表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

―― 壱

 美しい人だった。

 どこがどう、と問われても、上手くは答えられない。

 だが、それでも、美しい人だった。

 敢えて言葉にするのならば、『総て』。まるでそれ自体が光を放っているかの如く輝く髪。日に透けそうなほど透き通る肌や、海を総てそこに閉じ込めたような青い瞳。それどころか、所作のひとつひとつに至るまで。

 そのあまりの美しさは俺の目を文字通り奪い、離すことはなかった。いつまで見ていたとしても飽きなくて。

 そして、あの人はそんな俺を見ても「どうしたの」なんて一切尋ねることはなく、穏やかに笑っていた。まるで俺が自分を見つめるのは当然であるかのように。目が合っても逸らされず、怪訝そうにもされず、ただただ、穏やかに。

 視線を交わせば俺の肩を引き寄せて、そのほっそりとした長い指で髪を梳いてくれるのが嬉しくて、用もないのに見つめることもあった。

 閉鎖されたあの場所は、一言で表すなれば生き地獄。死にたい、解放されたい、楽になりたい。日々そんなことを思っていたのに――あの人といる時間だけが、間違いなく光に溢れていた。



      ● ● ●



 視界の端で何かが揺れている。ちらちら、ゆらゆら。光が瞬いては消える。

 明滅する輝きに眩しさを感じ、宏基こうきは瞼をゆっくりと開いた。

 見慣れた白い天井、自分が柔らかなベッドに身を預けていることを確認し、まだぼんやりしている頭で周囲を眺める。

 つけっぱなしにしておいたエアコンの風がカーテンを揺らし、窓から差し込む光量に変化を与えている。消えてはまた現れるように思えた原因だったらしい。

 宏基はゆっくりと体を起こし、冷気に首を竦めた。部屋をどれだけしっかり暖めていようと、どうしても窓越しに伝わってきてしまう。寒冷地のように二重窓などになっていれば別だろうが、生憎、彼の家はそのような仕様にはなっていなかった。

 カーディガンに袖を通して階下へと下りていくと、両親はすでに仕事へと出かけているようだった。ダイニングテーブルに朝食の在処を伝える書き置きだけがぽつんと残されている。

 今日は冬休み中の一日。普段の宏基ならば、休みとあらばすぐに二度寝と決め込んでいるところである。無論、外出することなど頭の片隅にもよぎらない。

 幼馴染である鶫から「日本に生きるのに向いていない」とばっさり言い切られるほど、暑がりの寒がり。ましてや今日は雪がちらついている。宏基が最も苦手とする気候のはずだった。

 だが、どうやら今日は違うらしい。

 書き置きを少しの間見つめたのち、彼は母特製の玉子スープだけを口に入れた。そのまま一度部屋に戻ると、寝間着から外出着に替えて外に出る。

 吐き出した息は白かった。

 充分に着込み、更に手をあたためるためのカイロを手にしているが、彼の動きは機敏とは言い難い。

 それでも、彼はどこか一点を真っ直ぐに眺めながら、休むことなく歩いていく。

 宏基の足は駅に向かっていた。

 彼の目的地は、住んでいる町の中にある場所ではないのだ。

 風に吹かれた雪が目前で舞う。その儚い白さに目を細め、宏基は拳を握りしめた。


 ――おまえが誰を信じられなくなっても、誰を憎んでも、私だけを信じればいい。おまえがどれほどの憎悪に左右されようと、私を忘れることはないだろう?

 ――おまえは優しい子だね。

 ――大丈夫。大丈夫だよ、辛いのならそう言えばいいんだ。私はいつでもおまえの話を聞きたいと思っているよ。それがたとえ、他の全員から拒絶されるような内容だとしても、私はおまえを見捨てはしない。


 そう言ってくれた美しい人はもう、どこにもいないのだ。

「くだらね……」

 感傷を抱いたところで誰も帰ってくることはない。よく知っているのにも拘らず、胸がざわざわと音を立てている。

 なぜ、なぜ、なぜ。どうしてあの人たちでなければならなかったのだ。宏基の中でその思いが大きく膨らんでいく。


 ――お前はさ、難しく考えすぎなんだよ。誰もお前のことを責めやしねーんだって。むしろ、生きててほしいって願ってんだよ。生きていていいんだ。生きててくれ。少しだっていいから、自分に優しくしてやってくれ。

 ――お前がうずくまるなら、引きずってやる。言っただろ? おれはお前におれの隣を預けた。おれと一緒に進もうぜ。前にじゃなくてもいい。曲がったって、戻ったっていいんだ。おれは、ちゃんと連れてくから。


