契約。或いは、愛の誓い
連載物を書き始めるのに若干ブランクがあったので、リハビリに。久々なので緊張しております。
※死体愛好といった特殊性癖表現が御座います。
何もない荒れ果てた地。墓地しかないその地に、夜足を踏み入れた。
満月は俺の心など露知らずか、爛々と輝いて月光を放っていた。
花束を持って、無造作にその地に足跡を付けながら歩むと、やっと目的地に辿り着く。
未だ真新しい墓石には、【Ann】と刻まれていた。
そっと花束を置き、腰を下ろす。
「……まだ、お前が死んだなんて信じられねえよ」
ポツリと呟いたその言葉は、虚空に響いて消える。
目を閉じ、手を合わせた後、俺は満月を見上げて溜息を吐いた。
アンは―――俺の最愛の妻だった。
結婚2年目。未だ愛を囁き合い、出かける前に必ずキスをする。そんな幸せ溢れた日々。
それが崩れたのは僅か1か月前の出来事。
巷で流行りの通り魔に刺されて死亡。酷く呆気なく、それでいて凄惨な出来事。犯人は未だ捕まっていないという、最早滑稽な事だった。
悲しみに暮れ、涙を流す毎日。情けない俺の姿は、数少ない友人曰く「目も当てられなかった」そうだ。
だが、俺はある日決心した。
―――犯人を見つけ、必ず殺す、と。
妻にしたように刺し殺してやる。メッタ刺しにしてやる。人としての原型を無くしてやる。
怨恨にまみれた復讐を決意した俺の行動は早かった。
まず、仕事を辞めた。家も売った。彼女の形見だけを持って流浪の旅をし始めた。
幸いにも財産は残っている。仕事がなくたって、俺一人くらいどうにか生活出来る。
時には自殺しようとも考えた。でも、彼女のあの惨たらしい最期を思い出すと、復讐が再度蘇るのだ。
殺してやる。殺してやる。殺してやる!
俺の憎悪は止まらない。
だけど、それを相反するように通り魔の足取りは全く掴めない。
探している合間にも、既に犠牲者が出ているという現状には呆れ気味に自嘲する他なかった。
何処に居るんだ。何処に居るんだ。
捜し出して殺してやる。お前だけは絶対許さない。殺してやる!
「……少しだけ待ってろよ、アン。お前の仇は必ず取ってやる……!」
彼女の墓石を撫でて、俺は何度も口にする。
お前の命を奪った彼奴だけは、絶対に許さない。絶対にだ。絶対に……!
「……可哀想に。殺されましたの? そのお方」
澄んだ声が、俺の頭上から聞こえた。
俺は慌てて、それでも冷静を装って声の主へと顔を向ける。
そして、息を飲んだ。
―――不気味な、赤い、目。
美しく長い金髪と、しなやかな肢体。紛れもない美女なのだろうが、不気味な血を連想させる赤い目に、思わずたじろいだ。
だが、彼女は物ともせずに、アンの墓石を撫でた後、俺に顔を向ける。
黒っぽい服は喪服を連想させたが、どうやら違う。十字架の様な首飾りをしている。彼女は修道女だろうか。
そんな彼女は、ニコリと月夜の墓場には似つかわしくない笑みを浮かべる。
「……何だ、お前は」
「殺した方、憎くありませんの?」
俺の問いを無視して、彼女は俺に問うた。
そんな常識的な事を聞いてどうすると俺は呆れ気味に答える。
「当たり前だ。憎いに決まってる。何を突然言い出すかと思えば……」
「そうでしょうね、そうでしょうね。憎いですわね。分かりますわ、その気持ち」
「上っ面だけの言葉は要らん。とっとと何処かへ行け」
「あらあら。折角お手伝いして差し上げようと思いましたのに」
「……手伝い?」
俺は己の耳を疑った。何を言い出すんだ、此奴は。
「ええ。貴方の愛しい方を殺した憎らしい方を、私が殺して差し上げましょう」
彼女は立ち上がり、そして俺に言い放つ。何の躊躇いもなく、無邪気な笑みを浮かべたまま。
「……お前、は」
「ああ、申し遅れましたわ。私はリンネ。貴方は?」
「…………ジュリアス」
「ジュリアス様ですわね。それでは、アン様は誰に殺されたか分かりますか?」
「……お前は一体、」
「問いに答えて頂ければいいんですの。後はどうするか、貴方次第となりますもの」
訳が分からない。
彼女―――リンネは一体何を言い出すんだ?何をするつもりなんだ?
俺は訝しげに彼女を見つつ、彼女の視線を合わせるが如く立ち上がる。
「通り魔だ。巷で噂の」
「ああ、あの調子に乗った愚かな方でしたか。被害者が続出してるのは聞き及んでおりましたが、まさか死人が出てるとは思いもよりませんでしたわね」
リンネは溜息を吐き、呆れ気味に言うと、俺に赤い目を向ける。
血を連想させる淀んだ赤は、俺にとってはあの刺殺体となった妻を思い出させて、どうにも目を逸らしたくなる。
「私、貴方のお手伝いをしましょう。ただし、こちらにも条件があります」
「……何だ?金か?」
「いいえ。貴方、死んで下さらない?」
「…………は?」
思わず、聞き返した。手伝うという発言も突拍子もない事だが、この突飛な発言は俺の脳で処理するには時間がかかった。
ふわふわとした美しい金髪が月光に当てられ輝く。彼女の笑みもまた、衝撃的な言葉を発したとは思えないほどに輝いている。
……本気か?
