交錯する視線、揺れる決意
カメラを手に取ってから数日間、俺はそれを誰にも見られないよう、再び押し入れの奥深くに隠した。だが、一度触れてしまった過去の重みは、以前にも増して俺の心を蝕んでいた。あの冷たい金属の感触が、指先にこびりついているかのようだ。フィルムを現像すべきか、否か。答えの出ない問いが、頭の中で反響し続ける。それはまるで、終わらない耳鳴りのようだった。
島は、観光開発計画の是非を問う臨時集会の開催を控え、異様な熱気に包まれていた。賛成派と反対派の対立は激化し、狭い島の中で互いを牽制し合うような、息苦しい空気が漂っていた。役場での俺の仕事も、その調整に追われ、心身ともに疲弊していた。
そんな中、ユイは着実に取材を進めていた。凪の妨害にも屈せず、島の古老たちや、過去の事件を知る可能性のある人物に粘り強く話を聞き、少しずつだが証言を集めているようだった。彼女のジャーナリストとしての執念と、個人的な決意の強さが窺えた。
ある日の午後、俺は役場の資料室で過去の広報誌を整理していた。開発計画の参考に、過去の島のイベントなどを調べていたのだ。ふと、古いアルバムの中に、五年前の夏の写真コンテストの記録を見つけた。そこには、俺が撮った写真と、少し照れたような顔をした高校生の俺の姿があった。そして、その隣には、審査員として微笑むシズの姿も。あの頃は、まだ何も知らなかった。カメラを手に、ただファインダー越しの世界を切り取ることに夢中になっていた。
「…海斗くん?」
不意に声をかけられ、俺はぎくりとして振り返った。そこに立っていたのは、ユイだった。彼女も何か資料を探しに来たのだろうか。
「…ユイ」
「懐かしいね、これ」ユイは俺が見ていたアルバムを指差した。「海斗くん、写真、上手だったもんね。あの夏も、たくさん撮ってた」
ユイの言葉に、俺の心臓が嫌な音を立てた。彼女は、俺のカメラのことを覚えている。そして、そのカメラが今、何を意味するのか、おそらく気づいている。
「…そう、だったかな」
「うん。凪ちゃんのこと、よく撮ってた。…あと、私のことも、たまに」
ユイは少しだけ視線を伏せ、そして再び俺を見た。その瞳には、複雑な色が浮かんでいた。怒りでも、悲しみでもない。何か、もっと深い、共有してしまった過去への問いかけのような色。
「ねぇ、海斗くん。あの時のフィルムって、どうしたの?」
直球の質問だった。俺は言葉に詰まる。「あ、あの…」吃音が漏れそうになるのを、必死で飲み込む。
「…もう、ないよ。古いし、処分した」
嘘をついた。ユイの真っ直ぐな視線から逃れるように、俺はアルバムを閉じた。
「…そっか」ユイはそれ以上追求しなかった。だが、その短い沈黙が、俺たちの間に横たわる溝の深さを物語っていた。彼女は、俺が嘘をついていることを見抜いている。そして、俺が真実から目を背け続けていることも。
資料室を出ようとした時、ユイがぽつりと言った。
「海斗くん。いつまでも、逃げてちゃだめだよ」
その声は、責めるというより、どこか諭すような響きを持っていた。俺は何も答えられず、足早にその場を立ち去った。
アパートに帰ると、凪が窓の外をじっと眺めていた。その横顔は、能面のように無表情だったが、纏う空気は張り詰めていた。
「…ユイさんと、会ってたの?」
凪は振り返らずに言った。まるで、全てお見通しだと言わんばかりに。
「役場で、偶然…」
「何を話したの?」
「別に…昔の話を、少し」
「ふーん」凪はゆっくりと振り返った。その瞳は、暗く、底なしの沼のように見えた。「海斗くん、あの女に何か言われたの? 私たちのこと、探ってるんでしょ?」
「そんなんじゃない」
「嘘」凪の声が、鋭さを増した。「海斗くん、最近おかしいよ。何か隠してる。私の知らないところで、あの女と会って、何を話してるの? 私を裏切るつもり?」
矢継ぎ早に繰り出される言葉が、俺を追い詰める。凪の嫉妬と疑念は、もはや病的な域に達していた。
「違う! 裏切るなんて…!」
「じゃあ、証明して」凪は俺に詰め寄った。「あの女とは、もう二度と会わないって。私のそばだけにいればいいの。そうでしょ? 私たち、二人で一つなんだから」
凪の指が、俺の腕に食い込む。その力強さに、俺は息を飲んだ。彼女の歪んだ愛情が、檻の格子のように俺を締め付ける。
その夜、俺は再び押し入れのカメラに手を伸ばした。そして、決意した。このフィルムを、現像しよう、と。そこに何が写っているのか、自分の目で確かめなければならない。それが真実への入り口なのか、それとも破滅への扉なのかは分からない。だが、もう、この曖昧な状況に耐えられなかった。
本土の現像所へ郵送するわけにはいかない。島には、古い写真館が一軒だけあった。店主の老人は気難しいが、腕は確かだと聞く。翌日、俺は仕事を抜け出し、カメラとフィルムを手に、その写真館へと向かった。