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底の見えぬ地獄の中

 表が白、裏が紺青の(かさね)。季節は秋。

 それが(はく)から教えられた『葉菊』の意味。

 自分と俺の特徴を織り交ぜた名を与えてくれた。それだけで俺は、まるで総てを受け止めてもらえたかのように嬉しくてたまらなくて。

「よし、これで綺麗になった」

 声が聞こえ、顔を勢いよく上げると共に意識が急浮上し、微睡みかけていたことに気づいた。

 そんな動きから、俺が眠りかけていたことを知ったらしい。白はくすりと笑い、優しく頭を撫でてきた。

「これで邪魔にならないだろう?」

 伸びっぱなしになっていた髪は丁寧に梳かれ、ひとつにまとめられていた。

 少しの間じっとしておいで、と膝に座らされ、言われた通り大人しくしていたら、白は穏やかな笑顔で俺の髪に櫛を通し始めたのである。

 初めての体験は、眠気を誘うほど心地よかった。

「……ありがとう」

 言いつつも、微笑ましそうにされていることに少しの気恥ずかしさを感じて顔を伏せる。しかし同時に、それよりもずっと大きな安心感を抱いた。

「礼を言われるほどのことではないけれど、喜んでもらえたなら私も嬉しい」

 恐る恐る見上げると、白は声の調子をそのまま表したかのような柔和な表情をしている。

 思わず、小さな息をついた。

 生命の危機を感じる生活であることには変わりがないはずなのに、どうしてこれほどまでに穏やかな心情でいられるのか。

 勿論、檻に残してきた妹のことが気がかりでないわけではない。できることなら妹や同族たちのことも連れ出したい。

 俺の表情が一瞬にして固まっていったことに気づいたのか、白の手がそっと俺の頬を撫でた。

「葉菊」

 初めて『名』を呼ばれ、先ほどのように勢いよく顔を上げる。

「すぐとは約束できない。でも、いつかは必ず会わせよう。大切な人たちに」

 何を思って暗い気分になっていたのか分かっていたようだ。見抜かれたことに拳を握り締めつつ、いつの間にか俯けていた顔を上げ、白を見る。

 それから小さく頷いて見せると、白はまるで「いい子だ」とでも言いたいかのような様子で目を細めた。

「白は、此処にどれくらい前からいるんだ?」

 またふわりと持ち上げられ反射的にしがみつきつつ、ふと疑問に思ったことを首を傾げる。

「そうだね、少なくとも君が生まれるずっと前からだろう。数えるのをやめてしまって久しいから、正確なところは分からないけれど」

 俺はこの時、六、七歳の年頃の人間の体つきに近かった。後々知り合うことになる妖怪たちから教わった情報に鑑みると、およそ百年ほどを生きた頃だったのだと思う。

 当時の俺にはそこまで詳しくは分からなかったが、それでも体感からして、檻の中でとても長い時間を過ごしていたことは分かっていた。

 だが白はそれ以前からこんなところにいるという。

「……どうして」

 どうして閉じ込められているのか。言いかけて、ぐっと口を噤む。多分、白が一番問いたいことだと思ったから。

 微かに笑った白は、多分俺の言いたいことを理解していたのだと思う。だけど、黙ってしまった俺のためにか、何も言わないでくれた。

「さあ、もう今日は疲れただろう? 休もうか」

 抱えて何処まで行くのかと思えば、寝具のところだった。

 寝具があることがまず驚きではあったが、それよりも気になったのは、恐らく俺の分しかないこと。

「白は、何処で休む?」

 再び見上げて尋ねると、長い指が示した先は設えられた生簀だった。

「あまり長い時間、水から離れてはいられないんだ」

 最初に水の中にいたのはそういう理由もあったらしい。

「……白、」

 少し考え、小さく名を呼ぶ。

 今度は白が首を傾げたのを見ながら、そのままの声量で続けた。

「……一緒に寝たら、駄目か?」

 白は青い瞳を軽く見張っている。何度目か反応の怖さに俯くと、その動きを追いかけるようにして覗き込まれた。

 少しだけ息を呑んだら、穏やかに微笑み、繰り返し背をさすってくる。

「勿論だよ」

 自分で歩けるというのに、白はやはり俺を抱え上げて運んでいく。

 冷たくなく熱くもない、体が解れていくような温度の水にこうして浸かることができたのなどいつ以来だろう。

 隣で同じように水に揺蕩う白と顔を見合わせ、笑った。

 初めて会ったというのに、まるでそれこそ生まれた頃から一緒にいたような気安さ。檻の中では息さえ止まってしまえと願ったのに、白と共にする呼吸は苦しさなど全くなかった。

「白は男? 女?」

「さあ、どちらだろうね。自分で気にしたこともないから。葉菊が好きに決めればいい」

 男と決めつけるには(たお)やかで、女と固定するには体つきに柔らかさがあまりない。判断に迷ったし、しかも俺の中で「白は白」という概念が出来上がり始めていて、自分で訊いたくせにどうでもいい気がする。

