―― 弐
宏基に声をかけてきた女性は、彼が警戒をしているのが分かったのか、困ったように眉を下げている。
「……その名前を、どこで聞いた」
発した声は、思った以上に鋭くなっていた。
彼女は、見たところ異能者ではない。
かつてこの国には、害為す妖怪を退治して回り人間を守護する存在として、巫女や法師がいた。前世は何度も遭遇しているし、とある縁が元で、現世においても会ったことがある。彼らからは一様に、強い清浄な空気を感じた。
だが、目の前の人物にはそれがない。
同様に、妖気も感じられないため、妖怪という可能性もないと思われる。巧妙に妖気を隠しているのでなければ、の話ではあるが。
全く感じられないほどに隠し通すとなれば、強い妖力を持っていなければいけない。そもそも持っているものを持っていないかのように隠すためには、相応の力が要るからだ。
しかし、この現代において、それほどの妖力を保持できる妖怪が生き残っているとは思い難い。有り得ない、というわけではないけれども、可能性は限りなく低い。
混沌を好むものである妖怪たちは、泰平の世であった江戸の頃に多く消えていった。完全に潰えたわけではないが、生きづらくはなっていた。
そして極めつけとして、現代では信心深さを失いかけている。信心深さとは、言い換えれば見えないものを畏れ敬う心である。元々人間の恐怖や畏敬の念から存在に価値を見出された妖怪たちは、そういう状況では存在を保つのは難しく、絶対数が少ないのだ。
たとえ上手い具合に存在できたとして、強大な力を保持するためには、やはり相応のエネルギーがいる。そのエネルギーを確保する手段が、現代では限りなく少ないのだ。
つまり、最も高い可能性としては、彼女はただの人間である。
そういった清浄な空気や妖気などといったものが、同じように人間であるはずの宏基に分かるのは、例外的なこと。彼の前世と、その前世と関わった周囲の者たちが、最期の出来事を深く後悔した数奇な運命の末にもたらされた偶然だ。
宏基は、前世である蛟の能力をその身に宿した人間、という奇妙な存在として生まれてきた。
それでも、宏基自身が欲しなければ、ただの人間のままでいられたのだろう。彼にはそうできなかった事情があった。
ヒトは普通、まっさらのままで生まれてくるのだという。人生を一冊の本としてたとえるのならば、一文字たりとも書き込まれていない状態。前世のことなど何もかも忘れた、新しい命として。
宏基には想像がつかなかった。まっさらのままで生まれてはこなかった命であり、物心つく頃には前世のほぼ総ての記憶が頭の中にあったから。
彼の前世が敬愛し、最期の瞬間まで付き従った主、久遠。猫又という妖怪だった彼は、妖怪と人間が対立して恨み合う状況を憂い、人間と共に生きようとした。
だが久遠は、当の人間に裏切られたのである。愛する者たちを奪われ、創り上げてきたものを蹂躙され、宏基の前世の目前で死んだ。
宏基の隣家に住む朝比奈鶫という幼馴染は、久遠の生まれ変わり。宏基とは異なり、まっさらのままで生まれ、何も知らず、ただのヒトの子として生きていた。
自分の前世は、主を守り通すことができないまま目前で喪い、自分も命を散らした。だからこそ宏基は、今世でこそ鶫を守り通したかった。何も知らないのならば、最期の瞬間までただの人間として生きられるのが一番で、平穏な彼の生活を支えたかった。
万が一、前世たちの命を奪った黒幕の転生者が現れ、宏基たちを再び殺そうとしてきても、関係のない、遠い場所で鶫は生きていられればいい。総ては久遠、ひいては鶫のために、人間には過ぎたる力である蛟の力を宏基は欲し、手にしたのである。
毒使いである蛟の、毒気の力。そして妖怪に共通していた、妖力に裏打ちされた高い治癒能力。普段は封印しているものの、宏基にはそのどちらをも自在に扱うことができた。
当初は何も覚えていなかった鶫も、結果的に前世の記憶を取り戻すことになり、同様に妖怪の力を手に入れた。宏基の思惑からは少し外れることになったけれども、彼らは前世からの因縁を打ち破り、今は比較的平和な日常を送っている。
葉菊。その名は、今世でさえ総てを賭けてもいいとそれほどまでに敬愛した主にさえ、終生教えることのなかったもの。限られた存在しか知らず、その者たちは疾うに死んでいる。鶫にも教えてはいない。因縁が片付いた以上、触れる必要性もない過去。
知るはずがないのだ。もう誰も。
故に、勘違いや偶然で済ませるには、あまりに腑に落ちない。
思考の海に沈みかけていた宏基は、女性に改めて視線を遣る。問いかけに逡巡するようにしている様子にますます不審を強め、その場を立ち去ろうと踵を返しかけた。
