魔女の秘薬
「リーシア嬢の現状の成績では、側室は難しいでしょうね」
クラリッサ・ヴィヴァンデールの言葉に、私はカップを持ったまま動きを止めた。
オルディアナ王国の王宮の一室。
私の向かいに座るのは、隣国の第二王女を母に持つ公爵令嬢のクラリッサだ。
そして彼女が口にしたのは、バーデン男爵家の令嬢であり、私の最愛の名だった。
「……なぜ彼女の成績を知っている」
「フィーニス様が彼女を側室にしたいと口にされたからです。王宮に迎える可能性がある女性について、調査するのは当然のことでしょう?」
私の内心とは裏腹に、クラリッサは穏やかな表情で紅茶を口にする。
リーシアのことを指摘してきたということは、ヴィヴァンデール公爵家が私とリーシアの関係を把握しているという忠告にほかならない。
最愛の者との逢瀬が監視されていた不快感に、カップを持つ手に力が入った。
「リーシアは側室になるための教育を受けてきたわけではない。これから学べばいいだけのことだ」
クラリッサは頬に手を当て、首を傾げた。
「随分とクラリッサ嬢を買っているようですが、彼女の教育をどなたにお願いするつもりですか? その費用はどこから?」
「それは……」
私の資産にも限りがある。それに、リーシアの教育を引き受けるということは、ヴィヴィアンデール公爵家に敵対を表明するようなものだ。快くとはいかないだろう。
加えて、リーシアは高位貴族としての教育すら受けていない。我々に並ぶほどの水準に達するまで、どれほどの時間がかかるのかわからない。それでも、クラリッサの言葉を素直に認めるのは癪に障った。
「リーシア嬢を求めるのであれば、妾にするしかありませんよ」
「妾になど!」
思わず声を荒げた。
私の脳裏に、離宮に住む一人の女性の姿が浮かぶ。
そんな私の様子を、クラリッサはじっと見つめていた。
「……妾であれば、フィーニス様の気持ちと個人資産の範囲内で決められます。ですが側室は王族の一員です。民の税を使うにふさわしい方か、役割を全うする能力があるか、そしてもちろん家の力や立場も考慮されます。現在の情勢では、周囲を納得させるのは難しいでしょうね」
クラリッサの言葉はどこまでも正しい。
我が国はもともと、皇位継承権を争う叔父の計略に嵌められたカルゼスター帝国の王子が、魔女に力を借りて、彼に忠誠を誓った家臣と騎士と共に作った国だ。
建国から百年近くなるが、カルゼスター帝国との仲は悪い。国境では小競り合いが絶えず、どちらも虎視眈々と侵略を狙っている。
オルディアナ王国としては、カルゼスター帝国との有事に備え、隣国であるベルストリア国と結びつきを強めたい狙いがある。
そのため、ベルストリア国の王女を母に持つクラリッサが誕生したとき、彼女がこの国の王妃となることが定められた。そこにクラリッサの意志はない。
自由がないのは、王子として生まれた私もクラリッサも同じだ。そう思うからこそ、彼女を軽んじたつもりはなかった。
クラリッサは将来、私の隣に立つのに相応しい淑女だ。敬意を払い、必要な配慮もしてきたつもりだ。
だが、私はリーシアと出会ってしまった。
政略でも義務でもなく、ただ自分の心が求める相手ができたのだ。
「私は、リーシアを日陰の者にはさせたくない」
「……フィーニス様が王位を継がれるのなら、個人的な感情だけで決められないこともあります」
クラリッサの突き放すような言葉に、胸の奥がざわつく。
王は生まれた順番だけで決まるものではない。
私の二歳下の弟、シャニエルもまた、王となるための教育を受けている。
だが弟はおとなしすぎる。帝国と緊迫している状況の中では頼りなく、国を治めるには不十分だという声は多い。
だからこそ私がしっかりして、王にならなければならないというのに。
