格子窓の向こう側は
酷く狭い格子窓越しの四角い空が、目に焼き付いて離れない。
足に繋がれた枷。高い位置にある上、格子に触れただけで焼け爛れるような強い術がかけられた窓。閉じ込められた檻から出られないことを知っていて、総てを諦め、虚ろな表情をした同族の者たち。
常に見ていたのは、そんな景色だった。
自分の顔を自分で見ることはできない。だからきっと、俺も同族とさして変わらない表情をしていたに違いない。
日が昇れば、また長い一日が始まったと嘆く。日が沈めば、二度と朝が来なければいいのにと願った。
「お兄ちゃん」
呼び声にゆっくりとそちらを振り向けば、群青色の目をした少女がこちらを見ている。
紫のようで、それでいて深い青のような、俺と同じ複雑さを湛えた瞳。絶望と、捨てられずにしがみつく希望が混じり合う、そんな心情を端的に表しているみたいだ。唯一自由に動く頭でそんなことを思う。
「……どうした」
呼びかけに応じた声は、掠れていた。最後に水を摂ったのはいつのことだったか。老人の如くしわがれた自分の声を聞きつつも、まるで他人事だった。
「次、出られるの、いつかな」
檻の外に出ても、そこは極楽などではない。分かっている。だが、この最底辺の場所よりはましであると、気の遠くなるような時間を経た末に考えていた。
「分からない」
答えるのと同時、ごとん、と鈍い音がする。
何が起きたのか。半ば分かっていても振り返れば、予想通り、同族の一人が意識を失って倒れたらしかった。
「おいっ、おい……! しっかりしろっ」
周囲にいた数人が、何とか意識を取り戻させようと奮闘している。自分たちの動きを制限する鎖をもどかしげに避けながら、必死で。
しかし、強く揺さぶられているのにも関わらず、焦点の定まらない目は虚空を見ている。無駄だろう。そういう彼を一目見て、俺は思った。
「……諦めろ。事切れている」
呼びかけていた方も呼びかけていた方で、自分たちの行為が意味を成さないだろうことを何となく分かっていたのに違いない。俺の言葉に唇を引き結び、じっと黙り込んでしまった。
その光景に胸を痛めることができていたのは、いつの頃までだったか。
もう、慣れた。閉じ込められ続けること。昨日まで呼吸をしていたはずの仲間が、いとも簡単にただの木偶のような『モノ』になってしまうこと。
悲しさがないわけではない。だが、きっと俺は、羨ましかった。死によって、虐げられる苦しみから一足先に逃れていく仲間が。
残された俺たちにはどうにもしてやれない。止まってしまった呼吸を再開させてやるなどという理に反したことはもちろん、死を悼みながら弔ってやることすらもできないのだ。
だから、ただ祈る。それが弔いの代わりになればいい。
どうか安らかに眠れ。たとえ死後の世界がどのようなものでも、劣悪なこの場所よりはましだろう。死んだ彼らの魂とやらがどうなるのかなど知るはずもなく、想像してみるしかなかったのだが。
「もう、やだあぁぁ! ここから出たい、出して、出してぇッ!!」
誰かが死ぬたび、自分たちもそう遠くない未来にこうなるのだという結末が見える。閉じ込められているという事実に耐え切れなくなって叫んでも、出られるはずはないのだ。
誰もが理解していて、その上で抗うものと諦念を抱くものに分かれるのは、生きる希望がまだその心の内に存在するか否か、という差に違いなかった。
俺はもう、自由だったはずの思考さえやめる時間が増えるほどに、投げ出し切っていた。死ねるならば死にたいのに、高い妖力が仇となって叶わない。
多分、逝ってしまった者たちを最も羨んでいたのは、俺に違いなかった。
同族の死の悲しみに暮れる者、自らの運命を嘆く者、様々な状況が狭く暗い牢獄の中にあっても、俺はそれをただ眺めているだけだった。
お兄ちゃん、と呼ぶように、少女はじっと俺を見ている。非難するのではなく、そうかといって肯定をするわけでもない眼差し。
視線にただ手を握ることで応じようとしていたその時、軋むような音が耳に飛び込んでくる。
同時に知覚する、淡い光。
その音や明かりが意味するところを、俺たちはよく知っていた。
蔵戸が開いて、こちらに近づいてくる足音がする。
仲間の死という直前の出来事のために、檻の住人の行動は各々ばらけていた。でも、この時ばかりは全員の表情が警戒の色に染まっている。
「何だ、また死んだか。しかもこの間仕入れたばかりの個体ではないか……役立たずめ。まあ仕入れた金額が金額だ、仕方がないか」
ひとりごちながら、檻の前で一人の男が立ち止まった。
思わずねめつけるようにすると、彼は愉快そうに口の端を持ち上げる。
「十号、ぬしは今日も元気いっぱいのようだな。重畳、重畳。高くついただけはある」
その言い様に、無意識に思い切り唇を噛みしめていたらしかった。鉄の味を感じて初めて自覚する。