「……やっぱりどっちでもいい」

 便宜上『彼』だとか称することもあるかもしれないが、それは性別を意識してされる呼び分けにはなり得そうもなかった。

 やはりそんな思考が分かっているかのように、白は笑っているだけだった。

「白は何処から来たの」

「元はね、海というところに仲間といたんだよ」

「ウミ? ウミってどんなところだ?」

「池をもっともっと大きくしたようなところで、果てがないんだ。そして水が塩辛いんだよ」

「塩辛い? どうして?」

「私にもよくわからないな、生まれた時から海はそういうものだ」

「それでいいの?」

「無理をして暴かなければならないものなんて、この世には何もないよ。不思議なら不思議のままでいいことだらけだ」

 いくら暴こうとしても底が知れない白は、それこそ『不思議』な存在。だけど不安を抱かせるような不思議さではなくて、たとえ何も知らなくとも、知らないままでいいような印象があった。暴こうとすることで、何か大事な均衡を崩してしまいそうな。

 白が言いたいのは、つまりそういうことなのだろうか。きっとそうに違いない。とりあえず結論づけて、俺は頷いた。

「……じゃあ、ウミで好きだったものって何かある?」

 話題を少し変えると、白はそれまで通りの微笑みで以て応じてくれる。

「そうだね、水の中から見上げる波が美しかったよ」

「ナミ? ナミって、何?」

「そうだね……では、御覧」

 白が俺を引き寄せて水の中に潜る。呼吸ができないなんてことはないから慌てはしないけれど、何をしようとしているのかと戸惑った。

 水中を漂いながら、白が手を静かに水面の方へ向けて持ち上げる。妖力の流れを感じた次の瞬間、水面がうねる。

 俺は大きく目を見開いてその景色を眺めた。

 外から差し込む月の光がきらきらと揺れて、まるで消えてしまいそうな儚さと美しさ。でも、まるで生き物のようにうねっては、(へり)に当たって弾けていく動きには力強さがある。

 『ナミ』は、まるで白みたいだ。

 そんなことを思いながら夢中になって眺める俺を、白は柔らかな雰囲気を湛えながらただ黙って待っていてくれていた。

 しばらくして完全に水面が落ち着いてから二人で水の外に顔を出す。

「あれが、ナミ……」

「そう。美しいだろう?」

 ぽつりと(こぼ)した俺の頭を撫でてくれる。大きく頷くと、今までと同じように白は優しく笑う。

 それから白は、『ウミ』は『海』と書くこと、『ナミ』は『波』と書くことを教えてくれた。


 寝る前の少しの間を水に包まれながらの白との語らいは、初めて出会ったこの日から絶えることなく続く。習慣と化した、と言っていいと思う。

 多分、この習慣が生まれた瞬間すでに、白は俺の中で『特別』になっていった。いや、あるいはもっと早く――それこそ、名前を貰った時からかもしれない。

 家族の情かと言われると、多分違う。かといって、恋情とも一致しない。親愛の情と言い切るにも何か言葉が足りない。

 明確に分類などしようもなく、するつもりもなかった。

 俺にとって、そういう関係性の名前なんて、白の言うところの「不思議のままでいいこと」だったから。






 いつの間にか閉じていたらしい目を開くと、周囲は暗かった。

「白……?」

 無意識に呼ぶと、共に水の中にいたはずのその姿はない。

 目を瞬かせつつも生簀から上がって、自分にまとわりついている水分を払う。

「白?」

 手を動かしながらもう一度呼んだが、返事はなかった。しかし、誰かの気配がする。

 白だろうか。勢いよく振り返った瞬間、視界がぐるりと回転した。その次の瞬きの後には、床へと半ば叩きつけられる。

「――……ッ!?」

 突然のことに咄嗟には声も出なかった。代わりに喉が鳴る。打ち付けた時に吸い込んだ息が、どうやら妙なところに入り込んだらしい。

「そのまま押さえていろ」

 何の感慨もない、淡々とした口調。嫌というほどに聞き覚えのある声。


 飼い主だ。


 ――明日の亥の刻に来る。

 真っ白になりかけた頭に最初に浮かんだのは、そんな記憶。

 暗いならまだきっと今日なのにどうして、と思いかけて、もしかするともう『明日』になっているのかだとか、思考がぐちゃぐちゃになっていく。

「は、く、はく、白っ」

 きっと半分ほどは無意識のうちに、繰り返して呼ぶ。状況の理解が追いつかないまま。あの人なら何か知っているのではないか、助けてくれるのではないか、と。懇願の色が濃い声で。