だが、合点いくところもある。俺の死体を売る事だ。若い男の臓器、さぞかし高値で売れる事だろう。
「……臓器売買とか闇市場でよくやっている事をするのか」
「あら、心外ですわね。私、死体が大好きなんですの」
「……」
サラリとまたもや脳処理が追いつけない発言をかましたリンネは顔を紅潮させながら俺に説明する。
「私、死体愛好家でしてね。死体をこよなく愛しますの。貴方、死んでくれたらさぞかし私の好みとなるでしょう。いかが?」
「……アンを殺したヤツを殺す手伝いをする……それは、本当か?」
「ええ。貴方は手を汚さなくて結構です。これでも、元・殺し屋。すぐに済みますわよ」
「……本当に、殺してくれるのか?」
「疑り深いですわね。確かに、殺した相手を探すのに時間はかかりますが、殺すのは一瞬。いいえ、貴方が望むのなら拷問だろうが何だろうが致しますわ」
「…………」
長く考え込む。アンを殺した奴を殺してもらう代わりに、俺の命を捧げる。
俺にデメリットはないように思える。手を汚さず、しかも元・殺し屋というプロが殺すのだから間違いは起きない。その上、俺はアンの下へと行ける。
逆に、怪しく感じる。俺に全くデメリットがない。
チラリと彼女を見るが、彼女は変わらずニコリと柔らかい笑みを浮かべたままだ。
「まだ、信用してませんの?」
「信用出来るはずがない。俺にデメリットが無さ過ぎる」
「ありますわよ。殺した相手を探し続ける期間はさぞかし長い事でしょう。その間、貴方は憎悪にまみれた感情をずっと抑え込む必要がありますもの」
「そんなの既に感じてる」
「これから、もっと感じ続けて貰わなくてはなりませんの」
眉間に皺をよせ、未だ訝しげな俺に半ば呆れつつ彼女は俺にこう言った。
「では、こうしましょう」
「……何だ」
「信用して頂かなくても結構です」
「は?」
「もし、貴方がどうしても私を信用出来ない場合は―――貴方、私を殺しなさい」
「……何?」
そう言い放つと彼女は何処からか、ナイフを取りだし、俺に差し向けた。
柄には僅かな装飾品が施されており、少し高級品だと思われる。刃も同様、輝いて切れ味良さそうなナイフだ。
「これで……お前を?」
「ええ。信用出来ない場合は、ですわ。勿論、今殺して頂いても結構ですが、殺した相手を探すのが大変になるだけですわよ?」
コロコロと無邪気な笑いを交えながら、彼女は俺に手渡す。
光沢帯びたナイフは、通り魔のあの憎らしいナイフを連想させたが、今はその憎悪を静める。
これはつまり、“命を賭けても構わない”という意味なのだろう。俺が信用している間は、リンネは死なない。自身の命を預けて信用を取ろうとしているわけか。
「……分かった」
俺は重々しく頷いた。どうせ、殺した後は死のうと思ってたんだ。このまま、彼女に殺されようが構わないし、信用したわけではないが、俺が彼女を殺すメリットが見い出せない。
ただ、彼奴を、憎い彼奴を殺して貰えればそれでいい。
「交渉成立、ですわね」
彼女は俺に近づきながら、そう呟いた。
そして、両手を広げて俺の胸元へと飛び込んできた。
「んな!?」
「驚かないで下さいまし」
「な、何を……!」
「心臓の音を聞いてますの」
「……心臓の、音?」
「今、貴方は生きている事を確認してますの」
そう言うや否や、そのまま彼女は顔を上げて俺の唇と彼女の唇を―――重ねてきた。
「……!」
「これは、契約。死が二人を別つまで、貴方は私と共に居るの」
それは、かつてアンと教会で聞いたのと同じ台詞で、
でも、状況は違っていて、
だけど、俺はその言葉に深く頷いた。
「誓おう。必ず、殺してくれ」
彼女と歪な共同生活が始まった。
◇◇◇
夢を見た。
暖かな場所で、彼女のお気に入りの花畑に行った。
見て見て!なんて、無邪気に喜ぶ彼女を見て、俺は安堵の表情を浮かべるんだ。
―――ああ、あれは悪夢だったんだ、と。
そして、彼女の手を握ろうと駆け寄った瞬間、黒い亀裂が入って、俺は真っ逆様に落ちて行く。
彼女に手を伸ばそうとしても、全く届かなくて、どんどん離れて行って、
俺は、叫んだ。彼女の名を。喉が潰れる程の声を。
「泣いてますの?」
優しげな、だけど何処か儚げな声が耳に届く。
目を覚ますと、大きな窓から日差しが入って来ていた。其処から見える光景は―――墓地。
ふと、声のする方向に体を向けると、彼女が寝間着姿で俺と同じベッドに入っている。
体こそ密着していないものの、これはどうもいかがわしい。俺は眉間に皺を寄せて、起き上がる。
「……泣いてない」
「“アン、アン、行かないでくれ”って呟きながら、泣いてましたわよ」
「……」
何度も同じ夢を見る。彼女と幸せな日々を過ごして、彼女に触れようとすると、途端に俺は落ちて行く。
それは、まるで何かを暗示しているような。
―――案外、彼女が俺に復讐を止めさせようとしているのかもしれない。
彼女は優しく穏やかな性格だったからな。
それか、復讐に溺れる俺を死神が連れて行こうとしているのかもしれない。地獄に突き落とそうとしてるのかもしれない。
それでも構わない。俺は、絶対殺さなければならない。
「さて、朝食を作りますか」
「……お前が作るのか?」
「ええ。お任せ下さいませ、旦那様」
「そう呼ぶのは止めろ。虫唾が走る」
「結構な言われようですわね。気にしませんけど」
「気にしないのか」
「慣れてますもの。まさか、貴方が初めての契約相手でも思いまして?」
彼女は優雅に笑うと、寝間着姿のまま部屋を後にした。
部屋は広く、シャンデリアなどの装飾品も多々ある豪邸だった。
彼女の家らしいが、周囲は墓地。そのせいか、あまり人が寄り付かないとの事。確かに外観は不気味な洋館だしな。まさか人が住んでいるとは思わなんだ。
