていたところを左手で押さえた。

「警察?この街にはいねぇよ、リューバ、わかってくれよ俺の気持ちを」

青年の言っている通り、異生物侵攻に対して軍隊の規模拡大により、各地の街では警察機構はほとんど機能せず、住民による自警団が夜間に行われているにすぎない。この街も例外ではなかった。

「わかりたくないわよ」

「グリーシャ、リューバ、痴話げんかはそこまでにしてくれ、商売の邪魔になる」

「何言ってる爺さん!」

「お前の職がなくなってもいいのか!」

老人の強い言葉に、青年は不愉快そうに舌打ちしながら、ポケットに手をつっこみ店舗の方へ戻っていった。

「リューバ、あいつをあんな風にさせたお前にも責任がある、思わせぶりなことはやめろよ」

(勝手にあいつが言い寄ってきているだけなのに、ひどい言い方だ、私が何をしたっていうの、だからこの街の人間は……)

リューバは、そう思ったが口には出さず、また、残りの箱を黙って下ろしていった。

ひととき、手を休め、二人の様子を見ていた労働者達も何事もなかったように作業に戻っていた。

ラジオから流れてくる雑音混じりの重々しい音楽が途切れ、ニュースが流れてきた。

それは極東の国『ヤポーニャ』で現在、大規模な軍事作戦が展開されている内容だった。自分の兄も多分そこで戦っているはずだと思い、リューバは耳をそば立てた。

「現地時……午前七時、連合軍は……のもと、作戦……、被害の報告はまだ……、それについて、ロシアのマ……は、この……」

ただでさえ聞き取りにくい時に、となりのトラックがエンジンをかけたので、もう完全に聞こえなくなってしまった。すぐに自分のトラックの運転席に乗り、ラジオを入れたが、ロシア政府に対しての暴動のニュースに切り替わっていた。

老人が手に紙幣と硬貨をもって、リューバに近付いてきた。

「これが代金だ」

「ずいぶん、高く買ってくれるのね」

「都会の方は食糧不足が続いている、連日値段が高騰しているんだ、これも聖霊の豊かな恵みだ、感謝しておけよ、それと、もし気が変わったらグリーシャの奴とつきあってやってくれ、あいつだって心の中は寂しいんだよ」

「はっきり言っておきますが、私はお断りです」

リューバは、老人からお金を受け取ると、すぐにトラックを走らせた。


あの市場の老人が言っていたように、この田舎の街にも幅広い年齢の色々な外国人が目に付いた。これならウィルが少しくらい街に来ても大丈夫じゃないかとリューバは思った。

 街角にはライフルを持った軍人の姿をちらほらと見かけることもあったが、どの顔にも緊張感はなく、あくびをしたり、煙草を吹かしている者もいて、末端組織の軍規が乱れている様子がうかがえた。


ユキザネのシャツが古い子供の頃の兄のお下がりしかなく、困っていたことをふと思い出し、行きつけの洋服屋の前にトラックを止め、リューバは店内へと足を運んだ。

「こんにちは」

店の奥のレジのところに丸々と太った婦人はリューバの姿を見るとすぐににこにこと笑いかけた。

「リューバ、久しぶりじゃないか、よく来てくれたねぇ、今日は何だい、この物不足の中、あんた向けの良い洋服が入ったばかりなのさ」

「ごめんなさい、今日は私のじゃないの、子供用の服が欲しくて」

「あんた、いつの間に結婚してたんだい?相手はあのグリーシャかい」

婦人は少し嫌そうに眉間にしわを寄せたが、まずいと思ったか、元のようににこやかな顔を作った。

「まさかよ、遠い親戚の子供が疎開してきているの」

「それだったら、安心したよ、そこいら辺に色々吊してあるから、ゆっくり見ていってよ」

「ありがとう」

リューバは、色とりどりのシャツを手にとり、ユキザネの無邪気に喜ぶ様子を想像していた。

「そう言やぁ、あんた見たかい?」

「何を?」

「がらの悪い兵隊がそこらにいただろ」

「ええ、何人か」

「ほんと、大迷惑だよ、店の物持って行っても代金だってろくに払いやしない、一言目には俺たちが虫からお前たちを守ってやっているの一点張りさ、それにもましてこの頃、脱走兵が多いらしくて困ったもんだよ、まぁ、こんな小さなシャツを着る脱走兵はいないけどね」

ほんの冗談のつもりの婦人の言葉を聞きリューバは少し驚いたが、表情に出すまいと平静を装った。

「はい、あんたや母さんの服はいいのかい?次、いつ入ってくるかわからないよ、都会の方はえらい暴動が起こってるそうだし、工場もストップしたままだってさ」

「ううん、また今度来た時でいい、今度は母さんと来るわ、それと、はい、これ」

持っていた手提げ袋から野菜の入った紙袋を取りだし、婦人に渡した。

「まぁ、おいしそうだね、遠慮無くいただくよ、母さんにもよろしく伝えておくれ」

「ありがとう」


店から出たばかりのところで、ガムをくちゃくちゃと噛んでいる一人の兵隊と目があった。リューバは素知らぬふりをして、買ってきた洋服の入った袋を助手席におこうとした時、兵隊が声をかけて来た。

「見慣れない顔だな、どこから来た」

「北の丘地区よ、この店のおばさんに聞けばわかるわ」

「そうか、見知らぬ青年を見たら脱走兵の疑いがある、姿を見たらすぐに教えろ」

「わかったわ」

兵隊の男はそう言って、通りすがりにリューバの尻をいやらしい手つきでなでた。

「何するのよ!」

「俺が何をしたって?お前昼間から犯されたいのか?それともここが寂しいのか?」

男はそう言って、ライフルをリューバの胸にぐいと押しつけると、ガムをトラックの荷台に吐きつけ、その場を立ち去った。

リューバは悔しかったが、じっと我慢せざるをえなかった。



(三)


リューバは、帰宅するとトラックをいつものように納屋の前に止め、サイドブレーキを引いた。はじめ車が近付いてきたので驚いて逃げ出していた鶏が、また、もとのようにタイヤの周りに集まり、地面にこぼれ落ちている餌をついばみはじめた。