クラリッサを正妃にし、愛するリーシアを側室にして、私の周囲を安定させることが、なぜいけないのだ。
「……君は、私が王になることを望んではいないのか?」
クラリッサは口元に微笑みを浮かべた。
王妃となるため、周囲に感情を悟らせないよう身につけた、美しい表情だった。
「わたくしは、オルディアナとベルストリアの関係を支え、この国に貢献するために、王妃となる覚悟をしてきました。フィーニス様にも、その責任を忘れないでほしいだけです」
「……わかった。今日のところは、この話は終わりにしよう」
解散の合図に、クラリッサは一礼して、すぐに退席していった。
彼女のそっけない態度に、リーシアならと思う。
私が会いに行けば、嬉しそうに笑ってくれる。私が少し疲れた顔をしていれば、誰よりも先に気づいてくれる。
私を誰よりも愛してくれているリーシアに、会いたかった。
+ + + +
王太子となるべく毎日勉強に追われていた幼い私は、見張りの目を盗み、授業を抜け出したことがある。
悪いことをしている緊張感でドキドキしながら、見つからないように人気のない方へと進むうち、辿り着いたのが離宮の庭だった。
そこで私は、一人の女性と出会った。
彼女は私と目が合って驚いたようだったが、優しい声でお茶に誘ってくれた。
可愛らしい人だった。ふわふわとした空気を持っていて、見張りから逃げ出してきたことを咎めるでもなく、疲れているのなら少し休んでいきなさいと微笑んでくれた。
あのとき食べたフィナンシェの味は、今でも忘れられない。
もちろん、教師や見張りの者から報告を聞いた母から厳しく叱責されたが、彼女に出会えた幸福のためだと甘んじて受けた。
思えば、あれが私の初恋だったのだろう。
後に、彼女が父の妾だと知った。
妾は正式な妃ではない。公の場へ出ることができない、日陰の立場だ。それでも、彼女は父のものだった。どうしようもできないことに苛立ち、ひどく嫉妬した。
私には手の届かない存在だとわかっていても、息が詰まると感じたとき、私は彼女のもとへ度々訪問した。優しく迎えてくれる彼女に甘えていた。
離宮での暮らしが寂しくないのかと聞いたことがある。彼女は少し考えてから、
「寂しくないと言えば、嘘になるわ。毎日愛してるって言って、抱きしめてもらって、ずっと……そばにいてほしかった」
「父上は、あなたを愛していないのか?」
「そうじゃないわ。……ごめんなさい。今の言葉は忘れてちょうだい。陛下は優しい方よ。それで十分なの」
悲しそうに微笑んだ彼女の表情が印象的だった。父は彼女が望むものを与えられていないのだと思った。
愛し合っているのに、日陰のものとして扱われなければならない彼女が哀れだった。
私だったら――。
いつか私が王になったとき、愛する女性には正当な地位を与えたい。
堂々と隣に立たせて、人目を避けてひっそりと暮らさせたりしないし、愛していると毎日告げて、嬉しそうにするその人を抱きしめるのだ。
父より愛する人を幸せにできると証明する。そうすれば、私は父を超えることができるのだと思えた。
+ + +
リーシアと出会ったのは、学園のダンスの授業だった。
教師の指示でペアを組んだとき、初めて会話をした。
ぱっちりとした目を持つ、可愛らしい女性だった。小柄な身体に豊かな胸元。私を見上げるときの、少し恥ずかしそうな表情。目が合えばほんのりと色づく頬に、胸が高鳴った。
最初は王子である私に緊張して、体を強張らせていたが、ステップを踏むごとに少しずつ動きが滑らかになっていった。
やがてダンスが終わると、「踊れました!」と顔を輝かせた。感情を素直に表すその様子に、目が離せなかった。
「こんなにうまく踊れたのは初めてです!」
