香り。
新年明けましておめでとうございます。今年も作品共々よろしくお願いします。
side:弥佳紗。
まずはこの部屋から出なくてはならない…のだが、先程私たちが入ってきた場所には既に隙間などなく、初めから壁として存在していたように見事に塞がっていた。
いつの間に…、とはもう言わない。
何が起こっても「あぁ、そうか」とすぐに納得できるくらいにはこの空間の特異性に慣れてしまった。
「…ふーん、まっ、当然だわな」
元来た道は使うな、ということだろうか。
私たちが入ってきたところには鋼鉄製の防護壁が降ろされており、完璧に塞がれており破壊することも無理そうだった。
今来たルートをもし、受験者が覚えていたら試験にならないからだろう。…過去にそういうことをした人間がいたのだろうか。
…と、そんなことはどうでもいい。
改めて室内を見回す。
窓は一枚もなく、横に何十メートルかはありそうな長方形をしていて、壁は灰色。
背後の壁の何もないところに触れてみると、埃が指先についたもののキュッキュと音がしてところからして、鉄に塗装を施したのだろうか。とりあえず、鉄製の壁ということだけでも分かれば上出来だ。
そしてもちろん、この部屋に私と八条院先輩以外の人間はいない。
物に関しては、無数の無機質な机やセロテープや筆記具、そして旧時代に活躍したという『ぱそこん』があった。他にも、何を表すのかは分からないが点がこれまた等間隔についた板が前方の壁に貼り付けられていた。
どうやら私たちは部屋の後方、それも中央から入って来たらしく、両端に一つづつ他の机と違って、高さ三十センチほどの台の上にのった少しばかり大きく、低い衝立に囲まれた机とその上に無造作に置かれた旧時代の電子機器らしきものが目に入った。
――これはなんという名…、
『これはね、ヘッドホンというんだよ』
この機器の名前を知っている気がして思い出そうとすると、突然柔らかな男性の声が頭の中に響いた。
「ッ!!」
誰かいるのか。
部屋の中には私と先輩以外の声の登場に勢いよく後ろを振り向くも、あるのは壁だけ。
新手の登場はやはりなかった。
耳元でささやかれたように実体を持ったその声はあまりにも生々しく、私の脳内でのみ起きた単なる脳内現象とは片付けられなかった。
それに、あの声を聴いてどこか懐かしくそして忘れてはいけない何かを忘れているような不思議な感覚が私の中に生じている。
…いったい私は何を忘れているというのだろうか。
ごく稀に、私は実体験としか思えないような夢を見たり、こうしてふとした瞬間に突然名前も知らない誰かの声や顔が浮かぶことがある。
「はぁ…」
しかし、私とて答えのない問いをいつまでも考えていられるほど今は余裕がないのは重々承知しているので、気分を切り替えようと顔を上に向けて大きく腕を伸ばすと、大きく息を吸った――。
「ん!?」
「どないしたん?」
「…匂いが、」
「ワイはわからへんのやけど、」
「甘い…」
急いで床に這いつくばり、鼻をひくつかせるとやはり空気の匂いが違った。もっと言えば、色も床に近い方が澄んでいた。
私たちが呼吸ができている以上、この空間に空気は存在する。
そしてこの部屋に入ってきて初めに感じた違和感は、そのわずかな空気から匂うのは、私が死ぬ気で這い出てきた“あの場所”で嫌というほど嗅いだ破滅の匂いで――。