「お疲れさん」

 納屋の中からウィルが声をかけた。

「ただいま」

 ふいのその声に少しだけ驚いたものの、リューバはすぐに車から降り、街で買ってきた食材や荷物を荷台から下ろした。

「今日、おばさんとアキが何か色々採ってきたみたいだ」

「へぇ、それは楽しみだわ、ウィル……あの……」

「ん?」

「あっ、ごめん、いいの」

 その表情に少し影を感じたので、ウィルはわざと軽く聞いてみた。

「街で何かあったのか?お金でも落としたのかい?」

「えっ?別に何でもないわ」

「そう、俺ここでまだ少し仕事していくわ」

 ウィルは、ぎこちなく答えるリューバにそれ以上聞くこともせず、車を整備するため、すぐにボンネットを開けて、エンジンが冷えるのを待つ素振りをした。

(多分、俺たちのことだな……)


「おかえりー!」

 リューバの帰りに気付き、ユキザネが犬のアレクと玄関から飛び出してきた。

「ねぇ、見て、見てよ」

「なぁに?」

 ユキザネが荷物を抱えたリューバの背中をぐいぐいと押し、台所のテーブルのところまで連れて行くと大きなかごの中にあふれんばかりにコケモモの実が入っていた。

「すごいじゃない!一人でこんなに採ったの?」

 ユキザネは照れくさそうにして言った。

「おばさんと採ってきたんだよ、これでジャムいっぱい作れるよね」

「うん、二月分はあるわ、後ですぐ作ってあげるから」

 そう言ってリューバはテーブルの上に荷物を置いた。

「わぁい!これ、そのまま食べてもおいしいんだよ!僕、すごく嬉しいよ!いつまでもここに住んでいたいなぁ」

「いいのよ、いつまでもいてね、あ、そうだ、この袋を開けてみて」

 その中の手荷物から一つの紙袋を取り出すとリューバはユキザネに手渡した。ユキザネは、待ちきれずにすぐに紙袋の口を開け、中を覗き込む間もなくすぐに右手を入れ、入っている物を出した。

 きれいな水色をしたシャツであった。

「これ、僕の?」

「ええ」

「本当に僕着ていいの?」

「ええ、いいわ」

「本当に?」

「ええ、本当よ」

「やったぁ!僕すぐにウィルに見せてくる!リューバ!ありがとう!」

 ユキザネは目を輝かして、そのトレーナーを手に玄関を猛烈な勢いで飛び出していった。

「おやおや、すごい剣幕だねぇ」

「あ、母さん」

 母親がにこにことした表情で奥の部屋から様子を見ていたのだ。

「珍しいわね、母さんがコケモモ採りなんて」

「ああ、何年ぶりだろうかねぇ。年甲斐もなくはりきったんで、腰が痛いよ」

 リューバは嬉しそうにしている母親の様子を見て、ラジオで流れていたニュースのことはまだ黙っていようと思った。

 テレビの放映は既に前から途絶えており、ただの箱と化していた。唯一、外界のことを知るためには決められた時間に放送のあるラジオだけである。母のターニャは兄が戦場に行ってからしばらくはずっと食い入るように聞いていたが、被害状況を知らせる暗いニュースばかりが多く、近頃はあえて聞くのを避けているようにしかみえなかった。


「見て、見てよ!これ、リューバが買ってきてくれたんだ!」

 ユキザネは車を整備しているウィルのそばに近付いていって、自分のお気に入りの服をこれよとばかりに見せびらかした。

 ウィルは、ユキザネの笑いに答えて左手の親指を立てた。

「大事にしろよ」

「うん!」

「それとな……」

「わかってる……わかってるよ、ウィルの身体も治ったし、いつまでもここにいるとおばさんたちに迷惑をかけるくらい……」

 急にユキザネが落ち込む様子を見てウィルは一呼吸おいて話し始めた。

「明日の夜、ここを出ようと思う」

「えっ、そんなに早く?」

「どうしても行って確かめたいところがある」

「どこ?」

「シベリアのティンダスク基地、俺たちがプラント大尉や河井隊長といた所だ」

 ユキザネはごくりと唾を飲み込んだ。

「あの基地の情報を軍のデータベースから探したんだが、一切消去されていて何も残っていない……こんなことなんてあり得るか?他の場所の戦績は全て残っている中で……風の城のオルベリーでさえも詳細に記録されている……なのに、あの基地だけ何もないんだ、俺たちの記録でさえ違う基地にいたことになっている……どうしても知りたいんだ、その秘密を……核兵器が使われていたとしても、何らかの痕跡くらいは残っているはずだ、それに……葉月も助けてやりたい」

 ユキザネは小さく首を垂れて応えた。

「それと、お前はここにいろ、俺からもリューバやおばさんに頼んでおく」

「ど、どうして!」

「お前は子供だから、まず誰が見ても怪しまれることはない、でも、俺はごらんの通りこの肌の色だ、この国ではあまりにも目立ち過ぎちまう、そして、湖の底の例の奴……こんな狭いところじゃ軍に見つかるのも時間の問題だ」

「いやだよ、僕も行くよ」

 小鳥が懐に飛ぶ込むようにしてユキザネがウィルの胸へ飛びついてきた。

「何でだよ、いつもそうやって一人で行って!僕が助けてあげているんじゃないか!あのパックに追いかけられた時もそうだ!僕がいたから、ウィルだって……」

「確かにな……でもよ……」

 いつの間にか、犬のアレクがユキザネの傍らに何かを察したのか寂しそうに座っている。遠くでターニャがユキザネを呼ぶ声が聞こえてきた。

「おばさんが呼んでるぞ、そうだ、その服、本当にお前にお似合いだ、リューバに感謝しろよ」

ウィルの褒め言葉にユキザネは無言のふくれっ面で答えた。

 はるか地平線の向こうから飛行機が通り過ぎていく音が響いてくる。

 裏庭に植えてあるポプラの木から枯れた葉っぱが一枚、音もなく散り落ちた。


(四)


