Operation Purgatory 2/2
その街の名は地図に薄く載っているだけだった。
エル・タソ――
パナマの高原地帯、かつての農地と密林の境目にイタリア移民の末裔たちが築いた小さな共同体。
だが裏の顔を知る者は少ない。
RSIの亡霊と冷戦の残滓が生き延びる危険な地だ。
トクメン国際空港の到着ロビーを出たとき、熱気が肺を刺した。
イタリアの乾いた風とは違う。
ここは全てが湿り気を帯び、腐臭すら孕む。
ホテルに荷を置きすぐにタクシーを拾った。
運転手の顔に宿る警戒心は露骨だった。
「エル・タソ……?」
聞き返された瞬間、無言の説得を覚悟した。
僕は相場の倍の札を握らせ、追加のドル紙幣を胸ポケットに突っ込んだ。
「行けるところまででいい」
市街地を抜け、舗装の切れた道をタイヤが跳ねた。
途中、道端には粗末な屋台と銃を抱えた自警団の若者たちが屯していた。
ここは政府の統治が及ばない――いや、及ばせない土地だ。
「旦那、ここから先は……降りな」
運転手は最後の村外れで車を止めた。
白い犬が痩せた腹を引きずり、どこかへ去っていくのを横目で見た。
僕はバッグを背負い振り返らずに坂道を歩いた。
高原の風はどこか冷たく、だが気配は熱い。
集落の入口に差し掛かった瞬間、背筋を氷の指が撫でた。
――見張りがいる。
木陰に紛れ、砂埃の中に混ざった影が、僕を測っていた。
「観光か?」
低い声が背後で割れた。
振り返るとマスクをつけた若い男がいた。
胸には民間警備会社のロゴがあるが――銃はP90、欧州の大手軍需企業の新品だ。
「いや、取材だ」
僕は正直に言った。
嘘が通じる空気ではなかった。
男は笑わなかった。
無線機を口元に押し当て、低く何かを呟いた。
「……ついて来い。余計なモノを出すな」
埃と乾いた草の匂いが鼻を刺す。
集落の奥へ誘導される途中、廃屋の壁に貼られたポスターが目に入った。
『Gloria a RSI』
――RSIの鷲の紋章。
いつの刷り物か分からないが、戦争はまだ終わっていないのかもしれなかった。
案内されたのは、かつて村役場だったと思われる石造りの建物だった。
割れた窓を修理した跡もなく土埃が積もる室内。
そこに待っていたのは――
スーツ姿の男だった。
しかし軍人の眼をしていた。
「アメリカの記者か。歓迎する」
口だけは笑っていた。
だが、足元には掃除の行き届いた床と、壁際には無造作に置かれた銃器箱。
「あなたがここの……?」
男は片手を挙げて制した。
「細かいことはいい。ただし、質問には先に答えてもらおう。――誰に頼まれてここへ来た?」
僕は腹の底に溜めていた呼気を吐いた。
冷たい汗が首を伝う。
背後のドアが、誰かの手でゆっくり閉められた。
エル・タソ。
ここはRSIの亡霊が作った死の部隊が、いまなお息を潜めている場所。
僕は、いま――まさにその喉元に首を突っ込んでいた。
ドアが閉まる音は、まるで棺の蓋が落ちる音だった。
薄暗い部屋の奥、スーツ姿の男は掌を組んで椅子に座り直した。
周囲には武装した私兵。壁際には見慣れない設計図の断片が埃を被って張られていた。
「もう一度聞く――誰に唆されてここへ来た?」
男の声は無機質でありながら、少しの好奇心とわずかな嘲りを孕んでいた。
僕は腹を括るしかなかった。
「僕はアメリカ中西部の出版社の――ただの記者だ。頼まれたわけじゃない。勝手に来た」
背中を汗が伝う。
しかし男は、こちらの恐怖など歯牙にもかけぬように静かに指を鳴らした。
私兵が一人、机の上に古ぼけた金属製の箱を置く。
パチンという音がして蓋が開くと――
中にあったのは、くすんだ銀色の円盤状の模型だった。
子供が描くUFOの典型そのものだ。
「知っているか? これがRSI最後の希望だった」
男の声が部屋に落ちるたび、埃の匂いと一緒に敗戦国の悪夢が甦るようだった。
「推進理論は不完全。ジャイロ制御も未完成。だが構想そのものが夢としては充分だ。これを抱えて連合軍の目を逃れた技術者たちは中米に流れ着いた。そこから先は――君の想像通りだ。アメリカも、ロシアも、ソモサも、パナマ軍もこれを欲しがった」
僕は喉の渇きを感じ、思わず唾を飲んだ。
「じゃあ……これを、まだ隠し持っているのか?」
スーツの男は微笑を浮かべた。
それは愛想ではなく、冷徹な知性のゆらぎだった。
