喰らわるる命の意味
決意。宣誓。何でもいい。
白が俺の思いを知って、俺が自分自身に刻み込めるのならば。
墨を刻まれた折、似たようなことを白に告げたことがあった。今の思いの強さは、その時の比ではない。
連れ出さなくてはいけない。自由にならなくてはいけない。そうでなければ、この憎悪が暴走して、何もかもを破壊してしまいそうなぐらいだった。
「葉菊……おまえは……」
言葉を失ったかのようにしながら、白は大きく目を見開いたまま俺を見ている。
その視線を捉えつつ、痛々しく傷ついている白の肌をそっと撫でた。
「妖力さえ、使えれば……っ」
蛟は毒使い。しかし同時に、薬使い。白の傷の総て、力をまともに使えさえすれば、こんな傷、治すことなど容易いのに。それさえ自由にできない身が憎らしい。
無力感を覚えながら、もう一度白の肩を抱きすくめる。彼はやはり何も言えないようにしつつも、そんな俺の髪をそっと梳いていた。
先ほど、『主様』にも同じようなことをされたのに、安心感が違う。無意識のうち、その手に頬を摺り寄せるようにしていたようだ。今度は頬をそっと撫でられたことで気づく。
「葉菊」
白の青い瞳が俺を見つめている。見上げると、彼は細く口を開いて、また閉じてしまう。何か言おうとしてやめたような、そういう表情だった。
目をしばたたかせると、まだ逡巡した表情で、ただ俺の頬を撫でる。こういう白は珍しい。どうしたというのだろう。
白、と呼びかけようとしたところで、慌ただしい足音が響いた。はっとして音の方を振り返ると、従者たちらしき声が響いている。
「十号が寝所から姿を消した。見つけ出せ。屋敷内にはいるはずだ」
「離れにはいなかった。数人置いてきたから、戻るようなら捕まえられる。檻には……まあ戻ることもなかろうが、念のため配置しておけ。見つけ出し次第、名主さまの御前に引きずり出すぞ。領主さまの閨から逃げ出すなど、折檻の対象になることぐらい想像がつかないものか」
折檻。びくりと思わず体を揺らすと、白が俺をぎゅっと引き寄せる。
どうやら、あの男の許から逃げ出してきたことが露見したらしい。今出ていったところで飼い主や『主様』の怒りが打ち消せるとは思い難いし、どうせそのうち見つかる。何せ、俺も白も、現状この屋敷から逃げ出すすべを持たないのだから。
それでも抗っていたくて、息を潜める。白の呼吸音も、心なしか小さくなっている気がする。互いに同じ思いらしい。
だが当然、願いは空しかった。
「いたぞ!」
従者たちの持つ灯りがぼんやりと俺たちを照らす。白の白い肌が闇に浮かび上がるようだった。蝋燭の淡い光とはいえ、突然の明るさに慣れず、目が眩む。
「汝が匿っていたのか、一号」
「違う、俺が勝手に……!」
白を責めるような口調には反射で言い返した。しかし、彼の手が背中を宥めるように撫でるので、俺は驚いて見上げる。
「そうだ。今日のこの子はもう、疲れ切っている。休ませてやってほしい」
俺を抱き寄せた腕は、ぼろぼろな姿からは想像がつかないぐらい、力強い。守るように、決して差し出しはしないというかのように。
「馬鹿を言うな。それは一晩売られたのだ。客を取るために」
「役目を果たせねば、それや汝自身が名主さまにどのような扱いを受けるか、分からぬ汝ではなかろうに。馬鹿な真似を」
蔑む視線で俺たちを見、従者は近づいてくる。思わず後ずさろうとする足を何とか抑え込み、白にぎゅっとしがみついた。
「その命には、私が従わねばならないほどの正しき道理があるというのか」
白の目が、纏う空気が、冷え切っている。外の池に張った薄氷が如き鋭さと、冷たさ。
従者が何事かを反論しようとしたところで、従者たちにふっと影が差す。彼らの背後に、何者かが立ったのだ。
「最近は随分と面白い理屈を解くものではないか、なあ、一号よ」
悟った瞬間に響いた声は、笑みを含むと見せて――その実、地の底から響くように低かった。
「それこそ、我らに逆らうことに、何の利があるというのだ?」