あたたかいキノコのスープと黒パンが無骨なテーブルの上をおいしそうに飾っていた。ウィルはスプーンで皿からすくい一口すすると目を丸くして驚いた。

「うまいな!」

 食卓を囲んでいるターニャ、リューバはその様子を見て楽しんでいた。

「こいつの採ってきたもんだから、毒キノコばかりだと思っていたけどな!」

「ウィルには、もうあげないよ」

 ユキザネは機嫌が悪い。そう言って、口をぷっとふくらませた。

「それは勘弁してほしいな……」

 ターニャは笑いながら話の合間を見て、ウィルに言った。

「ウィル、あんたに相談なんだけど、このアキを学校に行かせようと思ってさ」

「え?」

 リューバもそれに口を添えた。

「お母さんと相談したの、アキの年だったら学校に行った方がいいわ、今日、街に行ってわかったの、いろいろな所から人が集まっているし、お父さんの昔の知り合いもいるの、この分だったら転校だってどうにかなるわ」

 ウィルは持っていたスプーンを皿の横において、かしこまって言った。

「俺の方もお願いがあります、アキをこの家に残してやってください」

「ウィル!」

 黙っていたユキザネが立ち上がった。

「この戦争が終わるまででいいんです、俺、わかったんです。こいつには戦いをさせちゃいけないって、あんな兵器を使わせちゃいけないって、兄のような日本人の上官が僕たちが兵器に乗る時、いつもなぜか悲しそうにしていました……僕たちが敵を倒すと顔は笑っていたけれど、目はいつも寂しそうでした……その時は全然わかりませんでした、でも……でも今その気持ちが痛いくらいにわかるんです、本当に自分勝手で迷惑かもしれないんだけれど、こんな時代だからこそ、こいつにはリューバやおばさんたちのような温かい人たちの中で普通の生活をさせてあげたいんです、お願いします!」

「ウィル!やめて、僕は……」

「あんたたち、落ち着きなさいよ、スープがさめちまうよ、ほら、アキ、食事中に立つのは行儀が悪いんだ、私が神様に怒られちまうよ、わかった、何も言わないでいいよ、ウィル、あんた良い兄さんだね……」

 そう言いながらターニャはぼろぼろと涙をこぼした。

「ウィル……」

 リューバも悲しそうに二人の様子を見つめていた。

「ウィル、ウィルもずっといていいのよ、街には色々な肌をしていた人も見たわ、だから……だから……」

「リューバ、ありがとう……でも俺には助けてあげたい大事な子がもう一人いるんだ」

 その時、リューバはウィルの思い人なのかと胸がちくりと痛み、「その人は誰なの」と聞きたい衝動にかられる自分にとても恥ずかしくなった。

「ウィルなんて、大嫌いだ!」

「待って!」

 食べかけの食事をそのままに、リューバの制止を振り払ってユキザネは二階へと駆け上がっていった。ウィルは黙って椅子に座り直すとまた、黙々と黒パンを口の中にちぎって入れた。温かなスープはもうすっかりと冷めてしまっていた。


食事を終え、ウィルが二階に上がっていくと、ベッドの上で両の足だけ出しシーツを頭からすっぽりとかぶったユキザネがいた。

ウィルは声をかけることなく、ちょうど夜のニュースが入る時間であったので、自分のベッドに腰を下ろしリューバから借りているラジオのスイッチを入れた。

 短いファンファーレとテーマ音楽が終わり、女性アナウンサーが今日の第一報を伝え始めた。

「極東の国ヤポーニャの虫の塔に向け、大規模な軍事作戦『オペレーションサムライ』が進行されています、この作戦の結果によっては、今後の侵略生物に対しての人類の行方に大きく影響することになります。まずは現地からの報告です」

(ヤポーニャ?日本……か)

「今、この美しい宝石のような島国は地獄さながらの様子を呈しています、小さい湾の中は多くの爆撃のため沸騰したかのように泡立っているのを遠くからでも見ることができます、この作戦において我々愛すべきロシア軍と連合軍は新型戦闘機を投入、沿岸地帯に配備され、まさに文字通り虫一匹上陸させない陣形で臨んでいます、音声からだけではお伝えにくいのですが、肝心の塔は煙の中に包まれ詳しい様子はわかりません、しかし、その方向からの光の点滅はまるで止む気配もありません」

(新型?カスガ……まさかな……)

「この限られた地域でどれだけの弾薬が使われているのでしょうか、まるで想像もつきません、今、また近くの砲台からミサイルが射出されました」

 現地からの実況アナウンサーの金切り声が止み、スタジオから、この作戦のこれからの方向性や敵の分析が解説員によって補足されていった。そして、最後に人類は絶対に負けることはないという言葉でこのニュースが締められた。

(もう時間はなさそうだ……)

「アキ……」

 ウィルの問いかけに返事がない。シーツをめくって見ると両頬に涙の筋をつけたユキザネが、くうくうと小さな寝息を立てていた。

「本当に子供だな」

 ウィルは優しくシーツを戻し、毛布をかけ、部屋の机の周りにあった荷物を手早く鞄に詰めると階下へ降りていった。

「ウィル、アキの様子は?」

 リューバが心配そうに聞いてきた。

「安心して、もう寝てる、おばさん、リューバ、突然ですいません、俺、これから行きます」

 その言葉にはターニャも驚いた。

「何で、そんな……いくら何でも、私たち気に障ることでも言ったかい」

「おばさん、ごめんなさい、もう時間がないようなんです、俺が今できるだけのことをやってみたいんです、毎日が訓練や戦いばかりだった俺は……いや、家族もいない自分にとって、本当の天国に来たかのようで、小さい頃、何かこんな家に住んでいたような気もずっとしていました……それで……えぇと……リューバなんてまるで天使でした、全て迷惑ばかりかけていたので、心が何かこう、つらくて、でも、でもすごく嬉しくて、毎日が楽しくて、言葉ではいえないくらいなんです、いつまでもいたかったんです……でも、やらなければならないことがあって……今日まで本当にありがとうございました」

ウィルは深々と頭を下げた。

「ウィル!」

「あんたって子はまったく……」

 ターニャはウィルのところに近付いて、自分の頬をウィルに優しくあわせて言った。

「いつでも帰ってきなさい、ここはあんたのうちだからね、いつか、うちの自慢の息子にもあわせてやるよ、アキのことだったら心配いらないよ、私たちに任せておきな」

「ウィル……また、戻ってきてくれるよね……」

「ありがとう、リューバ、それを聞いて安心して行けるよ、必ず……」


 その日の明け方、人の立ち入ることが少ない森の奥の湖の方角から大きな音が響いた。梢にいたリスは一瞬耳をぴんと立て動きを止めたが、すぐに何事もなく枝の先のドングリに小さな指をのばしはじめた。


(五)


「すげぇ、今までの機体とは別物だな」

 ウィルはシベリアの空を実際に自分が操縦してみてこの『バステト』の機動性にあらためて驚愕していた。

「これじゃ、壁に頭ぶつけたのもわかるぜ」

コクピットに備え付けのコードの付いたヘルメットはあったが、もう使う気にはならない。

 思春期の少女のような本当にナーバスなこの機体をユキザネは短時間の間に軽く使いこなしていた。そう思うと彼の操縦スキルの高さと底知れぬ能力にウィルは何も言えなくなっていた。

(ウィルの馬鹿!)