「八条院先輩、」
「ん?」
「あなたは、ただ私に迷路をさせようとしているワケではありませんね」
「」
「…私がどこから来たか知っているでしょう?」
「…」
「私が元いた場所ではこれは特に貧しい者が己の空腹を紛らわせるために使うんですよ……あとは、拷問や奴隷に対する鎖としても使われてましたね。食事よりも安く、栽培も簡単で利も高い。だけど、それは一瞬にして人間を人ならざるものにする。…この匂いの正体、あなたは知ってますよね、知ってましたよね、八条院先輩?」
「知識としてはやけど、」
「じゃあ!なぜ!…こんなものが学園の地下に?!」
「…何や、弥佳紗ちゃんも知っとったんかいな。…そや、これはアンタの推論通りの代物やで、おめでとう。第一問目、クリアやね」
花雅寮の個別入寮試験から間を空けずにほぼだまし討ちのような形で試験を行う。
…清蓮の狂王様のことだから何をしでかされてもおかしくないとは思っていが、学園の伝統を破ってまで早急に試験を行う理由を彼の性格に押し付けるのにはどうしても無理があると思った。
歴代の代表選手しか入れないとされた旧試験会場、通称「地下迷宮」に事情も目的地も説明せずに私を連れてきた。
…私という存在をこの世から抹殺しようとしているなら頷ける行動だが、彼が私を殺したことで得られる利益は、損益に勝り得ない。
そして、地下に入るまでは私の後ろについていた獣臭さ…恐らくは一青先輩が私につけた護衛役の匂いがフッと何かに阻まれたかのように突然消え、極めつけにこの甘い匂い…。
一つ一つの点が繋がり、ある時一瞬にして線として形を成す。
後悔や罪悪感の欠片もなく、ただヘラッと笑いながら先輩が、幻想花…旧名、大麻の存在を認めことにより、私が立てた最悪の仮説は事実となってしまった。
――ほんと、最悪だ。
「――氷河期はありとあらゆるものの生命力を底上げしたらしく、この幻想花という植物は大麻よりも十数倍人体に害を及ぼし、依存性ももちろん高められている劇薬。
劇薬と呼ばれるものでも、一応は「薬」でもあることには変わりはない。
もちろん幻想花についてもそれは同じことが言えるのだが、幻想花は毒性が旧来よりも跳ね上がっている為に少量でもよく効き、尚且つ生命力繁殖力も非常に高く、依存性も強い。故に少しでも量を間違えると廃人を誕生させることになるという扱いに草を持っており、通常は薬としては用いられない。使うとしたら、野戦上でモルヒネが切れ、どうしようもなくなった兵士が賭けとして最後に試す時くらいのものだ――」
「薬袋世大先生の論文やろ、それ?」
「ええ。著作から引用させていただきました」
「さすが弥佳紗ちゃんや!ええ趣味しとるわぁ。今時紙媒体の論文なんて読むヤツおらんし、そもそも手に入らんからな。…なのに…、弥佳紗ちゃん、さすがやわぁ。……真剣に、嫁にこーへん?」
「熟考させていただきます」
「連れないわぁ……て、何回このやり取り繰り返しとんねん。いい加減折れてもええんちゃう?」
「先程は『メイド』としてのお誘いだったように思いますが?」
「…」
八条院先輩を黙らせたところで、問題だ。
私…たち、は後どれくらい持つもだろうか?