淡々と尋ねる飼い主の目は、全く光を湛えていない。しかしながらも口角だけが持ち上がった、不気味な表情をしている。こういうときの飼い主は何をするかが分からない。経験から体が自然と防御の反応を示す。
「私は真っ当な主張をしているつもりだ。今だけではない、これまでも。こちらが尋ねたい。我らを好き勝手に切り売りする道理があるのか。この幼い子を好き勝手に痛みつける、納得できるだけの理由があるのか」
だが、白の怒りも衰える気配がなかった。
重い沈黙が舞い降り、一触即発の空気が流れる。
「う……ッ」
打ち破ることになったのは、俺の呻き声だった。
「葉菊!」
白の珍しいぐらいに焦った声が聞こえる。
返答したいのに、容易にそれができないほど強烈な、刺青の発する痛み。どうにか声が漏れないようにしようとしても、体勢さえ保てなくなってきて、崩れ落ちる。
力の入らない俺を受け止めながら、白は嫌忌と憎悪の目で飼い主を見ていた。
「そのような顔をされたところでどうする。従わぬ道具がいるからであろう? 十号をこちらに寄越せ。でなければ、それの気が狂っても責任は持てぬぞ」
些細な抵抗を、必死の主張を、あっさりと飼い主は嘲笑う。
痛みで呼吸が上手くできずに喉が引き攣れる。確かに、このままでは気が狂いそうだ。
でも、白が俺を差し出すことができるわけがないことも、よく分かっていた。最初に『主様』に蹂躙された日の俺の様子を思い出せば、今味わわされている痛み以上にあの男から苛まれることになるのを察するのは、当然のことだろう。
だからこそ、俺は飼い主の言葉に従わなければならなかった。
「十号。次は、一号だぞ?」
俺をにやにやと見ている飼い主が、俺の思考を先回りするのが上手いことを、知っているから。
今の白は、肉を削がれ、鱗を剥がれ、俺よりもずっと消耗しているのだ。そんな彼が刺青の術を通して痛みを負わされれば、更に弱る。弱まれば弱まるほど、回復は遅れる。
「は、く……俺は、いい、から……」
だったら。そう答えるしか、俺には道が残されていないではないか。
幾度目か、白の青い目が大きく見開かれる。瞳はまるで水面に描かれる紋のように美しく揺れて、長い睫毛の縁取る瞼が伏せられた。
苦悩。それを全身で体現した雰囲気。
痛む全身をどうにか動かして、なお緩まない白の腕から抜け出した。そのまま飼い主の方に歩み出せば、刺青の痛みは合わせて徐々に薄らいでいく。
「葉菊」
白の小さな声があまりに頼りなく俺を呼ぶので、思わず振り返った。
小刻みに震えている青い目が俺を引き留めて、しっかりと目線を絡め取る。行かせたくない、と叫んでいる。
白。
呼ぼうとしたけれど、従者が強く肩を掴んで引くので、叶わなかった。
こちらに伸ばされていた白い手だけが、視界の端に映り込む。
「大丈夫……っ。俺は、大丈夫。絶対に戻るから!」
見えないけれど、声は届くはず。だから振り絞った。震えそうになるのを抑え込んで。
本当は行きたくなんかなかった。彼の傷の手当てをして、白の傍でずっと眠っていたかった。それなのに、望みもしない男と長い夜を共にしなければならない。涙が自然と込み上げてきそうになって、唇を噛み締めてこらえた。
「其方は本当に、私を楽しませてくれる」
連れ戻される形で座らされた俺を見、『主様』は意外にも機嫌よく笑っていた。
熟睡していると思ったのに、あの後割とすぐに目を覚まし、異変を飼い主に報せたと見える。存外、用心深く気も回るのだ。俺にとっては最悪なことに。
白と共にいた時に聞いた足音の多さは、動ける従者たちはみな捜索に回されていたことを推測させた。そういう待遇からして、飼い主にとってのこの男は、余程大切な客なのだろう。
俺はその寝所から断りもなく抜け出したのだ。従者の言っていたように、折檻されても何らおかしくはないほどのことを仕出かした、ということになる。
「なあ、葉菊よ」
白に呼ばれる名は、あんなにも優しく輝くのに。この男が口にすればするほど、光がくすんでいく。
冷え切っている両頬を『主様』の温度の高い手が包み込み、ぐっと持ち上げた。勢いのよさに首の後ろが痛む。
相変わらずの蠱惑的な美しさを孕んだ顔。炯々と輝く目。
