第18話 雪の見送りの先で、私はもう昔の私ではない
北から王都への道は、来たときより短く感じた。
たぶん理由は明白で、行き先が同じでも気持ちが違うからだ。
北へ来たときの私は、婚約を破棄され、実家からも切り捨てられ、次の職場が本当にまともかどうかすら分からない状態だった。
今は違う。持っているのは証拠箱と陳述書の束、それから『ここへ戻る』という意志だ。
道中の宿場で、ルシアン様は必要以上に私へ話しかけなかった。
その代わり、宿の部屋割りや食事、護衛の配置がきちんと整っている。こういうところが、この人らしい。気遣いを言葉にするより先に、環境で整える。
二日目の夜、宿の食堂で簡単な打ち合わせをしたとき、私は彼に尋ねた。
「王都で、私が前に出ることを不安には思われませんか」
「不安はある」
「正直ですね」
「だが、止めたところで納得しないだろう」
「ええ、たぶん」
「なら、最も勝てる形を考えるだけだ」
ルシアン様はそう言って、机に広げた進行表を指で叩いた。
王命書に従い、まずは王都到着後に仮謁見、その翌日に公開監査。建国契約に関わる重臣も列席する。つまり隠しにくい場だ。こちらにとって悪くない。
「舞踏会形式の前夜会もあるそうです」
「嫌そうだな」
「会計監査の方が百倍好きです」
「同感だ」
その返答に少し笑ってしまった。
王都の貴族社会で『舞踏会より監査が好き』に同意する公爵は、たぶんそう多くない。
到着した王都アルシェラは、北の白さが嘘のように色と音に溢れていた。
石畳は磨かれ、店先には春待ちの花が飾られ、人々は着飾って行き交う。昔なら懐かしいと感じたかもしれない。けれど今の私には、どこか息苦しく映る。
公爵家が使用する宿舎へ向かう途中、案の定、実家からの迎えが出ていた。
「レティシアお嬢様! 伯爵閣下がお待ちです!」
「ご用件を文書でどうぞ」
窓越しに答えると、使者は目を丸くした。
「ですが、ご家族が……」
「いま私は公爵領の公務中です」
馬車はそのまま進む。
ルシアン様は何も言わなかったが、護衛の配置を一段厚くしたのが窓から見えた。
宿舎へ入るなり、今度は王宮から夜会の招待状が届いた。
前夜会。つまり、公開監査の前に空気を作る場だ。私とルシアン様にとって、あまり愉快な場所ではない。
「欠席は」
「できるが、逃げたと言われる」
「出席ですね」
「そうなる」
私は鏡に映る自分を見た。
北で着慣れた実用的なドレスではなく、王都用に持ってきた控えめな礼装。昔は“王太子妃らしく”見えるかを気にして選んでいたが、今は違う。必要なのは立場に見合う静けさだ。
夕方、その支度をしているところへ、思いがけない客が訪ねてきた。
セレナ嬢だった。
「突然ごめんなさい」
「いえ。どうされました」
「……殿下の前では言いづらいことがあって」
小さな談話室へ移ると、彼女は落ち着かない様子で手袋を握りしめた。
「オズヴァルト卿が、明日の監査で『北方の立替は公爵家の自主的な献身だ』と主張するつもりです」
「予想どおりですね」
「それだけではありません。わたくしが去年、いくつかの慈善決裁に署名したのですが、その一部が、北方補填の未処理を隠す仕分けに使われたかもしれなくて……」
「使われた“かも”ではなく、使われたのですね」
「……はい」
セレナ嬢は唇を噛んだ。
「わたくし、書類の内容をちゃんと読まずに、言われるまま署名してしまいました」
「その署名自体は事実です。ですが、内容をどこまで説明されたかも事実です」
「証言すれば、殿下は怒ります」
「でしょうね」
「それでも……北で見たものを、見なかったことにはしたくありません」
彼女の声は震えていた。
怖いのだろう。それでも逃げないと決めて、ここに来たのだ。
「ありがとうございます」
私は静かに言った。
「あなたが何も知らなかったこと自体は、褒められたことではありません。でも、知った後の行動は選べます」
「はい……」
「明日、質問されたら、読まずに署名したと正直に言ってください」
「それだけでいいのですか」
「十分効きます」
セレナ嬢は力なく笑った。
「レティシア様って、本当に怖いところが独特ですね」
「光栄です」
夜会の会場は、相変わらず眩しかった。
音楽、香水、笑い声。以前の私なら、ここへ立つ前に席順と会話の地雷原を全部頭へ入れていた。だが今日は違う。舞台装置の一つだと思えば、過剰な華やかさもただの飾りに見える。
会場へ入るなり、周囲の視線が集まった。
北で働く元婚約者。呪い公爵と並んで戻ってきた令嬢。噂話の材料としては十分すぎる。
そして当然のように、エドガー殿下がこちらへ歩み寄ってきた。
金髪を整え、完璧な笑みを浮かべている。何も変わっていないように見えて、でも以前より少し疲れていた。
「レティシア、久しぶりだ」
「ご無沙汰しております、殿下」
「北での暮らしはどうだ。ずいぶん逞しくなったように見える」
「労働環境が改善しましたので」
「……相変わらずだな」
彼の視線が、一瞬だけルシアン様へ流れる。
探るようで、面白くなさそうで、少しだけ焦っている目だった。
「明日は形式的な確認にすぎない」
エドガー殿下は声を落として言う。
「妙な意地を張らず、こちらに合わせれば丸く収まる」
「丸く、とは」
「北の負担は今後改善すると約す。君は王都へ戻り、財務部を立て直す。双方に利がある」
「私の利はどこに?」
「……王都へ戻れる」
「それは以前の私にとっては義務でした。今は違います」
彼は露骨に不快そうな顔をした。
でも私は、もうそれに怯まない。
「明日は、事実をお話しします。それだけです」
会釈して離れる。
背後でエドガー殿下が何か言いかけたが、聞かなかった。
昔の私なら、王都の空気に飲まれて言葉を選びすぎていたと思う。
でも今は、北の冷たい風を知っている。あの白さの中で交わした約束の方が、ここよりずっと本物だと知っている。
明日、全部を紙の上に出す。
舞踏会の灯りより、監査台の白い紙の方が、私にはよほど心強かった。