 赤い顔をしながら目に涙をためて怒っているユキザネの顔が流れていく外の景色にオーバーラップしていく。

(いいんだ……俺のしたことは間違っていない)

 この機体のステルスシステムはレーダーによほど接近しない限り反応しない。しかし機体が空を飛ぶ音と姿は隠しようがなかった。地上にいる人々は機体の出す衝撃波にさぞ驚いていることであろう。

「軍に見つかるのも時間の問題だな」

 ウィルは接近するものがないか注意しながら古巣『ティンダスク基地』へと機体をさらに加速させる。

リューバが口ずさんでいた歌が心によぎっていった。


時 程なくして吾も追わん

真心潰え 友は行き

指輪 その輝きを忘れさる

愛しきもの無き 荒れ果てた野に

一人 誰が 生きられよう


ウィルの悪い予想は的中していた。

 各近隣地域からの通報により極東空軍の担当部署は早朝からその分析に忙殺されていた。スクランブルで多くの戦闘機が、ウィルのMAO『バステト』の追跡の命を受けて基地から飛び立ち、その包囲網を少しずつ縮小していた。

 そういった情報を軍の専用回線を通じウィル自身も知ることができていたことが不幸中の幸いであった。

「ったく、あと二分で接触かよ」

『バステト』のレーダーには徐々に手探り状態で接近する機体が投影されていた。

「やり過ごすか……戦うか……」

 ウィルはふとつぶやいた自分の言葉と想像を首を振って否定した。

「だめだ、人間どうしで戦うなんてありえねぇ……」

 南から接近する機影さえ振り切れば、ティンダスク基地まではわずかである。

 コクピットにミサイルアラートが鳴り響き、地上からSAM(地対空ミサイル)が発射されたことをウィルに告げた。しかし、ミサイルは全くかすりもせず、はるか後方の上空へ消えていった。

「軍の奴ら遠慮がない」

 正面モニターにとうとう追撃部隊の戦闘機がマークされた。向こうも視認できたようで、すぐにコースを急に曲げてきた。

「『バステト』パイロット、こちらの指示に従い投降せよ、繰り返す、こちらの指示に従い投降せよ……」

「こちら、『バステト』パイロット元特務兵ウィリアム・ボーナム、んで脱走兵、貴機の任務に対し抵抗するつもりはないが、この場は突破させてもらう、以上」

「ウィリアム、その返答は認められない」

「だろうよ」

 ウィルは、相手との衝突を避けるため、機体を急上昇させた。

 空軍機のパイロットは一瞬のうちに『バステト』が視界から消えたので、慌てて機影を自機の前後左右に求めた。

「おえぇ、目がくらむ……」

 パイロットスーツのない状態が、これだけ身体に負担がかかるものだということを嫌というほど味わっているウィルであった。

 追撃機はとうとうたまらず空対空ミサイルを発射した。『バステト』は燕が宙を舞うように追いすがるミサイルを錐もみ飛行で次々と交わしていく。

「このステルスモード、電子戦には抜群だけどパックのような生物には無意味だろうなぁ」

 相手は地球の技術を使っているわけではない。ミサイルを軽くいなしたウィルは操縦しながら苦笑いをした。

「遊んでられねぇんだ、それともこいつを機銃だけで落としてみるかい?」

 相手のパイロットはウィルの挑発の言葉に血が上ったが、それ以上の攻撃をかけるだけの兵装を整えていない。

「これから援護も来る、このままなめられてたまるか」

「アローベータ・ガンマ追撃中止、この先は汚染飛行禁止区域だ、この旧世代の機体じゃ、放射能汚染はまぬがれん」

「しかし!」

「無駄なことをするな、俺たちはただ命令に従っていればいい」

 彼らは点のように小さくなっていく『バステト』に悔しさをにじませながら追撃を中止した。


(六)


ティンダスク基地の方向は、何も見えず、綿飴でできたような雲海が続いている。

それまで交わされていた通信が途絶えた。

「通信管制か……」

ウィルが高度を徐々に下げていったその時、レーダーの警告音が今までとトーンの違う高い音で鳴った。

(この警告音……まさか?)

 レーダーモニターが『バステト』に向かって高速度で突入してくる機体ナンバーと機影を同時に表示した。

「『リンクス』とロシナンテ!なぜ、ここに……東欧支部の機動騎兵隊が投入されたのか……それも単機、よほどの手練れか?」

 あと十数秒で目視できる距離になる。

 ウィルの操縦桿をもつ手が緊張した。こちらは最新鋭の機体といっても相手はMAO『リンクス』、それもロシナンテ(戦闘輸送機)付きである。機体能力差としては五分五分といえよう。

(見えた)

 間違いなく相手の機影は一直線上にこちらに向かってきていた。

(残りの弾倉カートリッジをここでは使いたくなかったんだが、そうは容易くいかせてくれないか)

 ウィルは武器の安全装置を全て解除し、ターゲットマーカーをモニターに点灯させた。相手の機体は想像していた以上に接近するスピードが速い。

(まだ撃ってこない、結構やるな、確実な距離で仕留める気か)

依然、相手からの通信は沈黙を保ち続けている。

「牽制だ、当たるなよ!」

 ウィルは相手の機体に向けていたライフルを発砲した。それを事前に察知していたかのように『リンクス』を乗せたロシナンテは弾を避けていく。そして、ウィルの機体の横を猛烈なスピードですれ違わせ、機体を大きく反転させた。

「この動き、さすがホームの連中だ!」

 ウィルは残弾の数値を気にしながら、かつて自分と同部隊にいたヴィラや少女のことが頭に浮かんだ。しかし、その一瞬の間が命取りとなった。

 過ぎていったのはロシナンテだけで、『リンクス』は自分の真上の空に鳥のように飛んでいたのだ。あまりのトリック的な動きの速さに、相手は自分とは段違いの腕前の持ち主であることをウィルは悟った。

(殺られた!)

