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世界はかくも美しい

 飼い主たちが白と俺を残して出ていく。つまり状況的には、俺はもう自由に動けるはずだった。

 だが、全身が軋んでいて、這うことさえできそうにない。

 縄のようなものが巻き付いていた首が痛みを訴えているし、墨を入れられたという背は激痛という言葉でさえ足りないほどだった。

 呼吸をしようとすれば痛みが伴い、息が止まれば苦しい。浅い呼吸でどうにか繋いで、この世にしがみつく。

 今息を止めてしまったら、きっと白は。そんな思いだけが、飛びそうな意識を繋ぎ止めていた。

「葉菊……!」

 悲痛な呼び声には、ようやく視線だけを向ける。

 自分だって痛みが残っているだろうに、白は必死の形相でこちらへと駆け寄ってきた。抱えられたと思ったら、繰り返して頭を撫でてくる。

「済まない……済まない……っ」

 そして幾度も幾度も謝るので、白は何も悪くないのだと言いたかった。それなのに、口は開くことも閉じることもできない。ただ細い息だけが漏れた。

「……今は、お眠り。そうすればきっと少しは楽になるから」

 そんな様子を見たからか、白い指がそっと俺の視界を覆った。

 それに抗わず瞼を伏せると、訪れた闇へと意識はすぐに溶けていった。

 夢すらも見ないような深い深い眠り。自分で考えていた以上に体は疲れ切っていたらしい。

 次に目が覚めた時、空は赤く染まっていた。

 一瞬、朝焼けかとも思ったが、恐らく違う。ぼんやりと天井を見つめている間にどんどん暗くなっていくからだ。

 飼い主たちが訪れたのは、恐らく夜更けだ。そこから気絶するように眠って、かなりの時間が経っていたらしい。

 動く気が起きずに、夜の帳に支配されていく様子をただぼんやりと眺めていた。

「……起きていたのか」

 と、気配が現れるとともに、そんな声が聞こえてきた。

「…………は、く?」

 起き抜けだからか、あるいは意識を失う前に叫びすぎていたからか。声はまるで老人のものかのようにしわがれて、掠れていた。

 呼吸をしただけで乾いた咳が漏れたから、恐らく原因は後者なのだろう。妖力を制限されたこの空間のせいなのか、治りが異様に遅い。

「体の痛みはどうかな」

 白は傍に座り、上体を起こす俺を介助してくれる。背中をさすってくれる手は優しかった。

「まだ、痛い……かも」

 今の小さな動作でも、体が悲鳴を上げている。

「そうか……。それならば、しばらくはゆっくり体を休めた方がいい」

 その言葉に従う以外はないだろう。体を起こすだけでこの状態なのだ。いつも通りに動き回れるようになるのはいつになるのか、予想もつかない。

 俺が小さくながら頷いてみせたのを確認し、そっと横たえさせてくる。

 それにも大人しく従ってから白を見遣った。美しい(かんばせ)には深い影が落ちている。目が合ったために向けてくれたのだろう微笑みも、どこか強張っているように思う。

 どうしてそういう表情になっているのかなんて、決まりきっていた。

「白……」

 俺の声は相変わらず掠れたままだから、たいそう聞き取りづらいはず。でも白は、自分から口元に耳を寄せて聞き取ろうとしてくれるので、無理に声を張ろうとはしないことにした。

「怒、って、る……?」

 俺に、ではない。それは明らかだ。

「そうだね。とても」

 少しの間押し黙り、小さく呟いた白。

 指示をした飼い主に。実行した従者たちに――そしてきっと誰よりも自分自身に、白は怒っている。

「自分、に?」

 そう見えて仕方がなくて、気づいたら俺はそう尋ねていた。

「葉菊は、賢い子だね」

 それに少しだけ目を見張ってから、優しい手が俺の顔にかかった髪を払ってくれる。

「守ってあげられなくて、済まなかった」

 そんなこと、気にしなくていいのに。

 自分だって痛い目に遭っているくせに、何故それほどまでに俺ばかりを気にするのか。それほどまでに『墨を入れられた』事実というのは重たいものであるのか。そもそも、『墨』とは何なのか。