既に私が匂いを嗅げる程度の幻想花が存在するということは、八条院先輩のような一般人でも1時間ほどで精神に何かしらの異常状態が出てくるだろう。そもそも彼が一般人なん緒かどうかも定かではない。もし、私のように嗅覚が平均の何倍も鋭かったり、代謝異常だったりすれば…。
「…ディストリクト6より、こっちに来てからの方がよっぽど命を危険に晒してる気がするわ…」
「ん?何?」
「下手したら私も先輩も廃人ですよ。それでも先輩は私の試験に同行するつもりですか…侵入ルートを知ってるなら脱出ルートも知っているでしょう?」
「…」
「私など、勉強が少しばかり得意なただの人間ですよ」
「…さよか、」
「幻想花中毒者に対する解毒剤は科学が発展した今でもなお見つかっておらず、最低でもあと二十年は発見されないと言われている…それを承知でまだこの試験を続行しますか?」
「もちろん。ここまできてやらんわけにはいかへんしな」
「では、私はこの試験が試験として成り立たないことを理由に、試験の中止を申し入れます」
「そうピリピリせんとも、」
「私は感情ではなく、論理的に考えて申し上げているのです。この試験は生命に危険が生じる時点で、続行不可です」
「規定量以上吸わなければ大した害にはならんわけやし、弥佳紗ちゃんがそうならんようにはよう試験終わらせればええ話や。せやから続行は可能。もしも正気を失ったらその時点で四寮管理課によって医療棟送りにされてゲームオーバー」
「そんな理屈は通用しないと思いますが?」
「理由は?」
「幻想花に解毒薬が無い以上、一度でも幻想花に脳を侵されれば回復の仕様がありませんから」
「惜しいなぁ弥佳紗ちゃん」
「…」
「脳に深刻なダメージを受けた時点で試験終了。中毒者になる前に引き上げさせれば試験に欠陥はない」
ここから先は分かるだろう、と言わんばかりに片方の眉を綺麗に跳ね上げた八条院先輩に対して、これ以上の反論を私は思いつかなかった。
四寮管理課という学校の機関が認めたということは、それに私がいくら逆らったところで「我が校の方針に従えないなら出ていきたまえ」とホクホク顔で自主退学を突きつけられるのが関の山。
…そう、分かっていても言いたくなる。
「…そんなの、こじつけです」
「こじつけでも四寮管理課は認めた。それが事実や」
「…そうですか。さすが狂王でいらっしゃる」
「おほめに預かり光栄です、」
ハハハと笑いながらふざけ半分に、帽子を取るようなそぶりをしてから深く腰を曲げて右手を左胸の上に持っていく八条院先輩。
――負けたわ。
敗北を悟ってからの私の行動は早かった。
雑談しているうちに無意識に第一問目に正解してしまったことで、突如として目の前に人一人通れる空間ができていた。
…どこかに音声認識でもついているのだろうか。
取り敢えずその空間が閉じる前に通過してしまおうと、近くの壁にぶら下がっていた塗装が所々剥げたランタンを手に取り、顔の高さまで持ち上げた。
「…着火部分の部品が少し錆びているけど、これなら付けた瞬間に『バーン』とかはなさそうだし…」
少し揺らしてみると、微かにだがチャプンチャプンと水分が揺れる音がする。
石油特有の科学的な油臭さからして燃料だろう。
これで光源は確保した。
先程通ってきたような道があることを思ったら何かしらの灯りは必須。
次に水と食糧。
これまたランタンのように近くの壁に「非常持ち出し鞄」と書かれた銀色の袋が掛けられており、中には「水」と書かれた大きな入れ物と一昔前の乾パン数袋とその他ケミカルライトなどの細々した物が入っていた。
「…」
あまりの準備の良さに何かトラップがあるのではないかと神経を尖らせるも、何も起こっていない以上、有り難く戴いておくしか道はない。
最後に、机の上に載っていた鉛筆三本と紙数枚を拝借し、この部屋の簡単な情報を書き留め、帯に挟んだ。
「…制服のデザイン、何とかなりませんか?」
「!?」
「あぁ、いきなり声を掛けてしまってすみません」
「…えっ、ええんやで。全然。嬉しいし、ハハハ」
真顔で少し離れたところにいた先輩に制服の不便さを訴えると、彼は化け物でも見たように凍り付いた表情をしながら私を見た。
…何だろう。
先輩は私を口裂け女とでも思っているのだろうか。
私に対する自然な反応のほとんどが酷い。
「…行きますよ、」
顔を少し俯けて溜息交じりに出発を告げ、袋を背負う。
「ほ、ほなしゅっパーつ」
片手を躊躇いがちに挙げた先輩を傍目に私は闇の中へと一歩を踏み出した。
p.s.
最近作品を見直す機会が有り、その際に私の作品に一番足りないのは場所に関する記述と、既知のものに対する説明であると気づきました。
なので、これからの話はそういった描写もきちんと描きつつ、この話から前の話についても表現を少しずつ推敲していこうと思います。ご迷惑をおかけしますが、何卒ご理解よろしくお願いします。




