恋は恋愛じゃない
先頭車両に乗っているから、乗務員室に続くドアがすぐ近くにある。そのドアのガラス越しに、車両のフロントガラスの、運転席から外れたワイパーの無い部分が見えた。
ワイパーが無いから、氷の貼り付いたガラスは、向こうに見えるはずの線路をすべて隠してしまっていた。
この電車は、まるで、何もない白の世界に向かって走っている。
本当はそんなことはない。電車は、次の目的地へ進む。ただ、この雪が、ヒトの目的を隠している。
美しい銀幕のスクリーンは何かを隠している。
でもきっと、見失わせることが、ヒトにとって美しいという言葉の定義なのだ。いつだって美しいものは、釘付けにする。視野を狭くする。目を奪う。
それは、抗体の作れない毒のように、際限なくヒトを犯し続けてしまう。
だから、世界の内包するほんの細やかな優しさが、美しいものを儚く作った。
ヒトが大切なものを見失い続けないように。
何かに釘付けになる分は、別の何かは犠牲にしなければならない。視野が狭くなれば道を踏み外す。目を奪われれば、結果的にそれはすべてを無視していることと同じだ。
ヒトは美しいものの為ならば、犠牲を厭わないし、どんなことでもするし、九十九パーセントのことに不誠実になることができる。
いつか、麻原香織という、高校時代のクラスメイトで、淡泊と、もの静かの間くらいの性格の少女が言った。
「恋っていうのは、とても美しいものなんだよ」
僕は、その言葉の根拠が分からなかった。それに、意図も。分からなかった。僕たちは恋愛の話に花を咲かせるような間柄ではなかったから、彼女が突然そんな話をし出したことはとても意外だった。
「恋っていうのは、恋心のことかい。ヒトを思うその気持ちが、美しいんだ、という意味の」
「恋心と恋は別物だよ」
「じゃあ君は、何を恋と呼んでいるんだ」
「それは、繋がりのない人間関係のことをいうの」
いつだって、彼女の言葉は飛躍するし、彼女の考えは飛んでいる。でも麻原香織はおおざっぱな性格じゃない。しっかりとその言葉の意図を説明してくれる。
「例えば私は、男女交際に興味がないとしましょう。ひとりでいることは気楽だし、自由だし、交際も結婚もしなくて、一生ひとりで生きていることが望ましい。そう思っていたとしましょう」
「極端な思考だね」
「そうかしら。そういうヒトは、意外といるものだと思うけどね」
麻原は意味深な物言いで僕を見た。
そうだろうか。大抵の同級生に「彼女は?」と聴けば、その答えは、「いる」か「欲しい」のどちらかだ。「一生いらない」という人物には、今のところ会ったことがない。ただ聞いたことが無いだけかもしれないけど。
「それで、例えば君がそう思っていたら?」
「いたら、普通は、交際相手を作ろうとは思わないわ」
「だろうね。やりたくないことが明確で、簡単じゃない上に、必要を迫られることも、まあ、そんなにない」
「でも、ある時私は気付くの。あ、このヒトとの間には、私の中だけで完結している関係性がある。って」
「でもそれって、無関係ってことじゃないの。自己完結しているのに係わりがあるって、矛盾している気がするけど」
単純な数式のように間違えようのない事実だという気がする。関係とは、二つ以上のもののかかわり合いを言うはずだ。
「関係しているわ。だって人類が私ひとりなら、誰かとの間に何かを感じることはできないもの。その相手は十分に、私の考えや感情に関係している」
「ああ」
それを聞いて、麻原が伝えたいのは、言葉の表面的な意味ではないのだと分かった。例えば、出会ったことのない相手に、気遣いをしたり、怒りを覚えるようなことはない、という話だ。けれど、そこまで深読みして日常会話をすることなんて、できるはずがない。
「でもやっぱり関係というのは、お互いが認識しあった状態で結ばれるのが自然な形なんだと思う。そして、世の中のほとんどのものは、より自然な方向へ進むようにできているんだと思う。だからヒトは、その自己完結した人間関係を誰かと結ぼうとする」
それが自然な形だから。
自然とそうなる。
美しくて魅力的な関係性を築いていく。
私の思想とは別に。一生ひとりでいたいという気持ちとは別に。私は自然と誰かと結ばれようとする。
物語のモノローグのように、静かに素っ気なく、でもきっと重要なことを麻原は語った。
「不思議よね。理性と感覚って、どっちも自分の想いなのに、すごく簡単に矛盾する」
「でも」
と僕は口を挟んだ。言いたいことがあったわけじゃない。ただ、彼女が自己嫌悪に似た感情を抱いた気がして、肯定的な言葉をかけたくなった。彼女は誰かから、もう少しだけ優しい言葉をかけられるべきなんだと思った。麻原香織という少女は、きっととても頭がいい。自分のことをよく考えるし、ヒトのこともよく考える。だからいろんなことに気が付く。けどそれは、すべてのことを分かっているのとは違う。彼女はまだ、自分の思考を客観的に見たとき、どんな風景に見えるのか知らない。
「麻原。感覚が理性と矛盾していても、その感覚に従うか選ぶのは、きっとヒトの理性だよ」
彼女は考えすぎている。多分人間関係は、もっとシンプルに語ることだってできるはずだ。でも彼女はそれが許せない。よく考えるのはきっと大切に思っているからだ。だから適当に考えられない。だけど考えるほどに、きっとたくさんの綺麗じゃないものに気が付いてしまう。自分の中に、綺麗じゃないものがあることが、許せない。
「君はとても綺麗な心を持っているんだろうね」
「そんな風に、私には思えない。綺麗な心があれば、想いが矛盾したりしないもの」
「自分の中で二つの正しいものが矛盾していることを多分君は不誠実だと思っているんだ。それは誠実なヒトにしか抱けない感情だよ」
「ただ不自然な状態が気持ち悪いだけよ。誠実なわけじゃない」
お互いに意見を譲る気はなかった。
この会話は、少しだけ心地のいい平行線をたどるだけだった。