 コクピットのアラートブザーの音に飲み込まれながら、ウィルはこんな所で撃墜されてしまう自分の非力さを心の底から悔やんだ。

 その時、上空から戦闘態勢のまま突撃してくる『リンクス』から短い言葉が通信で飛び込んできた。

「チェックメイトだ……ウィル……」

「!」

 ウィルはその声を聞き驚愕した。



(七)


 もうこの家にはウィルはいなかった。

 ユキザネ自身も、ウィルが自分のことを一番に思ってくれていたことを知っている。ただ、それはあまりにも突然すぎた出来事であった。

「ウィル……」

 ユキザネは、家の窓から曇り空を心配そうに見つめている。リューバは後ろに寄り添い優しく肩に手をかけ一緒に遠い空を見上げた。

「大丈夫、ウィルは必ず帰ってくるって約束してくれたから……今日から学校じゃない、頑張ってね」

 雲の押さえきれなくなった涙のような雨のしずくが一粒二粒と地面に円い模様を付けていく。

 軒下にいた飼い犬のアレクは悲しそうに一声、遠吠えをした。


「おい、また今日転校生来るんだってよ」

「また、街から来たのか?」

「それなら俺たちのルール教えてやろうぜ、あいつら口だけの奴多いからな」

ロシア初等学校の四年生の教室では、今日から登校する転校生の話題でもちきりであった。

この数年、転校生はそんなに珍しいことではなくなっていた。都会から戦火を逃れ家族で避難するのが日常茶飯事な出来事であったからだ。

「人の集まるところに虫が来る」

 この地域の住人の中にはよそ者を毛嫌いし、排斥する風潮も生まれている。大人たちのそういった雰囲気は自然に子供たちにも伝わり、転校してきた子供たちは仲間はずれや冷たいいたずらをされ、つらい思いをしなければならなかった。

「ユーリ・ソーンツェアくんだ、確かモスクワからだったな」

「はい」

「みんな仲良くしてやってくれ」

 年老いた教師ボリスは鳥の巣のような髪に手をやり、後ろから二番目の席を指さして席へ着くよう促した。


(『アキ・ユキザネ』……とてもいい名前だけど、ここでは絶対に本名を出してはだめよ、で、学校では静かにしていないといけないんだからね)

リューバが車の中で朝言ったことをユキザネは守ろうと思った。リューバ達に迷惑をかけまい理由はそれだけであった。


椅子に座っている一人の男児が、ユキザネが通ろうとしている目の前の通路に足を投げ出していた。

「邪魔なんで、どけてくれる?」

 ユキザネの問いかけに男児はまるで聞いていないような素振りをしていた。

 元々勝ち気な性格であるユキザネは、その男児の足の甲の上を思いっきり踏んで通った。

「いってぇええ!てめぇ、何するんだ!」

 ユキザネは、その男児の反応を無視するように席に着き、引き出しの中にノートやペンケースをしまおうとした。

「何、無視してんだよ」

「はじめに無視したのはどっちだよ」

 担任のボリスは、注意するのも面倒くさいのか、何事もないかのように一時間目の理科の授業を始めていた。

「生意気な奴だな」

 そう言って前の席の男児はコンパスを取りだし、ユキザネの机に針を突き立てた。となりの席の少女を含めたまわりの児童はおそるおそるその二人の様子を見ていた。

「これ僕にくれるの、ありがとう」

 ユキザネはそのコンパスを机から引き抜くと、自分のペンケースにしまおうとした。

「お前!」

 立ち上がる児童の眉間のすぐそばにコンパスの針をかざしユキザネは微笑みながら、軽く言った。

「僕はこんなの怖くない、やめようよ……学校は楽しい所だって聞いているのに」

 児童は急に青ざめ、自分の席にへなへなと座った。しかし、そう言ったユキザネも何かを思い出し少ししゅんとしてうなだれてしまった。

(静かにしないといけないのよ)

 ユキザネは、朝からリューバの約束を一つやぶってしまった。

 となりの席に座っている少女トルスタヤはそれこそ白馬の王子が来たのではないかと錯覚した。あの大嫌いないじめっこのムラヴィンを軽々とやりこめてしまったからである。

 大都市から転校してきたトルスタヤは、物を隠されたり、本を破かれたりしたのが続き、今朝も朝から学校に来るのが憂鬱だったのだ。

 次の休み時間にはユキザネの周りに多くの子供たちが集まってきていた。

「ねぇ、ユーリ!モスクワのどこから来たの?」

「えっ?うーんと東の方……」

「兄弟、何人いるの?」

ウィルの顔がはじめに、そして河井小隊の少年たちの顔がユキザネの頭に浮かんだ。

「一人いや……いっぱいかな」

 こんなに自分と同じ年頃の子供たちに囲まれたのは、ホームにいた時以来であったので、ユキザネ自身もあまりのにぎやかさに驚いていた。

(あの時は、みんな毎日苦しくて黙っていたもんな……こんな場所もあったんだ)

「おいおいおい!てめぇ、転校生のくせに調子にのってんじゃないか」

 ムラヴィンが二人の上級生を連れて、ユキザネの周りの人だかりを押しのけていった。

「えっ?僕は普通なんだけど」

 ユキザネが答える前に上級生の男児が殴りかかった。ユキザネはその拳を軽くかわしたのだが、すぐ側に立っていた質問していた男児の肩の所に勢いよく当たった。男児はよろけ、壁に大きくぶつかった。

「邪魔なところに立っていやがって!」

「何するんだ、かわいそうじゃないか!」

「お前のせいだろ!お前がよけるからだ!」

周りの児童はこの雰囲気にのまれ身じろぎもできないでこれからのできごとを見守った。

 口で言ってわからないやつはこれしかない、そう思うとユキザネは後ろの棚から厚めの本を一冊手に取るや、すばやく殴った上級生のそばに迫り、背表紙で思いっきり頭をたたいた。