「残念だが、すべては終わっている。パナマ侵攻を仕掛けたアメリカが一度は奪い、次に爆撃で灰にした。残ったのは紙切れと――亡霊だけだ」
机の上の模型が僕の目に奇妙な残響を生む。
生きているように思えた。
――否、ただの記者の錯覚だ。
「君が来たのは誤算だった。我々はこの街で静かに暮らすだけのはずだった。だが外がこれを放っておくわけがない」
スーツの男の指が空を指した。
「猿どもは宇宙の檻から出られぬ。だが檻の鍵を探し続ける。そして、その度に血を見る」
僕の背後でカチャリと銃の安全装置が外れる音がした。
(終わる――)
肺の奥が凍り付く。
汗の塩味が口に滲んだ。
「……取材テープは持っていない。ノートだけだ。殺すなら――せめてノートを――」
情けないほど弱い声が喉から漏れた。
スーツの男は笑いを含んだ溜息を吐く。
「心配するな。君の死は報道されない」
銃声は、部屋の奥で誰かが咳をする音よりも淡く――
それでいて確実に肺を貫いた。
僕が撃たれてから、この話は終わったのだろうか。
否――終わるべき人間が死んでも、物語は形を変えて生き残る。
世界はそういう仕組みだ。
僕のノートは、弾痕で血に塗れ役目を終えた。
この街に埋められるか、燃やされるか――誰も知らない。
エル・タソの住民たちは明日も静かに暮らす。
政府は何も知らず、あるいは知りながら知らぬふりを続ける。
ある軍事アーカイブの片隅に、こんな注釈だけが残る。
『Operation Purgatory』
1989年12月 パナマ侵攻作戦における未公表任務。
対象:特定技術資産の奪取および破棄
結果:資産破壊。関連施設壊滅。関係者複数失踪。
それ以上の詳細を読む者はいない。
その頃、軌道上の監視艦――
暗い艦橋にただ一人、アンジェリカは報告を締めくくる。
「……猿どもは檻の中で、餌を奪い合い、火を点け、血を流す。昔も、今も、未来も――」
報告データを最終送信し、アンジェリカは薄く笑った。
彼女の声には感情の波がなかった。
ただ、哀れとも、愛おしいとも言えぬ、遠い観察者の声。
足元の端末には次の監視候補地がリストされていた。
■ 南シナ海:人工島紛争
■ 中央アフリカ:資源抗争
■ 東欧:核施設争奪
猿は止まらない。
檻の鍵は誰の手にも渡らない。
「さて――次の檻に火をつけるとしよう」
アンジェリカはデータ転送を終えると、艦橋の小窓越しに青い惑星を一瞥した。
彼女の瞳に映るのは、どこまでも醜く、どこまでも愛おしい、猿どもの楽園。
そして物語は、煙のように昇り、誰も知らぬ空へと消えた。
遠い軌道上での監視任務を終えたアンジェリカは、小さなトランク一つを携え、イタリアの空港に降り立った。
ローマの空は雲ひとつなく、夏の青が眩しかった。
ここには無線封鎖も、秘密の地下壕も、死の部隊もない。
あるのは、犬の吠え声、石畳の埃、そして――
レモンの木の匂いだった。
空港の出口でタクシーを拾い、小さな港町へ向かう。
フロントガラスの外、オリーブの樹々と、赤瓦の屋根がつらなっていく。
風景は彼女の記憶と少しも変わっていなかった。
変わったのは、戦火の痕跡が街の壁からほとんど剥がれ落ちたことぐらいだ。
「アンジェリカちゃん、お帰りなさい」
「ただいま」
石造りのカフェに腰をおろし、アンジェリカは小さなグラスに注がれたエスプレッソを啜った。
苦く、熱く、そして心の奥をほっとさせる香りが、彼女の胸に染み込んだ。
テーブルの上には買ったばかりの新しい雑誌がある。
特集は「夏の海と最新ファッション」。
そこには猿の檻も、円盤機の亡霊もない。
カフェの隅に腰かけている老犬が、いつの間にか足元に寄ってきた。
アンジェリカはゆっくりとしゃがみ込み、骨ばった頭を撫でた。
犬は目を細め、喉の奥で小さく鳴いた。
『任務終了』
誰も言わなかったが、彼女の心にだけは刻まれていた。
遠くの市場から、トマトとバジルの匂いが流れてくる。
店先では老婦人が太陽に干したリネンを畳み、子供たちの笑い声が石畳に跳ねている。
アンジェリカは小さく息を吐き、レモンの木陰で目を閉じた。
人類の檻はまだ青い地球を覆っている。
だが、いまだけは――
監視者も、亡霊も、銃声もない。
風が、彼女の睫毛を撫でていった。
☆☆☆おまけ☆☆☆
Operation Purgatory 関連年表