俺も起き上がり、着替えを済ませる。彼女には悪いが、食欲もないし、俺は少しでも早くあの通り魔の情報が欲しかった。
「あら、じゃあ行って来ればいいじゃありませんの」
「……いいのか?」
「別に。此処に帰って来て下されば結構ですわよ。私もどうせ個人的に動き回りますわ」
「そうなのか……」
「貴方自身を愛してるわけではなく、貴方の“死体”を愛してますの。早く死んで下さいましね」
「酷い言われようだな」
「先程の暴言の仕返しですわ」
ニコリと笑いながら、彼女は朝食らしきスープを飲む。
俺はコートを着込むと、そのまま館から出て行った。
「行ってらっしゃいませ」
そんな、何気ない言葉に、俺は目頭が熱くなるのを感じた。
―――アンも、ああやって出かける時、声をかけてくれたなぁ。
当たり前だったあの日常は帰って来ない。それだけで、俺の足取りは重くなってしまう。
◇◇◇
通り魔を調べて行くにつれて、分かった事がある。
一つは、狙う人は女性・老人ばかり。背丈の小さい子供や、体力のある男は狙わない。かなり、計画的で尚且つ追い駆けたり反撃するほどような人を狙わない様にしている。
二つ目は、夕暮れから深夜にかけて。目立たない様に犯行しているのだろう。
三つ目は、男だということ。目撃者や被害者の証言から、犯人は男である可能性が高いらしい。
何となくよくある事件に思えるが、この犯人は用意周到で証拠を一つ残さずに行っているようだ。
ナイフを持って行く先々に人を傷つける。
酷く悪質極まりない犯行であり、死者はアン含めて三名。全員若い女性。
「……ふぅ」
「ジュリアス?」
「ん?……ルーク!久しいな」
「ああ。葬式以来だな」
アンの葬式以来出会っていなかった知己・ルークという眼鏡をかけた男が近寄ってきて、俺の隣に腰掛ける。街路に置かれた古いベンチが少しきしむ音がした。
「……まだ、調べてたのか」
「ああ。お前の方は?」
「悪いが、足取り掴めそうなもんは何もねえよ。その代わり、最近『死神嬢』が出て来たから注意、だと」
「……『死神嬢』?」
「知らないのか?一昔前、世間を騒がせた殺し屋だよ。けど、悪質極まりなくてな。拷問をかけたり、その殺した相手の首を態々遺族に送りつけたりするんだと」
「……」
「かつては、依頼人でさえ殺した事もあるそうだ。最近出没しないと思ったら……どうやら、妻子を亡くした男ばかりを狙って近づいて来るらしい。お前も気を付けろよ」
「…………分かった」
恐らく、いや、確実にリンネの事だろう。
だが、俺はここで引くわけにはいかない。彼女を利用出来るだけする必要がある。その為なら俺は―――この命なんか捨てて構わない。
旧友の忠告を有難く受け取っておく。ルークと別れた後、俺は再度情報収集に向かうのだった。
~
それから、幾日が経つのは早かった。
朝起きて、飯食って、情報収集に精を出し、帰って、飯食って、軽くシャワーを浴びて寝る。ただそれを繰り返す日々。
いつの間にか、新鮮味と懐かしみ帯びていた挨拶は、何処か空気の様な当たり前の存在になりつつあった。
彼奴は相変わらず憎たらしい笑みを浮かべ、俺を「旦那様」と呼び、妻を気取って飯を作り、送り迎えをする。不快感が募る中、俺は只管無視を決め込んだ。
そして、何かが変わる、そんな日が来た。
◇◇◇
「お帰りなさいませ、旦那様」
「まだそう呼ぶのか。やめろと言ったはずだ」
「ふふふ、貴方は浅く考え過ぎたようですわね」
「……何?」
「“デメリットがない”と貴方は申し上げましたわ。ですが、一層深いデメリットがありますのよ?」
玄関で待ち構えていた彼女は、喪服の様な黒いシックなドレスを身に纏っており、花嫁のヴェールのような黒い布地を被っていた。
そんなシックなドレスに相応しい優雅な笑みと、突然発せられた意味深な言葉はとても相対するものだった。
「どういう意味だ?」
「貴方の死体が私は欲しいんですの。つまり、どういう意味かお分かり頂けまして?」
「……」
「理解していない顔ですわね。いいですわ、教えて差し上げましょう。ズバリ、貴方は大事な奥様と同じ墓になんぞ入れません」
「……は」
「だって、貴方の死体は私の物。何を言おうと、死人に口無し。腐り果てて、不要になれば海に流して終わりです。腐乱死体も好きですが、あまりに腐り過ぎるとボロボロになって崩れてしまうんですの。私好みではないのです。だって、抱き締められませんもの、崩れてしまって」
歪な笑みを浮かべ、彼女は俺に向かって不快な笑い声を上げる。
愛しい妻と同じ墓には入れない。覚悟はしている。いや、復讐に身を投じた時点で既に覚悟を決めていた。
だが、リンネの言葉は深く心に突き刺さった。
彼女と同じ場所に逝くのさえ、許されない様な気がして。
「腐り、朽ち果て、貴方だった物は私の玩具として、ただ好き勝手されるだけ」
「死人に何を求めている?どうせ死ぬのなら、そんなのどうでもいい」
「まだ分かりませんの」
そして、彼女は俺の耳元で囁いた。
「貴方、死んでも彼女の側に居られませんのよ?」
「うぇ……っはぁ……おぇえ………!」
光沢が輝くアンティークな雰囲気の洗面台を、似つかわしくない吐瀉物が汚していく。
口から溢れるだけの物を一気に吐き出し、俺は荒くなる呼吸を整えようと必死に深呼吸を繰り返す。
高鳴る心臓を強く押え込みながら、ゆっくり息を吸って吐いての動作を何度も何度も行う。
胃に入った物が全て流れ出た感覚と共に、気怠い気分に包まれた。
その場で腰を下ろすと、俺はようやく落ち着いてきた。
聞きたくなかったその言葉。
いや、心の何処かで理解はしていた。それを、必死に否定し続けていたのは俺だ。俺自身だ。