「あぅ!」

 声をほとんど発することなく、上級生はその場に失神した。あっという間のできごとであった。

「きゃぁ!」

 近くの数名の女児が声を出し、遠くにいた児童はすぐに職員室の方へその様子を知らせに走っていった。

「死にはしないよ、早く救護兵……じゃなかった……手当てしてくれる人のところに連れて行きなよ」

 ムラヴィンともう一人の上級生は何もできない。

「しょうがないなぁ」

 ユキザネは自分よりも大きな上級生の体をかつぐと、教えてもらった保健室の方へ向かっていった。

トルスタヤだけではない、この光景を見ていた虐げられてきた子供たちは心の中でユキザネに喝采をおくった。


空気の冷たさが一段と増し、白樺の木々の葉は徐々に森の奥から黄色く染められていった。

 窓から見える景色とは逆に、目の前にいる担任のボリスはカチカチとボールペンの頭を机にせわしなく打ち付けている。

「ユーリ、転校してきて早々、問題を起こしてもらっては困る」

「でも……」

「言い訳はするな、ムラヴィンからも聞いている、君はいきなり殴りつけたそうだな……」

「いきなりなんて、教室に入ってきた子が先に……」

「というと、彼が嘘をついているというのか」

「はい」

「君は知らんだろうがな、あの子たちはそんなことを言う子じゃない、うちの学級の委員長をやっているんだぞ、それに、周りにいた子もムラヴィンの言っていることが正しいと言っている」

「言わされているんじゃないの?」

「君はどうやら口で言ってもわからない子供のようだな」

「ボリス先生」

 話を遮り、横から近付いてきた同僚の女性教師がひそひそとボリスに耳打ちした。

「うん、あぁ、今行きますと伝えてくれ」

 話を聞いてボリスは椅子から立ち上がり、今はユーリと呼ばれているユキザネの頬を拳で殴った。ユキザネは少しよろめいた身体を、右足を軽く踏ん張って立て直した。

「痛いだろ。これが人の痛みだ、この次このような問題を起こしたら、退学だからな」

 ボリスはそう言って、校長室の方へ歩いていった。

(何が痛みだい、殴らせてあげたんだよ)

 少し切れたのか、ユキザネの口の中に塩辛い味が広がっていった。


(八)


校長のイワーノフは、ボリスが部屋に入るノックを合図に今まで見ていたファイルを閉じた。

「何のご用ですか」

 少し緊張気味のボリスは校長の目の前に立ち、自分の呼ばれたことについて聞いた。

「クラスの中が騒がしいようだが」

「ご存じでしたか……ソーンツェアの親戚の子供が、村長の息子を殴りまして」

「例の孤児の転入生か、よそ者はこれだから困る、昔はここも静かな街だったんだがな、村長の息子だったらただではすまされまい、面倒くさいことをしてくれたよ全く……」

「二度と繰り返させないようにしますので」

「あまり、落ち着きがないようだったら、軍のオルファンホームを紹介してやれば良い。ソーンツェア家もその方がやっかい払いができていいのではないか?」

「そのことも家庭に連絡しておきます」

「穏便に事をすませるよう頼む、今、君もこの職業を失いたくはあるまい」

 ボリスは返事もそこそこに校長室から退出した。そして、自分の席に戻り少し考えた後、電話の受話器を手に取った。

「はい、こちら連邦政府孤児収容施設トロイカ」

 電話口から明るい女性の声がした。

「……はい……なかなか良い少年が……はい……ぜひ一度……家庭には……でも良い素質を……」

 ボリスは電話の相手にユキザネの家庭環境や運動神経についての詳細を知らせた。


 遅い放課後、校門から出るところに少女が三人くらい固まって何かおしゃべりをしている。そのうちの一人はユキザネの顔を見た途端、ツタウルシの紅葉した葉のように顔を真っ赤にした。

 ユキザネはたいして気にすることもなく、そこを走り過ぎようとしたその時、眼鏡をかけた緑の帽子をかぶった少女が声をかけてきた。

「ユーリ君、強いのね」

「ううん、僕に何か用?」

「ほら、トルスタヤ何か言いたいことあったんでしょ」

 トルスタヤは、首を振ってすぐにもう一人の長髪の少女の後ろにうつむいたまま隠れた。

「用事ないんだったら帰るから、市場でリューバと待ち合わせしているんだ」

 ユキザネがまた歩こうとした時、消え入りそうなか細い声でトルスタヤが言った。

「ユーリくん……ありがとう」

「へ?僕なんかしたっけ?」

「ほらぁ、あのいじわるムラヴィンを静かにさせてくれたでしょ」

 長髪の少女が代わりに答えた。

「ああ、そのこと、あれは僕が勝手にやったことだから、お礼なんておかしいよ、全然気にしないでね、あっ、待ち合わせの時間になっちゃう、ごめんね、また、明日!」

 夕日が三人の少女の影を長く校庭に描く中、ユキザネは、にこやかに手を振ると、風のように正門から延びる道を走っていった。


(九)


ソーンツェア家では、あたたかな夕食の時間を迎えていた。ユキザネは今日、学校であった出来事を(殴ったことと怒られたことをのぞき)面白おかしくリューバたちに話した。

 ターニャは、ユキザネが学校から帰って来るまでとても心配していたのだが、その様子を見てそれが杞憂に終わったことを嬉しく思った。しかし、リューバは大好きなウィルのことを一切口にしないユキザネの心の中のつらさが苦しいほどわかっていた。

電話のベルが鳴った。

「ああ、いいよ、私が出るよ」

 立とうとするリューバを止めて、ターニャがテーブルから立ち上がり、受話器をとった。

「はい、あぁボリス先生、今日はありがとうございました、うちのユーリがお世話に……えっ?」

 ユキザネは、大好きなチーズトーストを食べようとした手を下ろし、そっと、椅子から離れようとした。

「お待ち!」

 ターニャは受話器の話口を左手で押さえるとユキザネにそう言った。

「わかりました……はい、しっかりと言っておきますので、申し訳ありませんでした、えっ、少年兵の推薦?それは一切考えていませんよ、いえ、大変名誉なことはわかっています、でもその件についてはお断りします、ああ、はい、ええ、ボリス先生のそのお気持ちはとてもありがたいことですけど、はい、わかりました」

