四阿
連載『薔薇の下に』を分解したシングルカット版です。
中身は『【第2景】四阿』と同じです。
南天の空に浮かんだ満月が、庭園に光を降り注いでいる。
四阿の屋根から斜めに伸びる影が、その下で睦みあうひと組の男女を隠している。
甘い言葉も、楽しげな囁きもなく、ただひたすら、互いを貪るように、口づけと抱擁を交わし合っている。
やがて、男が女の服を緩めようとした。すると、女の手がやんわりとそれを制止しようとする。
――だめ。
だが、男はその怯えたような声に構わず女の服を剥がそうとし始める。
――いけません。私は買われる身です。……純潔も、代価のうちです。
暗に、男に代価の支払いができるか? と訊ねる。だが、今の男には、その支払い能力がない。
男の手がぴたりと止まる。
――触れることも叶わないのか? ……見る事さえ?
男が悔しそうに呟く。
――私の心は、貴方のものですわ。たとえこの先、誰の子を、何人産む事になろうと。……それではいけませんか?
女の手がそっと男の顔を挟み、自分の方に向けて囁く。
――……それとも、他の男に触れられた女は……汚らわしくて触れない、とでも仰る?
その言葉を耳にして、男が激しく首を振る。
――おれは…っ……あいつとは違う!
硬く結んだ唇の隙間から、押し出されるような言葉がほとばしる。
――畜生っ…こんな事になるなら、あいつに君を会わせたりなどしなければよかった…っ。
女の服の襟を握りしめながら男が悔しそうに呟く。その男の肩を、女が愛おしげに抱きかかえる。
――でも、あの時は他に方法が……
――あったさ。
男が、苦い声で吐き捨てるように言う。
――……でも、あれは、……貴方の未来と引き換えだったでしょう? あの負債を負ったのは、私の家族ですもの。そんな事はさせられません。
女が悲しげに微笑む。
――だけど…っ……君を失うなら同じ事だ。
――同じ、ではありませんわ。私はいなくなってしまう訳ではありませんもの。……貴方があの方より、長生きなさればよろしいのよ。
女の声は、何か暗い決意を込めたもののように聞こえた。
男が、珍しいものでも見るように、女の顔を見つめ返す。
――長生き、なさればいいの。
女が何か言い聞かせるように繰り返し、男の胸に顔をうずめる。
――この四阿の天井には、何が描かれているか、知っているか?
女の髪を撫でながら、男がつぶやく。
女が天井に目をやる。だが、満月とはいえ、天井絵が見分けられるほどの明るさは無く、かろうじて漆喰の白い地に描かれた灰色の斑と、その上に点々と散る白っぽい斑点が見分けるのがやっとだ。
――……暗くて、見えませんわ。何ですの?
――野薔薇、だ。薔薇の下で見聞きした事は……
――存じております。
女が天井の暗がりに目を凝らして呟く。
――もし……おれが願っている事が叶ったら……罪に問われるだろうか。
男が自分の抱きしめている体から、わずかに顔を背けて呟く。
――考えているだけならば、誰にも咎められる事はありませんわ。……願うだけで罪に問われる、というなら……私はもう、罪に塗れてますわ。それに第一。
女があさっての方向に顔を向ける。闇のかなたのどこかで、男が『あいつ』と呼ぶ者が眠りに就いている、はずだ。
――……そうだな。一番罪深いのは、あいつだ、な。ならば、あいつが罪の報いを速やかに受けるよう、願うとしよう。
男が暗い声で、低く呟く。間もなく人妻になる、と定められた、かつての恋人を腕に抱いて。