俺の周囲にいる者たちの纏う雰囲気も冷えている。恐らく、この鉄格子に強力な封じの術さえかけられていなければ、全員で飛びかかって骨も残さずに殺していたに違いない。俺たちの自由を封じ、自らの利益のために飼い慣らすこの男を。
檻に閉じ込められた誰もが、この男やその一族に『買い取られ、飼われている』存在だった。
つまりこの男は、飼い主、ということになる。
名は知らない。奉公人と思われる人物たちから「名主さま」と声をかけられるのを聞いたことがあるが、それが人間にとってどういう立場であるのかなど分からないし、興味もなかった。
ただ、この男の父親や祖父に当たるのだろう男もそう呼ばれていたから、代々継いでいくものであるのだろうということは把握している。いわば、それだけだ。
「ぬしにはこれからももっと働いてもらわねばな」
『飼い主』が楽しそうに笑えば笑うほど、俺の胸の内に寒々しい風が吹き込んでくる。もしも心を具象化できるのならば、きっと今の俺のものは氷の塊になって見えるに違いない。
こんな鎖さえ、格子さえ、封じの術さえなければ。幾度思い浮かべたか知れない考えが頭をよぎる。
俺たちは『蛟』と呼ばれる妖怪であり、通常は水辺に棲んでいる。蛇のような外見をし、時々によっては水神とも称された。
特徴としては、強力な毒の使い手であることが挙げられる。血も肉も妖力も総て毒で作り上げられているといっても過言ではない。たとえ妖力が最上位と呼ばれる他の種の妖怪たちに及ばなかったとしても、その毒の力だけで対等に渡り合うことができるほどの効果を持つ。
そのためであろうか。人間たちからはとりわけ恐れられた。
吐き出す毒気は当然のこと、ヒトにとって有害。元々気性が荒い者たちが多いこともあって、毒で以てヒトを害すことが珍しくも何ともない。嫌忌を向けられる一番の原因と言ってよかった。
けれども、人間たちはもちろん妖怪にもあまり知られてはいないが、蛟が扱うことができるのは毒だけではない。
毒と薬は表裏一体。強すぎる薬が毒になるように、毒も時には何にも勝る良薬になる。
この男の先祖は、そこに目をつけた。
人間たちには妖怪退治を生業にしている存在がいる。法力で以て戦う法師と、霊力を用いる巫女だ。当然、彼らは妖怪の情報に精通している。飼い主の一族は数人の法師を輩出しているらしい。
そのような情報が手に入れられやすい状況にあるからこそ、考え付いたのだろう。「妖怪を飼い、その能力や身体の一部を売ることで利益を得る」などという悍ましいことを。
一族に縁がある法師が、退治するふりをして飼い主に蛟を売り飛ばす。買い取った飼い主は、その蛟たちを使って金を儲けるのだ。
たとえば暗殺のための毒。たとえば瀕死の権力者を一瞬にして救う薬。人間たちの欲望のために蛟は利用され続け、俺が見てきた限りでもかなりの数が死んでいった。
能力の無茶な使わせ方をされれば、妖力は消耗する。妖力は妖怪にとって生命力の源。当然、その力が弱まれば体力が失われて弱っていく。
そういう様子を見ても、飼い主たちは動じなかった。毒や薬を作らせるだけ作らせて搾取しておいて、労わる気持ちなど微塵もないのだ。
それは俺たちの呼び方にも表れている。赤ん坊の頃に連れてこられた者は名さえ与えられず、また名を持っていた者は二度と使えぬよう奪われた。その上で、此処に連れてこられた順に振られた番号に従って呼ばれた。
俺は十番目に連れてこられた個体だから『十号』。俺を兄と呼んで慕うこの少女は、その次に連れてこられたために『十一号』。
そういう意味で、どの飼い主も碌なものではない。だが、歴代の飼い主の中で、今俺の目の前にいるこの男は最低と言ってもよかった。目を背けたくなるような惨たらしい行動を、顔色ひとつ変えずにできるのだ。
「おい」
飼い主が後ろにいた従者を振り返ると、呼び出された二人は彼の方に寄っていく。
そして放たれた言葉に、俺は思わず耳を塞いでしまいたくなった。
「死体を運べ。肉片の欠片たりとも無駄にするな」
檻が開く。だが、その出入り口に俺たちの足から伸びる鎖の長さでは届かない。
何より、この檻にいる限り俺たちは生命維持以外に妖力を一切使えないのだ。
たとえ、目前にいるつい先ほどまで生きていた仲間が、遺体さえ金稼ぎの道具にされるために運び出されようとしていても。
「そいつを離せ!!」
「何で死んでまで苦しめられなきゃならないんだよッ」
死んだ彼と親しかった蛟たちが口々に声を上げ、もがいている。連れて行かせまい、逝ってしまってなお傷つけさせはしまいと。
飼い主はそんな悲痛な叫びには一瞥をくれただけ。鎖を解かれた遺体は連れていかれる。
この檻の中に安寧などありはしない。
そうだ、何を忘れていたのか。命が絶えて物言わぬ体になったところで、苦しみは延々と続くのだ。
死さえ飼い主を喜ばせる。だったら、俺たちはいったい何処に逃げたらよかったのだろう?