彼女は興奮のためか、少し身を乗り出すようにして私を見上げた。
「ダンスの授業は苦手だったのに、今日初めて楽しいと思えました。殿下のおかげです。ありがとうございました」
女性を上手にリードするのは当然だと、幼い頃から厳しい指導を受けてきた。だがリーシアの素直な喜び方に、何かが報われたような、心が満たされるのを感じた。
それから私は、学園でリーシアを見かけるたびに声をかけるようになった。
リーシアも私と会うことを喜んでくれた。別れ際に名残惜しそうにする彼女とまた会いたくなって、次第に昼食休憩や放課後も、彼女と過ごすようになっていった。
「殿下は学園がお休みの日は何をされているんですか?」
「王太子となるための勉強だね。最近では外交や軍事について学んでいるよ」
「えっ!? 学園の授業もあるのに……」
リーシアが私の手にそっと触れる。心配そうな顔で私を見つめてきた。
「あんまり無理をしないでくださいね。殿下が倒れたりしたら、わたし……」
こちらを案じる優しい言葉に、彼女の手を握り返した。
「リーシア。私の名前を呼んで」
「……フィーニス様」
潤んだ瞳で私の名を呼ぶリーシアが愛おしくて、思わず抱きしめる。
彼女は驚いたように声を上げたが、すぐに体の力を抜いて私の胸に頭を預けてくれた。
私はすっかりリーシアに心を許した。もっと自分を知ってほしくて、そしてもっと自分を受け入れてほしくて、私は彼女にさまざまな話をした。
王宮での勉強の進捗のこと。弟との関係。
王族としての苦労話や、ベルストリア王国との軍事協力について。父である国王から課題を出されていて大変だと愚痴をこぼしたりした。
リーシアは嫌な顔をせず、時折相槌を打ちながら、優しく聞いてくれた。
そして、王妃となることが決められている、クラリッサのことも話した。
「フィーニス様は、クラリッサ様と結婚するんですよね……」
「国のためにはするしかない。だが、私が好きなのはリーシアだけだ」
不安そうなリーシアを抱き寄せる。
「ごめんなさい。お二人のこと、わかっているんです。でも、わたしもフィーニス様が好きだから、離れたくない……」
「リーシア」
私は彼女の言葉に力をもらって、一つの決断をした。
「君を側室に迎えたい」
リーシアの瞳が大きく見開かれた。
「……本当ですか?」
「ああ。私の隣に立ってほしい」
彼女は唇を震わせながら、「嬉しい……」と応えてくれた。
リーシアの喜ぶ顔を見て、自分の選択は間違っていないと強く思えた。
愛する人を幸せにするのだ。父とは違って、私にはそれができる。
私は彼女の顎に手を添え、顔を上げさせた。リーシアがそっと目を閉じる。
「愛してる」
そうしてリーシアに側室の提案をした三日後。
私はクラリッサとの交流を兼ねた茶会で、リーシアを側室に迎えることを反対されることになったのだ。
+ +
リーシアが何者かに襲撃された。
その知らせを受けたとき、私は思わず席を立っていた。
護衛が役目を果たしたおかげで無事だったと聞き、安堵する。
だがどれほど恐ろしかったことだろう。リーシアを想うと胸が痛んだ。
「犯人はわかったのか?」
「いえ、現在捜査中です」
どうやら学園からの帰路を狙われたようだ。
報告を聞きながら、私の頭に浮かんだのはクラリッサの顔だった。
先日の茶会で、側室として迎えることに反対してきた後の、この襲撃事件だ。警告としか思えない。
公爵家には財力も人脈もある。足がつかないように賊を雇うことも不可能ではない。
証拠はない。だがクラリッサが一番疑わしい。
私は翌日、クラリッサが登校していることを確認すると、従者に命じて学園の一室に彼女を呼び出した。
「リーシアが賊に襲われた」
