第56話 夏の終わりの壁と約束
夏の終わり、私は久しぶりにルシアン様と二人で北壁へ上がった。
点検ではない。監査でもない。ただ、風の通りを見に行こう、と彼が言ったのだ。
以前なら考えられない誘いだった。壁はいつも“仕事”の場所で、“背負う”場所だったから。
高台から見る灰晶壁は、静かだった。
青白い結界石は穏やかに光り、かつての黒い染みはほとんど残っていない。
「きれいですね」
「そうだな」
「前は、きれいと思う余裕もなかったです」
「私もだ」
風は少し冷たく、夏の終わりを知らせている。
私は壁へ伸びる銀の糸を見た。細く、まっすぐで、無理な食い込みがない。
負担が消えたわけではない。でも、一人の命を削る形ではなくなった。
「約束って」
私はふと思って口にする。
「守られると、温かいものなんですね」
「破られると呪いになる」
「ええ」
「だからお前は、あれほど怒ったのか」
「たぶん」
しばらく二人で黙っていた。
言葉がなくても、気まずくない。前ならそれだけで奇跡みたいだった。
「レティシア」
ルシアン様が静かに言う。
「ありがとう」
「またですか」
「何度でも言う」
「……それは、かなり効きます」
「知っている」
少し悔しい。
でも嬉しい。
帰り道、私は彼の隣を歩きながら思った。
大きな約束も、小さな約束も、守るには仕組みと誠実さの両方が要る。
どちらかだけでは足りない。
それはたぶん、仕事も暮らしも同じなのだろう。
夏の終わりの壁は、以前よりずっと静かだった。
その静けさを、来年も再来年も守っていきたいと、素直に思えた。