一人の従者が引きずるようにして運んでいき、彼の小さな姿はあっという間に見えなくなった。
いつもなら、それで終わりだった。檻の扉が閉じて、どうせ届きやしないのに頑強に鍵がかけられて、嫌な笑みを残し去っていく。俺たちに絶望を植えつけながら。
しかし、今日は少しだけ違った。
「十号。来い」
残っていたもう一人の従者が、俺の足枷から伸びる鎖を掴む。
意味が分からず、呆然として飼い主を見ると、そればかりは常の通りの嫌な笑みがそこにあった。
「お兄ちゃんっ!」
ほぼほぼ悲鳴と言ってもいい声で呼びかけてくる妹。その目に涙が浮かんでいるのは気のせいではないし、大げさな話でもないのだ。
この檻から連れていかれ、帰ってきた者は今までいないのだから。
本当に血の繋がりがあるのかなんて分からない。連れてこられた時期が近く、しかも同じ目の色をしているから、と、それを理由に兄のように慕ってくれた。俺自身も彼女を本当の妹のように思っていたし、この屈辱の世界の中で唯一の救いだった。
そういう彼女と、もう二度と会えないかもしれない。こんなにも唐突に。
互いに目一杯伸ばした手は、鎖を強く引っ張られたせいで一瞬すら触れることも叶わず。
俺はそのまま、初めて『外』に連れ出された。最後に見えたのは、悲嘆に暮れる妹が涙を零す様子だった。
外はかなり暗い。また、晩秋という季節柄か、かなり冷えた。
歯の根ががちがちと音を立てる。寒いのはもちろんだが、それだけではないと言い切ることができた。
強い恐怖心が、体をも支配している。
死にたい死にたいとそればかりを考えていたくせに、いざ近づいているのかもしれないと思うと、恐ろしくてたまらない。これほど生に苦しんでも、死にたいと常々思っていても、本心では生きていたいのか。冷静な部分では考えるけれども、戦慄きは酷くなるばかりだった。
「ぬしには新しい仕事を言い渡す。これまでの仕事に加えて、な」
大きな母屋が見えたが、当然そこには連れていかれず、離れであるらしい小さな建物へと引きずられていく。
俺は信じられない思いで、再び飼い主を見上げた。
今までだってかなりの負担を強いられていたのに、これ以上などと。そういう思いが表情に出ていたのか、彼が愉快そうに笑う。
「安心しろ。あの中にいた時よりはいい暮らしをさせてやる」
檻の中の環境が劣悪であることを知っていると分かる台詞で、俺は反射的に顔を歪めた。
でも、分からない。どういう気まぐれだ。
その時の俺はまだ知らなかったから、戸惑うしかなかった。
これからどんな苦痛が待っているのか。
終生――いや、それどころか、転生を遂げたところで忘れられはしなかった存在に出会うこと。
離れに辿り着き、半ば投げ込まれるようにして中に入れられる。派手にすっ転んだ俺は、しこたま体を土間へと打ちつけた。恨めしい思いで従者を見上げるも、まるで下等な生き物を見る目でそんな俺を見ているのみ。
舌打ちが飛び出したところで、淀んでいた空気が静謐なものへと変質するのを感じた。まるで爽やかな風が総てを浚っていくかのように。
その空気に釣られるように、自然と視線を奥へと向ける。
「これが昨日言っていた蛟の子供だ、一号」
一号。
その数は、呼びかけられた存在が、俺よりも遥か前に連れてこられた最初の奴隷であることを示していた。
「……外見だけは年を食ったくせに、精神は全く未だ嫌な童のままであることだ」
この場には似つかわしくない、澄んだ声が響く。まるで寄せては引く波のような。
見つめた先には、白い魚がいた。