彼女の反応を逃すまいと、じっと見つめる。
「無事なのですか?」
「王妃となる君にとって、リーシアは邪魔だったのだろう?」
容疑者にこちらから情報を渡すつもりはない。
クラリッサの問いに答えず言葉を続けると、彼女の眉がわずかに動いた。
「フィーニス様、冷静になってください」
「君は彼女を側室に迎えることに反対していた。ヴィヴァンデールの力をもってすれば、賊を雇うことも、証拠を消すことも容易にできるはずだ」
そう口にした瞬間、彼女から表情が消えた。
「どうやらフィーニス様には、オルディアナとベルストリア、両国の結びつきの重要性がわからないようですね」
「今はリーシアの話をしている!」
「そうですか。これ以上、話すことはありません」
クラリッサはさっと私に背を向ける。
「待て! 今後リーシアを狙うことは私が許さん!」
「……失礼します」
クラリッサは振り返らずに部屋を出ていった。
彼女の後ろ姿は、明確な拒絶を示していた。
私は乱暴に前髪を掻き上げた。深く息を吐く。
リーシアを守りたい一心で、つい感情的になりすぎた。
クラリッサには忠告だけですませるつもりだったのに、まるで犯人扱いをしてしまった。あれでは、彼女が怒るのも当然だ。
ヴィヴァンデール公爵家と対立するなんて、国のことを思えば、良くはないとわかっている。
それでも、リーシアを魔の手から守らなくてはならない。
それが自分の使命だと、拳を強く握りしめた。
+
「すべては順調ですよ、お父様」
リーシアの声が聞こえて、私は振り返った。
彼女はソファに腰かけていた。向かいにはバーデン男爵が座っている。
私はバーデン男爵家の応接室にいるようだった。
なぜここにいるのだろう。わからないが、愛しい女性の姿に嬉しくなって、私はリーシアの名前を呼んだ。だが音にならなかった。声が出ない。彼らに私の声が届かない。見えてもいないようだ。
同じ空間にいるはずなのに、彼らは私に気づかなかった。
「学園でヴィヴァンデール公爵の令嬢と口論になったようだな」
「ええ。わたしがまだ誘導もしていないのに、クラリッサ様が犯人だと勝手に思い込んだみたい。本当に、簡単な王子様」
リーシアが笑う。それはまぎれもなく、嘲笑の形をしていた。
いつもの純粋さの欠片もないその姿と、話す内容に愕然とする。
「護衛に争ったような形跡を残させて、襲われたと報告しただけなのに、こうも都合よく踊ってくれるなんて」
「これでヴィヴァンデール公爵家と王家の間に溝を作れた。カルゼスター帝国も喜ぶだろう」
敵国の名前に混乱する。脳が理解を拒んだ。
彼らはいったい、何の話をしているのか。
「フィーニス様が、陛下からベルストリア王国との軍事協力について課題が出ていると言っていましたけど、帝国からしてみれば、二国間の協定なんて結ばせるわけにはいきませんしね」
「ああ。公爵家が王家に不信を抱けば、公爵夫人の祖国も、オルディアナ王国と手を結ぶことを考えなくてはならなくなる。そこにカルゼスター帝国がつけこむ隙が生まれる」
男爵が満足気に娘を褒める。
「よくやったぞ、リーシア。第一王子をうまく誘惑してくれた」
「あら、そんなに難しくありませんでしたよ? 素直に好意を見せて、優しくお話を聞くだけで満足そうにされるんですもの」
「あぁ、お前は第一王子の初恋の相手に雰囲気が似ている」
男爵の言葉に目を見開く。
「国王陛下の妾のところに足繫く通っていることは調べればすぐにわかった。どんな女性を好むのか探るのはさほど難しいことではなかったから、あとは妾の言動に寄せれば、殿下の理想のできあがりだ」
「ふふ、女優になったようで面白かったわ」
リーシアが得意げに微笑む。
今までの彼女は、父の妾に似せて作られた幻影だったのか?