逃げていたのだ、俺は。彼女の側にはもう二度と居られない事実に。
「……」
鏡が見れない。もう何だか、怖くなってきてしまって。
今の自分はきっと酷い顔をしている事だろう。醜い顔をしている事だろう。
(彼奴の事を責める権利なんて、俺にはないな……)
リンネは殺し屋だった。手を汚し続けた。俺は手を汚さず、彼奴に殺させようとしていた。それの罰なのだろう。
残酷な現実を突きつけたリンネに逆に感謝しなくてはならないのに、意固地な俺はどうも出来ない。いや、きっとしなくてもいいのだろう。
彼女は俺自身ではない。俺の死体を望んでいるのだ。
(何故、“死体”なのだろう)
それは素朴で当たり前の疑問だった。
もっと早くに聞くべきだった疑問を、俺はずっと無視し続けた。関心が向かなかっただけなのか、もしくは恐怖を感じていたのか。
恐らくは、前者だろうが。
「……戻ろう」
リンネはきっと、リビングで俺を待っているだろう。
~
「落ち着きまして?」
「…………すま、ない。洗面台を汚した」
「構いませんわ。後で洗っておきますもの」
「……すまない」
「貴方が初めてではないですわ。皆、現実を突きつけられると発狂したり襲い掛かったり吐いたりしますもの。ちゃんと洗面台で吐いてくれるだけ、私は喜ばしいですわ」
「そうか……」
俺はソファーに体を委ねて、溜息を吐いた。
体重全てを乗せたせいか、ソファーが少し沈む。それは、何だか今の気分に似たような底知れぬ深海に沈むような感覚だった。
気持ち悪い。疲れた。
疲労感やら何やら全て混ざり合って、何だか逆に吹っ切れそうだ。
「……リンネ、」
ポツリと彼女を呼ぶと、掃除をしようとしたのか、早速洗面台に向かおうとするリンネは目を丸くさせて驚いた。
「どうした」
「あ、失礼。お名前読んで頂けたので、少し驚いただけですわ。御気になさらず」
「……あぁ、そういえば、全く呼んでなかったな」
すぐにいつもの貼りつけただけの笑顔に戻る。
そう言われると、案外初めてかもしれない。彼女の名を呼ぶのは。
リンネは酷く甲斐甲斐しく俺の世話をする。きっと理解しているのだろう。俺をこのまま放っておいたら、自殺してしまう可能性を。
確かにそうだ。もう何日も、何か月も情報が得られない。何もかも、得られていない。
そろそろ1年が経ってしまうだろう。月日が流れるのは残酷な程に早い。
ボーっと天井を眺めつつ、ふと、先程の疑問をぶつけようと口を開いた。
「……何で、お前はそんなに“死体”にこだわるんだ?」
瞬間、彼女の身体がビクリと震えた。
顔は見えない。背中を向けたまま、彼女は俺に尋ねる。
「……何故、そのような事を聞くのです?」
「あぁ……すまん。気になっただけなんだ。言いたくないなら、別に……」
「いいえ。別に構いませんわ」
背中を向けたまま、彼女は言い放つ。
「死体には、何も期待せずに済みますから」
いつもの無邪気さも、明るさも、無垢さも、何もなかった。ただ儚く、放っておいたら消えてしまいそうな、そんな震えた声だった。
思わず、目を見開いた。彼女のそんな声を聞くのは初めてだった。
「死体は冷たい。それは、温もりがないという事。温もりが無ければ、案外何にも依存しなくて生きていけますのよ。温もりがあるから、皆は誰かが死ぬのを悲しむのです。そして、死体は喋らない。愛を囁かないから、何も期待せずに済むのです。喋ってしまうから、動いてしまうから、皆は誰かが死ぬのを嘆くのです」
背中越しの彼女の言葉は、重く、そして何処か当たり前だと一蹴出来るような、そんな在り来たりな言葉だった。
死ねば、喋らない。死人に口無し。
それを、彼女は悲しんで死体を愛するようになったのだろうか。だとすれば、酷く極端で単純な理由だ。
人はいつか死ぬ。彼女の場合、その現実から目を逸らした結果、死体を愛するようになったのだろうか。
―――何て、悲しい、人なのだろうか。
「……お前は、」
「同情は要りませんし、説教も不要です。自分でも甘っちょろい考えだと理解しております」
「……」
「私は、かつて修道女でした。賛美歌を歌い、全てを慈しみ、愛を注ぎ、操を守る。堅苦しい世界ですが、それなりに幸せに過ごしてました。ですが、私は知ってしまったのです。愛とは、何か」
ようやく、こちらに目を向けた女性は―――何処か愁い帯びた瞳で、いつもの余裕のある笑みなんてなかった。
冷たい笑みは、自嘲さえも感じた。
あの彼女も、こんな表情をするのか、なんて情けなく場違いな事を考えつつも、俺は何を話せばいいか分からなくなっていた。
そして、彼女は少しずつ言葉を紡ぎ始める。
「修道院前を掃除している最中、美しい金髪を靡かせた男性を見かけました。すぐに一目惚れしてしまいました。我ながら、情けない初恋です。許されないと思いつつも、募らせていく背徳感溢れる想いに、私は溺れて行ったのです。ですが、その男性を次に見かけた時は……棺の中でした」
「……棺の、中?」
「事故死だったそうです。彼の声も、笑顔も、性格も知らない。でも、私は愛せた。死体となって、無残な姿となっていようとも、私は愛せたのです。周囲が黒ずくめで涙を流す中、私は笑顔で彼を愛し続けられたのです。分かりますか?私は、彼が、死んでも愛せた。愛せたんです」
冷笑を浮かばせる彼女の瞳からは生気が感じられず、ただ狂った感情しか思えない。
だが、彼女は淡々と愛を語る。
―――人が死んでも、私は愛せた。
俺だって愛してる。アンを愛している。
確かに、彼女が死んだ時、俺は泣いたさ。涙が枯れ果てるんじゃないかってくらい。涙腺が壊れたんじゃないかと思うくらい。
だが、今だってまだ愛してる。未だに、彼女の夢を見る。
……愛せてる、はずだよな?
