穢れゆく水の中には
白い光が目を刺して、俺はゆっくりと目を開いた。
眩しさの正体は、積もった雪に反射する陽だったようだ。そして、今の今まで目を閉じていたという事実によって、意識を失っていたらしいと気づく。
腕も、足も、全部が軋んでいた。擦れたと思われるところがひりひり痛むし、涙を流しすぎたためか、目は腫れている。違和感のない箇所を探す方が難しいぐらいだ。
ぼんやりとする頭を覚醒させようと深く呼吸したら、喉も膿んでいるのか咳が止まらない。血の匂いが上がってきて、酷く不快だった。
どうにか宥めたところで聞こえてくる、自分のものではない衣擦れの音。
「起きたか」
びくりと体を震わせた、その直後。一晩中聞かされて嫌というほど耳にこびりついた声が、すぐ傍から響いた。
反射で持ち上げた視線の先には、ゆるりと口角を持ち上げた男の顔がある。夜が明けても俺をずっと腕に閉じ込めていたようで、ほとんど距離がない。
「ひ……っ!」
勢いよく退こうとするが、痛めつけられた身体がそれを許さず、倒れ込む。
くすり、と男から微かに漏れ出た笑い声に、怒りよりも先に怯えが表出した。
だってこの男は、許しを請いながら泣き叫ぶ俺を、笑みながら見下ろしていたのだ。まるで愛おしむような目で。月が高いうちから沈んだ後まで、ずっと。その表情を思い出して背筋が寒くなる。
「震えているな。恐慌の表情もよきものだ」
くすくす、くすくす。耳朶に触れる男の息のような笑い声。逃れたいのに、体が言うことを聞かない。
「安心しろ。もう何もせぬ、今日はな」
「今日は」。安心しかかった心に、一瞬にして重たいものが伸し掛かった。
俺の表情がますます硬くなったことを見て取ったのか、男は楽しそうな声色のままで頬を撫でてくる。振り払いたくとも、今以上に何か恐ろしい目に遭わされたらという考えがよぎる。そうなってしまうと、動かすことのできる状態であったとして、指一本動かせなかった。
「夜の誓い、忘れたとは言わせぬぞ」
これから先、自分のことは『主様』と呼べ。お前のことは私が飼ってやる。繰り返し繰り返し植え付けられた言葉。誓い、約定――いや、呪い。
自分自身が求めていないのに約束された関係なんて、雁字搦めに縛り付けてくる鎖と同じだ。
ふ、と息を吐く。
どうせ牢獄の中で生きるしかないのだから、鎖の形が変わっただけだ。背にある刺青のように。
諦めろ、と頭の中で自分に言い聞かせる。どう足掻いても抜け出せはしないのだから、もがいたところで無駄。同じ結末に向かうのなら、抵抗しないほうが楽でいられる、と。
俺は死ぬまでにいくつの諦念を抱えなければならないのだろうか。
何も反論しない様子に、従順になったと解釈したのだろうか。男は笑いながらもう一度俺の頬を撫でて、己の乱れた襟元を直しながら起き上がった。
「近いうちにな。葉菊」
「その名で、呼ぶな」
別れの言葉を打ち消すように吐き出した言葉は、無様に掠れていた。それでも眼光だけは鋭く、身勝手に蹂躙した男を見遣る。
「その反抗的な目、いつまで保てるか、楽しみだ」
だが、精一杯の抵抗さえ、男の目には余興として映るだけだったらしい。立ち去る『主様』は、心底愉快そうに笑った。
――今日から君は、葉菊だよ。
白によって与えられた唯一が、穢れていく。
穏やかな白の温度に包まれたのは最近であるはずなのに、思い出そうとしても、肌を這うのは男の残り香だけ。
しっかりと整えられた格好で立ち去っていった男とは対照的に、乱れ切った着物と寝具のまま、俺はただ天井を見上げていた。
あの後、飼い主がやってきて、俺を離れに元通り押し込めていった。
夜の間に何が起こったのかを当然把握しているだろうはずの飼い主は、素知らぬ顔で俺を一瞥し、いつも通り冷徹に「歩け」と命じた。
本当ならば、もう一度意識を失ってしまいたいほどに体は重たい。しかし、飼い主の命令を無視すれば、何らかの罰を負わされるだろう。これ以上の苦痛は御免だった。
痛みで悲鳴を上げる体を動かして、言われるがまま歩く。来た時以上に長い距離に感じながら、やっとの思いで離れにたどり着いた。そして、従者が押してくる力に逆らわず、床板に体を投げ出したのだった。
今はもう、飼い主も従者もいない。疾うに屋敷に戻っている。
脅かしてくる存在がいないのだから、いつもだったら身震いしながら火鉢の傍に向かうところだ。けれども、地から這い上がってくる寒さにも拘わらず、俺は押し込められた時のまま動けないでいた。