私を喜ばせた仕草も、好きだという言葉も、すべてが演技だったというのか。すべては私とクラリッサの仲を引き裂き、私から情報を得るためのものだったのか。
ぐるぐると視界が歪んで、リーシアと男爵の笑い声が遠ざかっていく。
そして――。
ベッドの上で跳ね起きた。
息が荒い。冷や汗が全身を濡らしていた。
サイドテーブルの水を飲もうと手を伸ばし、そこに置かれた小瓶が目に入った。
「秘薬……」
そうだ。意識がはっきりしてくる。
昨晩、私は魔女の秘薬を飲んだ。
オルディアナ王国建国の際に力を貸してくれた魔女は、今なお我が国に恩恵を与えてくれている。その一つがこの秘薬だ。
私とクラリッサが学園を卒業する時期が近づき、次代の王を決めるときがきた。昨日の晩餐で、王族とヴィヴァンデール公爵家が集まり、魔女の秘薬について説明を受けた。
魔女の秘薬は夢を見せる。
夢の中で己の隠された欲望を暴き、それにどう向き合うのかを問うてくるという。王の器があるかどうかを測るための試練として、代々の王族たちに使用されてきた。
そして私は――。
夢の内容を思い出し、震える手で額を押さえた。
「最悪だ……」
夢の中で恋をしたリーシア・バーデン。この国にバーデンという男爵家は存在しない。もちろん、リーシアという令嬢も存在しない。
彼女は私の憧れである、国王の妾を模して生み出されたのだろう。
私の話を優しく聞いて、私を甘やかして、私だけを必要としてくれる、理想の女性だった。
そして私は、愛する女性を幸せにできる自分になりたかった。
父のものである女性に、自分のほうが父よりも、貴方を幸せにできるのだと、証明したかった。
自分の中に長年秘めていたその欲望を、秘薬は夢として私に突き付けてきた。
それだけではない。
私はその欲望を叶えるために、ベルストリア王国との架け橋として、オルディアナ王家との婚姻に備えてきたクラリッサに向けて、何の証拠もない状態で疑いの言葉を吐いた。
カルゼスター帝国に対抗するための重要な協力関係を、自分の感情を優先して危うくした。
なぜあんな軽率な行動が取れたのか。恋をして陶酔状態にでもなっていたのだろうか。まともな判断力を失っていたとしか思えない。本当に愚かなことをした。
「おはようございます、殿下。お目覚めでしょうか?」
扉の向こうから聞こえた従者の声に、深く息を吐いた後、応える。
入ってきた彼らに身支度を整えてもらいながらも、後悔ばかりが募った。
「一刻後、『白百合の間』へお越しいただくよう、陛下より仰せつかっております」
逃げてしまいたい。だがどこに逃げるというのか。
私は時間になると、のろのろと立ち上がった。
目的の場所へ向かう足取りは、ひどく重かった。
『白百合の間』は、王宮の奥まった場所に設けられている。
その名の由来は、部屋の一面を占める大きな白い壁にある。
余計な装飾のないその壁は、部屋の中央にある水晶に反応し、映像を映し出す仕組みになっている。
室内には、昨夜の晩餐にいた全員がすでに揃っていた。私が最後だったようだ。父に視線で空いている席を示され、腰をおろす。
「第一王子であるフィーニス。第二王子であるシャニエル。そしてヴィヴァンデール公爵令嬢クラリッサ」
父の低い声が室内に響く。
「お前たちが、秘薬によりどんな夢を見たのか、これより映し出す」
私にとって絶望的な映像会が始まる合図だった。
他の二人の顔色を伺うが、普段と変わらないように見える。自分だけが失敗したのかと、余計に気持ちが沈んだ。
父が水晶に手を置き、何事か小さく呟くと、水晶が淡く輝いた。
白い壁がそれに反応し、鮮やかな映像が浮かび上がる。
そこには幼いクラリッサが映っていた。
――生まれた時から国の運命を背負わされ、その責任の重さを繰り返し教え込まれる。幼いクラリッサが、自分の選択一つで多くの民が死んでしまう可能性に怯え、夜震えながら一人で泣いていた。
知らなかった彼女の繊細な一面だった。クラリッサは私に弱さを見せなかった。だから勝手に思っていた。私が守る必要のない、強い人だと。
映し出された自分を見て、クラリッサが恥ずかしそうに俯く。
