嵐の夜、断崖の真実
臨時集会の前夜、汐凪島を猛烈な嵐が襲った。叩きつけるような雨、家々を揺るがすほどの荒れ狂う風、そして、闇を絶え間なく切り裂く稲光。海は牙を剥き、港の工事現場からは、風に煽られた資材がぶつかり合う、不気味な金属音が絶え間なく鳴り響いていた。それはまるで、島全体が怒り、叫んでいるかのようだった。
俺は、現像されたフィルムを受け取るために、嵐の中、写真館へと向かっていた。傘はほとんど役に立たず、全身ずぶ濡れだった。写真館の古びた扉を開けると、ランプの薄暗い光の中、店主の老人が、カウンターの奥で黙って座っていた。
「…できたよ」
老人はそう言うと、現像された写真とネガの入った封筒を、無言で俺に差し出した。その目には、何の感情も浮かんでいないように見えたが、どこか、この嵐の夜に現像を受け取りに来た俺の行動を、訝しんでいるようにも見えた。
封筒を受け取り、震える手で中身を取り出す。街灯の頼りない光の下、そこに焼き付けられていたのは、五年前の夏の断片だった。凪の儚げな笑顔、ユイの眩しい笑顔、島の美しい風景…。そして、あの夜、岬の断崖で撮られた数枚の写真。松明の炎、混乱する島民たち、そして…。
息を呑んだ。そこには、俺がシズを突き落とす、まさにその瞬間は写っていなかった。おそらく、混乱の中でシャッターを切ることができなかったのだろう。だが、その直前、俺と凪が手を握り合い、何かを決意したように見つめ合っている写真があった。そして、その背後、少し離れた場所で、恐怖と驚愕の表情でこちらを見つめる、ユイの姿も、はっきりと写り込んでいたのだ。
さらに、別の写真には、俺がシズを押す直前、よろめくシズのすぐそばに、一瞬だけ、凪の白いワンピースの裾と、彼女の小さな手が、シズの背中に触れているように見える影が写り込んでいた。これは…? 凪は、ただ立っていただけではなかったのか?
真実は、俺が思っていたよりも、さらに複雑で、醜悪なものなのかもしれない。
写真館を出ると、嵐はますます激しくなっていた。俺は封筒を胸に抱きしめ、アパートへと急いだ。凪に、この写真を見せなければならない。そして、ユイにも。もう、隠し通すことはできない。
その時、携帯が鳴った。表示された名前は、佐伯悟。
「相葉さんか? 今、どこにいる?」佐伯の声は、嵐の音に負けないほど切迫していた。「話がある。すぐに、岬の断崖まで来てくれないか」
「岬…? こんな嵐の夜に?」
「ああ。潮見凪さんも、日高ユイさんも、もうこちらに向かっている。…島崎ケンジもな」
どういうことだ? なぜ皆が岬に? 佐伯が仕組んだのか?
「とにかく、来てくれ。全てを終わらせるために」
一方的に電話は切れた。
俺は走り出した。雨と風に抗いながら、因縁の場所、岬の断崖へと。手の中の写真が、まるで生きているかのように、熱く脈打っていた。
断崖に着くと、そこは五年前のあの夜を再現したかのような、異様な光景が広がっていた。数人の男たちが持つ懐中電灯の明かりが、嵐の中で激しく揺らめいている。佐伯、ユイ、そして、憔悴しきった表情のケンジがいた。そして、少し離れた場所に、凪が、嵐にも動じないかのように、静かに立っていた。その姿は、雨に濡れそぼり、まるで白い亡霊のようだった。
「来たか、相葉海斗」佐伯が俺を睨みつけた。「これで役者は揃った」
「…どういうつもりだ」
「真実を明らかにするだけだ」佐伯は言った。「五年前のこの場所で、何があったのかを」
佐伯は、集めた証拠を語り始めた。シズの手帳、通話記録、そして、ケンジの曖昧ながらも核心に近づきつつある記憶。
「ケンジさん、君は見たはずだ。あの日、誰かがシズさんを突き落とすのを」
「俺は…俺は…」ケンジは頭を抱え、苦しげに呻いた。嵐の轟音が、彼の混乱を増幅させているかのようだ。風の音か、人の声か、あの夜の叫び声が耳元で蘇る。
「思い出せ! 誰だった!?」佐伯の声が響く。
その時、ケンジが顔を上げた。彼の目は、何かを捉えたように、一点を見つめていた。それは、俺の手元…ではなく、俺の後ろに立つ凪に向けられていた。
「…凪…?」ケンジが掠れた声で呟いた。「あんたが…シズさんのそばに…? あの時、何か言ってた…『これで、邪魔者は…』って…」
ケンジの記憶が、ついに核心に触れたのだ。あの瞬間、シズのそばにいたのは、俺だけではなかった。凪も、すぐ近くにいたのだ。そして、彼女は何かを囁いていた…?
