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「もう絶対に許さないんだから!」
怒りに任せて、ドン、とテーブルを叩く。
その振動で、コーヒーがはねて真っ白なシャツに染みを作った。
3杯目の珈琲。
煮詰まったそれは、濃くて苦い。
けれど、今は味のことなどに気を回す余裕がなかった。
考えれば考えるほど、苛立ちが増す。
窓辺の鉢植えが乾燥するくらいの上天気。
雲ひとつない青空。
何の因果だろう、こんな日に家で過ごさなくちゃならないなんて。
―――行きたいって言ってたコンサートのチケット、何とか手に入った!
先にそう言ったのはアイツの方。
なのに。
―――悪い、土曜、仕事になった。この埋め合わせは今度な!
楽しみにしてた、とても。
今日のために新しく服も買った。
最近、仕事が忙しくてなかなか会えなくて、だから。
「…もう、駄目かも…」
付き合い始めて3年。
正確には、1ヶ月後に3年目を迎えるんだけど。
きっと、そんなことも覚えていない。
いつも仕事、仕事、仕事。
「仕事と結婚しちゃえ! バーカ!」
苦いコーヒー。
彼が好きなコーヒーだから、切らしたことがない。
「…キレイな人だったなぁ…」
少し前、彼のマンションに行った。
合鍵を渡されているから、たまに掃除や洗濯をしに行く。
そして、料理を作って、冷蔵庫に入れて帰る―――空しい。家政婦か、私は。
その時、テーブルに置かれていた写真を見た。
おそらく会社の慰安旅行なのだろう。
アイツは笑うと目が線になる。優しい顔になる。
そんなアイツの隣りに写っていたのは、おっとりとした、癒し系の女性。
―――アイツが、好きなタイプ…
TVを観ていても、「あ、かわいー」と言うのは、癒し系の女性。
垂れ目で、小さくて、守ってあげたくなるような。
「…どうせ、私は猫目だってーの。」
ガサツだし? 口は悪いし? 足癖も悪いし?
目力が強いと言われれば褒め言葉だけど、単に顔が怖いとも言える。
―――かわいーだろ。去年の新入社員。入社した時、野郎どもが大騒ぎでさー。
―――おっとりしてるけど、気が利いて。
―――料理が趣味なんだって。たまにお菓子作って持ってきてくれるんだぜ。
「わーるかったな! どうせ、菓子なんか作れないってーの!」
女子力の低さは自覚あり。
でも告白してくれたのはアイツの方だった。
合鍵…アイツに返す日も、そう遠くはないのかもしれない…。
「…苦い。」
こんなものを飲んでいると、ますます気が滅入ってしまう。
「氷、氷っと。煎れ直すのも面倒だし、この際、アイスにしちゃお。」
冷凍庫の扉を開ける。
水割りにはこの氷!という断固とした信念?があるアイツのために、買い置きの氷がある。
「あった。…あれ、これ…?」
氷はかなり奥まった場所に追いやられていた。
アイツがこの部屋に訪れる回数が減ったからだ。
そして、氷の袋を取り出した時、更に奥深くに仕舞われていた、小さな包みに気づく。
「わ、表面カチカチ。リボンがかけてある…何だっけ、これ? それにしても、偶には整頓しなくちゃ駄目だなー。今年の大晦日はきちんと掃除しよ。」
ガサガサと包みを解く。
指先が凍りつくような感覚。
丁寧に包装されたそれの中から出てきたものは。
「これ、は…」
それは小さなアトマイザー。
中には、かつては水、と思えるモノ。
冷凍庫に入っていた為、すっかり凍りついているけれど。
それを眺めているうち、忘れかけていた記憶が蘇ってくる。
そう―――これは、あの雨の日、私が入れたモノ。
どうして、忘れてしまっていたのだろう。あんなに大切にしていたモノだったのに。
止まっていた時間と心。それが、ゆっくりと流れ出す。アトマイザーの氷が溶け始めるのと同じように。
そして、心は3年前の今頃。
風の冷たさが肌を刺す季節に、流れ―――止まる。