「待って!」
だが、慌てたような声がそんな彼を呼び止める。無視しようと思っていたが、届いた言葉に大きく目を剥き、振り返った。
「その花、『白』に届けるのでしょう」
葉菊に続いて、『白』だ。
前世の名前ならまだしも、その名を軽率に呼ばれるのは、胸の奥で何かどろりとした黒いものが生じる。
もはや、迷う余地もない。この女は、宏基の前世を、それも抹消したはずの過去を知っている。
思いがけず、睨むような視線になった。
「何なんだ、てめえ」
低い声で言い放つと、上品そうな雰囲気の女性は、薄く笑みを浮かべてみせる。それを怪訝に思いかけたところで、宏基は気づいた。
この女の目は、笑っていない。芯から冷え切っている。
脳が危険信号を発すると同時に、足を反対方向に踏み出そうとして――初めて、女以外にも人間の気配があったことを悟る。
「……ッ、」
脇腹の辺りに激痛が走る。肌が破られた痛みや血が流れる感覚はないため、押し当てられたものが刃物ではないことは辛うじて分かるが、正体は分からない。体が言うことを聞かず、膝から力が抜け落ちる。
彼女に気を取られるあまり、油断していた。でも、それだけではない。己で考えていた以上に前世や白の名前に動揺していた。今さら気づいても詮無いことではあるが。
背後から現れたのは、受け止められた感触からして男だったらしい。痛みは間もなく消えたけれども、痺れた体はやはり動かない。
蛟の力を使役でき、一切の毒が無効である宏基の動きを止めているということは、電流でも流されたとみえる。
いかに治癒力が高かろうとも、感電ばかりはそうすぐに回復できない。人通りがないこの路地では、声が出せない現在の状況からして、助けを求めるのは絶望的だった。
ぼやける視界の中、女を見る。胃が掻き回されている気分だ。気持ちが悪い。意識を落とせれば楽なのに、ただただ吐き気と、動けないもどかしさだけが湧いてくる。
ただ、この吐き気は痺れのせいなのか。それとも。
「ようやく、見つけた」
満足そうな笑みを浮かべる女の面影が、誰かと重なる。
「逃げ出して見てきた世界はどうだったかしら? これからはしっかりと働いてもらわないと。安心して、肉片の欠片たりとも、無駄にはしないから」
――ぬしにはこれからももっと働いてもらわねばな。
――肉片の欠片たりとも無駄にするな。
発せられた台詞が、遠い記憶の中の一人の声と重なって、割れるように耳の中で響く。
てめえは。口にしようとして、声が出ない。男が宏基の肩を支えて車に乗り込ませていく中、確信する。
この女は、かつて葉菊と白を囲っていた人物の、血縁であると。
こうきにぃ、と呼びながら、軽い足音を響かせて追いかけてくる小さな影。
オレンジ色がかった茶色い髪は、夕暮れの陽の光を受けて、まるで金髪のように輝いている。
宏基は足を止め、ひとつ年下の幼馴染が傍までたどり着くのを待つことにした。息を弾ませながら両手を伸ばしてくるので、拒絶はせず、飛び込むように抱き着いてきた柔らかい体を受け止めてやる。
「ころばなかった」
にこにこと、見ている者の毒気を抜くほど無防備な笑顔。柔らかい頬を宏基が両手で挟めば、くすぐったそうにして、また笑った。
「こうきにぃは、しょーがっこう、たのしい?」
その頃、宏基は小学生になったばかりで、互いに保育園生だった頃に比べ、共に遊べる時間は格段に減っていた。
人見知りをしやすい鶫はなかなか友人ができず、部屋の隅で一人で児童書を読んでいることが多いけれども、決して一人遊びが好きなわけではない。他の子供たちと遊びたい気持ちはあるが、上手く誘えないらしい。その点、隣家同士で生まれた頃からの付き合いである宏基は、鶫にとっては誘いやすい対象だったのだろう。
でも、年齢が違うと、どうしてもすれ違いが起きた。
その上、鶫の両親は共働き。朝比奈家の夫婦は優しくいい両親ではある。とはいえ、幼い子にしてみれば、甘えられる対象が限られた時間しか共にいられないというのは、寂しいのだろう。
宏基は、自身の両親も同じように共働きではあるが、別に一人でいることが苦でもなかった。すでに前世の記憶を持っていたために、思考も大人びてしまっていたから。
しかし、『普通の子供』である鶫は違うのだ。
今にも泣きだしそうなくせに懸命に涙をこらえて、見捨てられた仔猫のような目で見上げてくる。宏基と同じ時間を過ごすことができない寂しさを隠しもしない表情。そんな彼を見ながら、柔らかな頬をむにむにと指で押した。
どんなに生活が変わったとしても、宏基はまた自分との時間を作ってくれる。どうやら、この幼馴染はそう考えて疑ってはいないらしい。