 話し終えると、ターニャは静かに受話器を置いた。

「アキ、ちょっと座りなさい」

 それからユキザネはターニャに、こってりとしぼられた。だが、ユキザネは怒られながらも何か嬉しかった。

だが、最後にターニャは笑い

「あんたが言っていることは間違っていないよ、でもね、やり方ってもんがあるだろうさ」

 と言って、リューバに冷めたチーズトーストのかわりを用意させた。


(十)


 既に登録済みの孤児の場合はこうしたエラー音が鳴る。

 オルファンホームロシアの担当ミシチェンコは、各学校や施設から入ってくる山のように積まれた子供の情報を夕方からたった一人で整理していた。

 名前や顔写真、生年月日などが記入された書類をドキュメントスキャナーに一枚一枚放り込み、既存の孤児のファイルと重複しないよう照合させていく作業である。

 ミシチェンコは面倒くさそうに、そのエラーの原因を修正するため、椅子に座り直した。

 今日、各地の学校から届いてきた書類である。

「ユーリ・ソーンツェア……ん?」

 液晶パネルに重複するもう一つの名前が赤く点滅した。

『アキ・ユキザネ』

 顔認証のソフトは同一人物という結果を出している。そこに記されているプロフィールを見てミシチェンコは驚いた。缶コーヒーが中身を振りまきながら、机の下に転がり落ちていった。そして、震える指で電話上のタッチパネルを押し、受話器が唾で濡れるほど大きな声で報告した。

「主任、我が国に朗報です!思わぬところで大きな獲物が釣れました」


 ユキザネは明日の学校をとても楽しみにしながら今夢の世界にいる。ウィルのいない寂しさを紛らわせてくれるベッドの中はとても暖かかった。


(十一)


月の光に照らされて丘から見る景色は霜が降りたようにきらきらと銀色に光っていた。

 その中を一台の黒塗りのセダンが獲物を探す蛇の目のようにヘッドライトの光を道なりに蛇行させながら猛スピードで走ってくる。

 冬毛に代わりつつある狐は、その気配に驚いてライトを避けるように藪の中へ身を潜めた。

真夜中のソーンツェア家の玄関の扉が強く叩かれた。一階で就寝していたターニャとリューバの二人はすぐに飛び起き、家の明かりを付けた。

「ソーンツェア婦人、すぐにここを開けてもらおう」

 野太い男性の声が家中に響いた。

 ターニャが除き窓から外を見ると二人の背広を着た男がこちらを向いて佇んでいる。一人はやせ形で眼鏡をかけた小さな初老の男、対照的にもう一人の若い男は、この扉をいとも簡単に壊してしまいそうな筋肉質の体つきをしていた。若い男は除き窓に自分の身分証明書をつきつけた。

「国家連邦保安庁のものだ、ここを開けない場合は実力行使にうつさせてもらう」

「誰だい、こんな夜中に……この家はほんとに、夜の来客が多いところだよ、昔はこんなことなかったのにね」

 ターニャがそう言いながら渋々と扉を開けると、男たちは足音をほとんどたてずに部屋の中に踏み入った。

「初めまして、ソーンツェア夫人、私は国家連邦保安庁支局のミハイル・アントーノフ、そして、この男はウラジミール・ストコフ、この身分証明書の通りだ、今日は何も乱暴を働きにきたのではない、アキ・ユキザネを当局に引き渡してもらいたい、こちらにいると聞いてきたのだが……」

 初老の男は少しとぼけたような声で言った。

「保安庁?物騒だねぇ、そんな人間はいないよ」

 ターニャはそう答えたが、少し気になったのか階段の方にちらりと視線を移した。

「二階だな、上がらせてもらう」

「あっ、リューバ!止めて!」

「やめて下さい!」

 若い男はリューバの制止を軽く振り払い、ずかずかと部屋の奥の階段へと向かっていった。

 犬のアレクがこれ以上先に行かせまいと階段の前で吠えている。男は背広の内ポケットから拳銃を出し、邪魔なアレクめがけて発砲しようとした。

「やめろ!」

 子供の大きな叫び声が聞こえた。

「おじさん、乱暴はしないんじゃなかったの……僕をつかまえにきたんだろ、アキ・ユキザネならここにいるよ」

 パジャマ姿のユキザネが階段からゆっくりと下りてきた。

「思っていたより割と素直そうな子じゃないか」

 初老の男はにやりと満足そうに笑った。

「アキ!」

 ターニャが今までになく青ざめた顔でユキザネを見た。ユキザネはパジャマのポケットから小さなナイフを取りだして、自分の喉にあてた。

「この人たちに手を出すな。手を少しでも出せば僕はここで死ぬ」

 初老の男にあごで指示され、若い男は拳銃を内ポケットにしまった。

「そんなににらまないで欲しい、私もご婦人に乱暴するのは好まない、勘違いをするな、私たちは逮捕しに来たのではない、君をスカウトしに来たのだ」

「スカウト?」

「我が祖国拡大防衛の為、そしてこのご家族のために働いてみてはくれないかね」

「我が祖国?」

「そう、国際連合軍ではなく、我が愛する国軍のためだけにだ。何も無償とはいわない、連合軍の脱走の罪もこの家のご婦人方の隠匿の罪もすぐに我が国で容易く帳消しにできる、この条件に嫌だと言える訳はないだろう、しかし、残念ながら君がここで逃げ出せば、すぐに連合軍に連絡し……この後に家族はどうなるかな?良くて牢獄行き、強制労働、重ければ銃殺刑だろう、かわいそうに……君の身勝手な行動のために、脱走兵を匿うような優しい家族がこの地から消えるのだよ」

 初老の男は演技がかったような声でユキザネに語りかけた。

「アキ、逃げなさい!私たちはどうなってもいいの!こんな男の言葉にのってはだめ!」

「しっ!」

 初老の男は口の前で右手の人差し指を一本だし、リューバの方をきつくにらんだ。

「黙りなさい、これは国と彼とだけの契約なのだ、さぁ、どうだね利口なユキザネくん、私たちは一度車に戻る、その意志があるのなら、ついてきたまえ、どうかね?悪い条件ではないだろう?すぐにとは言わんが……こちらも忙しいからな、三分だけ待ってやろう、君が変な考えを起こさないことを信じさせてもらうよ」

