第26話 契約修復は、片思いでは成立しない
再契約の準備は、夜を徹して進んだ。
契約局、騎士団、施療所、商会組合。呼び出された人々は最初こそ戸惑ったが、壁の状況を見れば冗談でないと分かる。広間の長机に地図と台帳と羊皮紙を並べ、私は必要な条文だけを絞り込んだ。
「難しい言葉は使いません」
私は集まった代表たちへ告げる。
「誰が何を負担し、何を受け取るのか。あと、負担できないときにどう助けを求めるのか。それだけです」
「そんな単純でいいのか?」
商工会の年配者が聞く。
「単純でなければ、また都合よく隠されます」
前世でも、今世でも、複雑すぎる書類はだいたい悪用される。
読めること、分かること、説明できること。それ自体が防衛になる。
私は草案を書いた。
『灰晶壁防衛に関わる基礎負担は、王家・公爵領・北方市民基盤の三者で明示配分する』
『兵站・資材・労務の不足は公爵家単独の責任としない』
『緊急時の追加負担は記録され、後日必ず清算手続きへ回す』
『健康と尊厳を損なう義務の強制は無効』
最後の一文を書いたとき、ミアが目を丸くした。
「そこ、入れるんですね」
「入れます」
「王都の偉い人、嫌がりそう」
「嫌がるなら必要です」
遠隔通信晶石を通じて、王都の陛下と財務再監査室へ接続する。
黒雪の影響で映像は乱れたが、声は届いた。
『アルベルトである』
「準備が整いました」
私は言った。
「過去未清算分の責任を認め、新契約へ公的に署名する意思はありますか」
『ある』
「国庫と王家名義の供給責任を明文化し、今後の監査を公開化しますか」
『する』
「公爵家の単独恒久負担を撤回しますか」
少しの沈黙。
広間中がその答えを待つ。
『……撤回する』
その言葉が落ちた瞬間、私の視界で黒い糸の一部がほどけた。
まだ全部ではない。でも、初めて“片側だけの約束”が修正に応じた。
次に、北側の代表へ向き直る。
兵站責任者、施療所長、商工会長。誰もが疲れた顔をしている。でも、その目は逃げていない。
「皆さんにも確認します。負担を背負うだけでなく、記録を残し、異議を唱える権利も含めて契約します」
私はゆっくりと言葉を選ぶ。
「今まで見えなかった分まで、紙の上へ乗せます。それでも署名しますか」
最初に頷いたのは施療所長だった。
「うちの患者が、毎冬“仕方ない”で削られてきた分も、書いてくれるなら」
次に商工会長。
「商人は数字に弱くない。見える形なら協力しよう」
最後に兵站責任者が短く言う。
「兵に無理をさせるだけの契約なら要らん。だが守るための契約なら、署名する」
私は息を吐いた。
ここまで来て、ようやく“両思い”の契約になる。
「レティシア」
隣でルシアン様が低く呼ぶ。
「まだ足りないのか」
「最後の一つがあります」
「何だ」
「公爵様ご自身の条文です」
私は新しい紙を差し出した。
『公爵家当主は、北壁防衛を理由として自己の健康と生命を無制限に担保しない』
彼は数秒、それを見つめたまま動かなかった。
「必要か」
「最重要です」
「私個人の話だ」
「違います。今までの歪みの中心です」
広間が静まり返る。
こんな場で公爵本人へそんな条文を突きつける部下がいるだろうか。たぶんいない。私くらいだ。
「ルシアン様」
私はまっすぐ彼を見る。
「あなたが倒れたら、また誰かが『立派な犠牲だった』で終わらせます。そういう契約は、もう作りたくありません」
「……」
「片思いでは、修復できないんです。土地も、人も」
その瞬間、彼の表情が少しだけ崩れた。
苦いような、諦めたような、でもどこか救われたような顔だった。
やがてルシアン様はペンを取り、短く言う。
「わかった」
そして自分の名を、その条文の下へ署名した。
次の瞬間、塔の外で鳴っていた不吉な音が一段弱まった。
まだ終わっていない。けれど、壁がこちらの言葉を聞き始めている。
「行きましょう」
私は立ち上がる。
「最後は現地です。灰晶壁の基点で、全部を綴じます」
誰も異を唱えなかった。
もうここまで来たら、やるしかないのだから。