ぶっきら棒で決して愛想がいいとは言えない宏基を、鶫は真っ直ぐに信じて、追いかけるのだ。いつもいつも。
宏基と違って何も覚えていないのに。人を信じようとする実直さは、前世と変わらずだ。眩しさに、時折目が痛むときがある。
でも、ずっと守っていきたいと願った部分でもあって。
「楽しいとか、ないけど。宿題とか増えて、面倒なことが多くなっただけ」
だから、失くさせたくないのだ。もう二度と。
「めんどー……?」
きょとんとした表情が間抜けで、また頬を指で押す。鶫は嫌がるように顔をしかめてみせつつも振り払いはしない。
「やることが増えたってことだよ。あとは、」
そういう幼馴染を見ていたら、気が緩んだのだろうか。続けるつもりのなかった言葉が口を衝いて出た。
「いちいち目の色について訊かれるから、鬱陶しい」
言ってしまってから、言わなくてもよかったことだと舌打ちした。案の定、元々大きな目を大きく見張っている鶫が見える。
言葉の意味が理解できたかどうかは分からないが、少なくとも宏基が好意的な感情で以て放った内容ではないことぐらいは察したのだろう。生来のものか、幼さの割に鶫は他人の感情の機微には聡い子供だった。
宏基は、確かに周囲の人間たちからすれば珍しいだろうことに、群青色の瞳をしていた。前世から共通のもので、人間として生まれ変わっても、どうやら引き継がれたらしい。深い青色が、瞬きのたびに見え隠れしている。
そんな日本人離れした色を、両親は不思議がりこそすれ、気味悪がることはなかった。前世においても「美しい」と評された目であったから、たまに近所の者たちに奇異の目で見られても、宏基は特段気にしていなかった。
だが、それが少しだけ変わったのが、保育園の入園以後。
たとえ純日本人であっても、稀に瞳に色を持って生まれることはある。もしすると、外国人の血がどこかで混じっていて、先祖返りした可能性もあった。そんな理屈は、大人には通っても、好奇心に塗れた子供たちには通らないことが多くて。
――なんでガイジンみたいな目なの? ヘンなの。
――おまえのおかーさんもおとーさんもクロなのに。オレわかった、ひろわれた子とかなんだろ、おまえ。
――こないだテレビでみたモンスターみたい。
宏基には前世由来のものだと分かっているが、興味津々の同級生たちは知るはずもない。持っている限りの知識を搔き集め、思いついた言葉で好き好きに尋ねてくる。一度や二度ならば無視していればいいが、諦めの悪いタイプに興味が持たれた場合が厄介だった。受け流し続けるのにも精神力がいる。
それでも、保育園では何とかやり過ごした。数年も同じ敷地内で長い時間を共にしていれば、最初の頃はあったような目新しさもなくなって、飽きられる。宏基を取り囲んでいた子供たちは、すっかりブランコやかけっこに夢中だった。
しかし、小学生となり、再び環境が変わった。同じ保育園出身だけではなく、地区内の色々な子供たちが集団生活を営むことになったわけである。必然、宏基を目新しく思う者たちが現れた。
保育園に入ったばかりの頃のような不躾な訊き方をされることは減ったものの、ないわけではない。それに、どんな工夫を凝らした訊き方をされたところで、興味本位に踏み込まれるのは面白くなかった。
だから、半ば愚痴のようなものだった。鶫に言ったところで仕方がない。前世が選び取った結末を、宏基も納得している。目の色も、願いに付属してきた一部に過ぎないのだから。
真剣に考えこむ様子を見せていた鶫を眺めていると、やがて彼は顔を上げ、笑った。
「ぼくは、きれい、と、おもう」
ひどく無邪気な調子で。何の裏もない表情で。
「だれかが、こうきにぃをかなしくさせても。ぼくは、きれいだと、おもう。おほしさまがキラキラしてるみたいな、よるの……おそらの、いろ」
はにかんで宏基を見上げて、そんなことを言う。
――おれは好きだよ、お前の目の色。まるで、夜空の色だ。
昔、彼の前世も似たようなことを言っていたのを思い出して、胸が震える。たまらなくなる。
何も言わずに柔らかな猫っ毛を撫でると、鶫はまた、不思議そうにしていた。
「どしたの? おなかいたい?」
それほどまでに痛みをこらえた顔をしていたのだろうか。眉を下げている幼子の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「……そんなこと言う変わり者は、お前ぐらいだ」
かわりもの? と尋ねられるのを聞きつつ、手を引いて歩き出す。
「かわりものは、だめ?」
また眉を下げているので、思わず口角がわずかに持ち上がっていた。
「お前らしくていいんじゃねえの」
