2
その日は突然の土砂降り。
傘も持たず出掛けてしまった私は、途方に暮れて、駅の改札口に佇んでいた。
「もう…天気予報の嘘つき!」
今日は一番のお気に入りのスーツを着てしまった。
奮発して買ったそれを、雨に曝すなんてこと出来ない。
急な雨だから、すぐに止むだろうと思ったのだが、勢いは増すばかり。
考えは甘いと思い知ったのは、風までも加わって、横弄りの雨になってしまった後。
「タクシーの行列に加わる気力もないし。かといって、近くにコンビニもなし。傘も買えないし…仕方ないか…このまま強行突破しようかな。止む気配すらないし…」
よし!と覚悟を決めて、土砂降りの中を走り出そうとした時、耳に飛び込んできた低い声。
「この雨だと、かなり濡れちゃいますよ。」
反射的に振り返る。
まず、視界に飛び込んできたのは、濃茶のネクタイ。
次いで、目に刺さるような真っ白なシャツ。
そして見上げれば、冬だというのに夏の名残、よく日焼けした人懐こい笑顔。
「あ、スミマセン、急に声掛けちゃって。」
クシャリ、と笑う。切れ長の目が線になった。
「…いえ。」
気の利いた台詞ひとつ口に出来ない自分が、これほど、もどかしいと感じたことはなかった。
これじゃ、嫌がっていると思われても仕方ない。
きっと、無愛想な女だと映っている。
そんな私の心配をよそに、相手の態度は意外だった。
「―――ぶはっ!」
…ぶは?
「ごめん、ね? えーっと、実はさ、さっきから君のこと見てたんだよね。傘がないんだろうなー、って。俺、傘持ってるから、声掛けようかなーとか。けど、ずーっと独り言呟いてるからさ、なかなか声掛けられなくて。なのに、喋りかけたら、突然無口。何それ?って思ったら―――笑えた。」
それが出会いだった。アイツとの。
その日、二人で肩を並べて激しい雨の中歩いた。
距離が近くてドキドキして。
家が近いと知り、話が弾んだ。
美味しいパン屋さん、安いスーパー、豊富なレンタル屋さん。
激しい雨の中、殆ど濡れなかった私と、背広の左肩がぐっしょり水気をはらんでいた彼。
途中で別れ道に差し掛かった時、私の手に傘を握らせて、そのまま走り去ってしまった。
家に着いた私の脳裏には、彼の笑顔がくっきりと焼きついていた。
彼の全てを知った訳じゃない。
一緒に帰りながら、耳を傾けた会話の中の彼しか知らない。
名前は、大木 俊弘。
年齢は、28歳。
職業は、設計関係。
家は、私の所から歩いて20分くらい。
「また、会えるかな…」
ふと、窓辺に視線を向けた。
外は相変わらず、激しい雨が降り続いている。
けれど、私の耳には優しい響きとして届く。
なんだか、この雨が彼との出会いを運んできてくれた気がする。
今日、雨が降らなければ、こんな心奮わす想いを知ることも出来なかった。
「そうだ!」
窓を開けて、その中に手を差し出す。
激しい礫が、その雫が、流れ落ちていく。
それをアトマイザーに落として、そっと封をした。
これは、お呪い。彼と出会わせてくれたのが、この雨だとしたら。
―――お願い、もう一度、彼に会わせて。
私は掌に瓶を握り締めて、眠りに就いた。
幸福の夢の狭間に、眩しい笑顔が漂う―――そんな夜。
手の中の冷たい硝子の感触を、ゆったりと静かに楽しみながら―――
「…その3日後に、アイツの姿を見つけたんだっけ…アイツ、あの雨のせいで風邪をひいて、寝込んでたんだって…そう言って笑ってた。バカだよね、アイツってば。いい格好ばかりして、そのツケは全部、自分のところにまわってくるのに。」
カラン…
グラスの中で氷が音を立てる。手の中にあるアトマイザー。あの日の雨雫は、氷に姿を変え。そして、今は、あの日の雫に戻る…。
「忘れてた、こんな想い。いつの間にか、我侭になってた、私。…あの頃は、俊弘のことだけ考えて、いつも一生懸命だったな…」
先程の憂鬱な気分が、嘘のように消え去っていた。
まるで、アトマイザーの氷が溶けてしまったように。
後に残ったのは、あの頃の純粋な想いだけ。
「コンサートなんて、いつだって行ける。アイツは仕事が忙しいんだから、無理言っちゃいけないよね。そうだ、今夜、電話しよ。もう、怒ってないよって。きっと、気にしてる。」
新しい豆を取り出し、挽き始めた。香ばしいそれが、部屋中に漂い出す。
いつから、心にゆとりを失ってしまったのだろう。
珈琲が煮詰まって苦ければ、薄めたりしないで、煎れ直せばいい。
そうすれば、間に合わせじゃない、本当の美味しさを楽しめるのに。
そんな手間ひとつ、面倒がるなんて。
こんな私じゃ、アイツだって、息が詰まるよね…。
「さて、と。天気も良いことだし、洗濯でもしましょっか! 布団も干しちゃえ!」
窓の外では太陽が笑っている。
きっと干した衣類は光を吸収し、自然の匂いを放つことだろう。
そして、今夜は太陽の温もりと匂いに包まれて、眠りに就こう。
私は立ち上がり、しなやかに身体を伸ばした。
そして、深呼吸。
身体中に、新鮮な空気が入り込む。
「もう、要らないね…」
アトマイザーの雨の雫は、飲むのを止めたアイス・コーヒーへと注がれる。
これは、今までの自分。
アイツの存在が、傍にいることが、当たり前だと思っていた自分自身。
この雫がなくなっても、大丈夫。これからは、いつも心の中に留めておくから。
最後の一滴が流れ落ちた。それはグラスのコーヒーを静かに躍らせ、混ざり合っていった。