気力が湧かないのはもちろんだったが、離れまでの移動で総ての体力を使い果たしていたのだ。眠ってしまいたいし、瞼も重たいのに、頭の中で夜の間の出来事が何度も反復されて吐き気が起こり、目が冴える。
白の気配がしないのも大きい。もしかすると、彼も一晩此処を空けたのだろうか。
妖気を探そうと少しだけ顔を持ち上げたところで、外へ通じる戸ががたりと音を立てた。
「……葉菊?」
何処か呆然としたような声。よく馴染んだ、澄んだ匂い。
「白……」
焦点が上手く合わないながらも、白もまた例のごとく疲弊しきっている空気を纏っているのは分かった。やはり彼も夜の間は何処かに行っていたのだろう。今戻ってきたのだ。
「葉菊!」
自分こそ疲れているのだから、走ってはいけない。口にしたい思いは間違いなくあるのに、その姿を見た安心感からだろうか。もうしばらく動かせまいと思っていたはずの手が動いて、伸ばしてしまう。
「……っ」
多分、俺の様子を見ただけで、自分のいない間に何があったのかは想像がついたのだと思う。怒りに満ちていて、同時に、無力感に苛まれている、そういう表情が浮かんでいた。
墨を入れられたのを知った時と同じように、彼の怒りの矛先は、誰でもなく自分自身へ向かっている。何もできなかった己に、防げなかった己に。聞かなくても分かる。
でも、この人もまた、ここに閉じ込めれられ、好きなように使われている一人で。俺だって白を救いたいと思っているのに、未だ何もできていない。
互いに互いを助けたいと思っていても、繋ぎ止める枷が幾重にも絡まって、身動きすら取れないでいる。
「また、白に、会えて、よかった」
だからせめて、白がこれ以上苦しまなくていいよう、懸命に笑う。
この屋敷で生きるうちは、俺たちは何処にも行けない。生以外の何もかもを諦めることでしか生きていけない。
俺の手を握る白のそれが震えていて、抱き寄せられる。
二人とも、体は冷え切っていた。冷たさと冷たさが溶けて、交わって、境目が消えていく。
「おかえり、白」
笑ってほしくて、彼が戻ってきた時に発する言葉を口にした。
「……ただいま。葉菊」
返す白の声は、何かを押し殺したかのように抑え込まれていて。その顔は、初めて見る、泣き出したそうな様相をしていた。
そのまま、しばらく無言の時が流れた。薄明るい部屋の中は、雪の降る音さえ大きく響きそうなほど静かだ。
俺は、肌に触れる温度だけではなく、吐き気を催しそうなほど濃かった『主様』の匂いが、白のもので埋め尽くされていくのを感じていた。
ようやく、呼吸が楽になる。生きている。俺はちゃんと、生きている。生きて白に触れている。そんなことを今さらになって自覚して、寒さとあの時の恐怖で体が震え出す。
俺の震えを感じたのか、白は背中をさすってくれている。繰り返し、何度も何度も。
けれども、二人で身を寄せ合うことで寒さは緩和されていて、手の感触を背に覚えるたびに恐怖も薄らいでいくのを感じるのに、震えは一向に治まらない。
「葉菊……? 寒いかい?」
白も怪訝に思ったのだろう。更に包み込むように抱かれつつ、顔を覗き込まれる。
その綺麗な青を目で捉えた途端――分かってしまった。震えの正体を。
それは、怒りだったのだ。諦めばかりを数えていると思っていたのに、諦めきってなどいなかったのか、と自分に驚く。
墨を入れられた後、白は言っていた。何らかの仕事を俺にさせたいのだろうと。だから、同じように墨を入れられているという白もまた、飼い主に無理に働かれているに違いない。
帰ってこない彼を待つ日々の中で、気づいていた。知っていた。その仕事がどのようなものかなんて、想像しようもなかっただけで。
でも、俺自身が経験してしまった。たとえ全く同じようなものでなかったとしても、どれほど惨い仕打ちをされているに違いないのか、想像ができるようになってしまった。
劣悪な檻の中で、明日死ぬのだろうと思い続けた日々。別れた日、俺に手を伸ばしながら、今にも泣きそうだった妹の顔。終わりの見えない痛みに耐えながら踏みにじられた昨晩。帰るたびに窶れていくようにも見える白の姿。
頭の中でぐるぐると渦を巻くそれらの記憶が、ちっとも力が入らなかったはずの手を固く握りしめさせた。
どうして俺は諦念ばかりで、今の今までこの感情を抱かずにいられたのだろうか。不思議で仕方がなかった。
逃げ出したい。白を連れて、こんな地獄から抜け出したい。それはずっと思い続けていたこと。