「違う!」凪が鋭い声で叫んだ。「違うわ! 嘘よ! ケ、ケンジが、見間違えたのよ!」凪は激しく首を振り、取り乱していた。その姿は、いつもの冷静さを完全に失い、追い詰められた小動物のようだった。
「違う…確かに見たんだ…」ケンジは震えながらも、はっきりとした口調で言った。「海斗がシズさんを押すよりも、ほんの一瞬前だった…。凪が、何かを囁きながら、シズさんの背中を…そっと…押したんだ!」
ケンジの言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。凪の顔から血の気が引き、恐怖に見開かれた目が、俺に向けられる。
真実は、俺が信じていたものよりも、さらに残酷だった。俺は、凪を守るために罪を犯したと思っていた。だが、本当にそうだったのか? あの混乱の中、俺が見たものは何だった? 凪は、本当にただ立っていただけだったのか? それとも…俺は、彼女の罪を完成させるための、最後のひと押しをしただけだったのか?
俺は、足元に散らばった写真の一枚を拾い上げた。そこには、シズがよろめく瞬間、その背後に、白いワンピースの裾と共に、凪の小さな手が、確かにシズの背中に触れている影が写っていた。
「海斗くん…」凪が、すがるような目で俺を見た。「違うって言ってよ…! 私たちのこと、守ってくれるんでしょ…? 私たち、ずっと一緒だって…」
その瞳は、涙で潤んでいた。だが、その奥には、俺を繋ぎ止めようとする、狂気に近い強い意志が見えた。彼女は、俺が彼女の「共犯者」であり続けることを望んでいる。この期に及んでも、まだ。
俺は、凪の顔を、そしてユイの顔を見た。ユイは、悲しみと、そしてわずかな憐憫の入り混じった目で、俺を見つめていた。彼女は、俺がどんな選択をするのか、静かに待っているようだった。
もう、逃げることはできない。嘘で塗り固められた檻の中に、閉じこもり続けることはできない。
俺は、深く息を吸い込んだ。嵐の音が、少しだけ遠のいた気がした。
「…凪」俺は言った。声は、もう震えていなかった。吃音も出なかった。「終わりにしよう。もう、嘘はつけない」
俺は、拾い上げた写真を、佐伯に向かって差し出した。
「これが…俺が見た、真実の一部です。そして…俺は、彼女の後を…押しました」
佐伯は、驚いた表情で写真を受け取り、懐中電灯の明かりでそれを食い入るように見た。
「海斗くんっ!!」
凪が絶叫し、俺に掴みかかろうとした。だが、その前に、佐伯が凪の腕を掴んで制止した。
「潮見凪さん。あなたにも、話を聞かせてもらいます」
凪は、佐伯の手を振り払おうともがき、俺を睨みつけた。その目には、裏切られたことへの怒りと、絶望と、そして、全てを諦めたかのような虚無の色が宿っていた。
「裏切り者…! 海斗くんなんて、大嫌い!!」
そう叫ぶと、凪は突然、狂ったように笑い出し、そして、断崖の縁へと走り出した。その動きは、あまりにも唐突で、誰も反応できなかった。まるで、最初からそうするつもりだったかのように。
「凪!」
俺とユイが同時に叫び、後を追う。だが、凪は振り返ることなく、嵐の闇の中へと身を躍らせた。白いワンピースが、一瞬だけ闇に浮かび上がり、そして消えた。
「…あ…」
崖下に広がるのは、荒れ狂う黒い海だけだった。凪の姿は、どこにも見えなかった。