第16話 公爵家の温室で、言えなかったこと
三日ほど寝て起きてを繰り返したあと、ようやく私はまともに歩けるようになった。
契約修復の使いすぎは、体から熱と集中力をまとめて抜かれるらしい。医師からは「今後も同じことをするなら、せめて前後に糖分を摂ってください」と真顔で言われた。魔法の助言としては少々生活感があるが、たぶん正しい。
「局はどうなっています?」
「回ってる」
寝台脇の椅子に座ったミアが即答する。
「ベルンハルトさんが札の位置を毎朝確認してますし、トーマは配達経路を全部覚えました。お嬢さまが倒れたあと、みんな逆に妙に張り切ってます」
「それはよかった」
「よくないです。次は倒れる前に言ってください」
「善処――」
「その返答は禁止です」
最近、本当にあちこちで禁じられる。
でもそれだけ、ここでは私が倒れることを惜しんでくれる人がいるのだと分かる。
午後、医師の許可を得て少しだけ散歩に出た。
外は相変わらず白いけれど、邸の南側にはガラス張りの温室があり、そこだけ春を切り取ったように暖かい。乾いた冬の空気に慣れた身には、土と葉の匂いがやけに濃く感じられた。
「こんな場所があったんですね」
「母が作らせた」
振り向くと、入口にルシアン様が立っていた。
今日は軍服ではなく濃紺の上着姿で、肩の力が少し抜けて見える。たぶん、私を仕事に戻さないためにここへ連れてきたのだろう。配慮が実にわかりにくい。
「先代公爵夫人が?」
「ああ。北にも花は咲くし、人は冬でも息をつけると言っていた」
「良い考えですね」
「領民にはまず炭とパンを、と父に怒られていたがな」
「それも正しいですね」
「母は『だから両方やるのよ』と返していた」
少しだけ、その光景が想像できた。
この温室を作った人は、たぶん綺麗なものが好きなだけではない。厳しい場所ほど、余白が必要だと知っていたのだ。
ガラス越しの光の下をゆっくり歩く。
植えられているのは丈夫な薬草や小さな冬薔薇、それに北では珍しい香草だ。札には、丁寧な筆跡で管理方法が書かれていた。
「文字が綺麗ですね」
「母の字だ」
「……契約書に向いていそうです」
「お前らしい感想だな」
少し笑われた。
最近、この人の笑い方が前より分かる。口元だけほんのわずかに緩み、目の冷たさが一瞬だけ薄くなる。
温室の中央には、小さな丸机があった。
私が腰を下ろすと、ルシアン様は用意されていたポットから湯気の立つ茶を注いでくれる。香草の匂いがした。
「仕事の報告なら後にしろ」
「顔に出ていましたか」
「少し」
「お恥ずかしい」
でも実際、頭の片隅はずっと書類のことでいっぱいだった。王都の動き、盗まれた印の経路、偽契約の件の処理、そして何より、いつ正式な召喚が来てもおかしくないこと。
「体が戻る前に走るな」
ルシアン様が言う。
「また倒れたら困る」
「契約局が止まりますから?」
「……それもある」
“それも”。
先日聞き逃しかけた言葉を、今度ははっきりと拾う。
「では、それ以外も?」
つい口が滑った。
自分でも驚く。以前の私なら、こんな踏み込んだ聞き方はしなかった。
ルシアン様は一瞬だけ言葉に詰まり、視線を逸らした。
温室のガラスに淡い曇りが差す。
「母は、人を頼るのが上手かった」
やがて彼は唐突に別の話を始めた。
「父は逆だ。何でも自分で背負う人だった。壁のことも、財のことも」
「ルシアン様は、お父上に似ていらっしゃる」
「よく言われる。あまり嬉しくない」
その言い方に、思わず顔を上げる。
彼は冬薔薇の鉢を見たまま続けた。
「父は立派だった。だが、立派すぎた。助けを求める前に壊れた」
「……」
「私はああはならないつもりでいた。誰にも期待せず、必要なものだけ抱えて回せばいいと」
「でも、そうはならなかった」
「ならなかったな」
彼は自嘲気味に笑う。
「お前が来て、色々と崩れた。良い意味でだ」
「良い意味ならよかったです」
「正直に言うと、最初は王都から押しつけられた厄介な令嬢だと思っていた」
「知っています」
「知っているのか」
「顔に書いてありました」
「……そうか」
今度は、はっきり笑った。
温室の空気が少しだけ和らぐ。
「だが今は違う」
ルシアン様の声が低くなる。
「お前がここへ来てから、契約局も、街も、壁の周りも、全部少しずつ息をし始めた。だから」
そこで言葉が切れた。
私も何も言えない。続きを聞きたいのに、聞いたら戻れなくなる気がした。
沈黙を破ったのは、扉の外を駆ける足音だった。
ガレス団長が珍しく慌てた様子で顔を出す。
「公爵、王都から正式使者だ。王命書を持ってる」
「……来たか」
ルシアン様が立ち上がる。
私も反射的に立とうとして、少しふらついた。彼がすぐ腕を支え、低く言う。
「無理をするな」
「でも」
「読むのは私だ。お前は座っていろ」
その声音が妙に優しくて、一瞬だけ胸が詰まる。
数分後、使者が運んできた王命書には、予想どおりの文言が踊っていた。
『ノルドヴァルト公爵およびレティシア・ファルケンは、建国契約関連の照会につき、七日以内に王都へ出頭せよ』
いよいよ、舞台が北から王都へ移る。
温室の暖かさの中でさえ、その文字は冷たく見えた。
けれど私は同時に思う。
逃げずに行けるだけの証拠を、もう私たちは積み上げている。
怖くないと言えば嘘になる。でも、前みたいに一人ではない。