 全身を使って暴れもがく俺を、飼い主が嗤っていた。

「一号なら疾うに仕事に向かわせた」

 絶望を感じさせる言葉のために、それまでもがくようにしていた俺の動きが止まった刹那。

「始めろ」

 冷徹な声が響く。飼い主しか今まで視認していなかったが、従者たちがいる。俺を封じているのは屈強なその従者たちで、力が更に強まったのが分かった。

 はっとした俺は、どうにか逃れようと再び暴れる。

「は、なせ! やめろ!! 何なんだよッ!!」

 こいつらは何をしようとしているんだ。こいつらは本当に俺と同じように人の形をした生き物なのか。

 もしかすると、俺は、死ぬのか。

 恐怖と絶望と混乱が一時に襲い、苦しくて苦しくて吐きそうだった。

 引き倒されたままの姿勢だった俺の体は転がすようにうつ伏せにされ、四肢を押さえつけられる。それでもなお暴れようとすると、首が焼かれるような感覚が襲った。

 今度は痛みのために暴れる。

 その最中、何か光の縄のようなものの端を飼い主が持っているのを視認した。縄は俺の方まで伸びていて、つまりそれが巻きついているがために俺は悶えているらしい、ということが分かる。

 しかし、分かったところで痛覚が遮断されるわけもなく。

「離せ、――アアァァアァッ!?」

 憎い男に今一度訴えようとしたが、言い切ることはできなかった。

「さっさと済ませろ」

 いつもの無感情な瞳だけが、まともに知覚できた最後のものだった。

「うあああぁあぁッ、あ、痛、ああぁ、っ、いたい……ッ!!」

 さっきまで感じていたはずの首の痛みがぼやけていくほどの激痛が、背中から押し寄せてくる。

 白が起こしてくれた『波』のように、呼吸が止まるほどの痛みと一瞬の空白が繰り返された。

 もはやそれは痛みなどというものの度を超え、熱さへと自分の中で変換される。

 熱い。熱い。熱い。消えぬ炎の纏わりつくが如く。

 空気を求めて口を開いた瞬間、痛み。吸いきれなかった中途半端な息が喉を震わせた。

「ぅあ、アァ……っ」

 いつの間にか髪を除けられた背中に、規則的に押し付けられる鋭いもの。それはおそらく針で、何かを描くように刺さり続ける。

 ただ刺さるだけなら、きっと耐え切れないほどの痛みではなかった。

 妖怪、特に蛟は軽微な傷ならすぐに治る分、継続的な痛みにはさほど強くない者も多いのだ。俺もそのうちの一人であり、繰り返される痛覚への刺激に耐え切れない。

 しかも、それに加え、そもそも癒えている感覚がないのである。

 痛みと痛みが重複し、大きく膨らむ。その膨張は収まることを知らず、俺は床にしがみついた。

 最初は断続的に叫びを上げ続けていたが、そのうち声も枯れ果てたようにして呼吸音しか発することができなくなる。息も絶え絶えになり始め、強張っていた体の力は抜けていった。

 意識を失いかけそうながらも、頭の片隅に残った冷静な部分が、何かしらの術をかけられているのだと訴えてくる。

 これほどの痛みに襲われる原因は、それしかない。

 永遠にも思えた時間の中、どれぐらい経っていたのだろうか。

「それでいいだろう」

 押さえつけていた手が外れていった。疲労で動けない俺は、目だけで飼い主たちの方を見る。

「葉菊、と名付けれられたそうではないか。一号に」

 やめろ。お前がその名を呼ぶな。

 口にしたいのに、ひゅうひゅうと息が漏れるだけで声にはならない。流しすぎた涙はくっきりと筋を残し、口を動かそうとすると頬が引き()れるような感覚があった。

「背に咲いた花もそれに揃えてやったぞ」

 ゆるりと下がった目尻。何を言われているのかが分からない。

 飼い主が再び何かを口にしようとした、その時だった。

「何をしている!!」

 そんな怒号と、走る足音と、戸が壊れそうなほどの勢いで開く音が耳に届く。

 そして、見間違えようもない白い影が視界に飛び込んできた。

「…………は……く……」

 ようやく発することができたのは、それだけだった。呼び声ともつかない、音にさえなっていないような、それでも絞り出した名前。

「ッ……」

 これ以上もないほどに見開かれた目。美しい青色が驚愕と怒りに支配されていく。

「こんな小さな子供に墨を入れたのか!?」

 先ほど以上の、空気を震わすような怒鳴り声。

 墨を、入れる。

 それが何を意味しているのか、俺はやはり分からないまま。床に倒れ込んだまま、激しい気を纏う白を呆然と見つめた。

 俺の傍に膝をついていた飼い主はゆっくりと立ち上がり、白の方へと向かっていく。

「ぬしは何かを勘違いしている」

 言い放った瞬間、白の表情が苦悶に歪み始めた。立っていられないのか、ずるずるとその場に座り込む。

 俺は驚き、手を伸ばそうとしたが、まるで木偶になってしまったかのように指一本も動かすことができなかった。

「ぬしらを飼っているのは儂だ。生かすも殺すも、何の術を施そうとも、自由」

 白を見下ろし、せせら笑う飼い主は、間違いなくこの空間を支配していた。

「ぬしがあの子供に肩入れするのなら、こちらとしては重畳。ぬしはこの場での(しらがみ)を自ら増やしたわけだ」

 圧倒的勝者は飼い主で、白も俺も敗者、そのはずなのに。

 青い炎の燃え上がるが如き怒りを全く隠さずに向ける白の方が、飼い主よりも強烈な存在感を示しているように見えた。

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