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氷の願い  作者: 綾織
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その日は突然の土砂降り。

傘も持たず出掛けてしまった私は、途方に暮れて、駅の改札口に佇んでいた。


「もう…天気予報の嘘つき!」


今日は一番のお気に入りのスーツを着てしまった。

奮発して買ったそれを、雨に曝すなんてこと出来ない。

急な雨だから、すぐに止むだろうと思ったのだが、勢いは増すばかり。

考えは甘いと思い知ったのは、風までも加わって、横弄りの雨になってしまった後。


「タクシーの行列に加わる気力もないし。かといって、近くにコンビニもなし。傘も買えないし…仕方ないか…このまま強行突破しようかな。止む気配すらないし…」


よし!と覚悟を決めて、土砂降りの中を走り出そうとした時、耳に飛び込んできた低い声。


「この雨だと、かなり濡れちゃいますよ。」


反射的に振り返る。

まず、視界に飛び込んできたのは、濃茶のネクタイ。

次いで、目に刺さるような真っ白なシャツ。

そして見上げれば、冬だというのに夏の名残、よく日焼けした人懐こい笑顔。


「あ、スミマセン、急に声掛けちゃって。」


クシャリ、と笑う。切れ長の目が線になった。


「…いえ。」


気の利いた台詞ひとつ口に出来ない自分が、これほど、もどかしいと感じたことはなかった。

これじゃ、嫌がっていると思われても仕方ない。

きっと、無愛想な女だと映っている。


そんな私の心配をよそに、相手の態度は意外だった。


 「―――ぶはっ!」


…ぶは?


 「ごめん、ね? えーっと、実はさ、さっきから君のこと見てたんだよね。傘がないんだろうなー、って。俺、傘持ってるから、声掛けようかなーとか。けど、ずーっと独り言呟いてるからさ、なかなか声掛けられなくて。なのに、喋りかけたら、突然無口。何それ?って思ったら―――笑えた。」


それが出会いだった。アイツとの。


その日、二人で肩を並べて激しい雨の中歩いた。

距離が近くてドキドキして。

家が近いと知り、話が弾んだ。

美味しいパン屋さん、安いスーパー、豊富なレンタル屋さん。


激しい雨の中、殆ど濡れなかった私と、背広の左肩がぐっしょり水気をはらんでいた彼。

途中で別れ道に差し掛かった時、私の手に傘を握らせて、そのまま走り去ってしまった。


家に着いた私の脳裏には、彼の笑顔がくっきりと焼きついていた。

彼の全てを知った訳じゃない。

一緒に帰りながら、耳を傾けた会話の中の彼しか知らない。

 

名前は、大木 俊弘。

年齢は、28歳。

職業は、設計関係。

家は、私の所から歩いて20分くらい。


「また、会えるかな…」


ふと、窓辺に視線を向けた。

外は相変わらず、激しい雨が降り続いている。

けれど、私の耳には優しい響きとして届く。


なんだか、この雨が彼との出会いを運んできてくれた気がする。

今日、雨が降らなければ、こんな心奮わす想いを知ることも出来なかった。


「そうだ!」


窓を開けて、その中に手を差し出す。

激しい礫が、その雫が、流れ落ちていく。


それをアトマイザーに落として、そっと封をした。

これは、お呪い。彼と出会わせてくれたのが、この雨だとしたら。


―――お願い、もう一度、彼に会わせて。


私は掌に瓶を握り締めて、眠りに就いた。

幸福の夢の狭間に、眩しい笑顔が漂う―――そんな夜。

手の中の冷たい硝子の感触を、ゆったりと静かに楽しみながら―――



「…その3日後に、アイツの姿を見つけたんだっけ…アイツ、あの雨のせいで風邪をひいて、寝込んでたんだって…そう言って笑ってた。バカだよね、アイツってば。いい格好ばかりして、そのツケは全部、自分のところにまわってくるのに。」


カラン…


グラスの中で氷が音を立てる。手の中にあるアトマイザー。あの日の雨雫は、氷に姿を変え。そして、今は、あの日の雫に戻る…。


「忘れてた、こんな想い。いつの間にか、我侭になってた、私。…あの頃は、俊弘のことだけ考えて、いつも一生懸命だったな…」


先程の憂鬱な気分が、嘘のように消え去っていた。

まるで、アトマイザーの氷が溶けてしまったように。

後に残ったのは、あの頃の純粋な想いだけ。


「コンサートなんて、いつだって行ける。アイツは仕事が忙しいんだから、無理言っちゃいけないよね。そうだ、今夜、電話しよ。もう、怒ってないよって。きっと、気にしてる。」


新しい豆を取り出し、挽き始めた。香ばしいそれが、部屋中に漂い出す。


いつから、心にゆとりを失ってしまったのだろう。

珈琲が煮詰まって苦ければ、薄めたりしないで、煎れ直せばいい。

そうすれば、間に合わせじゃない、本当の美味しさを楽しめるのに。

そんな手間ひとつ、面倒がるなんて。

こんな私じゃ、アイツだって、息が詰まるよね…。


「さて、と。天気も良いことだし、洗濯でもしましょっか! 布団も干しちゃえ!」


窓の外では太陽が笑っている。

きっと干した衣類は光を吸収し、自然の匂いを放つことだろう。

そして、今夜は太陽の温もりと匂いに包まれて、眠りに就こう。


私は立ち上がり、しなやかに身体を伸ばした。

そして、深呼吸。

身体中に、新鮮な空気が入り込む。


「もう、要らないね…」


アトマイザーの雨の雫は、飲むのを止めたアイス・コーヒーへと注がれる。

これは、今までの自分。

アイツの存在が、傍にいることが、当たり前だと思っていた自分自身。

この雫がなくなっても、大丈夫。これからは、いつも心の中に留めておくから。


最後の一滴が流れ落ちた。それはグラスのコーヒーを静かに躍らせ、混ざり合っていった。


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