 知らないことだらけの俺には、何もかもが分からなかった。

「……墨って、何なんだ……?」

 その疑問さえ解決すれば、総ては判明する。青い目をまっすぐに見上げた。

 いつか訊かれることを分かってはいたのだろう。白の表情は微かに歪んだが、それだけだった。ただ、驚く様子はない代わりに、言葉を探すようにしている。

 俺は彼が口を開くのをじっと待った。

「少し、移動しようか」

 ややあってからそう言って、ふわりと抱き上げてくる白。俺はその動きに抵抗はしなかったが、目を瞬かせた。

「何処に?」

「すぐそこだよ」

 確かに白はすぐに足を止めた。戸を開けて縁に出たと思ったら、そこに腰を下ろす。

 俺が寒さに少し身を竦めると、包み込むように抱きしめてくれた。穏やかな温度が伝わってきて、ほっとする。

 白が何も言わないので、俺もじっと黙っていた。

「……葉菊は、書き物に使う墨は知っているかな?」

 またしばらくの間が空いたのちに、彼はようやく再び口を開く。俺は白を見上げ、小さく頷いた。

「うん」

 飼い主たちが蔵にやってきた際に、何かを書きつけているのは見たことがある。それに使うのは『墨』であるということも。

「そうか……それなら話は早い。葉菊の背中には、その『墨』に近いもので模様が描かれたんだ。肌を傷つけないと刻みつけられないから、あれほどの痛みがあったんだよ」

 頷いた白は、俺の頭を繰り返し撫でつつ説明してくれる。

 なるほど、自分が何をされたのかには理解が及んだが、肝心なことが分からない。

「何でそんなものを入れる必要性があったんだ?」

 それに、そういった異物のようなものさえ、妖怪の治癒力があれば時間が経つうちに消えてしまうはずなのだが。

「私の背にも、模様の種類は違うが墨が入れられている。人間たちの入れるような普通の墨は、私たち妖怪ならば、時間を置けば消えてしまうかもしれない。でも、これは術を練り込んで作られている」

 思わず目を大きく見張る。

「術……?」

 白はその綺麗な瞳を歪ませる。苦しげに、そしてやるせなさそうに。

「……あの者たちの意に添うように動かすため。命令に逆らったり逃げ出そうとしたりしようものならそこから痛みが襲い、たとえこの屋敷から離れたとしても妖力を制御できるようにする。謂わば呪いだ」

 だから、白はあれほどまでに怒りの色を見せたのか。

 実感が湧かず、どこか他人事みたいに感じられる。

 未だ痛みが残る背にそっと手を伸ばして触れた。自分では決して見ることのできない紋様。何ひとつ拘束するものなど手足にはないのに、これがあるだけで、俺は飼い主に逆らうことができない。

 この喉の痛みは徐々に消えていくのに、墨は消えない。術も消えない。

 意識した途端、ぞくりと背中を寒気が襲った。

 いつまで此処にいなければならない? 今の飼い主が死んでも、また次の飼い主が現れる。終わりなんて見えない。

 檻にいた時は、絶望が心を深く支配し続けた。だから、あの生き地獄を抜け出して、白に会って、まだ少し穏やかな日々がやってきたように思ったのに。

 でも、やはりそんなものは幻想だ。目で見える格子はないけれども、ここもまた牢獄でしかない。

 檻の代わりに結界が、枷の代わりに墨がある、それだけ。

「どうして、そんなことをする必要性があるの」

 吐き気がする。訊いておいて、理由なんてとっくに分かっていた。

 白の整った顔が何度目か分からないほどに歪む。俺を抱きしめてくる力が強まった。躊躇いからか繰り返して深い呼吸をしているその音が、やけに大きく響いた。

「あの者たちの望む仕事のために」

 ――ぬしには新しい仕事を言い渡す。

 囁くような白の声と、愉快そうに弾む飼い主の声が耳元で揺れる。

 ああ、と意識しないうちに漏らしていた。それに白がこちらを見たのが分かっても、じわじわと胸に広がっていく感覚がある。

 俺は搾取されるための存在。飼い主たちにとってそれ以上でも以下でもない。「檻にいるよりはいい暮らしをさせる」というあの台詞だって、俺たちのためなんかじゃない。飼い主のため。