「……熱く語り過ぎましたわね。だから、私は人を殺すのです。誰かが悲しんで手放す死体を、愛されなくなった死体を、愛する為に。ただの自己満足ですわね」
「ああ、最悪だな」
「ええ。でも、最近考えたのです。妻を失い、途方に暮れる男性を殺す方が都合が良いんじゃないかと。妻の仇を討ち、その代わりに自分自身を殺す―――旦那様は愛する人の下に旅立てるし、私は愛する死体を手に入れられる。一石二鳥だと思いませんか?」
「一応筋は通っているな」
「ですが、最近何やら寝言をほざく輩が増えましてね」
冷たい笑みがいつの間にか消え、いつもの無邪気な笑みに戻ったリンネは、溜息交じりに呟く。
俺は未だソファーに身を任せながら、首を傾げた。
「何かあったのか」
「そうなんですの。最近、やっと愛する妻の下に逝けるというのに、“死にたくない!”と言う輩が多くて。何なんでしょうね。殺しますけど」
「……死にたくない、か」
「その男性だって、会った頃は“妻の下に逝かせてくれ”って騒いでたのに……仇を討ったら、“死にたくない”だなんて……詐欺にでも遭った気分ですわ」
「生きたかったのか。俺には理解出来ん事だがな」
「……寝言をほざいてますの。“君を愛してしまった”と」
「…………は?」
思わず、声を張り上げてしまった。我ながら恥ずかしい。
「“君を愛してる。君と共に生きていきたい”と言うのです。理解不能ですので、そのまま殺しますけど」
遠い目で、呆れた口調で言い放った内容に、俺は再度目を見開いた。
「……それは……」
「やっと愛する人の下へ逝けるというのに、一体何の冗談かと思って笑ってしまいましたわ。戯言吐くのはやめて欲しいものですわね」
「違う、それは、」
「貴方も言いますの?」
「え?」
「やめて下さる?何度も仰いますけど、私生きた人間に興味はありませんの。長年寄り添った妻を失ったせいで、頭がおかしくなってますのよ。そうでなければ、たった数ヶ月程度しか側に居なかった私に愛を囁くなんて有り得ませんわ。気持ち悪い」
「……」
「貴方も、そんな愚かしい冗談吐く前に、情報収集に励んで下さいまし」
それだけ言うと、背を向けて洗面台を掃除しに向かった。
……何だか気分が晴れない。
先程嘔吐したばかりだからか、或いは―――
「……はぁ」
彼女の新しい一面と、それに伴い、変なスッキリしない感覚が生まれてしまった。
俺は静かに目を閉じて、時計の針の音だけが響く部屋で、寝に入った。
~
「……ん」
目を覚ますと、いつの間にか日が昇っていた。俺はソファーの上でそのまま寝入ってしまったようだ。
疲れていたせいか、凄く深い眠りに入っていたのだろう。時計の針は昼前を差している。
何だか寒くないと思いつつ、目を擦って起き上がると、毛布が一枚かかっていた。
恐らく、いや確実にリンネがかけてくれたのだろう。彼女は世話焼きだから。
「……」
重たい体を起こし、顔を洗おうと洗面台へ向かう道中に見かけた机上には、朝食らしきパンや珈琲が置かれていた。
これも、いつもの光景。彼女は俺が「食欲がない」と毎日言っていても、必ず朝食を用意する。
その朝食を最近、いや数か月前から食べるようになった。残すのが勿体無いというのも理由の内だが、何となく、というのが一番の理由だった。我ながら、一体何のつもりか理解不能である。
顔を洗った後、身支度を整え、朝食に手を付ける。
彼女が作る朝食は、アンと味付けが少し違う。当たり前だが。
リンネが作るのはアンとは違い、少し薄味だ。だが、アッサリとしていて食べ易い。珈琲は、どちらかと言えば濃い目で、目を覚ますのに十分な苦さが口に広がる。
いつの間にか、彼女の作る飯に舌が慣れて来て、それが当たり前の味付けになってきている。
(……何だか、なぁ)
俺の生活に、リンネという存在が徐々に浸食してきており、それを俺は受け入れつつある。
何とも言えない微妙な心境ではあるが、実際の所、俺はそれを拒んでいない。好ましく思っていないわけでもない。嫌悪や不快感を感じているわけでもない。
言葉では言い表せない何かがあった。
朝食を食べ終え、屋敷から出る時、何かいつもと違う違和感が生じた。
『行ってらっしゃいませ』
「……あ、そうか」
リンネの見送る挨拶がないのか。
それが当たり前の様に、日常の様になっている現状。それを、俺は全く拒んでいない。受け入れている。
彼女の挨拶がないだけで、こんなにも心にポッカリと虚無感が生まれるのか。
……
家に帰ったら、彼女に言わなければならない。
“朝食、美味しかった”と。
◇◇◇
それは、突然の出来事だった。
彼女と過ごして、3年と数ヶ月。本当にあっという間だった。
その間、情報を集めたり、アンの月命日に墓参りをしたり。少し、数年前と変化した事は、共に朝食を食べ、共に夕食を食べる事。
「いただきます」と「ごちそうさま」を言い合うようになった事。俺も家事を手伝うようになった事。本当に、驚くべき変化とも言えよう。
いつの間にか、彼女を「リンネ」と呼ぶのが当たり前で、彼女が「旦那様」と呼ぶのが当たり前になった。
挨拶をし合って、同居人と言うには酷くむず痒い何かがあった。
そんな、そんな日常を過ごしていた矢先だった。
彼女は告げた。
「見つかりましたわ。通り魔が」
優しい微笑みで、いつもと同様、俺に寄り添って。出会った当初なら、振りほどくであろう腕を受け入れている俺に、彼女はいつもと変わらぬ態度で言い放つ。
あまりにも、衝撃的で、頭を殴られたような変な錯覚を見させられた。
「……アンを、殺した……?」
「ええ」
