その2 魔法
人間の脳は時に信じられない性能を発揮する時がある。火事場のクソ力という奴だ。
俺の場合は格ゲーで負けそうな時にだけ稀に発揮する微弱な能力のはずであったが、この時ばかりは自分でも驚くほどスムーズに体が反応した。
二人の上の天井の一部が崩れかかったのを視認した瞬間、剣道の相手に突きを決めるかの如く跳躍した。もちろんこの場合は攻撃行動ではない。
重い衝撃と軽い衝撃、それにちょっと深い痛みが身体に圧し掛かる。
揺れが収まったのは時間にして三秒程だろうか。
リーフと呼ばれていた少女は、呆気にとられたような表情で一部が崩れた天井を見上げている。その視線が次に向けたのは、自分を庇うよう体を広げている俺だった。
俺の顔を見て、そして俺の背中にあるであろう瓦礫を見た。一瞬の間の後、状況を理解した彼女は僅かに息を飲む。
「なっ……!」
「おい。大丈夫か?」
「あなた一体どういうつもりで……い、いえ。それより大丈夫なの⁉」
「ま、多少痛むがどうってことはない。一応剣道部で無駄に鍛えられているからな」
ふっ! と大きく息を吐いて、背中に圧し掛かっていた瓦礫を跳ね除ける。聖杯戦争が起きた時にスムーズに事を運べるよう体を鍛えていた成果がでたな!
やっぱエロゲーは人生。
とはいえ、落ちてきたのが平らな木片なのは運が良かった。俺の隣に落ちているような大きめで尖った部分なら命はなかったかもしれない。膝に矢を受けたから助かった理論である。
「あ、ありがとうございます」
素直なお礼の言葉を述べたのは、彼女の下になっていた青い髪の女の子。どうやらこちらのお嬢様の方にも怪我はないようだ。
近くで改めて見ると、顔立ちは幼く俺よりも年下に見える。真っ白なワンピースのような服はネグリジェだろうか。そこから伸びたすらりと長い手足は、びっくりするほど白い。
やはりとんでもない美少女だ。
隣のリーフという女の子もかなり可愛いと思うのだが、二人ともベクトルが違う。リーフが野原に爛々と咲くヒマワリだとしたら、こちらのお嬢様は水辺でひっそりと花咲かせる一輪の睡蓮、といった感じだろうか。
そんな事を考えながら二人を交互に見ていると、
「……何見比べてるのよ。ってあなた……頭!」
驚いたように息を飲むリーフが俺の頭を指さす。ははは。こやつめ。助けて貰っておいてそれはない。
ここは一つ釘を刺しておくとしよう。
「おい、誰の頭が悪いだと」
「ちょ、そんなこと言ってないわよ! バカなの⁉」
「今バカっつったしー言ってますしー」
「茶化すなバカ! 血が出てるわよ!」
言われてから頬を何かが伝っていく感触があったので手をやると、手のひらが真っ赤になる。
「まあ大丈夫だろ。そんな痛くないし、頭の皮膚を少し切っただけだ」
右側頭部が少し痛むが、多少気になる程度だ。運動やってればこれくらいの怪我はする。
俺はリーフとお嬢様に圧し掛かりそうな瓦礫をどけてから――汚れていない方の手を――未だ座ったままのリーフに差し出す。
だが彼女はその手を握ることなく自力で立ち上がると、
「じっとしてなさい」
そう言って目を閉じ、首飾りの先にある小さな石を握ると小さな呟きを始める。
『ヘルムネラ=ツー=リーンリーフが言霊の始まりを告げる。生命の煌めき 始原の灯 我、魂の光となり かの者を癒さん 発効!』
いくつかの言葉を紡いだ後、人差し指を俺の額へ突き付ける。
「なにす……」るんだ、という俺の言葉が口から出るより先に、目の前の指先から光が零れ始める。
瞬間、自由落下していた光の粒がベクトルを持って動き出す。渦を巻くように俺の頭を取り囲んでは、りんと散っていく。
光の渦が全て散るまで10数秒程だっただろうか。気が付いた時には僅かにあった頭の痛みが消えている。慌てて手で触れてしまったが、やはり痛みはなかった
「な……んだ、これ……?」
「これで借りは無しだから」
明るい茶色髪の少女は不愛想な表情のまま宣言すると、すっと背を向け、ガラスが割れた窓へと移動した。
「おい、今何を……」
「初歩の治癒魔法です。リーフは医療魔法が使える数少ない魔法士なのですよ」
おっとりとした口調で答えたのは、本人ではなくお嬢様の方。彼女は立ち上がり裾を払ってから、俺にニコリと笑いかける。
「まほう……ま、魔法⁉」
「はい、魔法ですけど……もしかしてご存じないのですか?」
その言葉の「意味」ならもちろん知っている。
何らかの根源を利用し結果を実現する力。広義であれば超常現象そのものといえる。
例え使う事ができなくとも、俺たちの世界においてその言葉は広く浸透しており、特に東京都千代田区にある電気街ならば日常会話として通用する程である。その言葉の後に『少女』を付ければついでに大きなお友達もいっぱい作れるという、正に魔法の言葉……って冗談めかしている場合ではない。
俺はもう一度、自分の右側頭部に触れる。指先に血は付くが、それは元々あったもので新しく流れた物ではない。そこにあったはずの傷は完全になくなっている。
傷を数分で完治させることは現代医療を持ってしても不可能だ。
なら――今俺の身に起きた――それは『魔法』と呼ぶにふさわしい。
「ミキト様?」
思考の泉へと片足を突っ込んでいた俺に、彼女は僅かに首を捻って尋ねる。何気ない仕草ですら可愛い。
「いや、魔法ね。うん、知ってる。ちょっと驚いただけだ。えっと」
「エステヴァン=フォン=マリナリーゼです。マリナとお呼び下さい」
目の前の少女はそう名乗り、微笑んでから俺の手を取る。
彼女のしてみればそれは何気ない所作だったと思うが、それは心臓が大きく跳ねるのを誘発させるのに十分だった。
……そりゃ誰だって美少女に手を握られて笑いかけられればビックリもするって。
俺が美少女ゲームの主人公ならその瞬間に告るストーリー展開だろうが、流石にそこまで節操なしではない。ここはしっかりといい印象を与える挨拶を返すべきである。
「マリナね、了解した。好きです」
「……えっ」
「ああ。いや、すてきなお名前ですねと言いたかったんだ!」
あぶねえ。危うく告白しそうになった。むしろしてた。何なのこの笑顔? もしかしてこれが魔法なの?
一瞬呆気にとられた彼女だったが、すぐに真顔に戻って口を開く。
「あの、先ほどリーフとのお話をしているのを聞いていましたが、ミキト様は異世界……」
「マリナお嬢様! お喋りはそれくらいに。やはり来ています!」
だがそれは窓際に移動して外を見ていたリーフから警告で中断させられる。
先ほど俺と話していたのとは比べ物にならない緊張感を纏わせた彼女の声に、俺とお嬢様は窓際に駆け寄った。