 生きることも、死ぬことさえ自分の意志では叶わない。あの激痛のさなか、そういう体に俺はされていたのだ。

「白は……その、『墨』のせいで、こんなところにずっといたの?」

 それに、俺が身動きを取ることができないのなら、この人だって同じ。

 長い沈黙が再び舞い降りる。

「そう、だね」

 発された返答は、今まで聞いたことがないほどに頼りない声に思えた。

 ここで飼われ始めた最初の妖怪である白は、俺よりもずっとずっと長い間、それこそ気の遠くなるほどの時間を過ごしてきた。本来は広い『海』にあるべき存在が、こんな狭い牢獄に押し込められている。

 そんなことがあっていいのか。

 抱きしめられていたその腕から、身じろぎをして抜け出す。感じていたはずの体中の痛みは気にならなかった。

 座っているその膝に乗るようにすると、白は目を丸くする。その目を真正面から捉えた。

「白は、此処から出たい?」

 細く少し硬い肩に手を置き、問う。

 浮かべられていた驚きの様相が更に深まる。

「葉菊、何を……」

「此処から出たいか?」

 戸惑いのあまりか、白は声を失ったかのようにしていた。俺は答えを待っていたが、それを見て問いを重ねることにする。

「此処に閉じ込められて、果てのない海に帰れないままで……それでもいいの?」

 見開かれたままの目がゆらゆらと揺れている。

「俺は、いつか絶対に此処から白を助け出す」

 自分さえどうしたらいいか分からない。でもそれでも、ふつふつと腹の中で何かが沸くのだ。

 どうして俺たちだけが、生も死も自ら決断できずに奪い取られるままにならなければならない? こんなにも美しく優しい白が、閉じ込められたままにならなければならない。

 きっとそれは、憤怒という感情だったのだろう。

「白は、俺が守る」

 白の柔らかい髪に顔を埋めるようにして抱きしめながら、俺は告げた。

 いつか絶対に此処から出るのだ。白と、檻の中に取り残されている仲間たちと一緒に。

「葉、菊……」

 白は放心したように固まっていた。俺は構わずにぎゅっと力を込める。

「……ありがとう」

 須臾の後、頭を撫でながら白は応えてくれた。それに体を離して、穏やかに笑っている彼の顔を見る。

 白は手を頬に移動させて挟み込むようにし、ますます笑みを深めた。

「それならば、葉菊は私が守ろう。おまえが幸せで在れるように」

 『おまえ』というその呼び方に、嫌なものは何も感じなかった。この人のより近い場所に近づけた気がして、そのままそこを撫で始めた手に自分から頬を寄せる。

 一拍置いて、白は少し唐突に点を見上げる。

「葉菊。上を御覧」

 今度は俺が目を瞬かせる番だった。笑みを浮かべたまま彼が指す方向に目を遣ると、空が見える。

 きらきらと輝くものが一面を覆っていて、思わず瞠目した。

「あれは星。この空は、夜空」

 そのまま呆けたように見とれている俺の様子に白はくすくすと笑いを漏らし、そう教えてくれる。

「ホシ、ヨゾラ……」

「そう。星と、夜空」

 繰り返すように呟く俺の頭にその言葉を刻み付けるように、白もまた繰り返した。

 やがて「葉菊」と名を呼ばれたので、ようやくそちらを振り返ろうとする。だが、それはできなかった。

 白が後ろから俺の腹に手を回すようにして抱きしめてきたからだ。

「白……?」

「おまえの瞳と同じ、美しい色」

 呼びかけるとほぼ同時に投げかけられた言辞に、再び目を瞬かせる。それからもう一度空を見上げた。

「夜空の色だ」

 自分ではよく分からなかった。自分の目をまじまじと見たことはなかったし、色について深く考えたこともなかったから。

「白は夜空、好き?」

 首を傾げると、背後で白が頷いた気配がする。

「ああ、とても好きだよ」

 白がそう言ってくれるのなら、それでいい。特に何も思っていなかった自分の目を、好きになった気がした。

「じゃあ俺、夜空が一番好きになる気がする」

 白が褒めてくれた色。白が好きだと言ってくれた色。それが見渡す限りに広がるのなら、これほど素晴らしいことはない。

 笑うと、白も俺の後ろで笑い声をあげた。それは嬉しいな、と言いながら。

「――この夜空のように、おまえに見せてあげたい景色が、たくさんあるよ」

 背に何かが当たる感覚があったので、何とか首を捻る。すると、白が額を預けるようにしている。痛まないように気遣ってか、ごく弱い力ではあったが。

「醜く穢いものがたくさんあったとしても……この世界は、かくも美しいのだから」

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