取らされた格好のまま縫い付けられたかのようにしていると、唇が奪われ、入り込んできた舌が好き勝手に暴き始める。閉じることを忘れた目を、やはり開いたままの男の目が見据え、逃すまいとするように視線を絡め取った。あまりの激しさに呼吸さえ上手くできず、視界がぐらぐら揺れて歪み、身体からは力が抜ける。
しばらくしてから、唇が離された。はあはあと荒く息を吐く様子に『主様』は目を細め、俺のものか男のものかさえ分からない唾液で濡れた唇を親指でなぞった。それはそれは愛おしそうに。
何なんだ。困惑する俺に向けて見せつけるが如く、彼は嗤った。にやり、そんな表現が最も似つかわしい顔つきで。
背中が悪寒を駆け抜けていく。初めて抱かれた時と同じぐらい、いや、それ以上の危機感。
無意識に逃れようとした動きは、隙を生んだだけだったらしい。せっかく整えていた着物の合わせを掴まれ、力任せに開かれた。呼吸ひとつ分の間もなく体を反転させられたうえ、首の後ろを掴む形で押し付けられる。畳に打ち付けた顔が痛い。
「言わなかったか? 其方は、反抗を手折られた瞬間が一番愛い、と」
確かに、つい先ほど似たようなことを言われた。あまりに楽しそうな声に総毛立つ。どうにか『主様』の顔を見ようとした瞬間。
「――――!!」
前兆なく衝撃が訪れ、声にならない悲鳴を上げた。何の遠慮もなしに揺さぶられ、もはや生命維持さえ危ういのではないかというほど、息ができない。
自力で体勢を維持できず、掴まれた腰以外が寝具に沈む。
「私を楽しませてくれる其方に、よいことを教えてやろうではないか」
耳朶に唇を落としてから、そのまま耳打ちする男。何を、と応じたくとも、動きを止める気はないようで、意味を成さない声しか発せない。
「其方、妹分がいるそうだな」
俺の身体が硬直したのが分かったのか、『主様』は動きを止めた。
「な、に……あいつに、なに、を……する気だ」
それでどうにか言葉だけは形にすることができるようになり、振り絞る。
俺の反応を見て楽しんでいるのに違いない。彼はすぐには答えず、愉快そうな息を漏らしてから背中の刺青が刻まれた辺りをねっとりと舐め上げてくるので、背筋を震わせた。
最後に別れた時の涙に濡れた妹の顔が脳裏に浮かぶ。
――お兄ちゃんっ!
あれから、どれぐらい経つのか。正確なところは分からないが、それなりの日数は経っている気がする。
白のところに連れていかれ、刺青を刻まれ、この男に組み敷かれ。そうした日々を送るうち、厳しい寒さが緩む日も増えてきた。徐々に季節が移ろっていっているということ。
その間、妹はあの劣悪な環境の中を生きていたはず。
「其方は、見目だけでなく、毒も薬も一流と聞く。だが妹は……確か十一号だったか。見目はともかく、薬が上手く扱えぬようだな」
確かにその通りだった。妹は、毒の扱いならば上手いが、それを治療へと反転させるのが酷く不得意だった。傷を癒したり、痛みを和らげたりといったことが。
だが、こんなところにいる限り、治癒の力など得たところで、搾取されるものが増えるだけ。得意にする必要性もない、と俺は妹にかつて言っていた。
それに、聞き捨てならない「見目」という言葉に、今にも飛びそうな意識をかき集めて睨む。
「安心しろ、女子には興味はない。私はな」
『主様』は俺の視線には当然動じることもない。くっと喉を鳴らして笑い飛ばして、顔を流れて落ちている俺の髪を払って、頬に口づける。
「だが、其方らの飼い主は、十一号を外に出すつもりのようだぞ」
男の手が、外からの目隠しとなっている簾に伸びて、掴む。何をする気かとぎょっとしながらそれを目で追えば、ばさりと音を立てて払われ、外の景色が露わになった。
外は未だ夜が深く、暗い。月や星、ところどころに存在する松明だけが世界を照らしている。
だが、確かに見えた。見慣れた尊大な歩き方は、飼い主。連れられている従者。従者に腕を掴まれ、引きずられるようにして歩いている小さな影。
知っている。あの黒く長い髪を。俺と同じ色をした瞳を。
「あれが、十一号だろう?」