 自分に手を差し伸べようとしてくれた人は、どうして誰かのせいで貶められていくのか。自分が生きていてほしいと願った人は、どうして自分よりも先に逝ってしまうのか。

 そこまで考えたところで足を止め、小さく自嘲の笑みを浮かべる。

「……つまり、厄を誰より招いてたのは、俺だったんじゃねぇの」

 思わず口を突いた言葉は巻いているマフラーに吸収され、周囲を歩く人間たちの誰も気づくことはない。

 彼らは知らない。かつてこの場所を、妖怪たちが当たり前のように歩いていたことを。人間たちと同じように呼吸し、笑い、誰かを愛していたことを。

 そして、誰かを喪っては泣いていたことを。

 先を急ぐ者たちが、邪魔と言いたげな表情をしながら道の真ん中で立ち尽くす宏基の傍を通り抜けていく。買い物袋を提げながら歩く、主婦と思われる女性。サラリーマン風の中年男性は、立てたコートの襟を押さえつつ歩いている。

 そういう「何も知らない」人間たちについ最近までの宏基はいちいち苛立ち、叫びだしたい衝動に駆られていた。

 だけど、今は。

 思考に沈みかけたところで、誰かが強く肩にぶつかっていった。止まっていた彼の足は、その衝撃のためにようやく動き出す。

 わざわざ外に出た理由は、回想をすることではない。本来の目的を思い出し、宏基は重い足取りで駅へと向かった。

 都心とは反対方向へと出る電車へと乗り込み、降り立った地。そこは彼にとって一年ぶりの場所。

 そして五百年以上前、自分の前世が半身をがれたような痛みを味わった土地だった。

 先ほどまでちらついていた雪は、今のところ止んでいる。鈍色の空を見上げてから、改札を抜け、一直線に生花店へ向かう。

「あら、今年も来たの」

 一年に一度しか現れないというのに、幼い頃から通っている宏基を店主の女性は覚えているらしい。

「……分かってるならさっさと用意しろよ」

 おおよそ可愛らしいとは言えない態度を取る高校生を前にしても、おおらかな性格をしているのか店主は動じることなく。ただ「はいはい」と笑い、シンプルな花束を仕上げていった。

「はい、できましたよ」

 支払った金額と引き換えにその花束を受け取った宏基は、送り出す店主の声を背後に聞きながら店を出た。

 彼が黙々と歩くのは、家々が立ち並ぶ中に存在する小道だ。目につくものといえば、ところどころに存在するコンビニやスーパーぐらい。本当に閑静な住宅街といった様相である。

 しかし、宏基の目的地はこの周囲に存在するようだ。迷わぬ足取りで進んでいく。


 ――御免……御免よ、……誓ったのに。

 ――私を責めなさい。私を恨みなさい。その他を責め、恨もうとすれば、おまえはきっと足を止めてしまう。


 目指す場所に近づけば近づくほど、宏基の脳裏には白い影が躍った。

「……お前を責めることも恨むことも、できるわけがねぇだろ」

 今度の独り言は意識して発されたものである。呼びかけるような台詞を発すれば、眼裏に浮かぶ影が具現化するのではないか。有り得ないと分かっていても、淡い期待は消せなかった。

「……すみません、失礼ですが」

 あと数分歩けば今日の行き先に辿り着くというところで、背後からの聞き覚えのない声が宏基を引き留めた。

「……? 何か」

 怪訝に思いながら振り返れば、恐らく四十代だろうと思われる女性が立っている。

 声に覚えがなければ、顔も当然記憶にない。初対面のはずなのに、彼女はまじまじと宏基の目を覗き込むようにしている。

「……貴方、『葉菊はぎく』という名前に聞き覚えは?」

 瞬間、普段ほとんど表情の動くことのない宏基の目は大きく見開かれた。

 だって、なぜ、どうして。

 硬直したまま、否定も肯定もできないでいる宏基のことなど、女性は気にも留めていないようだった。

「あるのね?」

 尋常ではない彼の様子から肯定と受け取ったのだろう、ただ確認するように問いを重ねるぐらいには。

 やはり、その問いに対して宏基は何も言葉を発せなかった。

 持っていた白い献花の束が地面に落ち、ばさりと無造作な音を立てる。

 だってなぜどうして有り得ないはず、もう誰もその名は知るはずもなくて――


 五百年以上前に死んだ前世が捨て、主にさえ明かすことはなかった名前を、この女はどうやって知ったのだ?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