公爵夫人が、そっと彼女の手を握るのが見えた。
――その後成長した彼女は、怯えを表面に出さない方法を覚えていった。そして王妃教育や周辺国との外交の準備。休むことを知らず、ついに疲れがたまって倒れてしまう。熱を出し、心身ともに弱っている彼女に、古参の侍女が自由を唆す。だが、彼女の脳裏に浮かぶのはこの国の民たちの姿だった。信頼していた者からの誘惑でも、彼女は毅然と跳ねのけた。
彼女の本質が頼もしく、眩しい。
クラリッサが王妃となれば、この国は安泰だろう。
――クラリッサは隣国との関係性を壊そうとする侍女の言葉に疑問を抱く。自分を心配してのことだったのか、それとも……。彼女は母親に報告し、侍女の調査を依頼する。そして侍女がカルゼスター帝国が長い時間をかけて送り込んでいたスパイだと判明する。
そこで映像が終わった。親世代の者たちは皆、満足そうにクラリッサを見ている。
公爵夫人が彼女に、「あとで肩の力を抜く方法を教えるわね」と微笑んだ。
次はシャニエルだった。
――シャニエルは二歳違いの兄が国王になると思っていた。彼の教師たちもフィーニスのできの良さを褒めたたえる。周囲の態度からも、自分は兄のスペアでしかないのだと自覚していく。兄弟で争うことは国を疲弊させる要因にもなる。だから自然と言葉を控えて、目立つ行動を取らないようになっていった。
弟は、映像上の自分の姿を、静かに見つめていた。
王位継承を争う相手として、シャニエルを脅威に感じたことはなかった。
おとなしく控えめだったのは、私との争いを敢えて避けてくれていたからなのか。
――ある日、カルゼスター帝国との国境で、死者がでるほどの大規模な衝突が起きた。側近がシャニエルに囁く。衝突が続けば、本格的な戦争に発展する可能性がある。早期の沈静化を図るために国境に向かって交渉してはどうか……。確かに、次代の王である兄より、スペアである自分が交渉役を務めるほうがいいだろう。そう考えた彼は側近の言葉を受け入れ、国境に向かう準備を始める。
シャニエル以外の全員が息をのんだ。
危険すぎる。王族の命を……自分の命を軽く見すぎだ。
これがシャニエルの弱点だとしたら、もっと自分を大切にしろと、叩いてでも矯正しなくてはならない。
――シャニエルは国王の許可を得るために謁見を申し込ませる。しかし、その待ち時間の間、彼の中に疑問が生じる。一度は側近の言葉に納得したが、考えてみれば、王族を危険な場所へ向かわせるような提案を、側近という立場の人間がするだろうか。彼は謁見の場で国境へ向かう要請ではなく、側近の言葉を報告し調査を依頼する。そして側近の家が裏でカルゼスター帝国と内通していたことが判明する。
映像が終わった。
私は安堵の息を吐いた。弟が命を落とすような、最悪の映像を見なくてすんだ。
シャニエルは室内の空気をおかしくさせたことに、居心地の悪そうな顔をしている。
そしてついに、私の姿が映し出された。
――学園でリーシアと出会ったダンスの授業。少しずつ距離が縮まり、親密になっていく様子。隣国との交渉があることをほのめかす情報を吐き出し、愛していると囁いて、口づけを交わす……。
恋に浮かれた愚かな男がそこにはいた。
フィーニスという人間がどれほど浅はかであるのかが、全員の前に晒されている。
私は拳を強く握り締め、羞恥のあまり顔を伏せた。自分の醜態を直視できない。
公開処刑だった。
拷問のような苦痛な時間を、ただ下を向いて耐えるしかなかった。
そうしていると、学園でクラリッサを問い詰める私の声が聞こえてきた。
『ヴィヴァンデールの力をもってすれば、賊を雇うことも、証拠を消すことも容易にできるはずだ』
夢の中とはいえ、言ってはならない侮辱的な発言だった。
それを、ヴィヴァンデール公爵の者たちが耳にした。
心中何を思っただろうか。恐ろしくて彼らを見ることができない。
父が水晶から手を離す。映像が消えて、室内に沈黙が落ちた。
「……これが現実で起きていた場合、あなたは機密漏洩、国家反逆、そして公爵家に対する名誉棄損の罪に問われていたでしょうね」
母が私の行動に該当する罪状を挙げた。