心底楽しそうな調子だった。
愕然としていた俺には、続く笑い声も遠く感じる。檻の中から出される意味は、白を見て、自分自身が体験して、嫌というほど知っているのだから。
「十一号は優れた毒の使い手。其方のように顔の目立つ位置に鱗もない。見た目だけならば幼気な子供だ。暗殺者には、もってこいだろうな」
離れた位置にいる妹は、どうやら俺には気づいていない。向かっている先にあるのは離れだ。身動きを奪う楔となる刺青を、彼女も刻まれることになる。
駄目だ。そちらに行っては、駄目だ。
這って移動しようとする俺の動きを覆いかぶさることで封じて、男は耳元に口元を寄せる。
「檻の中は劣悪だろう。だが、毒や薬を作らされて、何に用いられるかも正確に分からないでいるのと、自らの手で、目前で屠らされるのと、どちらがよいのだろうな」
語る声は、蜜に漬け込んだかのように甘やかだ。精神を侵食して、ぐちゃぐちゃに掻き回して、壊していく。
やめろ。やめてくれ。
「やめろ……っ!」
こうなる前に、助け出さなければならなかったのに。力が失われていたはずの手が自然と拳を作り、握り込んでいた。
「この嫌がらせは、其方や一号の反抗から思いついたらしいぞ」
それを見計らったかのように、男がまた動き出す。喜色まみれの声で囁き続けながら。
「……ァ、は、ぐ……っ……どういう、いみ、だ……! ひ、い……うぁ」
苦痛の合間にまた睨みつけるも、持続しない。肌のぶつかる音と悲鳴だけがやたらに明瞭で、意識があるのも不思議なくらいだった。
「其方らが反抗すれば、痛めつけられ、危険な『仕事』が回されるようになるのは十一号だ。そう言えば、分かりやすいか?」
――ぬしがあの子供に肩入れするのなら、こちらとしては重畳。ぬしはこの場での柵を自ら増やしたわけだ。
白に向けられていた飼い主の嘲笑が眼裏に蘇る。
逆らってばかりいる俺たちに、妹を傍に置くことで柵を強制的に増やした。服従させる、ただそれだけのために。ついでに、妹自身を更なる欲に利用できればよりよいと。
留まることを知らないヒトの欲望が、雁字搦めに絡みついてくる。
「十一号の命を握っているのは其方だぞ、葉菊」
どんな折檻よりも、どんな蹂躙よりも、俺の心がぎしぎしと軋む。音を立てて崩壊させる。
ぼろり。零すつもりもなかった涙が、頬を流れ、頤を伝って落ちていった。
それと、ほぼ同時。
離れに押し込まれようとしていた妹が、何かに気づいたかのようにしてこちらを向いた。そして、これ以上ないほどに目を剥く。何かを叫ぶ。
「お兄ちゃん」。
距離と、男の舌が耳の穴を這う水音のせいで、声は聞こえない。けれど、確かに彼女はそう言った。
知られたくなかった。知ってほしくはなかった。こんな姿も、『仕事』についても、何より、外に出た先にはまた絶望しかないことを。
『主様』は完全に力が抜けた俺の体を抱きかかえて膝に乗せると、上体を自分の胸に預けさせる。それから再び伸ばされた彼の手によって簾が元通りに戻され、妹の姿は見えなくなった。
男の胸に触れた背が、やたらと熱い。変えられた体勢に苦しさが増し、喉を逸らせた。心の臓が頭の中にあるかのように激しく拍動している。顔を埋められた肩口に感じる男の吐息は、とても満足そうで。
「諦めろ。抵抗の先には、何もないのだから」
色に溺れた呪詛の言辞を刻み込みながら、彼は血が出ない程度の強さで、首筋に噛みついてくる。そして痛みに体を震わせて息を詰める俺の手を取って、歯を立てた部分を指でなぞらせた。そこには、総ての感覚が遠くなった中でも、明確に凹凸を感じる。
くっきりと残されたその歯形が、静かに隷属を促していた。
だけど。
目の前に浮かぶのは、白の傷ついた姿。
足掻き続けたところで絶望しかない――分かっている。
投げ出してしまえば楽になれる――分かっている。
分かっている。分かっている。そんなこと、分かっている。
どんなに踏みにじられたところで、心まで屈するわけにはいかない。そうしなければ、取りこぼしてしまう。本当に大切なものを、守りたいものを。
白。
俺は、あの誓いを、忘れはしない。