 二人の男は入ってきた時とは別人のようにうやうやしく礼をして、玄関から出て行った。

 ターニャはすぐにユキザネのそばに駆け寄って力強く抱きしめて言った。

「私らだって、あんたを匿った時からその覚悟は出来ているんだよ、心配するんじゃないよ、早くお逃げ、リューバ、お金と鞄を出して、あんたも一緒に行くんだよ」

 その温かく力強い言葉に、ユキザネの目から涙が流れ、握っていたナイフがことんと床に落ちた。

「ありがとう……」

「そうよ、母さんも私も平気だから、あなたが軍に戻ってしまったらウィルに何て謝ったらいいの」

リューバの顔にもこれから起こるであろう出来事に対して覚悟の色が浮かんでいる。

「おばさん……僕ね、前から一回言ってみたかった言葉があるんだ……」

「何だい?言ってみな」

 ターニャは聞いた。

「お母さん!」

 ユキザネはそう言ってぎゅっとターニャにしがみつくと、あたたかで眠くなるようで懐かしい臭いを一生忘れまいと全身で思いっきり吸い込んだ。そして、すぐに自分からはじけるように身体を離し、表の車へと走っていった。

 車の扉を閉める乾いた音がし、タイヤの鳴る音が響く。

リューバとターニャがユキザネを追おうと表に走り出た時には、もう彼を乗せた車のライトの光は丘の向こうに消えていった。

「神様!神様はなんて残酷な仕打ちをあの子達に与えるのですか!何であんな良い子たちが戦争に行かなきゃならないのですか!何で殺し合いをしなくちゃいけないんですか!何でその小さな手を血に染めさせるのですか!私の大切な子供たちをどうして奪っていくのですか!私が何か悪いことをしたのでしょうか!神様ああっ!」

 たった数日の間に抗いようのない運命の濁流に呑まれたターニャは、冷たい地に突っ伏し、生まれてはじめて自分の信仰する神の所業を恨み号泣した。

 月の光がただただ蒼く静かに辺りを照らし続ける中、犬のアレクが再び空に向かって一声悲しそうにくぅんと鳴いた。


(十二)


 イリーナ・トルスタヤは、あと一歩が踏み出せない。

 ゆるい坂道の真ん中に、黒い犬が姿勢良く座り、じっとつぶらな瞳で見つめているからだ。別に吠えるわけでもないのだが、彼女が右から回ろうとすると右に、左から回ろうとすると左にと、のそのそと合わせるように移動するのだ。

 何度帰ろうと思ったことだろう。

 でも、このまま帰ってしまうとせっかくここまで来たことが無意味になってしまう。どうしていいかわからなくなって、目に涙がにじんだ、

 水鳥の群れがVの字になって、空高く南へと鳴きながら飛んでいく。

 ゆっくり身体を横にし、目を極力あわせないようにしてほんの少しだけ進んだ。

黒い犬は顔を動かさないで目だけ彼女にそっと向けた。

「アレク、やめなさい!」

 小さなかごを持ったきれいな女性が坂の下から歩いてくるのが見えた。

イリーナには彼女が聖母マリア様ように見え、思わず心の中で感謝の言葉をつぶやいていた。

『アレク』と呼ばれる黒い犬が嬉しそうにしっぽを振り、イリーナのそばにいたことを忘れたように女の方へと飛ぶように走っていった。

「ごめんなさい、怖かったんじゃないかしら、もうアレクったら、だめじゃないの」

 アレクは自分が怒られていることとは知らず「ワン」と明るく一声吠えた。

「あ……あの、はじめまして、私はイリーナ・トルスタヤと言います、あ、あの……ありがとうございました」

「何、言ってるの、こちらこそごめんね、はじめまして、私はリューバ、リューバ・ソーンツェア、あなた街からここまで一人で来たの?」

(ソーンツェア?やっぱりこの人は私のマリア様だ)

トルスタヤは確信した。

「あ、あのソーンツェアさん」

「リューバでいいわよ、で、どうしたのかしら」

「あ、あの……ユーリくん……うぅん、ユーリ・ソーンツェアさんのご親戚の方ですか」

 リューバは最初少しだけ驚いたが、すぐに笑顔で優しく声をかけた。

「もしかして、アキ……、ユーリのお友達?」

「あ、はい。あ、あのぉ……その……」

 その様子を見て、リューバはイリーナの小さな背中に軽く手をそえて言った。

「あなた、コケモモジャムのパイは好き?私のおうちにご案内するわ」

「いいんでしょうか……」

「だって、あなたはユーリのお友達でしょ?」

 イリーナはこくんと頷いた。

 アレクはもうすたすたと自慢のしっぽをふりこのように左右に振りながら家の方へ歩いていた。

「ああ、お帰り、おや、そのお姫様はどこの子だい?」

 玄関に入ると母親のターニャがはじめに出迎えてくれた。

「母さん、ユーリのお友達よ」

「こんにちは……私……イリーナ・トルスタヤと言います、お忙しいところにおじゃましてしまって……あの……ごめんなさい」

「まぁ、しっかりした挨拶ができているね、あんたは良い子だよ、そうかい、ユーリの……」

 ターニャが一瞬声をつまらせたが、イリーナに涙を気付かれまいとすぐに後ろを振り向いた。

「今、ユーリが前に採ってきたコケモモジャムのいっぱいかかったパイを焼いてあげるね、リューバ、あんた、帰りは車でおくっておあげよ、あぁ、忙しいねぇ、嬉しい忙しさだねぇ」

 そう言って、椅子にかけてあったエプロンを手際よく着けると扉の奥へ消えた。

「私が来てもよかったのですか」

「ユーリの友達だったら、私も母さんも大歓迎よ、ね、アレクも」

「ワン!」

 犬のアレクはイリーナのそばに行って大きな身体を甘えるように擦りつけた。

「私……クラスのみんなからの手紙をもってきたんです、ボリス先生は転校して遠くに行ったって言うんで……それで……あの……住所がわからなくて……」

 イリーナは水色のかわいらしい自分の鞄から、白い封筒を取り出した。リューバはそっと受け取ると静かに自分自身に言い聞かせるように言った。

「いつ、渡せるかはわからないけれど、必ず渡してあげるわ、うん、約束、約束ね」

「あ、ありがとうございます」

 リューバは、ウィルにはやされながら、その手紙の束を受け取って頬を赤らめているアキ・ユキザネの顔を思い浮かべた。

そして悲しみがほんの少しだけ和らいだような気がした。





つづく

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