1943年9月
イタリア無条件降伏。
ドイツが北イタリアを支配下に置き、ムッソリーニを擁立しRSI(イタリア社会共和国)樹立。
1944〜45年
RSI内で特殊兵器研究部門が極秘に円盤機設計を試みるが、実戦投入前にドイツ崩壊。
関係技術者の一部がスイス経由で中米に逃亡。
1945年5月
ムッソリーニ処刑(実際は替え玉説)、逃亡技術者の手引きはパルチザン内部の裏切り説あり。
1950〜60年代
逃亡技術者がパナマ、ニカラグアでソモサ政権下の秘密研究所に従事。円盤機試作機、部分試験まで達するが失敗。
1979年7月
ニカラグア革命。ソモサ失脚、FSLN(サンディニスタ民族解放戦線)政権成立。
米国、反共ゲリラ(コントラ)を支援開始。
1985年〜86年
中米におけるRSI残党の研究拠点が再発見され、米南方軍(US Southern Command)により奪取計画が練られる。
1987年5月
Operation Purgatory発動
グリーンベレーAチーム4個がコスタリカからニカラグアへ越境。
研究拠点を強襲、ロシア人技術者捕獲、円盤機残骸一部回収。
1989年12月20日
Operation Just Cause(パナマ侵攻)
ノリエガ政権打倒と同時に、パナマ軍が保管していた残りの円盤機技術を完全破壊すべく大規模空爆実施。
エル・タソを含む一部地域では未収束の亡霊部隊が潜伏。
1990年代初頭
アメリカは関連記録を機密化、グリーンベレー関係者退役・口封じ進行。
2020年代
主人公記者がRSIの埋蔵金取材を発端に事実の断片を掘り起こしエル・タソ潜入。殉職。
軌道上のアンジェリカが監視続行、人類の檻を見下ろす。
用語解説
RSI (Repubblica Sociale Italiana)
イタリア社会共和国。
ナチス・ドイツ傀儡の形で1943〜45年に北イタリアに存在。ムッソリーニの再登場により正統政府を標榜したが実態は占領統治。
MAS (Motoscafo Armato Silurante)
イタリア海軍の高速魚雷艇部隊。
RSI時代には沿岸防衛の要としてゲリラ的活動に従事。
グリーンベレー (US Army Special Forces)
米陸軍特殊部隊の通称。
冷戦期、中米での不正規作戦(対ゲリラ戦・政権転覆支援)に深く関与。
Aチーム
グリーンベレーの作戦単位(Operational Detachment Alpha)。
12名編成、地域・任務に応じ柔軟運用。
SOA (School of the Americas)
米南方軍の対ゲリラ作戦教育機関。
中南米各国の将校を訓練、後の人権問題と結びつき死の部隊製造所と批判された。
Operation Just Cause
1989年の米軍パナマ侵攻作戦。
目的はノリエガ政権打倒と運河権益の完全掌握。裏目的としてRSI技術封印も含む。
スペツナズ (Spetsnaz)
ソ連の特殊任務部隊の総称。
冷戦期、中南米左翼政権と連携し米特殊部隊としばしば交戦。
エル・タソ
古典部シリーズの登場人物・千反田えるの愛称が元ネタ。
登場部隊 編成詳細
米軍南方軍構成(冷戦末期〜パナマ侵攻)
第7特殊部隊グループ(7th SFG)
中南米作戦の要。スペイン語通訳、ジャングル戦専門。Aチーム多数、ニカラグア越境作戦に投入。
第82空挺師団(82nd Airborne Division)
即応空挺部隊。パナマ市街制圧。
旅団単位で迅速展開可能。
第75レンジャー連隊(75th Ranger Regiment)
精鋭軽歩兵、重要施設奇襲。
3個大隊、夜間強襲が得意。
デルタフォース(1st SFOD-D)
対テロ・VIP拘束作戦指揮系統は極秘。
SEAL Team 2 / 4 / 6
海洋・河川作戦。パナマ運河・港湾封鎖。
分遣隊で多点同時強襲。
第193歩兵旅団
パナマ駐屯常設旅団。
正規歩兵部隊として市街制圧。
第6機械化歩兵連隊第4大隊
チョリージョ地区掃討戦で投入。機械化歩兵による包囲・封鎖。
敵性勢力
パナマ防衛軍 (PDF)
ノリエガ私兵軍。機甲小隊〜コマンドー部隊保有。
死の部隊(RSI亡霊部隊)
エル・タソ守備。民兵形態、正規特殊作戦教育歴あり。
FSLN治安部隊
ニカラグア左翼政権軍。ソ連・キューバ式武装。