サラリと告げる言葉は、風に靡けばすぐに飛んでいきそうなほどに軽い口調だった。
だが、俺に圧し掛かった重みは、寄り掛かる彼女よりも果てし無く重苦しく、例え突風が吹こうとも動じない何かだった。
「…………そう、か」
「どうします?殺します?拷問にかけます?貴方のお好きなように」
「……」
「私、貴方が気に入っていますの。死んだら、きっとお美しいでしょう。出来れば、生気が保たれたままに殺したい」
「……」
「貴方の好きなようにしていいんですのよ?瞬殺だろうと、惨殺だろうと。何でもいいんですの」
声が、震える。いや、声だけじゃない。
手足も、全てが震える。これは、恐怖だろうか、はたまた犯人が見つかったと言う興奮からだろうか。
俺には分かる。
……前者だろう。
「少し、考えさせてくれるか」
「ええ、勿論。旦那様のお好きなように」
彼女はニコリと花が咲き誇る様な笑みを浮かべると、ご飯を作りにキッチンへ向かう。
俺は、そんな彼女を一瞥した後、自室へと足を運ばせた。
~
大きなダブルベッドに身を委ねる。いつも彼女と寝る場所。かつて、彼女は「貴方が望む限り、抱いても構わない」と言った。
恐らく、彼女は以前は他の“契約者”と寝たのだろう。この、ベッドで。
「……チッ」
そう考えた瞬間、無意識のうちに舌打ちしてしまった。そっと額に手を当てると、眉間に皺が寄っている。
妙な不快感と怒りが湧いてくるのを抑え、俺は仰向けになって天井を見上げた。
「……あー……これで、この生活も終わりか」
そもそも、通り魔が見つかるまでの契約期間でしかないこの不安定な生活は長く持たないのは分かり切っていた。それこそ、アンとの結婚生活と同じように。
長かったと同時に、短かったと感じる己が居る。
何だろうか、この感覚は。まるで、長く続いてほしかったと言わんばかりの感情だ。
そういえば、彼女と過ごすうちに、徐々にアンの死を考える事が少なくなっていった。それこそ、憎悪も悲愴も、何もかも薄らいでいった。
彼女が俺の生活に浸食していくと同時に、それが日常となって染まって行く。
リンネの作る食事の味に慣れた舌は、それを表していた。
何だか、妙に晴れない蟠りがある。
アンを殺した犯人がやっと殺されると言うのに、その代償として失う命に恐怖を覚えている。
何だ、何なんだ?
アンの下へ逝けるのに。何がそんなに俺を苦しめるのか。
気持ち悪い。苦しい。
何だこれ。何だよ、これ。
気持ち悪い。
苦しい。
助けてくれ。
「…………リン、ネ……」
―――気付いたって、もう遅い。
“『死神嬢』に、気を付けろ”
数年前に、そう警告した友人を思い浮かべて、自嘲するしかなかった。
「気を付けてれば……良かったよ…………」
◇◇◇
「約束通り、地下に監禁しましたわ」
そう言うと、リンネに手招きされ、俺は彼女の後について行く。
背を向けて彼女が足を運ぶ先には、鉄の様な金属で出来た重い扉が目の前にあった。こんな物があったのか。長い廊下の隅に不自然にある扉の存在に、俺は全く気付かなかった。
そして、重たそうに両手で開こうとするリンネの代わりに、俺が開けた。やはり、金属製で出来ているだけあって重い。ズシンとした物理的な重さを感じた気がする。
中は薄暗く、目の前は階段だった。何処にも灯りが無く、俺は周囲を一瞥し、つい眉間に皺を寄せる。
彼女は、そんな俺の心境を察したように、すぐに手持ちのランプを持って来て、灯りを点けた。
気が利くのは、俺の死体目当て。それは、最初から分かっていた事実に、未だ眉間の皺は消えなかった。
そのまま、彼女がランプを持ち、階段をゆっくり下りて行く。俺もすぐに後をついて行った。
石で出来た丈夫な石畳の階段。一段、一段と下りる度に足音がカツンカツンと狭く長い道に響く。その音は、今の空気と同じように重苦しかった。
やっと長い階段が終わったと思い、最後の一段と軽快に下りると、目の前の光景に目を疑った。
―――正に、牢獄だ。
重たい鉄格子。壁一面、床一面が石畳の冷たい小部屋。その暗い空間には、何やら蠢く物体があった。
その物体は、目と口が塞がれ、両手足縛られた―――人間、だった。
息苦しそうに、猿轡の隙間から過呼吸しているかのように、息を漏らしていた。
明らかに、生きている、人間。
「……彼奴、が?」
「ええ」
アッサリと告げる彼女に、俺は何処か呆れが含んだ溜息を吐いた。
相変らず、こんな状況でも微笑みを浮かべるだけの彼女に、内心安堵しつつ、目の前の男に目を向ける。
「……猿轡を、外してもいいか」
「ですが、貴方に危険が及ぶ場合も御座いましょう。私が外して来て参ります。旦那様はこちらでお待ち下さいませ」
そう言って、何処からともなく出した鍵の束の一本を鉄格子に掛かっている錠前に入れ、鍵を開けた。
何の躊躇いもなく足を踏み入れると、息苦しそうにしている男の猿轡を、慣れた手つきで外す。
「―――……っぷはぁ!!こ、この女!!何しやがる!!さっさと外せよ、コレぇ!!」
「おい」
「……あ?男も居んのか?なぁ頼むよ、このイカれちまった女止めてくれよ!!オレが何したって言うんだよぉ!!」
「…………“何した”って……?お前、自分の胸に手を当てて聞いてみろよ。ああ、そんな状態じゃあ聞けねえな。おい、リンネ。とりあえず、目元も外せ」
「かしこまりましたわ」
男の塞がれた目元が露わになる。情けない程に怯えきった目つきの悪い男。安いチンピラのような短髪も、乱した衣服も。男の胡散臭さが理解出来る。
「何をしたか、言ってみろ」