「夢で良かったな。……お前を病死と発表せずに済んだ」
父の言葉にゾッとする。
人知れず毒杯を賜り、王家の醜聞を隠すために病死として処理される。
今回の試練で私の弱点が暴かれなければ、それが現実で起こっていたかもしれない。
母がちらりと父を見てから、「陛下の妾のことですが」と言った。
「王家の醜聞でもあるため、ここだけの話になりますが。……あの人は陛下の従妹です。名目上妾としているだけで、陛下の愛人ではありません」
「えっ……?」
聞くと、妾は先代の王弟が、侍女に手を付けて生まれた庶子なのだという。生後すぐに子爵家の養子になり、幼馴染の騎士と恋愛結婚した。彼女は自分の本当の出生を知らずにいたが、帝国との小競り合いに巻き込まれて夫が死亡。その連絡を受けた父が、母と相談し、王家の血筋を保護するために、寡婦となった彼女を妾としたと。
「そんな……」
では、妾がそばにいてほしいと言っていた相手は、父ではなく、亡くなった夫だったのか。父に反発する理由すら無意味なものだったなんて。私はとんだ道化ではないか。
項垂れた私をしばらく見ていた父は、一度目を閉じた後、宣言した。
「次代の王は、シャニエルとする」
試練の結果を見れば、反論の余地はなかった。あの映像を見られた後で、自分のほうが王に相応しいと主張できるほど厚顔ではない。
それでも、はっきりと言葉にさせるのは辛かった。
王になると思っていた。その未来が閉ざされて、この先どうしたらいいのか。どんな顔をすればいいのか、わからなくなる。
「シャニエル。お前は長年、兄のスペアとして生きてきた。それが悪かったとは言わん。だがこれからはお前が次代の王だ。……自分を犠牲にしすぎないようにしろ」
「わかりました」
父も弟の試練内容に思うところがあったのだろう。難しい顔で彼を諫めた。
そうして今度は、公爵に声をかける。
「シャニエルとクラリッサ嬢の婚約を正式に進めたいと思うが、意見はあるか?」
「ございません。次代の王の決定、おめでとうございます」
公爵の言葉に続いて、公爵夫人とクラリッサが頭を下げ、恭順の意を示す。
それに頷きを返した後、父は私を見た。
「フィーニス、お前にはエーベルハルト侯爵家へ婿入りしてもらう」
エーベルハルト侯爵家。嫡男に恵まれず、婿を迎える話が以前から持ち上がっていたところだ。
決定事項として私に言うということは、今回の試練に落ちた者が婿となるよう、内々で話がついていたのだろう。
「エーベルハルト侯爵となり、王家を支える立場となるように務めろ。そしてエーベルハルト侯爵令嬢を大切にしろ。愛することができずとも、妻をないがしろにすることは許さん」
「……はい」
強く釘を刺される。夢の中の私の醜態を見たなら、当然の懸念だった。
シャニエルが立ち上がり、クラリッサの前に進んだ。
「クラリッサ嬢。貴方と共に、この国を支えていけることを嬉しく思います。これからよろしくお願いします」
「光栄です、シャニエル様。こちらこそ、よろしくお願いします」
クラリッサがシャニエルの差し出した手を取る。二人はしばらく見つめ合った。
その様子を眺めながら、胸の奥に苦いものが広がる。
これから先、彼女と共に歩むのはシャニエルだ。隣に立つのは私ではない。
当たり前だと思っていたものが、どんどん手の中から零れ落ちていく。
彼らが国を思う気持ちは本物だ。二人ならきっと良い国を作っていくのだろう。そして私は、一臣下として、彼らを支えていくのだ。
……目頭が熱くなる。
私は彼らから視線を外し、静かに退席した。
自室へ繋がる廊下を歩きながら、婿入り先であるエーベルハルト侯爵家へ、挨拶に伺う許可をもらわなくてはと考える。令嬢が喜ぶ贈り物の調整も必要だろう。従者に指示をしなくては。
「…………」
現実的なことを考えようとしても、すぐに虚無感が襲ってくる。
十年以上の時間を掛けて築き上げてきたものが無くなったばかりだ。簡単に気持ちを切り替えられない。
それでも、夢の中以上に愚かな自分にはなりたくはない。
その意地が、私を前へと進ませていた。
初めて味わった挫折の味を噛みしめながら、一歩ずつ。
私は歩き出した。