遠い記憶が、脳裏を掠めていく。
ひどく優しく、ぬるま湯のような心地よさに、宏基は逆らわず意識を委ねた。
長命である妖怪の頃の十年など瞬きのようなものだったけれど、人間であるこの身にとっては、一年一年が何にも代えがたい。
かつて主だった幼馴染は、泣き虫で、頼りなくて、成長しても宏基の陰に隠れていた。常に友達は少なく、いたとしても深く関われるほどの存在はできず、常に教室の隅で本を読んでいるような、大人しくて目立たないタイプだ。
多くの人が、そういう彼に「しっかりしろ」と呆れ顔をした。担任の教師。近所の住人。親戚。産み落とした両親でさえ、もう小学生なのだから、もう中学生なのだから、と成長するごとに声をかけ続け、彼のいわばマイナス評価されやすい部分を矯正しようとしていた。
けれども宏基は、それでいいと思っていた。
鶫の日常は、激動に満ちていた彼の前世のものとはまるで真逆の、変わり映えのしない、何気ないものだろう。
しかしそれは逆に言えば、前世で手に入れられなかった生活を、彼は今世では送ることができているのだ。これほど尊いことがあるだろうか。
穏やかで、よく笑って、一度信じた相手は最後まで信じ抜く。かけがえのないそういった部分は、変わらずに鶫へとしっかり引き継がれているのだから。
前世の主の生まれ変わり。それを差し引いても、宏基にとって、鶫は守りたい存在だった。
――宏基兄……ぼくは、嫌だよ。守られることが嫌なんじゃなくて……宏基兄がそのために自分を摩り減らしてしまうのが、嫌だ。
成長した彼は、宏基のそういう生き方は嫌だと泣いた。鶫のためではなく、自分自身のために生きてほしいと。
摩り減らしたなんて、思っていない。有り得ない。
前世では守り切れなかった人を一番近くで守ることができること以上に、宏基にとって幸せなことはなかったのだ。
その思いが鶫が先に進むための障害になるのであれば、自分の存在など忘れてくれればいい。充分すぎるぐらいのものを、すでに宏基は貰った。
後ろ手に縛られているようで、目の粗い縄が手首の肌を抉って鈍い痛みを発している。横たえられたシートから、車のエンジンのせいだろう細動のせいで脳が揺られているが如く感じられて、気持ち悪い。
変化して蛟の力を開放し、毒で縄を溶かしてしまおうとも考えたのだが、どうやら力封じの術でもかかっているようで叶わない。そして、繰り返し電気が流し込まれるせいで、今の思考が夢か現かさえ曖昧になりそうだ。
どうして今世になってまで『飼い主』と関わり合いになり、その上囚われているのか。苛立ちと、理不尽への屈辱感が襲うも、同時に諦めの思いが頭をよぎる。
きっと、罰なのだろう。
鶫がなぜ泣いたのか分からない。「自分自身のために生きる」ことへの価値を見出せないでいる。そんな立ち止まったまま、進む気がないままのことへの、報いだ。
白。俺はまた、間違えたのか?
心の中で呟きながら、今はもういないはずの白い影を目前に見る。
間違えたことは分かったとしても、「前に進む」ということがどういうことなのか、宏基には分からない。
他人に生きる理由を求めた存在の成れの果て。彼はそう自己を評しているが、あながち間違いではないだろう。
今の宏基をもし見ることがあったのなら、前世の親代わりはきっと複雑な微笑みを向けたに違いない。
――私を責めなさい。私を恨みなさい。その他を責め、恨もうとすれば、おまえはきっと足を止めてしまう。
彼がまるでこうなることを予期していたかのような言葉を残した訳を、宏基はようやく悟る。
死に向かうよりも、生きる理由を探す方が辛かった。二度と目が開きさえしなければ楽なのにと思いながら、呼吸し続ける理由は他人に預けてしまえばよかった。己より他人の夢のため。『自分』など無用な不純物でしかなかった。
そうして自分を総て消して、押し込めて、大切なものが奪われ傷つけられる原因を、理解しようとしない者たちに押し付けて。
結果、憎悪なしには生きられなくて、対象を失った瞬間、まるで抜け殻のように成り果ててしまった。
前世は、白を深く愛していた。親代わりで、親友で、唯一心を曝け出せた存在で。
恨むことなど今でもできていないけれど、たとえば彼を恨めていたとすれば、憎悪の感情だけで支配されることはなかったのだろう。憎しみよりも先に抱いた、深い愛があったのだから。
白が懸念したように、前世も宏基も今に立ち止まり、足を進められない。
だからこれは、罰なのだ。
「まだ意識があるみたいだぞ」
「最大でもう一度やっておいて、頑丈なのよ」
車に押し込めてきた人間たちの声と、首筋でバチンと何かが弾けた音を聞いたのを最後に、宏基の意識は闇へと落ちた。