「し、知らねえよ……オレ、何か悪い事したか?アンタなんて知らねえし、この女も……安い娼婦館連れて行ってくれるっつったくせに……もし娼婦が気に入らなかったら、自分で我慢してくれって言って来て……」
何という誘い文句でリンネはこの男を連れて来たのか、この見た目からして道中襲われたらどうするつもりだったのか。……半殺しにでもしてそうだ。
「通り魔……」
「!!」
「その顔、身に覚えがあるんだろうな」
今の俺の笑みは、酷く歪んでて、きっと目も当てられないものだろう。
だが、俺は構わず畳み掛ける。
「お前が、殺したんだろう?アンを……俺の、妻を」
「つ、ま……?え、ちょ、ちょっと待てよ……そこに居る女が妻なんじゃねえの?後妻が居るなら、別に、」
「そういう問題じゃねえだろ?おい、殺したんだろ?聞いてんだよ」
「だ、だって……誰だよ、アンって……知らねえよ!!殺した奴の名前とか一々分かるわけねえだろ!!!」
酷い逆切れだ。きっと、檻の中に居たら俺は此奴を殴り続けているだろう。
男の側に居たリンネが、微笑みながら男の腰を踏みつけた。何か唸り声が聞えたが、知らん。
だって、言質は確保したんだ。“殺した奴の……”なんて、実に分かり易い自白だ。笑ってしまった。此処数年間で、一番滑稽で愉快な事だ。
「殺したんだな?認めるんだな?アンを殺したのも、お前。通り魔も、お前。俺はお前を怨んでいる。……後は、どうなるか……大体察しが付くだろう?何せ、こんな分かり易い牢獄だ」
サァッと男の血の気が一気に引き、怒りや興奮で赤み帯びていた顔は、見る見る内に青に染まって行く。
「ま、待てよ……オレ、今はもう家族が居るんだ。子供だって居るんだよぉ……大体、通り魔なんてさぁ、もう1年も前にやめてるんだ。足を洗ったんだよ!もう反省してるし、真面目に働いてるし、人も傷つけてねえよ!!」
「は?何を言ってるんだ?勝手に反省して、自己完結してんじゃねえよ」
「何だかあれですわね。自分はもう別れてる、終わってるという気になって自己完結しているけれど、相手はまだ納得していないという実に勝手で不条理な遠距離恋愛みたいですわね。そんな男居たら反吐が出ますし、殺したいですわ」
何だか例えが分かり難いは、リンネは要は“自分の中で終わっていても、相手が終わっているとは限らない”と言いたいのだろうと思う。相変らず、回りくどい言い方を好んでいる。
俺は、彼女に若干の呆れを含んだ溜息を吐きつつ、男を再度見下ろす。
お前に向いているのは、憎悪と嫌悪と……殺意だけだ。
「た、た、頼むよ……謝るから……許してくれ…………」
「お前の身勝手な行動で何人の奴が傷ついて、何人の奴が死んだ?何人の奴が泣いた?俺もその一人なんだよ、クソッタレ!!」
徐々に大きくなる怒鳴り声を出し、俺は激昂して檻の中に入り、男の顔面目がけて思い切り蹴りを入れた。情けない声と共に、男は手足縛られたまま蹲る。点々と床には赤い血が付いている……出血させたか。
「痛いか?なぁ、痛いか?アンも痛かっただろよ。痛み、苦しみ、もがいて死んだんだろうよ!!この程度の痛みにギャーギャー騒ぐんじゃねえ!!」
再度俺は男の顔面に蹴りを入れた。高ぶった感情を抑えられない。憎しみばかりが溢れて行く。憎い、憎い、憎い、死んでしまえ!!
―――刹那。
ふっと、意識が休まる。まるで、草原で感じる薫風の様な心地良さが、一瞬広がった。
懐かしい温もりが、俺を包み込む。
あぁ、これは、これは……―――
「駄目、ですわよ。これ以上は」
「……」
「貴方の手を汚すわけにはいきません。大事な奥様の下へ逝けなくなりますもの」
リンネの落ち着いた優しい声が木霊する。そうだ。いつもこの声に俺は救われていた。俺を止め、俺を宥め、俺の言葉を受け止めてくれた声。
俺を抱き締める手は、弱く、すぐにでも振り払えるだろう。しかし、俺を止めるには十分だった。
そして、俺が動かなくなったと同時に、リンネは檻の外に出るように促した。俺は、小さく無言で頷いた。
昂っていた感情は一気に冷めていき、俺は出血して崩れた顔をした男を一瞥すると、檻の外に出た。
「……さぁ、旦那様、どうなさいますか?」
微笑むリンネの姿は美しい。月の女神と揶揄されても納得のいく美貌だ。それを改めて再確認させられる。
しかし、そんな彼女の目の前の男にとっては恐怖の対象でしかないらしい。見っとも無く鼻血を出し、口が切れて喋りづらそうではあるが、何やら唸り声を発していた。
蒼かった顔は、最早白と言っても過言ではないほどに悪い。これからどうなるのか理解しているのだろう。
彼女の問いに、俺は短く、それでもはっきりと答えた。
「―――殺してくれ」
◇◇◇
脳裏に焼き付いた光景が離れない。
飛び散る鮮血は、まるで花弁のようだった。そう、本で見た、東方の国にあるという“ツバキ”という花を彷彿とさせた。
そして、あの眼前に広がる赤は―――アンの最期を思い出させる。
鼻にこびり付く臭いと、男の断末魔と醜い顔。波紋の様に広がる赤。これらを見て、ようやく俺は胸を撫で下ろしたのだ。
―――全て、終わったのだと。
「お待たせしました」
地下の掃除をすると言い、彼女は俺を寝室に待たせていた。扉が開き、ベッドの上に横たわる俺に彼女は微笑みながら告げる。
まるで薔薇が咲き誇ったかのような嬉しそうな笑みだ。何がそんなに嬉しいのかと考えた時、ああ、と納得する。
『貴方、死んで下さらない?』
―――俺を、殺すのか。
分かっている。それを覚悟して、俺は此処に居るんだ。
怖くないと言えば嘘ではない。しかし、急に死ぬことになってしまったアンに比べれば、俺の恐怖なんぞ塵灰に過ぎない。
