第37話 冬の終わり、最初の新法
エルムでの会談以後、北方再契約は“北だけの例外”ではなく、“試験的な新方式”として扱われることになった。
言い換えれば、私たちが失敗すれば「やはり無理だった」と言われるし、回れば「他領にも使える」となる。
責任は重い。でも、嫌いじゃない重さだった。
最初の新法として通ったのは、『労務記録公開と未清算申告の権利』に関する簡易条例だ。
条文だけ見ると地味だが、実際はかなり大きい。誰が何日働き、どんな危険手当がつき、どこで遅れているかを、月ごとに確認できるようになる。見せたくない人ほど嫌がる仕組みである。
「掲示板、もう少し下にした方がいいですかね」
ミアが新しく作った板を持ちながら聞く。
「子どもでも見える高さに」
「了解です」
契約局の玄関脇に設置した掲示板へ、試験運用の記録表を貼る。
炭運搬班、配給所、施療所補助、雪かき班。名前を全部晒すのではなく、職種ごとに人数と支払い状況を載せる。個人の保護と公開の線引きも大事だ。
最初に集まったのは、案の定、半信半疑の人たちだった。
「ほんとに見ていいのか?」
「“問い合わせは局へ”って書いてあるぞ」
「こんな堂々と貼るんだな……」
私は板の前に立ち、できるだけ短い言葉で説明した。
「働いたことが見えること。遅れたときに『遅れています』と言えること。それがこの条例の中身です」
「そんな当たり前を、わざわざ書くのか?」
年配の男が笑う。
「当たり前ほど、書かないと消えます」
私が答えると、周囲が静かになった。
しばらくして、トーマの母親がそっと手を挙げた。
「じゃあ……もし間違ってたら?」
「局へ来てください。記録を照らします」
「怒られない?」
「怒る理由がありません」
「……なら、覚えておくよ」
その会話を聞いていたベルンハルトさんが、後でぼそりと呟いた。
「昔なら、“文句があるなら辞めろ”で済まされていた」
「その方が楽ですからね」
「楽な方を選びすぎた結果がこれか」
「だと思います」
夕方には、掲示板の前で小さな人だかりができるようになっていた。
読めない人へ読める人が説明し、分からない言葉をミアが噛み砕き、ハンナさんが『うちの配達分は今週遅れなしだねえ』と笑う。
地味だ。
地味だが、こういう景色のためにあれだけの書類を積んできたのだと思う。
その夜、局へ戻るとルシアン様が掲示板の報告を聞きに来た。
「反発は?」
「あります。でも、思ったより少ないです」
「理由は」
「自分の取り分が見えるからでしょうね。見えることは不安でもありますが、同時に安心にもなるので」
「なるほど」
彼は少し考え、それから言う。
「では次は兵站費の月次公開も試す」
「賛成です」
「嫌がる者が増える」
「仕事が増えますね」
「好きだろう」
「否定しません」
少しだけ笑い合う。
冬の終わりの風はまだ冷たい。でも、北の街には前より少しだけ“息継ぎ”が増えていた。
新法とは、たぶんそういうものだ。
紙の上の一文が、日々の呼吸を少しだけ楽にする。