加えて新たに、より強烈な願いが加わる。
白の肩越しに、こちらを見ている飼い主と目が合う。此処まで白を連れてきて、まだ立ち去っていなかったのだ。
飼い主は、何が楽しいのか、薄く笑っていた。あたかも総てを見透かしているかのような目をしながら。
「……お前ら全員、いつか殺してやる……」
そうだ。殺意だ。
喉が潰れてどれほどみっともなかろうと、抱いた思いは本物。自分でさえ、冴え冴えとした殺気を放っていると感じる。俺のすぐ傍で、白が息を呑んだのもその証拠だ。
何故、これほどまでに憎悪しながら、殺したいと願わなかったのだろう。一度この思いを腹の内にためてしまった今では、不思議でたまらなかった。
だが、いつか白の怒りを見てさえ崩されることのなかった余裕は、変わらず飼い主の表情から失せることはなかった。
「飼われている家畜風情に何ができる? ぬしたちの意思ではこの屋敷から出ることも、いいや、生きることさえできないというに」
その嘲笑や馬鹿にしたような言葉に、腹さえ立たない。ただ憎悪だけが更にぐらぐらと、熱湯のように煮えたぎる。
「葉菊」
止めるかのように、白が小さく俺を呼んだ。常々であればその窘めを素直に聞き入れるところだったが、憤怒の感情は治まるところを知らない。
「ほざいてろ。……人間なんぞが俺たち妖怪を思い通りに動かそうと企んだこと、その身だけで報いることができると思うな」
この激しく燃え上がる思いは、妖の本能が故なのか。分からないまま、熱情のままに言葉を吐き出す。
俺の口上に、飼い主の顔に張り付いていた笑みが、初めて僅かばかりに失せた。
「……何を訴えようと、その背に刺青があり、術で縛られている限り、ぬしらに自由などない。逃げ出す自由はもちろん、殺す自由も、死ぬ自由もな」
ところがそれは一瞬のことで、すぐに元通りに笑みを浮かべ、踵を返していく。
俺はそれをただ目で追うだけに留めた。たとえ一瞬の動揺だろうと、引き出せただけ充分だったから。
付き従う供の者が重い扉を閉め、いつも通りに施錠されたらしく、重い音が鳴る。
白と俺の二人きりになった。またしばらく、沈黙が続く。
破ったのはまたも白だった。
「どうして、あんなことを言ったのだ?」
怒った口調だったけれど、また泣き出しそうな顔をしている。
「赦せないから。……赦したく、ないから」
自分たちの都合のいいように俺たちの生を捻じ曲げようとする身勝手を、味わわされた恐怖と汚辱を、大切に思う者たちに負わされた傷を。何ひとつ忘れないし、赦したくない。
「白は俺を守ってくれる。だから俺は、白を守りたい。そう言ったし、今でもそれは本当で、真実で……」
俺を抱き寄せたままの白の髪が頬を撫でる。いつも真っ直ぐに俺を映す、美しい水の色が見えない。
軋む体を無視し、俺はそんな彼の肩を掴んだ。必然、顔が強制的に上向かされる形となる。
「だからこそ、苦しめる奴は、赦したくない。白や俺に酷いことを強いるあいつらを、殺したいって思う。白は思わないのか? 俺がそう思うのは、悪いことなのか? 罪なのか!?」
俺の願いが罪として断ぜられるものであるのならば、どうして飼い主や『主様』の言動は赦されるのだ。
白の顔が、くしゃりと歪んだ。いつも俺の問いには真正面から答えてくれるのに、僅かに開かれた唇の隙間からは息の音が漏れるだけ。
「白……?」
白は願わないのか。彼らの死を。美しいこの人は、俺なんかが抱くような汚いものを抱くことなどないのか。
不安で胸が潰れそうになる。やはり彼と俺は存在からして違うのかと。瞳を大きく揺らしたところで、白がきつく俺を抱きすくめた。
「……葉菊。おまえは優しい子だね」
唐突な言葉に、ゆっくりと目を瞬かせる。
「だからこそ、おまえがそれを願うのは、いけない」
強く抱かれているせいで、また白の顔が見えない。何を思っているのかを知りたいから表情を見たいのに、それを彼は許してくれない。
「私を責めなさい。私を恨みなさい。その他を責め、恨もうとすれば、おまえはきっと足を止めてしまう」
彼が何を言っているのか、俺には分からなかった。
でも、白の声はやはり泣き出しそうで、それが辛くて、ただ背に手を回す。
「何を言ってるんだ? 俺には分からないよ、白……」
「それでいい。それがいいんだ。だって」
だって。いつまで待っても、その後の言葉が続くことはない。
でも、聞こえた気もしたのだ。
その役目は、私が負うべきものだ――と、消え入りそうな小さな声が。