君だけを守りたい
俺の兄は、一週間前事故で死んだ。
何も予感がなかった。
その日もいつも通り、隣の部屋の兄は、俺を起こして、一緒に朝食を食べながら、朝ご飯って納豆かパンかどっちが一番いいという口論をして、八時頃に俺と一緒に家を出た。
兄は、いつものバイクに乗って、最後に俺に手を振った。
本気でそう思ったわけじゃないけど、バカかと呟きながら俺は右側の方向に向かった。
毎日代わり映えしない、まったく地味な日だ。俺はそう思った。
だが、学校で昼ごはんを食べた後に、電話が鳴った。
兄は、事故で死んだと。
クラスメートのみんなにそのことを話す気力もなく、こっそり家に帰った。
その地味な日は、忘れたくても忘れられない日になった。
葬式で兄の大学の友達が来てくれたので、父が必死で頑張って泣かずに「ありがとう」と言った。母は、逆だった。一秒も、涙を止めなかった。
俺は、涙が出なかった。祭壇に祀られた兄の遺影を、見る勇気がなかった。
それでも俺は、一日中兄の写真の前に過ごした。
お客さんがみんな帰った後、母は座布団の上に座った俺の隣に座って、あるものを渡してくれた。俺は赤い目でそれをちらっと見た。
一か月前に修学旅行へ行った俺は、お守りを買って兄に渡した。
「現場で残ったものは、これだけ。もらってくれる?」
と、母がしゃがれ声で言った。
断ろうと、一瞬そう思った。だが、母の真っ白な顔を見て、断ろうという単語が頭から削られてしまった。俺は手を開いて、砂利を触ったようなちりめんに触れた。一応、預かっておこう、と。
誰に渡そうか、また神社に行って戻してやろうか、悩んでいる。
だとしても、悩んでいるから家の近所にあった公園にきたわけではない。
俺の背中ぐらいの高さで鉄棒に立ちっぱなしで背中をもたれる。
どうするかを決めてから足を動かして、手にあったお守りを、ゴミ箱に捨てようと思った。が、捨てる前に、「ダメ!」という女の子の声が俺の動きを止めた。すごく驚いた。
いつから、俺のことを見ていたんだろう。
首を回して、その女の子を見た。
背中まで伸ばした黒髪に、前髪が瞼を乗り越えたぐらい長さで、さらに俺と同じ制服を着ている。彼女は、近所に住んでいる俺のクラスメートだ。
名前ぐらいは知っている。星野エリ。
プライベートまでは知らないけど、彼女が面白い子だという事実は認める。みんなはそう思わないかもしれないが、俺は、頬が赤くなりやすい彼女のことが面白いと思う。
「おっ。星野か」
俺がそう言った途端、彼女の頬が赤くなっていく。
「ダメ! あれ捨てちゃダメ」
そう言いながら、星野が声のボリュームを下げる。
俺は、まだ捨てていないお守りを眺めた。
「これ?」
星野が頷く。
何で、と聞きたいけど、彼女に関することを一つ思い出した。
日本中で一番、お守りにこだわる子。クラスメート全員が知る事実だ。
俺は、彼女を少し揶揄ってやろうとした。
「お前、さっきから俺を見てたのか?」
想像通り、彼女の頬が赤くなってきた。
「ちがう! わたし、このあたりに住んでいるからここを通っただけ!」
星野が、必死で誤解を解こうとするような口調で言った。
「だってお前、俺の試合……ずっと見に来てただろ?」
俺がそのことに気づいていると思わなかったのか、彼女の頬がますます赤くなった。
その時ふと、胸の中から悲しい思いが消え去ったような気がした。
「どうして?」
俺は笑った。特に理由はないが、笑いたかっただけだ。
「お前って面白いな。来週、試合に出るからお前もまた来いよ」
「へっ?」
「クラスメートの応援が、やっぱり大事だからさ」
彼女が、ひどく驚いたような顔をした。
まさか、俺が自分からそういうことを言い出すと思わなかったのだろう。
「もしダメだったら……これ、あげる」
俺は、少しだけ強引に彼女の手に、お守りを押しつけた。
星野は目を丸くしながら、はっとしたように俺を見つめた。
その反応をあまり気にせずに俺は、笑った。
ありがとう、と言いながら彼女に背中を向け、公園を後にする。
兄のお守りは、兄と一緒に俺の人生から消えた。
だが、これで本当に大丈夫なのか。