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第58話 持ち帰らない仕事と、持ち帰るぬくもり

 秋の気配がほんの少しだけ混じり始めた夕方、私はいつものように契約局の板の前に立っていた。


 赤札はなし。青札は明日へ。白札は返答待ち。黒札は王都照会中。

 板の並びは綺麗で、局の空気も落ち着いている。エマとヨルクは日報をまとめ、ミアは匿名申告箱を閉じ、ベルンハルトさんは新しい棚の前で帳簿を整えている。


「本日分、終了です」

 私が言うと、局員たちがそれぞれ手を止めた。

「お疲れさまでした」

「お疲れさまでした!」


 窓の外では、街の灯りが一つずつ点いていく。

 配給所の列はもうない。市場の声も穏やかだ。灰晶壁は遠くで静かに光っている。


 私はペンをしまい、今日最後の確認をした。

 持ち帰り書類なし。急ぎ対応なし。明日の予定は朝一で王都照会の返信と、共同備蓄の見直し会議。

 問題ない。


「お嬢さま」

 ミアが笑う。

「今日は本当に、何も持って帰りませんね」

「持ち帰りません」

「成長しました」

「誰目線ですか」

「後方支援担当です」


 笑って、私は外套を羽織った。

 扉を閉めると、冷たい空気が頬を撫でる。けれど以前のような“終わらない仕事”の気配は追ってこない。

 仕事は局に置いてきた。明日また、明日の私たちがやる。


 邸へ戻る途中、ハンナさんの店から焼きたての匂いがした。

「今日は甘いの焼けたよ!」

「明日の朝に買います」

「定時帰りかい?」

「はい」

「いいことだ!」


 いいことだ。

 本当に、その通りだと思う。


 玄関を開けると、暖炉の火と、お茶の香りがした。

 窓際の机には書類はない。代わりに二つのカップが置かれていて、ルシアン様が片方をこちらへ寄せる。


「おかえり」

「ただいま戻りました」

「今日はどうだった」

「秤の単位が揉めました。でも解決しました」

「それはよかった」

「ええ。そちらは?」

「壁は静かだ」

「それもよかったです」


 私は椅子へ腰を下ろし、温かい茶を両手で包んだ。

 前世の私は、約束というものをずいぶん冷たいものだと思っていた。

 守られないことが多く、曖昧なまま押しつけられ、気づけばこちらばかり削れていたから。

 でも今は少し違う。


 きちんと読める形で交わされて、守られ、必要なら見直される約束は、人を縛るだけではない。

 ちゃんと、人を温める。


 婚約破棄されたあの夜、私はただ逃げたかった。

 今の私は、明日もここで働きたいと思っている。

 それはたぶん、十分すぎるくらいの幸福だった。


 だから私は今日も定時で帰る。

 明日の仕事を、明日の自分と仲間たちに任せて。

 そして、温かい約束のある場所で、ちゃんと幸せに働くのだ。

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