リンネは俺に近づいて来る。そして、その右手には―――ナイフ。切れ味の良さそうな、光沢のあるナイフ。
ああ、それで俺を刺すのか。構わない、俺を殺してくれ。
君になら、殺されても構わない。
「何がお望みがあれば、最期くらい叶えますわよ、旦那様」
「……いいのか?」
「ええ、貴方とは長い付き合いでしたし、不愉快にさせるようなこともありませんでしたもの! ですから、最期のお望みくらい叶えて差し上げますわよ」
コロコロと無邪気に笑いながら彼女は言う。薔薇の様な美しさと野の花のような素朴さがある。それが彼女の魅力の一つだろう。
まるで現実逃避のように思ってしまったが、彼女は、俺を殺す。それは揺るぎない事実であり、回避することのできない未来だった。
「じゃあ……抱き締めさせてくれないか」
「……え?」
「いや、下心とかそういうのじゃあない。その、最期に人の温もりを味わっておきたくてな」
リンネは背格好がアンに似てる。だから、きっと抱き締めた時もアンを抱き締めているような錯覚を味わえるだろう。
なんて、適当な言葉を選んで羅列すると、リンネは筋が通っていると納得したのか、頷いた。
「いいですわよ」
「抱き締めた時に、ついでに刺してくれ」
「あら、それは素敵ですわね」
彼女も魅力的な提案だと感じたのか、ぱぁっと顔を綻ばせた。
そして、彼女はナイフを持ったまま、俺に近付き、俺もまた、手を広げて彼女を包み込む。
小さく細く、されど温かい。
“死神嬢”と呼ばれていようが、元・殺し屋だろうが、彼女は人間であり、血が流れており生きている。
ああ、俺と同じ―――人間なのだ。
例え、死体愛好家という妙な思想や嗜好を持っていようと、同じ人間であり、俺はそんな彼女に―――惹かれている。
「……さようなら」
その言葉は、果たして彼女の言葉か、俺の言葉かは分からない。
しかし、確かに別れの言葉だった。
ズキン、と鋭く貫かれたような痛みが走る。思わず、リンネを抱き締める腕にも力が入った。
じわじわと胸元から流れている生温かい水が、ぽたぽたと床に音を立てて垂れ出した。胸元から逆流してくる。口からも溢れそうだ。鉄の味が口の中に広がって行く。
耐えろ、耐えろ。
―――彼女も、痛いはずなのだから。
「……やって、くれ、ましたわね」
途切れ途切れの言葉が、抱き締めた腕の中で聞こえる。弱々しく、先程の底抜けた明るさはなかった。
ひゅう、ひゅう。息絶え絶えといった音が聞こえる。途中で、ごぽっといった水泡が割れる音も合わさった。
彼女を抱き締める俺の片手は、彼女の背中に向かって深く刺さったナイフを握っていた。
あの日、初めて出会った時、信用できなかったら殺すようにと言われて渡されたナイフ。不要だと思っていたのに、ずっとずっと大事に取っておいたナイフ。
そうか、俺はこの日の為に取っておいたのかもしれない。それは、無意識ではあるが。
「どう、して、ですの?どう……し、て……」
「……」
彼女の疑問は至極真っ当だったが、同時に俺にとっては愚問だった。ただ、無言で彼女を抱き締め続けた。
二人で重なり合うように崩れ、やがて倒れ込んだ。
俺の胸元からは赤い鮮血と、その赤に染まったナイフを握り締めた彼女が見えた。
てっきり、俺を憎悪に満ちた目で見て来るかと思ったのに、酷く無垢で、それでいて悲しそうな微笑みだった。
まるで、答えが分かっているかのように、俺を哀れんでいる目だった。
なら、ちゃんと答えてやらないといけないだろう。
「愛して、しまったから」
俺はもう、アンの下に逝くことは許されない。あの清廉潔白な彼女の下に逝くことは許されない。それほどまでに、汚れて、歪んで、狂ってしまった。
そしていつしか、時が流れるにつれて、彼女への想いが薄れて行った。
人の命は短い。だから、沢山の出会いを大切にし、沢山の人を愛するのだろう。そして、過去を静かに忘れていくのだ。
いつの間にか、薄汚れた俺は、リンネを愛してしまっていた。
一つの染みも許されない純白なアンと、真っ黒で染まるところも最早ないリンネ。
俺は、黒を愛した。もう、汚れ切って堕ちた人を。
ただ、それだけ。
「死んでも、側に居たかった」
ただ、それだけ。
「お前だけを、地獄に連れて行きたくない」
ただ、それだけ。
「俺も、一緒に逝きたい」
ただ、それだけ。
「だから、俺はお前を殺すんだ」
それしか、なかったんだ。
情けなく狂った俺の頬を、彼女はそっと触れる。俺は、いつの間にか泣いていた。
どんなに愚かな人間でも、涙を流し、その涙は温かい。皮肉だ。こんなにも冷血な狂人なのに、俺の細胞はまだ俺が人間だと言っているようだ。
彼女は死神で、俺はその死神に魅せられた哀れな罪人なんだ。
もう、人間には戻れない―――戻らない。
愛してしまった死神と共に堕ちよう。何処までも、何処までも。
もう、離れたくはない。愛した人と、離れたくはない。
「……馬鹿ね、貴方も、私も、」
リンネの鈴のような声が耳に届く。彼女はいつもと変わらぬ笑みを浮かべていた。
そして、許されることのない罪人の手を握る。弱々しくも、しっかりと。
ああ、可哀想な死神。こんなにも狂って壊れた奴に愛されるなんて。
薄れゆく意識の中、俺は涙で歪んだ視界のまま、彼女を見つめ続けた。彼女も、俺を見つめ続けた。
「 」
彼女が、俺に最期に言った言葉は、聞き取れなかった。
“死が二人を別つまで、貴方は私と共に居るの”
―――いいや、死んでも一緒だ。
読んで頂き有難う御座いました。
尚、感想に関しましては返信致しておりませんので、御了承下さい。